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論告

 獣のような雄叫びに、ソフィアはビクリと身を震わせた。満廷の視線を一身に浴びながら、イライアスは被告人席から身を乗り出す。


「私は無実だ!」


 狂ったようにそう言ったイライアスの瞳孔は開き、目は血走っている。


「これは私を嵌めるための罠だ! 警察もオズワルドもロムシェルも! 皆私を陥れようとしている!」


 嵌められたのだと興奮して叫び続けるイライアスに、陪審員達は皆呆気にとられている。イライアスの豹変ぶりに、一様に言葉をなくしているのだ。

 己の無実を訴えているにもかかわらず、今のイライアスはもはや濡れ衣を着せられた善良な市民には見えなかった。つばを飛ばして怒り狂う姿を見れば、イライアスの本性はこれなのだと誰の目にも明らかだった。

 ソフィアもまた、絶句して法廷での出来事に釘付けになっていた。目線の先には女性の霊。アリシアがイライアスを拒絶した瞬間、彼女が快哉かいさいを叫んだのである。


「この男に死を!」


 嬉々として女性が声を上げる。女性はイライアスの傍から離れ、アリシアの方へと歩み寄ると、愛おしそうな表情で膝を折った。


「私の可愛いアリシア……どうかお母様の仇をとってちょうだい……!」


 優しく甘やかな口調ではあったが、そう言った女性の表情には狂気が滲む。

 ソフィアはじっと女性の顔を見つめ続けた。彼女がソフィアの視線に気づくようにと念じながら。


 ーーこの女性は何かを知っている。


 先程彼女の口走った言葉。そこに重要な真実が隠されていると、ソフィアは思う。

 女性は興奮した様子で立ち上がると、せわしなく視線をあちらこちらに動かした。ふと女性の顔がソフィアの方へ向けられる。その瞬間を逃さぬように、ソフィアは力のこもった眼差しでその瞳を見つめた。一瞬女性と目があった、とソフィアは思った。

 女性は不思議そうな顔で小首を傾げ、ゆっくりとした動作でアリシアから僅かに距離をとった。女性の動きにあわせて、ソフィアの視線も後を追う。

 しばらくそうしていると、ようやく彼女はソフィアの存在を認識したようだった。足早にこちらへ近づいて来たかと思うと、至近距離でソフィアの顔を覗き込む。


「ーー私が見えるの?」


 アリシアとよく似た顔にそう問われ、ソフィアは無言のまま、小さく頷きを返す。女性はジロジロとソフィアの顔を眺め回した。


「不思議だわ。ついこの間5年ぶりに、私を視る人間に会ったばかりなのに」


 それはライアンの事だろうか。もっと詳しく話を聞きたいと思ったが、隣にライオネルがいる以上、ここで声を発する事はできなかった。


「あなたもイライアスへ恨みがあるの?」


 興味津々に女性が問う。ソフィアはその質問に否定も肯定もせず、じっとその顔を見返した。女性はソフィアの返事を待つことなく、喋り続けている。


「イライアスが私に何をしたか、知っている?」


 この質問には、小さく首を振る。

 女性の霊はソフィアに話を聞いて欲しくて仕方がないようだった。うずうずとした気持ちが、表情から透けて見える。

 実は彼女のように多弁な死者は、珍しくない。ソフィアがこれまで出会った死者の大半は、己の未練を語りたがった。少し考えれば、分かることだ。この世に留まる程の未練を抱える死者がいる一方で、死者を見ることができる人間はほとんどいないのだから。

 ソフィアやライアンのような存在は、彼らにとっては貴重なのだ。

 

「イライアスの罪を教えるわーー」


 そう言われれば、無論ソフィアに拒む理由はない。目の前の女性にだけ分かるように、目線で同意を示したソフィアに、彼女は満足そうな顔をした。

 そして死者は、語りはじめる。

 

 女性は自らを、カーラと名乗った。

 カーラとイライアスの出会いは、2人が10代の頃まで遡らねばならない。

 シュタール北部の田舎から出てきた、冴えない青年。それが、かつてのイライアスだったという。

 一方のカーラは、エルド郊外の豪邸に住まう資産家の娘。市街地からやや離れているものの、都会育ちといってよい。何不十分なく育ったカーラと、苦学生のイライアス。年若いカーラの目には、上を目指して努力するイライアスの姿は新鮮に映った。

 イライアスの生家は農家で、その暮らしぶりは貧しかった。幼少期から続く極貧生活。奨学金を頼りに田舎からエルドに単身出てきたイライアスは当時、爪に火をともすような質素な生活を送りながら、大学に通っていた。一族の期待を一身に背負って、彼は勉学に励んでいたのである。

 周りにはいない純朴な青年に、カーラは惹かれた。イライアスが静かに胸の内に抱えていた野心も、当時はひたむきな向上心に見え、好ましく映った。

 当時積極的にアプローチしたのは、カーラの方だった。

 いつしか2人は恋人同士になり、カーラはイライアスを献身的に支えた。結婚を認めてもらうには、イライアスにはそれなりの地位になってもらわねばならない。カーラは両親に頼み込んでイライアスの学費や生活費を援助してもらい、彼が運輸省の登用試験に合格した時には、自分の事のように喜んだ。イライアスからプロポーズを受けたのは、それからすぐの事である。

 結婚をし、子供にも恵まれた。仕事においてもイライアスは運輸省内で瞬く間に出世をし、カーラは自分の見る目の正しさに大いに満足した。

 誰もが羨む、順風満帆な生活。

 それが歪みはじめたのは、いつからだったのか。

 社会的な地位が上がるにつれ、イライアスは徐々に変わっていった。次第にカーラを疎ましく思うようになっていったのである。

 出世は自分の努力の賜物だと思っているイライアスと、夫を支えてきた自負のあるカーラ。あれこれと注文をつけては行動に口出しをするカーラを、イライアスは厭うた。

 それでもイライアスは表向きカーラを蔑ろにはしなかった。カーラの実家にこれまで金銭的な援助をしてもらっていた上、運輸省での出世や将来政治家になるという野心の為には、妻と別れては体面が悪いからだ。

 カーラとしても言葉や行動の端々から、夫の心が離れている事を敏感に感じ取ってはいたが、決定的な亀裂とまでは言えない。アリシアという可愛い娘もいる。いつか関係を修復できるだろうと、カーラは高をくくっていた。

 だがイライアスの5年にも渡る不貞が発覚した時、カーラにそれを見過ごす事などできなかった。

 相手は自分より遥かに若い女である。カーラは怒り狂った。


『私がどれだけあなたに尽くしてきたと思っているの……!』


 10年前のあの日。ヒステリックに詰問したカーラに、イライアスは謝るどころか、不快げに顔をしかめただけだった。


『お前のそういう恩着せがましい態度が、鬱陶しいんだ』

『なんですって?』

『どうせ離婚なんてできないのだから、お前も我慢しろ』


 そう言って、もう話は終わったとばかりに階段を降りようとするイライアスに、カーラの怒りは頂点に達した。


『滅茶苦茶にしてやる……! あなたの不貞を運輸省に暴露してやるわ』

『何を馬鹿なことを言ってるんだ』

『馬鹿ですって? 私はこの家を出て、実家に戻るわ。アリシアは私が育てます』

『アリシアを連れて行く事は許さんぞ。実家に帰るならお前一人で帰るんだ』

『私に指図しないで!』

 

 沸騰した頭で、力任せにイライアスの胸を叩く。


『落ち着くんだ』

『この裏切り者!』


 頭に血がのぼり、カーラは思いつく限りの言葉でイライアスを罵倒した。カーラを宥めようとするイライアスと揉み合いになる。


『絶対に許さない! あなたなんか、死ねばいいんだわ……!』


 カーラがそう口にした瞬間、強く押される感覚がして、ぐらりと身体が大きく傾いだ。え、とカーラが思う間もなく、鈍い痛みが身体を襲う。ガンッと頭を強打して、カーラは意識は黒く塗りつぶされた。

 次に目覚めた時、カーラは既に肉体を持たぬ存在になっていた。誰に話しかけても、その声に応えてくれる者はない。耐え難いほどの孤独。

 誰もカーラの存在に気づかず、その声も聞こえない。

 そして憎むべき相手は、カーラの死さえ利用して悠然としている。妻を失った悲劇の夫として、イライアスは周囲の同情を一身に浴びていた。


 ーーなんで。なんで。なんで。


 殺したのはイライアスなのに。何故あの男は、のうのうと生きているのだ。何も知らないアリシアに、躊躇いなく触れる事も許しがたかった。アリシアに薄汚い手で触るなと、カーラの思考はどす黒く染められていく。

 イライアスへの恨みと、アリシアへの愛情。その2つがカーラをこの地に留まらせた。誰からもその存在を認識されぬまま、イライアスとアリシアのそばで、カーラは時を過ごした。何年も何年も。

 そうして肉体を失って5年が経った頃、カーラは遂に己の姿を見ることができる者に出会うことになる。

 イライアスの後をついて行った先の、伯爵邸。カーラと目が合ったのは、透き通るように白い肌を持つ、美しい女性だった。

 どれほどその時を待ち望んでいたか、とても言葉では言い尽くせない。カーラは人に飢えていた。自分の身に何が起こったのかを語るべき相手を、どうしようもないほど求めていたのである。彼女が己の姿を認識していると悟った瞬間、カーラはイライアスへの怨嗟に満ちた言葉をぶちまけた。

 イライアスの罪。己の身に降りかかった悲劇を、カーラはこの女性に語り聞かせた。カーラの話を耳に入れた彼女の顔色は、見る間に悪くなっていく。イライアスを見る瞳には怯えが走り、書斎につくなり、彼女は夫らしき人物に駆け寄った。


『あなたは、何という事をーー』


 そう言って黒目黒髪の男は、イライアスを糾弾した。


 ーーああ、これでやっとイライアスを罰することができる。 

 

 カーラは狂喜した。積年の恨みを、ついに晴らすことができるのだと。しかし翌日になっても、翌々日になっても、イライアスが逮捕される気配はなかった。

 この時イライアスから離れ、アリシアを見守っていたカーラは知らなかったのである。イライアスがあの一家の殺害を命じていたことを。

 カーラの望みを叶えてくれる者は、既にその命を絶たれているのだと知った時は、絶望した。それから待つこと、更に5年。


「ようやくあの男が報いを受ける時がきた……!」


 嬉々としてそう言うカーラは、気が触れたようになっていた。長い孤独の果てに、正気を失いかけている。


 ーー何てことを。


 イライアスが犯した最初の殺人。妻殺しの真実に、ソフィアは身震いした。エミリアは5年前、その事実を知ったのだ。


 ーーだから。


 だから、殺されたのか。バスカヴィル家を襲った悲劇の真相に、ソフィアは打ち震えた。

 カーラが喜悦に浸る中、視線の向こうのイライアスは、狂ったように叫び続けている。


「私は罪など認めない! 私は無実だ!」


 裁判官による再三の注意にも、イライアスは聞く耳を持たなかった。遂にたまりかねて、判事が退廷を命じる。

 憲兵に両脇を抱えられるように、イライアスが法廷から連れ出されていった。場の混乱が鎮まるのを待って、判事が口を開いた。

 

「検察は論告を」


 その言葉にケヴィンは立ち上がると、陪審員席へと近づいた。ひとりひとりの陪審員の顔をじっくりと見ながら、ケヴィンは口を開く。


「今の様子を見てお分かりでしょう。あれこそが被告人がひた隠しにしてきた本性なのです。彼は8年前、不正に手を染めました。それだけならば、まだ引き返すチャンスはあったでしょう。しかし彼は人として越えてはならない一線を越えてしまった。己の罪を隠蔽するため、無実の人々を殺害したのです。……犠牲者の中には、当時8歳の少年もいました」


 ケヴィンの言葉に陪審員の幾人かが、痛ましそうな顔になった。


「被告人に良心など存在していません。5人の人間ーーいいえ、ヒッグス夫人も含めれば、6人もの人間を彼は殺しているのです。数ヶ月前には、バスカヴィル伯爵を殺そうとしました。人の皮を被ったあの怪物を、無罪にしてはなりません。被告人は、死刑に処すべきです」

 

 熱弁をふるうケヴィンに、陪審員全員が真剣な表情で聞き入っている。論告求刑が終わると、続いてジェレミーによる最終弁論がはじまった。


「被告人は確かに8年前、賄賂を受け取っていたのかもしれません。しかしこれは殺害事件の裁判です。たとえ収賄の件が事実だったとしても、それは殺人の証拠にはなりません。不正を隠すためだけに、いきなり3人もの人間を殺すでしょうか? 5年前の殺人事件に関して、検察側の示した口座の流れや裏帳簿は、状況証拠に過ぎません。当時の殺人を証言しているのは、かつて恐喝行為をしていたオズワルド・バスカヴィル伯爵しかいないのです。人ひとりの生命がかかっています。どうか慎重な判断を」


 ケヴィンと対比するように、ジェレミーは冷静な口調で最終弁論を展開した。検察側の積み上げたものは状況証拠に過ぎないと、ジェレミーは繰り返す。

 弁護人の最終弁論をもって審理は終了となる。この後評議室に移動し、陪審員は有罪か無罪かを評議するのだ。

 判事は厳かに、審理の終わりを宣言した。


「以上で審理は終了です。陪審員はこれより評議に入って下さい」


 そうして、裁判は結審した。

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