葛藤
閃光のように全身を駆け巡った動揺の後、レイモンドはすぐに自らを立て直した。
仮面をつけるように、瞬時に表情を消す。それは誰にも本心を悟らせぬよう、生きるために身につけた術だった。
レイモンドは再び足を踏み出すと、素知らぬ振りで歩を進める。
彼女がこちらに気づかなければいいと思ったが、ふいに振り返ったソフィアは、レイモンドの存在に気づいたようだった。彼女の青味がかった灰色の瞳が、驚きに見開かれる。彼女の唇が僅かに開き、しかし音を発する前に閉じられた。
何を言おうとしていたのだろうとレイモンドが考える間もなく、ソフィアは再び口を開く。
「レイモンド様、どうしてここに……?」
正面から呼び止められれば、流石に無視をすることはできなくなって、ソフィアの前で立ち止まった。
「セオドア殿に仕事の話をしに来ただけです」
冷ややかな口調で言えば、ソフィアはレイモンドの言葉を小さく繰り返した。
「仕事の話……」
「もう用はすみましたから、私はこれで失礼します」
これ以上の会話を拒むようにその場を立ち去ろうとして、袖を小さく掴まれた。
「何か?」
「少し話をーー話をさせてもらえませんか」
「我々に話すことなど何もないと思いますが」
どこまでも冷淡に返せば、ソフィアはやや怯んだような顔になる。
ーーもう私に構うな。
こうやってソフィアを突き放す一方で、オールドマン家に近づこうとしているのはレイモンドの方なのだから、身勝手な言い分だという自覚はあった。
「仕事の話で今後もセオドア殿に会いに来ることはあるでしょうが、貴女と必要以上に関わる気はありません。あらぬ噂が立ってはお互いに困るでしょう。ーーアリシアに誤解されたくないのです」
わざと残酷な言葉を突きつければ、ソフィアは苦しげに顔を歪めた。それを見て、ずきりと胸が痛む。
自分の放った刃で傷つけて、即座に後悔しているのだから世話はない。
今更だ。どれほど自分が彼女を苦しめているか。どれほどの不安と心配を与えているか。
分かっていても、どうすることもできなかった。
もう彼女のそばにはいられないから。自分の事を忘れた方が、ソフィアは幸せになれると思うから。
けれどそんなレイモンドの言葉にも、ソフィアはめげなかった。
「私は困りません」
はっきりとした声だった。
「他人がどう思おうと、私は人に恥じなければいけないような事はしていません」
迷いなく向けられる言葉。
その言葉の奥に強い決意が秘められているように思え、内心首を傾げる。
「私にできることがあるのなら、力になりたいんです」
灰色の瞳が真っ直ぐにレイモンドを捉える。ソフィアの瞳を見返しながら、唐突に疑問が湧き上がった。まさか彼女は何か勘付いているのだろうか。一瞬そう思ったが、すぐさまその考えを打ち消した。そんなはずはない。ソフィアとは極力接触を避けてきたし、身辺にソフィアが近づかぬよう気も配った。
「……もう行かなければ」
話を打ち切るようにそっとソフィアの手を振りほどくと、その場から立ち去った。
彼女の言葉の真意が分からない。何のつもりであんなことを言ったのだろう。
ーーソフィアは気づいているのだろうか。
己の正体に。ありえないと思いつつ、彼女の言葉が不可解でつい疑ってしまう。
彼女はいつだって、想定外のことばかりする。思えばこの国に戻って来たばかりの時もそうだった。
5年ぶりにシュタールの地を踏んだ時、何よりもまずソフィアの事が気がかりだった。今はどのように過ごしているのだろうと。
元気にしているだろうか。婚約者が消えたショックから、立ち直っているだろうか。今はもう幸せに、別の誰かと笑っているかもしれない。
もしもそんな相手がいるのなら、彼女を幸せにできる男なのだろうか。セオドアの眼鏡にかなう人間ならば、きっと心配はいらないのだろうが、彼女を一生守り抜ける男なのだろうか。
まさかグウィンとソフィアの婚約関係が維持されたままになっているなど夢にも思わなかったし、自分が消えた後セオドアはすぐに婚約を解消させたものと信じて疑っていなかったのだ。
事実を知った時は、愕然とした。どうしていまだ婚約関係が続いているのかわけが分からなかった。
純粋な驚きと戸惑い。
そして深い罪悪感。
だが同時に胸を満たした感情が、後ろ暗い喜びだったことは否定できない。彼女の心にまだグウィンの存在が残っている。その証左のようで、心の奥の奥で、自分は確かに喜んだのだ。
そんな思いを自覚すれば、激しい自己嫌悪に陥った。5年が経って尚、ソフィアはグウィンの事を忘れていないーーその事を喜ぶなど、あまりにも最低だった。どこまで自分勝手なのだろう。
彼女の幸せを願う一方で、愚かにも捨てきれない望みを抱いているのだとその時気づいた。もしも、全てが終わったなら。彼女が許してくれるなら、いつか彼女の元へ帰りたい、と。だがそれはあまりに身勝手な望みだった。自分にそれが許されるはずがない。
ーー自分の事など忘れて、幸せになってくれ。
ーーでも、忘れられたくない。
矛盾する2つの想い。
自分勝手な感情には蓋をして、心の深いところに沈めなければならなかった。
ソフィアに近づけば、また身勝手な欲が湧き上がる。純粋に彼女の幸せを願う以外の思いは、封じなければならない。
だから、ひたすら突き放した。正体がバレぬようにという気持ちも確かにあったが、近づけばまた愚かな感情が顔を出すから。
あの夜会の時もそうだ。彼女が会場にいることにはすぐに気づいたのに、気づかない振りをして。
ソフィアが自分に話しかけようとしているのが分かったから、避けるように会場を後にしたのだ。彼女が後を追って会場から出てしまったのは、完全に想定外だった。
空き部屋の一つに入り、ソフィアが諦めるまでやり過ごそうと息を潜めた。すぐにでも立ち去ると思ったのに、ドミニクという男が現れたのも予想外だった。男女の声がドア越しに聞こえ、扉を僅かに開いて様子を伺えば、暗がりでソフィアを口説くあの男の姿が見える。咄嗟にドミニクに激しい怒りを覚えたが、出ていくわけにもいかなかった。成りゆきを窺うことしばし。しかしドミニクがソフィアの手をとったまま、くだらない脅し文句を口にするに至って、思わず身体が動いていた。
後から思えばもっと気の利いた方法がいくらでもあっただろうと思ったが、あの男がソフィアに触れることがどうしても許せなかった。息のかかる程の距離に近づくのも。あんな風に気安く触れていい存在ではない。ドミニクを追い払って、言葉に滲む不機嫌さを隠せなかったのは、自分でも子供じみていたと思う。
『貴方はよくそれでこれまで無事にこられましたね』
『え?』
何を言われたのか分からない、という表情のソフィアに、もっと警戒心を持てと半ば八つ当たり気味に思う。
『あんな男とこんな人気のない所へ来て、取り返しのつかないことにでもなったらどうするつもりです』
『誤解です。彼と一緒に来たわけではありません!』
知っている。たとえ見ていなかったとしても、ソフィアがそんな事をするはずがないとわかっていた。それでもくどくどと説教を並べ立てたのは、彼女を心配しての故か。それともほんの少しでも長く彼女のそばにいたかっただけなのか。
ソフィアは最初からレイモンドの正体を疑っていたようで、不意打ちのように口にされた名前に動揺を隠しおおせたのは、我ながらよくやったと思う。
『ーーグウィン』
唐突な彼女の言葉にも無反応を貫けたのは、最初から心構えができていたからだろう。正体を知られてはならないと。グウィンの事を忘れた方が、彼女のためだと。
『私の大切な人の名前です。その人をずっと探しています』
彼女の心には、まだグウィンがいる。ソフィアがグウィンの帰りを待っていると分かって、言いようのない罪悪感が胸に広がった。
ソフィアには誰より幸せになって欲しいのに。なのに傷つけてばかりだ。願っても、自分はもう彼女のそばにはいられない。これまでの5年で、自分は変わってしまったから。そしてこれから己がしようとしている事を思えば、更に強くそう思った。
5年前。密航者として渡ったティトラは、すべての人間を受け入れる寛容の国などではなかった。富はごく一部の人間に集中し、這い上がれない人間は汚泥の中を這いずり回るしかない。不正と暴力が蔓延る悪徳の街。その中で生きようと思えば、まともな感性ではいられなかった。
レイモンド自身もまた生きるため、盗み、奪った。その時は倫理観などまるで働かなかった。復讐を果たす為には、何をしても構わないと思っていたからだ。
ーーこの復讐を止められない。
自分がやめてしまったら、家族はどうなる。彼らには何の落ち度もなかったのに。
復讐の炎は5年前より激しさを増し、胸の中で燃え続けている。
セントラル鉄道を出て、周囲に聞かれていない事を確認すると、レイモンドは口を開いた。
「ライアン、マイクの方はどうなってる?」
「俺と交代でナサニエルの隠れ家の監視をさせている。公開捜査が発表されてからは、潜伏先を次々にかえている」
「見失うなよ」
「わかってる」
オズワルドを餌につきとめたナサニエルの居場所を、レイモンドは警察に教えていなかった。たとえナサニエルの身柄を確保できたとしても、警察がナサニエルの罪を立証することはできないと思ったからだ。
10年もの間殺人を重ねて、その存在さえ知られていなかった。あの男が、自分と結びつくような証拠を残しているとは到底思えない。
元よりレイモンドには、ナサニエルの処遇を司法の判断に委ねる気など毛頭なかった。
ただの作業として殺人をするような、感情を持たない男。家族を殺したのも、それが仕事だからだ。そこには哀れみも罪悪感も存在しない。反省や後悔を促すなど、全くもって無意味だった。
ならば復讐はあの男を消すことでしか果たせない。そしてそれを人任せにする気はレイモンドにはなかった。
ーーあの男は、私が殺す。
だから彼女の元へは帰れない。血で汚れたこの手で、彼女に触れる事などどうしてできる? たとえこの忌まわしい事件の決着がついたとしても、もう二度とソフィアの手を取ることはできないのだ。




