娼館
娼館は老朽化してみすぼらしい建物だった。娼館の前にとまった真新しい馬車と、そこから出てきた目も覚めるようなレイモンドの容貌を見て、娼婦のひとりが窓から身を乗り出す。
「いい男ねぇ! お兄さん、私を買わない?」
頭上から聞こえてきたあけすけな言葉に、アリシアは不快げに眉を顰める。レイモンドはその声が聞こえなかったように、完全無視を決め込んだ。
ーー不潔だわ。
こんな所に足を踏み入れたくないと、アリシアは思った。こんな場所に入って、大丈夫なのだろうか。レイモンドは何故、アリシアを娼館などに連れてきたのだろう。
「……やめるかい?」
レイモンドに問われて、アリシアは不安そうな顔でその顔を見返した。
娼館に入るのは嫌悪感があるものの、こんなところへアリシアを連れてきてまで、レイモンドが聞かせたい話とは何なのか気になった。
「……ううん。行くわ」
頷くと、レイモンドが先立って館の中に入る。簡素な作りの受付に、小柄な中年女性が座っていた。けだるげなこの女性に、レイモンドは声をかける。
「ネル・デュプレーはどこに?」
「ネル? なんだい、あの女に用かね」
「少し話をしたいんだが」
「なんであれ、ここに入るなら金は払っとくれよ」
じろりとレイモンドとアリシアの顔を見て、受付に座る女性は手の平を差し出した。その手にレイモンドが紙幣を握らせると、女はニヤリとした顔で口を開く。
「2階の1番奥の部屋だ」
場末の娼館に似合わぬレイモンドの姿に、受付近くにいた娼婦が秋波を送る。
「ネルみたいなおばさんなんかより、私と遊びましょうよ」
扇情的な服装に、けばけばしい化粧。強い香水の匂いに、アリシアは顔を歪ませた。
「遠慮しておく。アリシア、行こう」
娼婦の誘いをさらりと断ると、レイモンドは階段を上がって行く。その背中を見ながら、アリシアは意外に思った。
レイモンドと娼館など、あまりにも似つかわしくない。実際彼がこんな場所にいるのは、違和感しか感じない。育った世界とのあまりの違いに、アリシアは落ち着かなくてしょうがないのに、レイモンドの方は旧市街に入ってからもずっと、戸惑った様子がなかった。
娼婦を見ても興味を引かれるわけでも、嫌悪の表情を浮かべるわけでもない。女達の誘いを受け流す姿は、いたって平静。世界的企業の御曹司が、薄汚れた裏街の雰囲気に慣れている気がして、それがどうにも不思議だった。
2階の廊下までくると、一番奥の部屋の扉が少しだけ開いているのが目に入った。夕暮れ時の西日が戸の隙間から廊下にまで差し込んで、長い影を作っている。
「失礼」
ノックしてそう声をかけると、レイモンドは部屋の中に入ってゆく。アリシアもそれに続いた。
そこは薄暗く、狭い部屋だった。
西に傾いた夕陽が、床を赤く染め上げている。
「あら、あんた。また来たの」
黄色味の強い緑の瞳をこちらに向けて、ネル・デュプレーは椅子に座りながらそう言った。少しかすれたハスキーボイス。黒く長い髪には、わずかだが白髪が混じる。
目の前に座る女性を見ながら、年はいくつぐらいだろう、とアリシアは考える。30代後半だろうか。首周りや目尻にできた皺から、アリシアより随分年上であることは分かるが、正確な年齢は分からなかった。つり目気味のきつい顔立ちで、今では容姿に衰えが見えるものの、若い頃はそれなりに美人だった事が窺えた。
「前来た時にしていただいた話を、もう一度聞かせてもらえないでしょうか」
レイモンドがそう言うと、ネルはアリシアに顔を向けた。つんとした冷たい視線がアリシアに注がれる。
「そっちのお嬢ちゃんは、はじめて見るわねぇ」
人を顎で指すネルに、アリシアの不快感は増した。
ーー下品な人。
同じ女として、こうはなりたくないものだ。いかにかつては美しくあろうとも、娼婦になるなど程度が知れる。
「すみませんが、彼女も同席させて下さい」
アリシアの素性は明かさず、レイモンドがそう言うと、ネルは興味深そうに目を細めた。アリシアの顔に浮かぶ不快感を読み取って、ネルはフンと鼻を鳴らす。
「まぁ、いいけどね。それで、何の話だったかしら」
もったいぶった口調のネルに、レイモンドは先を促した。
「ーーかつてあなたのパトロンだった男の話です」
「そうそう。イライアスの事ね」
その言葉に、アリシアは息を飲んだ。
「まさかあんな大きな事件の容疑者になるなんて、当時は思わなかったけど」
やれやれというように、ネルはレイモンドを見上げる。
「私の話は高いわよ」
「前に話を聞きに来た時も、情報提供料は払ったはずですが」
レイモンドが眉を寄せると、「あの時は、あの時よ」とネルは笑ってみせる。
「イライアスがもっと大物になったら、話をネタに強請ろうと思っていたけど、あんなことになってしまったらもう無理かもねぇ。せいぜい稼げる時に、稼がせてもらうつもり」
レイモンドは溜息をつくと、財布から紙幣を5枚程取り出し、ネルに手渡した。ネルは枚数を数えた後、それをドレスの胸元にしまう。アリシアとレイモンドに丸テーブルの席を勧めると、二人が腰を下ろすのを待って、ネルは口を開いた。
「はじめてイライアスに会ったのは、15年前よ。私がまだ駆け出しの舞台女優をしていた頃ね」
当時20歳になったばかりのネルを、劇場で見初めた男、ーーそれがイライアスだったという。
かつては女優という肩書を利用して、地位も金もある男の情婦になるのは決して珍しいことではなかった。女優業は高級娼婦の足がかりとさえ、考える者がいたほどだ。
ネルもまた舞台でイライアスに見初められ、妻帯者だったこの男の愛人になった。金持ちのパトロンならば、生活に不自由はしない。貧しい生まれであったネルもまた、経済的な理由から愛人になることを承諾した。
上品だが気位が高く退屈な妻より、若く美しい愛人にイライアスは夢中になった。そうネル自身の口から語られる。
「奥さんとは別れて、私と一緒になりたいとまで、あの男は言ったわ」
「嘘よ!」
ムカムカとした気持ちが湧き上がって、アリシアは叫んだ。降って湧いたような話に、混乱よりも怒りが先に立つ。
アリシアの頬が紅潮しているのを見て、ネルは鼻で笑った。
「なに、あんた。イライアスの家族か何か?」
アリシアの素性に気づいているのかいないのか、その口調からは判然としなかったが、ネルは小馬鹿にした口調で言い放った。その物言いに、ますます腹が立つ。
あまりに腹が立って、アリシアのその怒りはレイモンドにも向けられた。こんな女の法螺話を信じて、アリシアを娼館などに連れてきたのだろうか。娼婦の話など、嘘ばかりに決まっている。女優だったという話だって、疑わしいことこの上ない。
「私の話が、嘘だっていうわけ?」
「こんな仕事をしている人の話は、信じられないわ。本当だというのなら、証拠を見せて」
アリシアはキッとネルを睨んだ。
「証拠なら、あるわよ」
自信満々で立ち上がったネルに、アリシアは押し黙った。ネルは部屋の奥にある棚の引き出しを開けると、両手に乗る位の木箱を取り出す。
「いつか切り札に使えるかもと思って、とっておいてるの。パトロン達からもらった手紙も写真も、全部残してるわ」
そう言って箱の中にある手紙の束を漁る。「ああ、これね」と言って、ネルは紐でくくられた手紙の束と、1枚の写真をアリシアに差し出した。
「二人で旅行に行った時に撮った写真よ」
ネルの声を聞きながら、アリシアは写真を凝視した。写っているのは湖畔で撮影されたらしき、今より若いネルとイライアスだった。イライアスの腕にしなだれかかるネルの様子は、二人がただならぬ関係であることを匂わせている。写真を持つアリシアの手が震えた。
ーーそんな。
本当にネルと関係を持っていたというのだろうか。ガラガラと足元が崩れていくような錯覚を覚えて、頭が真っ白になった。
「5年、イライアスとは関係を続けたわ」
アリシアの手元にある写真を見ながら、ネルはそう言った。話しながら当時を思い出したのか、ネルは忌々しげな顔になる。
「それなのに、奥さんにバレたからって、ある日血相変えて別れを切り出してきたのよ。女の1番いい時間を奪っておいて、あの男はあっさり私を捨てようとしたの」
男って最低ね、とネルは毒づいた。
それを聞いて、アリシアは少しホッとした。ネルとの関係は10年も前に終わっているのだと。それならば、多少嫌悪感は残るものの、許容できないほどではない。
ーーお母様に悪いと思って、やめたのかもしれない。
不貞がバレて最後は家庭をとったのだから、やはり結局は母を愛していたということではないのか。もう母はこの世にいない。アリシアさえ許せば、過去の話をわざわざ蒸し返す必要はないだろうと思う。
ーーレイはこんな話を聞かせる為に、私を連れてきたの?
そうであれば、彼の神経を疑う。
だが、ネルの話はそれで終わりではなかった。
「イライアスの秘密を知ってるわ」
声を潜めたネルの表情は醜悪で、戯曲に出てくる悪女さながらだった。
「あの男が私に別れを切り出したのは、10年前の12月なの」
10年前の12月。アリシアはその言葉にはっとする。
「そして奥さんが死んだのは、その2日後。これってどういう意味だと思う?」
そう尋ねるネルは本当に性格が悪いと、アリシアは思う。
「彼女、屋敷の階段から転落して亡くなってるのよね。事故だと言われているけれど、本当かしら?」
足を踏み外したことによる転落死。たまたま打ちどころが悪かったのだと、当時そう説明してくれたのは誰だったろうか。アリシアはまだ幼くて、早すぎる母の死にただ泣くことしかできなかった。
「故意か事故かは分からない。私が知ってるのは、不倫がバレた直後に奥さんが死んでるって事実だけ」
ネルが言わんとしていることは、アリシアにも分かった。イライアスが突き落としたのだと、そう言いたいのだろう。
アリシアの頭はくらくらして、混乱していた。
普段であれば、アリシアはネルの言葉を、決して信じはしなかっただろう。イライアスがネルに別れを告げたのが、本当に10年前の12月だという証拠はない。だからネルの言葉は、狂った女の妄言だと切って捨てることだってできたはずだ。
だが、イライアスに対する信頼が揺らいでいる今、アリシアの心は揺れた。
ーーお父様がお母様を殺した?
信じられなかった。母が亡くなって10年。その傷を父娘で乗り越えて来たはずではなかったか。
ーーいつもお母様の事を愛していると、言っていたのに。それなのに、こんな人と5年も関係を続けていたの?
不貞を働き、アリシアと母を裏切っていたというのだろうか。目の前のネルに対する嫌悪感も、イライアスへの不信感を大きくしていた。
世の中の汚れを知らぬ分、アリシアは潔癖だった。イライアスの家族に対する裏切りは、現実味のない殺人罪よりも、アリシアの感情を揺さぶり、大きな衝撃を与えている。
もう何を信じていいのか、アリシアには分からなかった。ネルの話が終わった後で、レイモンドが静かに声をかける。
「ーー帰ろう。アリシア」
力なく立ち上がって、そのままとぼとぼと部屋を出る。館の外まで出た所で、目の前を歩くレイモンドに、アリシアは声をかけた。「レイ」という呼びかけに、レイモンドが振り返る。
「なんで、あんな話を聞かせたの?」
抑えきれない感情に、アリシアはレイモンドを詰った。レイモンドの黒い瞳が、アリシアに向けられる。その瞳を見てもレイモンドが何を考えているのか、アリシアにはまるで分からなかった。
「驚かせてすまない。でも、母君の身に何があったのか知ればーー」
レイモンドの答えを遮るように、アリシアは叫んだ。
「知りたくなかった!」
知らなければ、ずっと幸福なままでいられたのに。両親は愛し合っていたのだと。母の死は事故で、誰にもどうしようもなかったのだと。
「何も知らないまま過ごして、それが君の幸せなのか?」
「そうよ……! 何も知らなければ、私は幸せでいられた!」
ーー本当に? とレイモンドの瞳が問うようにアリシアを見つめたが、結局彼が口にしたのは、別の言葉だった。
「すまなかった。余計な事をして」
謝罪したレイモンドは、少しだけ落胆したようにも見える。
ーーなんでそんな顔するのよ。
辛いのはアリシアの方なのに。がっかりした顔をするなんてずるい、とアリシアは思った。
「裏帳簿は、私が警察に届けるよ」
家まで送ろう、と言ってレイモンドは馬車に乗りこむ。家につくまでの時間は重苦しく、永遠にも感じられた。息が詰まりそうな沈黙。ついこの間まで優しかったはずのレイモンドの顔に、今はその片鱗さえ見つける事はできない。
ーーレイは私の事をどう思っているの?
それはずっと、アリシアの胸の中にくすぶっていた疑問だった。聞きたいのに、聞けなくて。ずっとレイモンドから言ってくれるのを待っていた。
フェラー邸の前で馬車がとまった時、アリシアは耐えかねてついに口を開いた。
「あなたが何を考えているのか、全然分からない」
そう口火を切ったアリシアに、レイモンドが顔を向ける。
「……ねぇ、レイ。あなたこれまで一度も私のことを好きだと言ったことがないって気づいてる?」
そう問われても、レイモンドは慌てた様子を見せない。
ーーああ、やっぱり。
言い訳をしないレイモンドに、アリシアは悟った。彼は分かっていてこれまで口にしなかったのだ、と。失望がアリシアの胸にゆっくりと広がっていくのが分かったが、言葉を止める事はできなかった。
「いつも私がねだって、レイはそれに応えてくれた。夜会のエスコートも、お父様への挨拶も。嫌な顔一つせず、あなたはいつも優しかった。でも一度も好きだと言われてないわ」
思い返してみれば交際の申し込みもなく、レイモンドの振る舞いには、常に線が引かれているようだった。アリシアの手紙に対する返事にも、友人に対する以上の言葉はなかった。
周囲の噂ばかりがひとり歩きして、アリシアはそれに甘えていたのだ。否定しないのだから、レイモンドも悪い気はしていないのだろう、と。けれど全てはアリシアの思い違いだったのだろうか。
これまでの不満を吐き出すように、アリシアは思いをぶちまけた。
「不安だった。でも周りから冷やかされても、恋人だと噂されても、あなたは否定しなかったから、いつかきっと言ってくれるって信じてた。あなたの好意は私にあるはずだって、自分に言い聞かせてたわ。最初から私がひとりで空回ってたの……?」
「……すまない」
レイモンドの謝罪に、アリシアは顔を歪ませた。
「どうして謝るの……?」
「君を一人の女性としては愛せない」
「じゃあなんで優しくしたの!」
ーーずるい、ずるい、ずるい。
自分だけに優しくされたら、笑いかけられたら、勘違いするのは当たり前ではないか。
「今頃になって突き放すなんて、酷いわ!」
「私はただ真実を明らかにしたいだけなんだ」
「どうしてそんなに真実が大事なの? もうみんないないじゃない。バスカヴィル家の人だって、オリバーって人だって。もう悲しむ人は、誰もいないわ」
口に出してからハッとした。
ーー違う。こんな事を言いたかったわけじゃない。
売り言葉に買い言葉で、口をついて出てしまった。彼らの死を悲しむ者がいないと、本気で思っているわけではなかった。少なくとも一人、その死に心を痛めているであろう少女の名を、アリシアは知っている。悲しむ人がいないから、殺人が許されるとも、無論思ってはいない。それなのに感情が昂ぶって、心ない事を言ってしまった。激しい自己嫌悪に陥って、アリシアは口をつぐむ。
アリシアの言葉を聞いても、レイモンドは何ひとつ言い返さなかった。
「私は帰るよ」
そう言うと、レイモンドは馬車を降り立った。馬車の中から動けずにいるアリシアを振り返って、レイモンドは言う。
「明日、警察に証拠を提出しに行く。朝には今日の裁判のことが新聞に載るだろう。今より周囲が騒がしくなるはずだ。アリシア、君はこの街を離れた方がいい」
母方の祖父母の住む郊外に行くようにと、レイモンドはそう勧める。
何かを諦めたようなレイモンドの口調に、アリシアは泣きそうになった。「じゃあ」と言って、レイモンドがその場を立ち去った後も、アリシアは馬車の中から動けないままだった。




