トビーの動揺
振り返ったトビーは、驚いた様子でソフィアの顔をまじまじと見つめた。
「……何か?」
肩で息をするソフィアの後ろには、「お嬢様!」と叫びながら駆けてくる屈強な男達。
トビーの顔には、この集団は一体何者なのだろうという疑問が、ありありと浮かんでいる。
「私はバスカヴィル家の遠縁の娘です。突然声をお掛けして申し訳ありません。こんな場所で人と会うことなんて滅多にないから、つい」
相手の警戒心を解こうと、ソフィアは考えうる限り最高の笑顔を作った。緊張しているのか、心臓はバクバクと音を立てているが、決して表に出すまいと、全神経を集中させる。ソフィアの言葉に、追いついたライオネル達が胡乱げな顔をしたが、彼らが口を挟むことはなかった。
「ああ、親戚の方」
にっこりと人当たりの良い顔で微笑むと、トビーはやや警戒を緩めたようだった。
トビーは身なりの良いソフィアを上から下まで眺めると、伯爵家の親戚筋だという言葉に納得したように頷く。ライオネル達のお嬢様という言葉も、信憑性を高めたようだった。
「はい。訪ねてくれる方がいて、おじ様もおば様も喜んでいると思います。失礼ですが、アドルファスおじ様のお知り合いですか?」
「そうです。私は彼の同僚だったのですよ」
「まぁ、運輸省の? お墓参りに来てくださるのですから、仲が良かったのですね」
「ええ、まぁ……」
無邪気さを装って尋ねれば、トビーの歯切れは悪い。これは何かあるなと、ソフィアは思った。
「私は毎月ここに来ているのですが、年に数回、私以外の誰かの花がまだ残されている事があって、ずっと気になっていたんです。もしかして、以前もここにいらしたことが?」
ずっとグウィンの仕業ではと、淡い期待を抱いていた。だが、そうではないのかもしれない。目の前のトビーが花を置いていっているのなら、ソフィアは長いこと思い違いをしていたことになる。ソフィアの質問に今度はするりと答えが返ってきた。
「それなら、きっと私でしょう。半年に一度はここに来ているから」
その言葉を聞いた時、動揺を顔に出さないようこらえるには、相当の努力が必要だった。トビーの言葉がソフィアに与えた衝撃は大きかったが、ここで笑顔を崩すわけにはいかない。必死だった。これまでソフィアを支えてきた希望がひとつ、胸の奥の方でパキンと音を立てて折れた気がして、急激に心が冷えていく。
「そうでしたか。亡くなってからもこんなに気にかけてもらえて、アドルファスおじ様も嬉しいんじゃないかしら」
「そうでしょうか……。私は……」
何かを言いかけて口を閉ざしたトビーの顔には、苦悩の色が見て取れる。ソフィアは次の言葉をじっと待ったが、トビーは続きを口にすることなく、話題を変えた。
「あなたの方こそ毎月来ているなんて、偉いですね。アドルファスも彼の妻も、それに息子さんだって嬉しいんじゃないかな」
「そうだといいのですけど」
ソフィアはアドルファスとエミリアを直接は知らない。生前も死後も、彼らの姿を目にしたことがないからだ。
グウィンの消えた後を引き継ぐように墓参りに行くのは、ただの自己満足なのではという思いはある。
その後途切れ途切れに、他愛ない会話を交わしながら、ソフィアはトビーの様子を慎重にうかがった。アドルファスの話になると、彼は度々言い淀み、言葉を探すように視線を彷徨わせた。言葉の端々ににじむのは、後悔の念。ただの同僚というには、不自然に思われてならなかった。普通、死後5年が経って尚、年に2度も墓前に足を運ぶものだろうか? セオドアでさえ、命日にソフィアとともにこの場所を訪れるだけなのに。
「では、私はそろそろ」
2人でバスカヴィル家の墓を清め、祈りを捧げた後で、トビーは立ち上がった。既に最初の頃の警戒心は解け、顔には微笑すら浮かんでいる。笑うと冷たい印象が幾分やわらいだ。
「ヒッグスさん」
別れの挨拶を口にしようとしたトビーを見つめながら、ソフィアは口を開いた。「はい」と不思議そうにソフィアを見返すトビーに、考えていた質問を投げかける。聞くのならば、今しかなかった。
「あなたは事件があった当日、バスカヴィル家を訪ねていますよね? 一体、何の話を?」
その一瞬、トビーの顔に浮かんだ狼狽を、ソフィアは見逃さなかった。目は泳ぎ、息をつめたのが分かる。それを見て、ソフィアはさらに攻勢をかけた。
「何を言って……」
「知っているんです。警察には仕事の話をしに行っただけだと証言していることも。でも、それは嘘ですよね」
確信を込めた口調で、ソフィアは言い切った。鎌をかけただけだったが、その言葉に、トビーの顔がみるみるどす黒く染まっていく。豹変したトビーの表情に、ビクッと肩を震わせると、ライオネルが素早くソフィアの前に壁を作った。
「私は何も知らない!」
そう叫んで、苛立った様子で歩き去っていくトビーを茫然と見送りながら、ソフィアの胸に芽生えた小さな疑いは、確信へと変わってゆく。彼はきっと何かを隠している。
ーーでも、一体何を?
分からない。3、4年前に一度、アルマに調べてもらった時は、特段おかしな点はなかったはずだ。調べたのは短い期間であったから、タイミングが悪かった可能性は否定できないが。
「お嬢様、先ほどのやり取りはどういうことです?」
トビーのいなくなった丘の上でライオネルに小声で問いかけられて、ソフィアは疲れたように首を振った。
「私にもよく分からないの」
バスカヴィル家の事件と、トビーはどう関係しているのだろう。グウィンの失踪について、彼は何か知っているのだろうか。
家に戻って両親にこの事を話そう、とソフィアは思った。頼めばトビーについて、力を使って調べてもいいと言ってくれるかもしれない。頭の整理がつかぬまま、ソフィアは空を仰ぎ見た。
***
「借金?」
レイモンドがバスカヴィル邸から戻ってきた夜、ライアンはソファに身を沈めながらそう聞き返した。
「もっと婉曲で、持って回った言い方だったが、そうだ」
目の前に座るレイモンドは淡々とワインに口をつけている。これは最近知ったことだが、レイモンドは蟒である。ワインを水同然にあおるレイモンドを見ながら、ライアンは質問を重ねた。
「呼び出しはそれが理由か? こちらが言う前に、まさか向こうから言ってくるとはな」
とことん愚かな男だな、とライアンは呟いた。昨日オズワルドからレイモンド宛に手紙が届いた時、そこに用件は書かれていなかった。何かを勘づかれたのかとレイモンドとともに警戒を強めたが、どうやら杞憂だったらしい。
「あの様子では、こちらのことには何も気づいていないだろう。最近はベンサムのところ以外にも顔を出しているしな。思ったより早く動き出せるかもしれない」
これはオズワルドから聞いたのではなく、ライアン達が調べた結果である。オズワルドは再びギャンブルにのめり込み、特にこの一週間は、連日賭博場に入り浸っているのだ。
「で、レイモンドに金を貸して欲しいとでも言ったのか?」
「いや、知り合いに銀行家はいないかと聞かれた。バスカヴィル家と付き合いのある銀行は、もう金を貸してくれないらしい」
「へえ。伯爵家に金を貸せないとは、銀行からの信用はゼロなわけだ。しかし、そこで町の金貸しの所に駆け込まないだけの分別はまだ残ってるんだな」
「腐っても貴族だからな」
だからレイモンドに話を持ってきたのかと納得した。知り合いに銀行家がいれば紹介して欲しいとオズワルドは頼んだのだという。この国に来て間もない、それも学生という立場のレイモンドに言ってくるあたり、オズワルドは本気でレイモンドをマックスウェル家の御曹司だと信じているのかもしれない。それとも国内の貴族には、プライドが邪魔をして頼めないのだろうか。
「で、次はどうする?」
「予定より早いが、次の段階に移ろう」
静かな声だったが、しんとした部屋では妙に大きく聞こえた。
薄暗い部屋の中、ランプのぼんやりとした明かりがレイモンドの顔を照らす。そこに高揚や、あるいは激情が浮かんでいるかと思ったが、結局その夜、ライアンはレイモンドの顔に何らかの感情を読み取ることはできなかった。




