決断
「これは2週間前、警察に届けられた手帳です。証人にお聞きします。この手帳に見覚えは?」
年季のはいった革張りの手帳を、ケヴィンがロムシェルに示す。レイモンドは、緊張が顔に出ぬよう表情を引き締めた。
ーーここからだ。
レイモンドがイライアスを見ると、わずかな動揺こそ顔に浮かんでいるが、取り乱した様子はない。この展開をある程度、予想していたのかもしれない。
ケヴィンから質問されたロムシェルはまじまじと手帳を見つめた後、首を振った。
「いいえ、見覚えのないものです」
「これは被告人がこれまで受け取ってきた裏金の帳簿です。暗号化されていましたが、警察が解読したところ日付のはじまりは8年前です。ーーちょうど貴方が被告人に金銭を渡していたと証言した時期と重なる」
ケヴィンがそう言うと、すかさずジェレミーが異議を唱えて立ち上がった。「手帳の証拠能力に疑いがある」と主張したジェレミーに、ケヴィンは眉を寄せる。
「疑い、というと?」
「その手帳は捏造、もしくは不正な方法で取得された疑いがあります」
ジェレミーがちらっとイライアスに視線を送る。疑義を受けて、判事がジェレミーに声をかけた。
「弁護人は主張の根拠を示して下さい」
「その手帳が被告人の物だという証拠がありません」
「いいえ。これは被告人が書いたもので間違いありません」
ケヴィンがジェレミーの主張を一蹴する。ケヴィンはつかつかと検察席に戻ると、筆跡鑑定の書類を持ち上げた。
「これは複数の専門家に手帳の筆跡と、被告人が運輸省時代からここ数年の間に書面に残した筆跡を比較してもらった結果です。ある特定の数字や単語に、非常によく似た特徴が見られました。鑑定結果によれば、この手帳に記された筆跡は、被告人のもので間違いありません」
自信満々にケヴィンがそう言えば、ジェレミーがややたじろいだ。
「しかし不正に取得したものに証拠能力はありません!」
「不正に取得したという根拠は?」
「この手帳は被告人の屋敷から盗み出された物なのでは?」
ジェレミーがそう問いかければ、ケヴィンが余裕の笑みを浮かべた。
「何を根拠に弁護人が手帳が盗み出されたと言っているのか、分かりかねますね。これは2週間前、警察に持ち込まれたものです」
「その手帳を提出した者は誰なのです。その者が屋敷から無断で持ち出したものなのでは?」
屋敷から盗まれたものならば、裁判では使えない。ジェレミーの主張に、レイモンドは酷薄な笑みを浮かべた。イライアス側は何も知らないのだと、確信したからだ。これから何が起こるのか、イライアスは何も知らない。
ーー証拠不採用になどさせるか。
この点に関して、レイモンドは抜かりなかった。
レイモンドが事前にアリシアの許可を得て屋敷の中を調べ回っていたのは、後から証拠が盗まれたと難癖をつけられないようにするためだ。その為に何人もの使用人に屋敷を探索している所を目撃させたし、いざとなったら証言してもらうだけの信頼も得ていた。彼らはレイモンドが「イライアス無実の為に証拠を探していた」ことを証言してくれるだろう。
たとえアリシアの協力を得られなくとも、イライアスは死刑にする。そのことに対して、レイモンドに躊躇いはなかった。
「証拠を提出した人物の名前は、その者の安全を考慮して、この場で申し上げる事ができません。しかしこれが不正に得た証拠でないことは、間違いありません」
「なぜそう言い切れる!」
ジェレミーが叫ぶと、「私です」と女性のか細い声がそこに割り込んだ。レイモンドが右を向くと、アリシアが青い顔で立ち上がっている。イライアスの顔が驚きに見開かれた。
「……私がそれを提出しました」
イライアスは雷に打たれたようになった。傍聴席で声を上げた一人の少女に、判事が困り顔で問いかける。
「あなたは?」
「……アリシア・フェラーです」
ひそひそとした囁き声が傍聴席のあちこちから聞こえてきた。
「この証拠を提出したと、そう言うのですね」
「……はい。ですから盗まれたものではありません」
「そうですか。もう座っていいですよ」
判事から優しく促され、アリシアは席に腰を下ろした。アリシアの背中を、隣に座る老女がいたわるように撫でている。
「傍聴席での発言は、本来証拠にはなりませんが……検察側は今の発言に異論はありませんか」
「はい」
「真実であると証明できますか」
「はい。手帳が持ち込まれた際の記録が、警察に残っております」
判事は少し考えた後、口を開いた。
「どうやら不正に取得された証拠ではないようです。弁護人の異議を棄却します」
レイモンドはイライアスの顔を注視していた。その顔に浮かぶ驚愕。アリシアの言葉に大きな衝撃を受けていることは、間違いないだろう。
その表情を見ながら、レイモンドは2週間前の出来事を思い出していた。アリシアがレイモンドの屋敷を訪れたあの朝。
『ーーお父様の裏帳簿は、私が警察に提出するわ』
憔悴した顔でアリシアは口を開いた。
その言葉に、最初レイモンドは警戒した。はっきり疑ったと言ってもいい。つい昨日、父親の罪と母親の死の真相を突き付けたばかりである。加えてはっきりと『君を愛せない』と告げたレイモンドに、アリシアは怒りを向けていたし、深く傷つけた自覚もあった。それがたった一夜の間に、何があったのだろう。
『なぜ急に気が変わったんだ?』
訝しむようにレイモンドが尋ねると、アリシアは足元に視線を落とした。
『昨日あなたが帰った後、拘置所に行ったわ。どうしてもお父様の口から真実を聞きたかったから』
『……それで父君は本当の事を言ったかい?』
静かにレイモンドが尋ねると、アリシアはぶんぶんと首を振った。それはそうだろうと、レイモンドは思う。イライアスがアリシアに罪の告白などするわけがない。
『なら、なぜ?』
『お父様と話していて分かったの。あなたの言っていた事が本当だって。ーーお父様は罪を犯したんだって』
一体アリシアはイライアスとどんな話をしたのだろう。刑務官が立ち会う以上、滅多な事は口にできないはずだが。
『私はもう、何も知らないままでいたくないの。お父様の用意した嘘の中に、いたくない』
悲愴な顔でアリシアはそう言った。アリシアの言葉が本心か否か、レイモンドには分からない。アリシアの本意を確かめるように、レイモンドは慎重に口を開いた。
『ーー今から証拠を持って警察に行く。一緒に来る覚悟は?』
ぎゅっと唇を引き結んで、アリシアは頷いた。アリシアは、証拠を渡せとは言わなかった。レイモンドと共に警察に行くことも拒まない。
それでレイモンドもアリシアを連れて、警察に行くことを承知したのだった。
レイモンドは門の外に立つアリシアに、少しだけ待つように告げると、屋敷の中にとって返す。使用人に馬車を用意するよう命じた後、自身も急いで身支度を整えた。証拠の手帳を外套の中にしまい、念のため武器も仕込む。
ものの数分ですべての準備を終えると、レイモンドはアリシアとともに馬車に乗りこんだ。
馬車の中で、レイモンドはずっと無言だった。最早語るべき事はなかったし、アリシアがどんな思いでここまで来たのか、聞き出す必要も感じなかったからだ。
静かに凪いだ顔で沈黙を続けるレイモンドに、アリシアがぽつりと声をかけた。
『そっちが素なの?』
何の話か分からず、隣に座るアリシアの顔を不思議そうに眺める。アリシアはレイモンドを見上げると、小首を傾げた。
『私の前ではずっと笑顔だったから、これまで気付かなかったけれど。もしかして、今の顔が本当のあなたなの?』
そう問われ、レイモンドは困惑した。自分が今どんな顔をしていたのか、全く自覚がなかったからだ。
ずっとアリシアに対しては、優しく柔和な表情を貫いてきたのは確かだ。本心を見せず、内に激情を隠して。その仮面が剥がれてきているのだろうか。
『怖い顔をしていたかい?』
そう聞くと、アリシアは首を振った。
『ううん。そうじゃなくて、難しい顔をしていたから』
『そうかな……自分では気付かなかった』
そう言ってレイモンドは口元に手をあてる。
かつてグウィンであった頃から、友人には無愛想だと言われてきた。元々感情表現豊かな人間では決してない。レイモンドの答えに、アリシアは苦笑した。
『無意識だったなら、やっぱり素なのね。私は本当にあなたのこと、何も知らなかったみたい』
寂しそうな、どこか悲しそうな声だった。何を言うべきか分からず、レイモンドは口を閉ざす。
結局その後、エルド警視庁につくまで二人とも一言も喋らなかった。そうして無言で馬車に揺られている間、レイモンドはアリシアが既に「レイ」とは呼ばなくなっている事に気がついたのだった。
馬車を降りると、2人は足早に建物の中に入る。イライアス・フェラー不正の証拠を提出しに来たと告げれば、警察の対応は早かった。
レイモンドが証拠を提出し、アリシアが名乗った。最後までアリシアの行動を警戒していたレイモンドだが、結局アリシアが証拠を奪おうとする素振りも、隠滅しようとする様子もなかった。
警視庁を出た後、レイモンドは前を歩く背中に声をかけた。振り返ったアリシアに、レイモンドは謝罪を口にする。
『君を傷つけたこと、本当にすまなかった』
『……謝罪なら、昨日聞いたわ』
もういいと、アリシアはそう言った。
『今更謝られても意味ないもの』
『これから君はどうするんだ?』
『郊外に行くわ。お祖父様とお祖母様が住んでいるから……お父様が起訴されてから呼ばれていたけど、ずっと決心できなかったの。でももうあの家にはいたくない』
『……そうか』
『次の裁判には行くわ。お父様が罪を認めるかは分からないけど……。きっとあなたに会うのは、それが最後ね』
アリシアはそう言うと馬車に乗り込む。レイモンドはアリシアに自身の馬車を貸すと、彼女を家まで送り届けるように御者に告げた。ゆっくりと馬車が動き出すのを、レイモンドは見送る。
そうして2週間前、イライアスの裏帳簿は警察に届けられたのだった。レイモンドがふと目の前に意識を向けると、ケヴィンが手帳の内容に言及している所だった。
「この裏帳簿を解読したところ、北部シュタール鉄道は幾度となく被告人に賄賂を渡しています」
ケヴィンは金銭の授受があった日付や金額、その相手について詳らかにしていく。その都度ケヴィンはロムシェルに対しても確認を求め、ロムシェルはその問いに頷いた。ケヴィンの滔々とした弁舌に陪審員は聞き入っている。
「収賄の件が明るみになれば、被告人は全てを失います。これまで築き上げた地位も名声も。これが被告人が犯行に及んだ動機です!」
被告人席に座るイライアスは真っ青だった。自身の圧倒的不利を悟ったのであろう。ワナワナと唇が震え、助けを求めるように傍聴席へと顔を向けた。
「アリシア……なぜ……なぜ」
うわ言のようにそう言うイライアスに、最前列に座るアリシアが見せたのは嫌悪の表情だった。眉を顰め、顔を歪める。
「私の名前を呼ばないで」
「アリシア……」
身を引くようにしたアリシアの続く言葉を耳にした途端、イライアスは固まった。
「汚い」
イライアスから表情が消え、ーー次の瞬間、咆哮が法廷に響き渡った。




