ソフィアの覚悟
大量殺人の報は一夜にしてシュタール全土を駆け巡った。土の中から暴かれた死体の山。最も古いものは10年以上前に埋められたと見られる、と警察が発表するに至り、事件の根の深さに国中が震撼した。
身元不明の30もの遺体は、失踪人を持つ家を戦慄させた。もしかしたらその中に自分の家族がいるのではと、人々が情報を得る為エルド警視庁前に集まり、身元確認を求める長い列を作った。
ソフィアもまた、その記事を読んだ時、自らの心が軋む音を聞いた。
オールドマン家には、嫁いだ姉達が帰ってきていた。ロジャーの訪問はすぐにオールドマン家の人間全員が知るところとなり、ソフィアを心配した彼女達は、示し合わせて実家に顔を出すことにしたらしい。
姉3人は片時もそばを離れず、とりとめもない話をしながら、時折じっとソフィアの様子をうかがっていた。18の娘にいささか過保護すぎると思ったが、姉達が心から心配しているのがわかった。
彼女達はグウィンの失踪後家に引きこもり、泣いてばかりいたあの頃を、まだ鮮明に覚えている。食事を口にできず、どんどん痩せ細ってゆくソフィアの姿を、彼女達は胸のつまる思いで見ていたのだ。また同じことが起こるのではと心配するのは当然かもしれなかった。
もうそんなことにはならないから大丈夫だと言っても、姉達の目には強がりに映るようだった。
ーー私は、泣かない。
それはグウィンを探すと決意したあの日、自らに誓った事だった。
決して希望を捨てない。どれ程挫けそうになっても、もう後悔をしなくて済むように、自分にできることを探すのだと。ソフィアはもう、泣き伏すだけの子供ではない。
ずっとグウィンはもうどこにもいないのだと告げられたら、自分はどうなってしまうのだろうと思っていた。決定的な一言を言われた時、はたして自分はその事実を受け止めきれるだろうか。現実の辛さに耐えきれず、心が壊れてしまうのではないかと、怯えていた。
けれど今グウィンの死を眼前に突きつけられて、ソフィアの胸を占めるのは、それでも尚諦めることのできない自らの心だった。
揺れて、迷って、傷ついて。
期待と、失望の狭間を行き来した。
けれどロジャーに覚悟を決めろと言われたことで、気づいてしまった。
頭ではグウィンの死を受け止めなければと思っていても、心は頑なにそれを拒んでいることに。
誰が何と言おうとも、自分の目で確かめるまでは、グウィンの死を認めることなどできないのだ。だってちっとも信じられない。グウィンがもうこの世のどこにもいないのだとは。
ーー私って意外と頑固なんだわ。
おまけにしつこい、とソフィアは思った。
人の意見を聞き入れず、自分の直感を結局のところ信じているのだから、全くもって論理的ではない。けれどその頑ななまでの思いが、ソフィアの精神を支えていた。
ーー希望を捨てたら、駄目。
せめて自分だけはグウィンが生きていると信じよう。グウィンの無事を信じているのが、ソフィア一人だけになろうとも。自分の心は、自分だけのものだ。
夕方ロジャーが忙しい合間を縫って再びオールドマン家を訪れた時、ソフィアはある頼みごとを口にした。
「……遺体を見たい?」
「はい。婚約者なら、その資格はあるはずですよね?」
「制度上は、そうですが……ですがその、若いお嬢さんが見るようなものではありませんよ」
警察でも身元確認を急いでいます、とロジャーは困ったように眉を下げた。その言葉に、ソフィアは静かに首を振る。
「記事には遺体の多くが白骨化していて、身元の割り出しには時間がかかると書いてありました」
「……ええ、まぁ」
「その中にグウィンがいるかどうか、警察にも分からない可能性があるということですよね。もしかしたら、近しい人間が見れば気づくことがあるかもしれません」
「お話は分かりますが……、よろしいのですか? 我々刑事でさえ気分が悪くなるような、酷い状態なのですよ」
「構いません」
お願いします、とソフィアは言った。弱りきったロジャーは、隣に座る母と姉に助けを求めるように視線を送る。姉達もまた困惑の表情を浮かべていたが、ダイアナだけはしっかりとロジャーを見つめ返した。
「私が付き添います。ですからどうか、この子の希望通りにさせてはもらえないでしょうか」
決然とした声でダイアナはそう言うと、確認するようにソフィアの方に顔を向けた。
「あなたにとって、これは必要なことなのね?」
「はい」
自分の目で確かめなければ、先に進めない。ソフィアが折れないことを悟ったのか、ロジャーは「分かりました」と頷いた。
「ご案内いたします」
それから1時間後。ソフィアはダイアナとともにエルド警視庁の地下にある死体安置室を訪れた。ダイアナには部屋の前で待ってもらうことにした。遺体の確認ならば、ソフィアだけで十分だろうと思ったのだ。
遺体の数は30と聞いていたが、この場には5体しかない。ソフィアの疑問に答えるように、「ここには入りきらなかったんです」とロジャーは言った。
いずれも灰色の布がかけられた亡骸は、しんと沈黙している。ロジャーは比較的小さな台の方へ近づくと、後をついて歩くソフィアの方を振り返った。
「背丈や他の特徴から見てグウィン少年の可能性があるのは、この遺体だけです」
そう言うと、ロジャーは台の上に乗せられた遺体の布を取り払った。
これまで嗅いだことのない臭気が鼻をつく。今のソフィアの背丈より随分小さい少年の亡骸。
遺体はまだ完全な白骨化はしておらず、身体の一部がところどころ屍蝋化して残っていたが、頭部はほとんど骨だけだった。その姿に息を呑む。
ソフィアは思わずハンカチで口を覆い、吐き気をこらえた。生きていた頃の面影を探すことは困難で、目鼻立ちもはっきりしない。ダイアナに外で待ってもらっていて良かった。これは、見せられない。
「彼かどうか、お分かりになりますか?」
ロジャーから気遣うように問われ、改めてソフィアは遺体を検分した。顔も身体的特徴も生前の面影を思わせるものはない。
遺体を見ればすぐにグウィンかどうかが分かる、などという考えは甘かったのだろうか。また何も分からなくなるのかと思いかけた時。
あっ、とソフィアは小さく声をあげた。
ーー服が、違う。
失踪したあの日、グウィンが纏っていた服と違っていた。
最後に会った時、グウィンが着ていたのは真っ白なシャツと黒のズボンだったが、この遺体は水色のシャツに深緑のズボンを身に着けている。お守りのように鎖を通し、遺体の首から下げられたコインも、見たことのないものだった。
パブリックスクール前でグウィンを拉致し、墓地に埋めたというオズワルドの話からすると、服を変える時間などなかったはずだ。
「何か気づいたことが?」
声をあげたソフィアに、ロジャーが尋ねる。ロジャーにこの遺体はグウィンではない、と言いかけて、思い直した。
「……いいえ、なんでもありません。勘違いだったみたいです」
この遺体がグウィンでないのなら、本物のグウィンは一体どうしたのだろう。
グウィンの遺体を土に埋めたというオズワルドの証言は、おかしくないだろうか。罪の告白自体が偽りなのか?
いや、やってもいない罪を告白する人間などいない。オズワルドの人間性を知るソフィアからすると、余計にそう思えた。ならば、オズワルドは真実グウィンを土に埋めたのだ。ーーまだ、生きているグウィンを。
かつてグウィンの身に起こった事を理解して、ソフィアは震えた。
ーー戻って来れないのは、これが理由かもしれない。
生きているのに姿を現さないのは、生きて帰ればまた狙われるからではないだろうか。グウィンは死んだと思わせた方が、彼の安全の為ではないのか。
「グウィンのようにも思えますが、分かりません」
ロジャーに不審に思われないように、ソフィアは静かにそう言った。ロジャーは「そうですか」と呟くと、再び遺体に丁寧に布をかける。
ロジャーのゆっくりとした動作を見ながら、ソフィアは口を開いた。
「彼は、ーーオズワルド伯爵は、グウィンを手にかけた人間が誰か、警察に話したのですよね?」
「ええ。ですが、いまは捜査中ですから、名前は申し上げられません」
警察が逮捕するまで待てということか。沈黙したソフィアに、ロジャーは詫びるように言葉を紡ぐ。グウィンを助けられなかったという後悔の念がその顔に浮かんでいた。
「結局、何もできず申し訳ありません。ですが犯人逮捕の為、警察は最善を尽くします」
ロジャーは嘘をつかなかった。翌日、その言葉通り、バスカヴィル一家殺害の犯人として、イライアス・フェラーの逮捕とナサニエルという名の男の公開捜査が発表された。




