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惑い

 ロムシェルがオールドマン邸を出たのと同時刻、レイモンドは自邸の私室で思索にふけっていた。

 考えていたのは、ナサニエルの事である。

 ナサニエルを見つけてから、もう間もなく2ヶ月が経とうとしている。この間ナサニエルはエルド市内に留まり、15回も潜伏先を変えていた。

 この2ヶ月、レイモンドがナサニエルに手を出さなかったのは、単純にナサニエルを強襲するのに有利な状況が整うのを待っていたからだ。

 数週間前から、ナサニエルが潜伏先を移動する頻度が落ちてきている。世間の狂騒も徐々に静まりを見せはじめ、連日ナサニエルの事を報じた新聞も、今は当初ほどの勢いはない。

 極限の緊張状態は、それ程長くは続かないものだ。ナサニエルが気を緩めたその瞬間、夜陰に紛れて息の根を止める。誰にも悟らせず、闇に葬る。それが、レイモンド達の計画だった。

 望む状況が整うまで、レイモンドはじっと待ち続けた。

 待つこと自体は苦痛ではなかったが、計算外だったのは、待つ時間が長くなるほど、余計な事を考えてしまう事だった。

 この日もレイモンドは、もう何度目になるか分からない自問を繰り返していた。


 ーーこのやり方が、最善なのか?

 

 ここへ来て、レイモンドは迷っていた。

 ナサニエルを自らの手で裁きたい。それはレイモンドの偽らざる願望だったが、ナサニエルを殺す事が最良の道なのか分からなくなっていたのである。

 殺すという行為自体に、躊躇いは感じない。

 レイモンドの迷いを生んでいるのは、ひとえにソフィアの存在だった。

 想像だにしていなかったソフィアの告白以降、レイモンドの中に別の感情が生まれていたのである。

 『一緒に生きる未来を探したい』というソフィアの言葉に、一度は捨てたはずの未来を、望んでしまった。

 隣にソフィアがいる人生。

 彼女の楽しげな声を聞き、穏やかに過ごす未来。

 それは望んではならないと、自ら固く封じたはずの、甘く優しい夢だった。

 もしもナサニエルに手をかけたら、彼女の元へは帰れない、とレイモンドは思う。たとえソフィア自身が許しても、周囲と、そして誰よりレイモンド自身がそれを許せない。

 ソフィアは、光の中にいる人だ。血に塗れた人間が、ソフィアにふさわしいはずがない。

 ソフィアとともに歩く未来を望むなら、ナサニエルは司法の手に委ねるべきだった。

 だがナサニエルが家族を殺した実行犯だと証明するには、イライアスの自供が必要だ。オズワルドの殺害未遂だけでは、死刑にはできない。

 しかしイライアスの自供を引き出すことは、至難の業だった。あの男が自ら罪を認めるとは、到底思えなかった。

 やはりナサニエルへの復讐は、直接手を下す以外ない。

 だからソフィアの元に帰ることはできないのだとーーその答えに行き着く度、あの瞳を思い出した。


『ーーもしグウィンが私に対して同じように思っていてくれるなら、私から逃げないで』 


 そう言って、真っ直ぐにレイモンドを見つめる海のグレーを。

 ソフィアの言葉が何度も頭の中で思い出された。

 そうして思考は、また元の地点に戻ってしまう。堂々巡りだった。

 散々犯罪行為に手を染めておきながら、今更躊躇う事に自嘲する。あれほど自ら手を汚し、人を傷つけておきながら、自分だけ幸せになろうとするなどお笑い草だ。

 何もかもを手にしたいなどと、都合の良い事ばかり考えている。


 ーーあの頃と同じだな。


 レイモンドがグウィンであった頃。事件の捜査かソフィアかどちらか選べと言われて、どちらも諦められないと答えたあの頃から、自分はちっとも成長していない。否、欲深さでは以前よりも酷くなっているのかもしれなかった。

 復讐を諦めることも、ソフィアを拒む決意もできず。

 いまだに同じところをぐるぐると巡っている。 

 イライアスへの復讐は、あともう一息という所まで来ている。その先に何が待っているのか、レイモンド自身にも分からなかった。

 レイモンドがどっぷりと思考の海に沈んでいると、ふいに扉が叩かれた。

 2、3度ノックがされた後、例によってレイモンドの返事を待たずにライアンが部屋に入ってくる。

 レイモンドはゆっくりと目線を上げた。


「ライアン、どうした?」

「ーーナサニエルが動いた」


 ライアンが口にしたのは、レイモンドが待ちかねた報告だった。


「さっきナサニエルは新しい潜伏先に移動した。旧市街にあるアパートの4階だ」

「出入り口は?」

「ひとつ」

「建物に他の住民は?」

「下の階に爺さんが一人暮らしをしているが、4階は誰も住んでいない」


 それを聞いてレイモンドの眼光が鋭さを増す。完璧とは言えないが悪くない、とレイモンドは思った。


「今回の潜伏先は、レイモンドが挙げてた条件にかなり当てはまる。どうする?」

 

 ライアンから問われ、レイモンドは考え込んだ。

 ナサニエルを急襲する上で、レイモンドが事前にライアンに伝えた条件は三つある。

 ひとつ、潜伏先の出入り口の数が少ないこと。できれば1つがいい。これにより、ナサニエルの逃走経路を封じる。

 ふたつ、周囲に人が住んでいないこと。周辺の住民を巻き込まないようにする為と、目撃者を作らぬ為である。できればエルドを離れ、郊外に出てくれれば尚良かったが、レイモンドの希望に反してナサニエルは市街地に留まっている。

 みっつ、警察署からできるだけ遠いこと。ナサニエル殺害後、レイモンド達が逃走する時間を確保する為である。銃声を耳にした市民が通報してから、警官が現場に駆けつけるまで、時間がかかるほど良い。

 ライアンが告げた新しい潜伏先は、この2ヶ月を通して最もレイモンドの求める条件に近かった。


「ーーアルマはどうしてる?」


 レイモンドはライアンの問いには答えず、別の問いを返した。次の瞬間、ライアンの表情が苦虫を噛み潰したようなものになる。


「あのうるさい女か? 今はバーシルト家につきっきりだ。別に連絡なんてしなくてもいいんじゃないか?」

「そういうわけにはいかないだろう。ナサニエルの最期を見せる約束だ」


 2ヶ月前、ナサニエルへの復讐を餌に、レイモンドはアルマを味方に引き入れていた。

 マイクをナサニエルの監視につけるにあたって、オールドマン家を見守る者がいなくなるーーそこで白羽の矢が立ったのがアルマだった。

 最も身近な場所にいて、怪しまれずにソフィアの周りに目を配る事ができる者。

 アルマならば味方にしやすい、という計算もあった。

 それで2ヶ月前、素性を隠し、ライアンがアルマに接触した。

  

 ーー俺達はナサニエルに復讐を果たしたい。

 ーー協力するなら、あの男の最期を見せてやる。


 そう言って、近づいた。アルマは最初のうち警戒心を隠さなかったというが、ナサニエルの名を出した途端、反応が劇的に変わったらしい。


『……どうやってナサニエルを見つけるわけ?』


 警戒しつつも聞かずにはいられない、という顔でアルマは尋ねた。


『それは言えない。だがナサニエルを見つけたら、居場所を教えてやる。それで俺の言っている事が本当だと、分かるだろう』 

『……ナサニエルの居場所が分かったら、ソフィアに言うかもしれないわよ』

『あの娘に復讐してもらうのか? どうやって?』


 そう問われ、アルマは黙り込む。


『彼女にナサニエルが殺せると思うのか? 警察に伝えても、あんたが望む復讐は果たせない』


 仮にナサニエルを見つけても、ソフィアはアルマの望む復讐を遂行できないーーそう指摘され、アルマは口を引き結んだ。

 ソフィアの性格を考えれば、警察に委ねることが限界だろう。

 加えてこの5年、ソフィアとアルマの間には友情とも呼べる絆ができている。ソフィアに情が芽生えた今、アルマが殺人を頼むことはできないと、レイモンドは気づいていた。

 復讐を代行するという提案は、アルマにとっては抗い難い魅力があるはずだった。

 レイモンドがアルマに求めた見返りは、ただひとつ。


 ーーもしソフィアやオールドマン家の人達が危険に巻き込まれそうになったら、事前に知らせること。


 逐一報告をする必要はないし、ソフィアを守る事にも繋がるのだから、裏切りにもあたらない。

 アルマにとっては、悪くない話だろう。しかし条件を伝えたライアンに、アルマは渋い顔をしたという。

 

『ソフィアを監視する見返りに、あの男が死ぬ所を見せるってこと?』

『監視というと聞こえが悪い。オールドマン家に迫る危険を察知したら、俺に知らせてくれればそれでいいんだ』

『あなたが敵ではないというなら、なぜソフィアに言ってはいけないの?』

『こちらの素性を彼女に知られたくない』

『なぜ?』

『それは言えない』


 アルマは、腑に落ちない、という顔をした。

 アルマを味方に引き入れることで、正体がバレるリスクが上がる事は承知していた。

 アルマがライアンに不信感を抱き、すぐにでもソフィアに話す可能性や、ナサニエルへの復讐を遂げた後、消失する前に暴露する可能性はある。

 だが正体が露見する事を恐れて、ソフィアの安全をおろそかにはできなかった。実際オールドマン家の内部に入り込み、目を配る為には、アルマ以上の適任者はいない。

 レイモンドの素性が知られるリスクと、ソフィアの安全を天秤にかければ、大切なのは考えるまでもなく後者だったから、レイモンドが迷う事はなかった。

 悪くない条件を提示したにも拘わらず、尚も難色を示すアルマを、最終的にはライアンが説得した。『実際に協力するのはナサニエルの居場所を確認できてからでいい』と説き伏せて、ようやくアルマの首を縦に振らせたのだった。

 しかし約束を取り付けた後も、アルマは一筋縄ではいかなかった。

 証人襲撃計画の話を、事前にライアンに伝えに来なかったのである。

 『約束が違う』と憤ったライアンに、アルマは悪びれる様子もなく答えたという。


『あら、ソフィアが危険に巻き込まれたら教える約束でしょ? 私もライオネル達もいるのよ。危険なことなんてないじゃない。それにソフィアは巻き込まれたわけじゃない。自分の意思で現場に行ったのよ』


 溜息の出る答えである。完全に屁理屈であったが、アルマはアルマで素性の知れぬライアンの事を警戒していたのかもしれない。信用できない相手には、ソフィアの事を喋らない。レイモンドの想像以上に、ソフィアとアルマの絆は強固なものになっていたらしい。

 アルマがソフィアを大切にしている事は喜ばしいが、ソフィアの動向を隠されては、アルマを味方に引き入れた意味がない。この件でレイモンドはライアンをかなりきつく注意したし、以来ライアンはすっかりアルマが苦手になっている。

 ソフィアがレイモンド達の住まう屋敷に来て以降、ライアン経由で身元を明かした事が功を奏し、今ではアルマの態度は大分軟化しつつある。ロムシェルがソフィアに近づいていることを伝えて来たのも、こちらの正体がはっきりしたからだろう。それでも今の所、アルマはソフィア第一だ。

 ソフィアの傍に信頼のおける者がいることを喜ぶべきか、思い通りに動かせない事を憂慮すべきか。

 レイモンドがそんな事を考えていると、ライアンが溜息をついた。


「分かったよ。アルマに教えればいいんだろ。で、今夜やるのか?」


 即答できずに、レイモンドはライアンの瞳を見返した。


「どうした?」


 どこか途方に暮れたようなレイモンドの表情に、ライアンは眉を寄せる。


「レイモンド、お前ーー迷ってるのか?」

「……そう見えるか?」

「ああ、見える。何を迷う必要がある。待ちに待った復讐のチャンスだろうが」


 ライアンは発破をかける。それでも逡巡するレイモンドに、ライアンは次第に苛立った口調になってゆく。

 

「この国に来てから、お前弱くなってるぞ。ティトラにいた頃は、迷う事なんてなかったのに。あのオールドマン家の娘のせいか?」


 ーー弱く? それは違う。


 咄嗟にそう思ったが、何が違うのか自分でも説明ができなかった。


「またいつナサニエルが移動するかわからないんだ。迷ってる暇はない。死んだ家族の仇を討つんだろ? そのためにこの5年、死に物狂いで生きてきたんだろうが!」


 ライアンの一喝が、頭の芯に響く。


 ーーそうだ。


 5年前、永遠の眠りについた家族を前に、復讐を誓ったではないか。

 暖かく、陽だまりのような愛する家族。なんの罪もなかったのに、ある日突然その命を摘み取られた。自分がやらずに、誰が仇を討つというのだ。

 復讐は、レイモンドに課せられた使命なのだ。


 ーー今更迷うな。


 この道を突き進む以外に道はない。

 漆黒の瞳が暗く輝き、レイモンドの口から、地を這うような低い声が漏れた。


「アルマを呼べーー今夜、やる」

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