ジョエルの願い
とりつく島もないまま、バスカヴィル家から戻った後、ソフィアは部屋に篭っていた。
食事も部屋で取るというソフィアに、周囲は心配したが、泣き腫らした顔を見せたくなかった。
そうして部屋に引きこもって六日。色々な事をつらつらと考えながら、ソフィアは自分は急ぎすぎていたんだなと反省した。
グウィンとこれまで会った回数は、片手で足りてしまう。出会って間もない人間がいきなり死者が見えるなどと話し出しては、信じてもらえないのは当然だった。
少なくとも、もっと信頼関係ができてから話すべきだったし、そんなことにも気づかないほど、グウィンとの関係作りを焦っていたことに、ソフィアは気がついたのだった。
正直に言って、嘘をついたと言われたことはショックだった。できるかぎりのことをしても尚、言葉が届かなかったことへの失望は、想像以上に大きい。
涙も枯れ果てたというほど泣いた後で、ソフィアはこれからどうしようかと考えた。グウィンは婚約解消を申し出てくるだろうか。それともソフィアに怒りを抱いたまま、婚約関係を続けるつもりだろうか。
こんなことになっても、ソフィアは自分から婚約解消を申し出ようとは考えていなかった。意地になっているのだろうかと自分でも思ったが、そういう気持ちとも違う気がした。
ただ人との関係を、簡単に切ってしまいたくなかった。もう無理だと諦めることは簡単だが、それではこの先の全ての可能性まで潰してしまうことになる。
自分からそうはしたくない、とソフィアは思う。
枕を抱いてあれこれと考えるソフィアの傍らで、ぷりぷりと怒った声がした。
「兄上の石頭!」
頬を紅潮させてそう言ったのは、ジョエルである。
バスカヴィル家で己の能力を告白した日、茫然自失で屋敷に帰るソフィアに、なぜかジョエルはついてきてしまった。
それ以来、ジョエルはソフィアの家に居ついている。ひたすら泣き続けるソフィアのそばで、ジョエルはずっと怒ってくれていた。
ソフィアの代わりにグウィンに怒りをぶつけるジョエルに、ソフィアの心は大分救われたのだった。
「ジョエル、ありがとう」
もう大丈夫、と言うソフィアに、ジョエルは顔を歪めた。
「ごめんね。ソフィア」
「どうしてジョエルが謝るの?」
「だって、僕があんなこと頼まなければ」
段々泣き声になるジョエルに、ソフィアは小さく笑った。「ジョエルは泣き虫ね」と言うと、小さな少年は更に情けない顔になる。
「ジョエルのせいじゃないわ。私が色んなことを急ぎ過ぎてたの」
そして、肩に力が入っていたのだろう。もっとゆっくりグウィンとの関係を築いていくべきだったのだ。
言ってしまった言葉は取り消せないが、まだ遅くはないだろうか。グウィンは、話を聞いてくれるだろうか。
そんな事を考えていると、不意に扉が叩かれた。軽いノック音の後に、扉の外からダイアナの声がする。
「ソフィー、起きている?」
「はい」
「今、バスカヴィル卿がいらっしゃったのだけれど」
思いがけない言葉に、ソフィアはベッドから跳ね起きた。
「お会いするのが嫌なら、私からお断りするわよ」
扉の向こうからダイアナが気遣わしげに言う。その言葉に、咄嗟にソフィアは口走っていた。
「お会いします。お通しして下さい」
一体グウィンは何を言いに来たのだろう。真っ先に思い浮かぶのは、婚約解消の文字だった。
「突然訪ねてすまない」
応接間に入ると、椅子に座っていたグウィンが立ち上がった。
ソフィアの泣き腫らした顔を見て、グウィンの表情が揺れる。ソフィアはグウィンの前に腰を下ろすと、彼にも座るよう促した。
「今日は一体ーー」
ためらいがちに問うソフィアに、グウィンは真剣な表情で口を開く。
「この前ソフィアが言った話を、ずっと考えていた」
その言葉に、ソフィアの瞳が不安げに揺れた。
「率直に言う。まだ、ソフィアの話が本当かどうか判断ができない。だから、今日は納得できるまで確認をさせてくれないか」
「……どうやって?」
「ここに、ジョエルはいるだろうか」
そう問われて、ソフィアは小さく頷いた。応接間に向かうソフィアに、ジョエルもついてきていたのだ。
「私がこれからジョエルと私しか答えを知らない質問をするから、ジョエルの言葉を教えて欲しい」
ちらっとジョエルに視線をやると、「もちろんやるよ」と頷きを返される。ソフィアが同意を示すと、グウィンは兄弟の思い出を語り始めた。
それは、仲の良い兄弟の、懐かしい記憶だった。話の途中でグウィンは幾つか質問をし、ジョエルの言葉を聞いて、ソフィアがそれに答える。
二人の話を聞きながら、グウィンは良い兄だったのだとソフィアは思った。領地に作った秘密基地のこと。迷子になったジョエルをグウィンが探し出し、背負って帰ったこと。初雪に興奮して遊びすぎた二人が、揃って熱を出したこと。どれもが、楽しそうな二人の記憶だった。
「ーーもう、いい」
全てを語り終えた後、グウィンはそう言った。
ソフィアはグウィンの顔を直視できず、手元に視線を落とした。グウィンの表情を確かめるのが、怖かったのだ。また、あの時のように冷たい眼をされたら。
しかしソフィアの耳に届いたのは、罪悪感の滲んだ声だった。
「悪かった」
その言葉に顔を上げると、グウィンの瞳がソフィアをまっすぐに捉えている。ソフィアと目が合うと、彼は言葉を重ねた。
「ソフィアの言葉を疑って、酷いことを言ってしまった」
傷つけてすまないと、グウィンは言った。
「私の話を、信じてくれるの……?」
恐る恐る尋ねると、グウィンは表情を和らげる。
「ああ」
「もう、怒ってない?」
「勿論」
むしろ、と彼は言う。
「許してほしいのは私の方だ。ソフィアは私にいくらでも怒る権利がある」
「……私は怒ってないもの」
ソフィアがふるふると首を振ると、グウィンはもう一度すまなかったと謝罪した。
不快ではない沈黙が、しばし二人の間に落ちた後で、グウィンは再び口を開いた。
「ーーそれから、ジョエルの言葉を伝えてくれて、ありがとう」
その言葉を聞いた途端、ぶわっとソフィアの瞳から涙があふれ出した。
枯れたと思っていた涙が止まらない。
ーーずっとずっと、辛かった。
誰にも理解してもらえないことが。
なぜ自分だけがこんな力を持ってしまったのか。こんな力、欲しくもないのに。九歳になるまでは、こんな苦しみは知らなかった。
辛くて苦しくて一人で抱えるには重すぎて。
誰かに分かってほしかった。
初めて伝えられた感謝に、ソフィアの中に澱のように溜まっていたものが、堰を切って溢れ出したようだった。とめどなく溢れ出る涙で、グウィンの顔が滲む。
ソフィアが突然泣き出して、グウィンは狼狽えた。
「すまなかった。本当に」
そう言って、ソフィアの手を取り跪く。ソフィアが泣き止むまで、「私が悪かった」と「すまない」をグウィンは繰り返した。
やがてソフィアのしゃくり上げる声が落ち着いた頃。
どうしても確かめたいことがあると、グウィンは言った。
「ジョエルに質問しても?」
問われて、ソフィアは頷いた。
「ジョエルはあの夜、怖い思いや痛い思いをしたのだろうか」
事件のあった夜。警察の見立てでは、就寝中に撃たれたのだろうということだった。
その事を知ってから、グウィンが一番に考えたのは、犯人の正体よりも家族が苦しんだのかということだった。
グウィンの質問に、ソフィアは心配そうにジョエルに視線を送った。ジョエルは小さく頷くと、言葉を紡ぐ。ジョエルの言葉を聞き取った後、ソフィアは言った。
「ずっと寝ていたから、怖い思いも痛い思いもしてないって」
「……そうか」
ソフィアの告げた言葉に、グウィンは息をつく。心の底から吐き出すような、深い安堵の溜息だった。
その時、二人のそばに立っていたジョエルの身体が、突如として淡く発光し始めた。
驚いてソフィアが目を瞠ると、ジョエルも己の変化に気づいたようだった。
「もう、行かなきゃいけないみたい」
そう言うと、ジョエルは少し名残り惜しそうに微笑んだ。
「幸せになってって伝えて。兄上が辛そうなのは見たくない」
ありがとうソフィア、とそう言うと、あまりにも呆気なくジョエルの姿は掻き消えた。
部屋の一点を瞬きもせず見つめるソフィアに、グウィンが声をかける。
「どうした?」
「ジョエルが……行ってしまったみたいなの」
呆然と、ソフィアは呟いた。
もうどこにも、ジョエルの姿は見えない。
「……ジョエルはどこへ?」
グウィンの質問に、ソフィアは「分からない」と首を振った。
「でも、きっと悪い所じゃないと思う」
あんなに綺麗な光が、悪いもののはずがないとソフィアは思う。それが、自分に都合の良い解釈だとしても。
最後にジョエルが言った言葉をグウィンに伝えると、彼はくしゃっと顔を歪めた。この時、グウィンが何を思っていたのか、ソフィアには分からない。
二人とも言うべきことが見つからず、部屋に静寂が流れる。
やがてどちらからともなく視線を合わせると、先に沈黙を破ったのはグウィンの方だった。何かを振り払うような、意思を帯びた声で、彼は言う。
「ソフィア、私に力を貸してほしい」