金策
「これは一体、どういうことだ……!」
ぶるぶると震えながら、オズワルドは声を荒げた。ぐしゃりと、新聞紙が腕の中でひしゃげる。抑えきれぬ怒りのまま手の中のものを床に叩きつけると、もはや原型をとどめていない紙の塊が無残な姿で床に転がった。
電炉建設発表の日。アンドリューの言葉通り、新聞の一面はその話題一色になった。
ーーだが、問題は。
『ティトラ・スチール』
何度読み返しても、その文字に偽りはない。この日、各紙の一面を飾ったそれは、オズワルドの投資先ではなかった。
オズワルドの頭は混乱していた。数日前アンドリューに全財産を預けたばかりなのだ。
ーーとにかくあの男に話を聞かなければ。
ライバルに先を越された? 想定外の事態が起こった? どんな言い訳をするつもりかは分からなかったが、何よりまず渡した金を取り戻さなければ。オーティスに馬車を用意させ、身支度もそこそこにオズワルドは家を出た。行き先は、アンドリューの投資会社である。
馬車に揺られること約一時間。その場所に降り立った時、オズワルドの胸を占めたのは、困惑と不安だった。目の前に建つのは、朽ち果てた平屋。どう見ても会社には見えない。
その時点で嫌な予感しかしなかったが、オズワルドはドアを叩いた。
「アンドリュー! いるか!」
ドンドンと力任せに何度も扉を叩いていると、「うるさい!」と女の怒声が返ってきた。すぐにガチャガチャと鍵を開ける音がして、赤ら顔の中年女性が顔を出す。
女は不機嫌な顔でオズワルドを見ると、眉を寄せた。
「誰だいあんた」
それを聞きたいのは、こちらの方だ。
「ここにアンドリュー・バーチという男はいないか」
「そんな男は知らないね」
「そんなはずはない。奴の投資会社は確かにここだと」
「会社ぁ?」
女は聞くなり、ガハガハと下品な声で笑った。オズワルドを小馬鹿にしたように見つめながら口の端を歪める。
「あんたさ、周りを見てみなよ」
女の鼻がふんと鳴った。
「こんな場所に会社なんてもの、あると思うのかい?」
エルド旧市街の中でも、とりわけ粗末な家が並ぶ一角。女の家がまだマシに思えるほど今にも崩れ落ちそうな家もある。
オズワルド自身足を運ぶまでは、こんな場所だとは思いもしていなかった。
「どこのお貴族様か知らないけど、ここはあんたみたいな人が来るところじゃないよ」
分かったら帰んな、と言うなり、女はオズワルドの話も聞かずにドアを閉めてしまった。目の前で扉が閉ざされ、オズワルドは茫然と立ちつくした。
ーー何が起こっている?
アンドリューは一体どこにいるのだ。いやそれよりも、渡した金は。嫌な予感がじわじわと背中を這い上がってくる。まずい、と頭の中を警鐘が鳴り響いた。
オズワルドは馬車に駆け寄ると御者にシュタール中央銀行へ向かうよう告げ、すぐに馬車に飛び乗った。
滞在時間5分程で新市街に取って返す。
シュタール中央銀行は、市民の間で「要塞」の別名を持つ、小高い丘の上にそびえる堅牢な石造りの建物である。
その受付まで大急ぎでたどり着くと、オズワルドは受付に座る若い女に声をかけた。
「トーマス・ブルーム頭取はどこにいる」
「失礼ですが、お約束はございますか?」
「そんなものはない。火急の用件だ」
「申し訳ないのですが、お約束のない方をお通しするわけには……」
「いいからバスカヴィル伯爵だと言え!」
苛々と叫べば、目の前の女の顔が恐怖で強張った。怯えた表情でオズワルドを見る女に「早く頭取を呼んでくるんだ」と尚も言うと、奥から責任者らしき男が姿を見せる。
「どうかされましたか」
穏やかな声だったが、表情を見ればオズワルドを警戒しているのが分かる。女に言ったことをもう一度繰り返すと、今度は違う返事が返ってきた。
「確認してまいりますので、どうぞ部屋でお待ち下さいますか」
そう言って男はオズワルドを応接室に案内する。やっと話の分かる男が出てきた。もしやトーマスまでいないのではと思っていただけに、これには少しほっとする。これならトーマス経由でアンドリューをつかまえることも、できるかもしれない。
20分程待たされそわそわと落ち着かなくなってきた頃、トーマスが姿を現した。
「お待たせしてしまい申し訳ない。来客がありましてね。バスカヴィル卿。今日はどうされたのです」
オズワルドは椅子から立ち上がるなりトーマスに詰め寄った。
「どうもこうもあるか! 紹介されたアンドリューという男が金を持ったまま消えたんだ!」
がなりたてるオズワルドを、トーマスがなだめる。
「冷静に。話を聞きますから、座りましょう」
オズワルドに椅子を勧めながら、自身も腰を下ろしたトーマスは「それで」と話の続きを口にした。
「アンドリューがどうしたと?」
「さっきあの男の会社の住所だという場所に行ったが、ボロ屋があるだけで会社などどこにもなかった。このままじゃ大損だ。一刻も早くあの男を見つけて、渡した金を取り戻したい」
「アンドリューがそんなことを? いや、まさか」
信じられないとトーマスは目を見開いた。
「まさかも何もあんたが紹介したんだ。あの男の居場所くらい知ってるだろう!」
無理ならお前が責任をとれと言わんばかりの口調で責め立てる。怒りに我を忘れたオズワルドに対し、トーマスが口にしたのは意外な一言だった。
「ええ。アンドリューでしたらすぐに連れて来ましょう。実は先ほどまで彼の訪問を受けていたのです。まだ近くにいるでしょう」
少しお待ちをと言い置いて、すぐにトーマスは応接室を出ていく。拍子抜けしたオズワルドは、間の抜けた顔になった。アンドリューがここにいる? これは少し先走って怒り過ぎただろうか。相手は金融界の重鎮であるのに。
先程までとは違う意味でそわそわと落ち着かない気分になっていたところで、すぐにトーマスが戻って来た。一緒に部屋に入ってきたのは、背の高い痩せた男とレイモンドである。先程まで2人が来ていたのだとトーマスは説明した。顔に疑問符を浮かべるオズワルドの前までくると、痩せぎすの男が口を開いた。
「私をお呼びだとか」
神経質そうな広い額に、薄い唇。日に当たらないためか肌は不健康なまでに白い。どこからどう見てもアンドリューではなかった。
「いや、私が呼んだのはアンドリュー・バーチという男なのだが……」
隣に立つトーマスに視線をやると、彼の顔に当惑が浮かんだ。
「アンドリュー・バーチは彼ですが」
「何だって?」
そんなはずはない、とオズワルドが言うとトーマスは首を傾げた。
「何か話に食い違いがあるようですね。先日私が紹介状を送った後、アンドリューに直接会われたのですよね?」
「ああ。確かにアンドリューと名乗った。だが、彼ではない。もっと太った浅黒い肌の男だ」
目の前の痩せた男を指しながら呟くと、レイモンドが思案顔になった。
「失礼ですが、トーマスさんの紹介後はどういった流れで会うことに?」
「屋敷を訪ねてきたんだ。紹介されたのだと言って」
「では、バスカヴィル卿が連絡をとって、家に呼んだわけではないのですね」
「そうだが……」
レイモンドの質問に頷くと、話を聞いていたトーマスと痩せた男がちらと目線を交わしあった。目ざとくそれを見つけたオズワルドは苛々と口を開く。
「なんだ?」
「ああ、あまり憶測でものを言うのはよくないのですが……実は最近詐欺被害が増えておりまして。それで、もしやと思ったものですから」
「詐欺だと」
「はい。それがなかなか厄介でして。実在する投資ブローカーを騙っては、架空の投資先を紹介して金を騙し取るのです。なんでも狙われているのは貴族や資産家ばかりだとか」
「待て、だが奴はあんたの紹介で来たのだと言っていたぞ。なぜその事を知っているんだ」
「そこが厄介だと言った理由でしてね。どうも貴族や資産家の屋敷に仕える使用人達を抱き込んで、投資を考えている人間に狙いをつけているようなのです。警察の話では使用人も含めた大規模な犯罪組織があるのではということでしたが」
トーマスの言葉を引き継ぐように、「我々も迷惑しているのです」と痩せた男が嘆息した。トーマスはオズワルドに同情的な視線を送っている。
徐々に話の全体像が見えはじめて、オズワルドの顔から血の気が引いていった。
「警察に相談してみては」
トーマスの言葉が頭の中を滑っていく。冗談ではない。それで渡した金が戻るのか。
「それでは困る。あの男にいくら渡したと思っているんだ」
バスカヴィル家の領地を担保に借りれるだけの金を借りた。それだけではない。金を出し渋った銀行の代わりに、たちの悪い筋からも金を借りているのだ。ひと月もあれば返せるという見込みがあったから。奴らは金を返せないと言って、引き下がるような連中ではない。返済できないと知ったらどんな手に出るのか、想像もつかなかった。
「残念ですが、バスカヴィル卿が会われたのはアンドリュー・バーチの名を騙る偽者でしょう」
「困る……それでは困るんだ」
「力になれず申し訳ないですが……早めに警察に行かれた方がいい」
我々はこれで、と退室しようとする面々の中でレイモンドだけが動かなかった。
「親戚の方で資金を出してくれる者はいないのですか?」
その問いにオズワルドは首を振った。長いこと親戚筋とは疎遠になっている。バスカヴィル家の財産にたかる連中ばかりで、力になってくれる人間など皆無だった。
「では、他に力になってくれそうな知り合いはいないのでしょうか。昔助けて貸しがあるとかいうような」
これにも首を振る。誰かに親切にしたことなど、一度もなかったからだ。「そうですか」とレイモンドは言い、気の毒そうな顔をしながらトーマス達と共に部屋を出ていった。
足に力が入らない。茫然自失のまま、よろよろと力なくオズワルドも歩きだした。なんとか馬車のあるところまで戻って、御者に警察へ行ってくれと言おうとして、ふと別のことを思いついた。そうだ。
ーーあてなら、ある。
告げた行き先は別の場所。
「イライアス・フェラーの屋敷へ行ってくれ」
夕刻。
フェラー家の応接間で待つオズワルドを目にした途端、イライアスはあからさまに嫌そうな顔をした。茶を運ぶため部屋にいた使用人を下がらせ、椅子に腰を落ち着けると、オズワルドを睨みつける。
「ここへは来るなと言っただろう」
「それはあなたが勝手に言っただけで、俺は同意した覚えはない」
この5年ほとんどやり取りをしていなかった男が突然現れて、イライアスは警戒しているようだった。
「何の用だ」
「実は頼みがありましてね」
「頼み?」
金を貸して欲しいと口にしたオズワルドを、イライアスは一蹴した。
「気でも狂ったか。なぜ私が金など貸さねばならん」
「たちの悪い所からも金を借りていましてね。この件に関しては、私は騙された被害者ですよ」
事情を説明するオズワルドに、「自業自得だな」とイライアスはにべもない。
「金を貸す理由にはならんな。馬鹿らしい」
立ち上がりかけたイライアスを、オズワルドが静止した。
「金を貸してくれないなら、口が滑ってしまうかもしれない」
「なんだと?」
「これから警察へ行って詐欺被害にあった事情を説明してくるつもりです。その時に昔のことを、喋ってしまうかもしれない」
「ーーそれは脅しか?」
「まさか。ただ金を借りた連中は警察より怖い奴らなので、あなたから金を借りられないならそうするしかない」
「そんなことをすれば貴様もただではすまないぞ」
「ですが海に沈められるよりは、牢屋の方がまだマシだ」
無論オズワルドに過去の罪を警察に話すつもりなど微塵もなかった。もしイライアスから金を借りられないのなら、全てを捨てて逃げるしかない。どうせ家族もいないのだ。バスカヴィル家にある金目のものを全て持ち出して雲隠れすればなんとか生きられるだろう。
これはあくまでイライアスから譲歩を引き出す為の脅しである。
「一蓮托生ですよ。共犯者同士仲良くやりましょう」
ニヤリといやらしく笑ったオズワルドに、イライアスは目を眇めた。少し考え込んだ後で、イライアスが口を開く。
「少し考えさせてくれ。すぐに用意できる額じゃない」
「色よい返事を期待していますよ。あなたの事だ、議員職以外の収入も色々とあるのでしょう? それに死んだ夫人の実家も資産家だとか」
羨ましい限りですと言って、オズワルドは立ち上がる。どうやら交渉の余地はありそうだという見通しがたって、大分気分が浮上していた。
オズワルドを見送るイライアスの表情には気づくことなく、日が沈む前にオズワルドはフェラー家を後にした。
その日の夜中。イライアスはナサニエルを呼び出していた。
フードを目深に被り、顔を隠した男がフェラー家の扉を叩いた時、取り次ぎに出た小姓は少し怯えた顔になった。不安そうに来客を告げる彼に、「高貴な方だから素性を明かせないのだ」と笑うと、イライアスを信じ切っている少年は安心した顔で書斎を出て行く。書斎机に座ったまま、部屋に入ってきた黒装束の男にイライアスは声をかけた。
「ナサニエル、お前に急ぎで頼みたい仕事がある」
「なんなりと」
ひとつ息を吐き出して、組んだ腕を顎に当てる。
ーーまったく使えない男だったな。
元々は利用価値があると思ったから共犯にしたのに。伯爵位を継いだ後、オズワルドの利用価値は計り知れないほどあるはずだった。あの男が、あれほど愚かでなければ。
社交界での評判も悪く、オズワルドとつるんでいては、イライアスの評価まで落ちかねなかった。能力もないのに虚栄心ばかりが強く、自らを有能だと勘違いしているところなどは救いようがない。結局この5年でイライアスからオズワルドに連絡を取ったことは、一度としてなかったというのに。それが突然、あんな馬鹿な頼みをしてくるとは。
ーーもっと早くこうすべきだったのかもしれん。
特に害はないからと放っておいたせいで、あまり時間がなくなってしまった。馬鹿な男が馬鹿な真似をする前に、なんとしてでも止めねばならない。一片の迷いもなく、イライアスはその言葉を口にした。
「どんな方法でも構わん。オズワルドを始末しろ」




