誤解
自宅に戻ると、ソフィアは自室のベッドの上でごろごろと転がった。「うー」と言葉にならない呻き声が漏れる。
ソフィアは、悩んでいた。ジョエルの言葉を、グウィンにどう伝えるべきだろう。
先程までいたバスカヴィル家で、ジョエルが口にしたのは、ある願いごとだった。
「兄上に謝りたいんだ」
ソフィアからグウィンに伝えて欲しいと、そう言ったジョエルの目は純真で、断られることなど露ほども考えていないように見える。罪悪感を感じつつも、ソフィアは首を横に振った。
「できないわ……」
そう言ったソフィアに、ジョエルは心底驚いたように目を丸くした。
「どうして? 簡単なことだよ」
ジョエルは責めるようにソフィアを見つめる。
その非難するような口ぶりに、ソフィアの口調は思わず強いものになった。
「どう説明するの? 亡くなった人の姿が見えるから、弟の気持ちを伝えるなんて言って、信じてもらえると思う?」
「だって、ほんとのことだ」
「私には見えても、他の人には見えないのよ。見えないものを、人は信じないものなの」
ソフィアが諭すようにそう言うと、ジョエルはべそをかきはじめた。黒い瞳に涙が滲む。
「なんで? やっと僕が見える人と会えたのに」
くしゃりと顔を歪めて、ぐずぐずと泣き出したジョエルを前に、ソフィアは途方に暮れた。
死者が見えるなど、言えるわけがない。どう言ったら、ジョエルに分かってもらえるのだろう。
例えば誰かに感謝の気持ちを伝えることでさえ、それが死者からの言葉だと告げた途端、相手は怒り出すのだ。
こちらは善意で言っているつもりでも、相手はそうは受け取らない。
ソフィアには、苦い経験があった。まだ、死者を目にし始めたばかりの頃。
ソフィアは、死者から頼まれた伝言を家族に伝えに行ったことがある。彼女はソフィアと同じくらいの年の女の子で、病気で命を落としたのだと言っていた。
ナターシャと名乗った少女は、最後まで看病をしてくれた家族にありがとうと伝えて欲しいと、ソフィアに懇願したのだ。彼女の想いにソフィアは胸を打たれ、その頼みを引き受けた。その時はまだ、自分の能力が人の目にどう映るかなど、ソフィアは知らなかった。
街はずれにある彼女の家を訪ねたソフィアに、ナターシャの家族は困惑した。オールドマン家の馬車で乗り付けた少女は、どこからどう見ても裕福な家の子供だったからだ。大富豪の娘と、病で臥せっていたナターシャ。二人に接点などあるはずもなく、家族は訝しんだ。
娘を失い悲嘆に暮れる彼らに、ソフィアはナターシャの言葉を伝えた。少しでも彼らの慰めになればいいと、そう思っていた。
『帰ってくれ』
ソフィアの話を聞き終わった後、ナターシャの父親はそう言った。
怒気を孕んだその声に、ソフィアは凍りつく。
『どこでうちのことを知ったのか知らないが、お嬢様のお遊びにしてはたちが悪い』
子供だからといって許されることじゃないと、恐い顔でソフィアを睨む。
『嘘じゃないわ』
必死でそう訴えるが、怒った彼らはソフィアの言葉に耳を傾けてはくれなかった。名の知れた富豪の娘であったことも、余計に事態を悪くしていた。
金持ちが遊び半分に、娘を失くした家族をたぶらかしている。そのように受け止められたのだ。
信じてもらえなかったこともショックだったが、ソフィアの行為が彼らをさらに傷つけたという事実にも、打ちのめされた。
ーー嘘じゃないのに。
それ以来、ソフィアはこの力が人にどう見られるのかを理解した。良かれと思ってしたことでも、子供の悪戯に見られてしまうのだ。
グウィンにジョエルの言葉を伝えても、きっと同じだとソフィアは思う。
だからどうしたって無理なのだと思うのに、目の前でジョエルが泣いているのを見て、胸がずきずきと疼いた。
「そんなに泣かないで。ーー分かったから。なんとかグウィンに伝える方法を考えてみるから」
「ほんと?」
ぐずぐずとしゃくり上げるジョエルに、ソフィアは床にひざまずいて、その瞳を覗き込む。
「うん。ほんと」
だからもう泣いちゃだめよと、そう言うとジョエルはこくんと頷いた。
ちょうどその時、従者を伴ったグウィンが応接間に戻って来たのだった。
帰り支度をしながらも、ずっとソフィアは考えていた。自分の言葉を信じてもらうには、どうすればいいのだろうかと。すぐに答えは出ないまま、結局バスカヴィル家を出てきてしまった。
ベッドの上で悶々とするソフィアは突然がばっと起き上がると、図書室へと足を向けた。
こんな時、ソフィアが相談できるのは、一人しかいない。
オールドマン家には、二万冊の蔵書を有する図書室がある。鼻孔をくすぐる紙の匂いが、ソフィアは好きだった。
本の日焼けを防ぐ為、図書室にはカーテンが引かれ、部屋の中は薄暗い。西日がカーテンの隙間から漏れ、足元を黄金色に照らしていた。
ソフィアは図書室に入ると、小さな声で問いかけた。
「お祖母様、いらっしゃいますか?」
ソフィアが静かに待っていると、やがて窓際の書棚の影から一人の女性が姿を見せる。
「ソフィー。珍しいわね」
白金の髪を持つ女性は、ソフィアに近寄ると、たおやかに微笑んだ。年の頃は二十歳前後に見える彼女の足元には、影がない。
リリー・オールドマンは、セオドアの母であり、ソフィアにとっては祖母にあたる人物である。
そして、ソフィアが初めて目にした死者でもあった。
なぜリリーが未だ現世に留まっているのか、ソフィアには分からない。ただリリーは生を終えた四年前からずっと、オールドマン家の屋敷に留まっている。
リリーは、ソフィアの秘密を共有し、相談できる唯一の相手だった。
「お祖母様に相談したいことがあるんです」
そう言うと、ソフィアはバスカヴィル家で見聞きしたことをリリーに話し始める。ソフィアが一通り説明を終えるまで、リリーは黙って耳を傾けていた。
「それで、ソフィーはどうしたいのかしら?」
どうすればいいのでしょうと言ったソフィアに、リリーは質問を返した。
「どうしたいか……」
「その少年は、ソフィーの将来の夫になるかもしれないのよね。ソフィーは、死者が見えることを知って欲しいの? それとも隠しておきたいの?」
リリーに問われて、ソフィアは考え込んだ。自分は、どうしたいのだろう。
勿論、グウィンがソフィアの秘密を理解してくれたら嬉しい。ずっと一緒にいる相手に真実を隠し続けるのは、とても辛いだろうから。
リリーの質問に、ソフィアは情けなく眉尻を下げた。
「知ってほしいですが、でも信じてもらえなかったらと思うと、恐いです」
恐い、とソフィアは思う。
真実を告げて、それが嘘だと思われたら。
「なら、本当の事を話した上で、信じてもらえるように工夫が必要ね」
「……どうすればいいと思います?」
「そうね、バスカヴィル家の人しか知らない話をソフィアが知っていたら、ジョエル少年から聞いたと信じてくれるのじゃないかしら」
バスカヴィル家の人しか知らない話、とソフィアはリリーの言葉を口の中で繰り返した。
本当にそれで信じてくれるだろうかと不安な気持ちもあったが、他にこれといった案も思い浮かばない。
「お祖母様。私、やってみます」
心配は尽きないが、ジョエルとの約束もあった。グウィンにジョエルの言葉を伝えなければならない。
憂い顔で、決意を口にしたソフィアを、リリーは気遣わしげに見つめていた。
***
翌日、ソフィアは朝早くからバスカヴィル家を訪れた。
まだグウィンは部屋で休んでいると申し訳なさそうに言った家令に、「私が早く来すぎたのだから、起こさなくて大丈夫よ」と声をかける。
昨夜遅くバスカヴィル家へ使いを出し、今日の訪問を取り付けたソフィアは、計画を実行しようとしていた。
家令が応接間を出たのを見届けてから、ソフィアは扉近くに佇む小さな少年に声をかける。
「ジョエル。グウィンに今日話すから、協力してくれる?」
ソフィアの言葉に、ジョエルは目を輝かせた。
「うん。何をすればいいの?」
「ジョエルが知っているこの家のことや家族のことを、できるだけ沢山教えてほしいの」
できれば家族しか知らない話がいいわと言ったソフィアに、「うーん」とジョエルは考え込む。
グウィンが来る前にできるだけジョエルから話を聞き出し、それをもってグウィンにソフィアの力を信じてもらう。ソフィアの計画は、とてもシンプルなものだった。
「なんでもいいのよ。グウィンとよくしていた遊びとか、どこかに出掛けたとか」
ソフィアが促すと、ジョエルは覚えているエピソードを口にした。ソフィアはそれらを一つ一つ反芻して頭に入れる。
いくつかジョエルから話を引き出した頃、グウィンが部屋へと入ってきた。
「悪い。随分待たせたな」
「私が早く来すぎただけだから」
そう言って微笑むと、グウィンはほっとしたようにソフィアの前に腰を下ろす。
彼女が座る椅子の傍らにバスケットが置かれているのを見て、グウィンの目元が僅かに緩んだ。
「やっぱり料理を持ってきたのか。今日は何か用事が?」
二日続けてバスカヴィル邸にやって来たソフィアに、グウィンが疑問を口にする。
「今日は、グウィンに話があって来たの」
そう言うと、勇気を振り絞ってソフィアは話し始めた。死者を見る己の能力のこと、ジョエルから聞いた話のこと。
最初訝しげに話を聞いていたグウィンの顔は、次第に無表情になっていき、一体何を考えているのかソフィアには分からなかった。
口の中がカラカラになりながらも、ソフィアは話し続けた。できるだけ冷静に、理路整然と聞こえるように。
「ジョエルはね、グウィンに謝りたいって言ってたの。最後に会った時のこと。グウィンは何も悪くないからって。自分が我儘だっただけだから、気に病まないで欲しいって」
全てを語り、ソフィアは最後にそう言った。ジョエルが伝えて欲しいと告げた言葉を、グウィンに伝える。
口を閉じたソフィアは、グウィンの顔を心配そうに見つめた。
ーーグウィンはどう思っただろう。
無言でソフィアの話を聞いていたグウィンは、おもむろに立ち上がった。
扉の前まで歩み寄ると、ドアノブに手をかける。
そのまま応接間の扉を開けると、グウィンはソフィアに顔を向けた。
振り返ったグウィンの顔があまりにも冷淡で、ソフィアはびくりと身を震わせる。
「出て行ってくれ」
鋭い一瞥をソフィアに投げかけて、グウィンは言った。
その冷たい声音に、ソフィアは愕然とする。
「……待って」
「まさかこんな悪趣味な嘘をつくとは」
すっかり騙されたと、グウィンは酷薄な笑みを浮かべる。
ソフィアはふらふらと立ち上がってグウィンの言葉を否定しようとするが、喉の奥に言葉が詰まって出てこない。
「どうやって私の家族の事を調べた? どんな人間を雇ったのか知らないが、大した腕だ。なかなか真に迫っていたぞ。セオドア殿がこの縁談を私に持ってきたのは、虚言癖のある娘を体よく押し付けるためか?」
グウィンの言葉に、ソフィアは絶句した。
虚言癖。その言葉の鋭さが、ソフィアの胸を抉る。
頭が真っ白になり、唇が震えた。
グウィンの顔には、かつてソフィアの行為を金持ちの遊びだと言ったナターシャの父親と同じ表情が浮かんでいる。
自分の言葉が、相手に届かない。
胸が苦しくて、痛かった。
グウィンのあまりの怒りように、近くにいたジョエルも青ざめている。
「兄上、……なんで」
呆然とそうつぶやくが、無論その声はグウィンには聞こえていなかった。
「出て行かないのなら、私が出ていく」
あとは勝手に帰ってくれと、そう言って、グウィンは本当に応接間を出て行ってしまった。
バタンと大きな音を立てて、目の前で扉が閉まり、ソフィアは部屋に残された。
誤解を解くことも、グウィンの怒りを鎮めることもできず、ソフィアは茫然とその場に立ちつくした。