客人
新市街に居を構えるバスカヴィル邸。
大通りに面する2階の鎧戸は、ここ数年固く閉ざされている。現当主が最低限使う部屋以外は鍵をかけ、閉ざしてしまったからだ。
太陽がわずかに顔を出した早朝。バスカヴィル邸の裏口で、家令のオーティスはひとりの女性を見送っていた。サーシャという名の古参のメイド長。彼女は、今日を最後にこのバスカヴィル家を辞することが決まっていた。
「オーティスさん。こんな形でお別れを言わなきゃいけないのは残念だけど、どうか元気でね」
「サーシャ。君も」
「こんなことを言いたくないけど、貴方も早くこの家を出た方がいいわ」
すっかり皺の増えた顔に気遣わしげな表情を浮かべ、サーシャはオーティスへと視線を送る。その瞳から逃れるように、オーティスは静かに首を振った。
「いや、私にはここ以外に行くあてなどないよ」
この家に仕えてから30余年。今更、他家に移ることなど想像もできない。サーシャは残念そうに「そう」と溜息をつくと、足元に置かれた旅行カバンを手に持った。「そろそろ行くわ」という言葉を最後に、彼女はひっそりと裏口から出て行った。長年仕えたサーシャがまるで逃げるように背を丸めて去っていく姿に、あまりに寂しい光景だとオーティスは思う。小さい背中を見送りながら、溜息が自然とこぼれる。せめて主人からこれまでのねぎらいの言葉ひとつでもあれば。しかし、それは望むべくもないことなのだ。
オーティスもサーシャと同様、バスカヴィル家で人生の大半を過ごした身。盟友と呼べるような数少ない相手が、また一人いなくなってしまった。そのことに、酷く気落ちしていた。この5年で辞めた人間はサーシャを入れて9人。過去に例のない人数である。たとえ人を雇っても、続かないのだ。今や残っているのは、オーティスと料理人、そしてメイド2人だけという有様だった。
ーーそれも、仕方がない。
ここを離れたくなる気持ちも分かるのだ。伯爵家とは名ばかりで、この家からはすっかり灯りが消えてしまった。5年前のあの年。災厄を集めたかのようにバスカヴィル家を襲った悲劇は、文字通り全てを変えていた。
出入りの業者を除けば、屋敷に人は寄りつかぬ。この家を去った人間のうち半分はオズワルドから暇を出され、残りの半分は自らの意志で辞めていった。
ーーバスカヴィル家は、呪われている。
近所でそのように噂されている事を、オーティスも知っていた。なぜ、こんなことになってしまったのだろうと、最近はそんなことばかりを考えている。考えても詮無いことだとわかっていて尚、ふとした時、かつて幸福であった頃の思い出が鮮明に蘇ってくるのだ。
『オーティス。休暇をとってもいいんだぞ』
心配そうな顔でそう言った少年の姿を、昨日の事のように思い出せる。まだ彼がパブリックスクールに入学する前。真面目で優しいあの少年は、いつものように少しだけぶっきらぼうな口調で、「たまには休め」と言ったのだった。
『いえ、私にはグウィン様とジョエル様のお世話をする事の方が大事ですので』
『しかし、それじゃあ疲れがとれないだろう。ジョエルは少し元気過ぎるし、ずっと相手をするのは大変だろう? オーティスだってもういい年なんだ。身体を休めるのも仕事のうちだと思うぞ』
『おや、まだまだ若い者には負ける気がしませんが』
『お前が毎日完璧に仕事をこなしてくれているのは知っている。それでも心配なんだ。オーティスにはずっと元気でいてほしいから』
黒曜石の瞳に浮かぶのは、オーティスへの純粋ないたわり。その事がどうにも嬉しく、満面の笑みを浮かべたオーティスに、グウィンは眉根を寄せた。
『何だ?』
『いえ、グウィン様のお心遣いが嬉しくて。本当にグウィン様はお優しい』
オーティスの言葉に、「何を馬鹿なことを」と不機嫌そうに視線を逸らしたグウィンの顔を見れば、頬が赤い。照れているのだとすぐに分かったが、また笑っては悪いだろうと、緩みそうになる頬を必死で繕った。
『私は果報者です』
大袈裟すぎるとグウィンは呆れた顔をしていたが、この家に仕えて良かったと心からそう思った。
公正なアドルファスに、優しいエミリア。利発なグウィンと、素直なジョエル。絵に描いたような幸福な家族。
この家に仕える誰もが、「バスカヴィル家は安泰だ」と口にしていた。使用人につらくあたる家も多いと聞く。ここで働く自分達は運がいいと、そんな話をあの頃はよくしたものだった。
サーシャを見送り、廊下を歩いていると、階段の上からオーティスを呼び止める声がした。見ればガウン姿のオズワルドが立っている。
「オーティス」
「オズワルド様。なんでございましょう」
オズワルドがこんなに朝早くから起きているのは珍しい。内心不思議に思いながらも、顔には出さずオーティスは尋ねた。
「後で客が来るから、応接間へ通しておいてくれ」
淡々と告げられた言葉に、わずかに目を見開いた。この家を客が訪れることなどいつぶりだろう。
「お客様のお名前をうかがっても?」
「レイモンド・マックスウェルという青年だ」
「かしこまりました」
初めて聞く名だった。この国の貴族に、マックスウェルという姓はない。オズワルドがこの家に人を招くこと自体滅多にないことだったから、客人の名前が初耳なのも当然と言えば当然だった。家令という立場でありながら、オズワルドの交友関係をオーティスはほとんど知らない。オズワルドが口にしないからだ。
必要な事はもう伝えたと思ったのか、オズワルドは2階の自室へと戻っていった。朝食の際、使用人専用の食堂で今日来客がある事を告げると、メイドのキャシーはパンをちぎる手をとめた。
「お客様なんて、いつ以来です? あの方にもお友達がいらっしゃったんですねぇ」
「キャシー、滅多な事をいうものじゃない。オズワルド様の耳に入ったらどうする」
たしなめると、キャシーは小さく肩をすくめた。
「尊敬に値する方ならあたしだって、少しは敬意を払うんですけどね。アドルファス様はもとより、まだお小さかったグウィン様と比べたって、オズワルド様は器が小さいんだもの」
ぺろっと舌を出してそう言ったキャシーの声には、非難の色が濃い。彼女は仲間達を次々と解雇したオズワルドに対して、もうずっと怒りを抱えたままなのだ。
『お金がないから雇えないと正直に言うならまだわかるんです。でも、使用人の落ち度だと言って屋敷から追い出すなんて、酷すぎる』
半年前、仲のよかったメイドの一人がいわれのない罪を着せられオズワルドから解雇を言い渡された時、キャシーは怒りに打ち震えながらそう言った。
その一件が、キャシーの中で現当主に対する悪感情の決定打になってしまったらしい。
「それに、最近はまた悪い癖が出てるみたいだし」
昨日の朝帰りもそれが理由なんでしょうと、キャシーは確認するようにオーティスの方を見た。ここ数週間、オズワルドのギャンブル癖がぶり返したようだと、使用人達の間には動揺が走っている。
決して良いとは言えぬ台所事情ながら、バスカヴィル家がこれまでなんとかなってきたのは、想定外の出費をどうにか抑えていたからだ。質素な暮らしをすれば、最低限体面を保つことのできるぎりぎりの収支。それが、このところ目に見えて状況が悪化していた。
最近、屋敷の物が次々になくなっているのだ。最初にそのことに気づいたのは、キャシーだった。2週間程前、応接間に掛けられた絵画がないと、血相を変えて報告してきたのである。
理由は、すぐに判明した。
当主自らが、絵を金に変えていたのである。絵画、宝石、家具。代々の当主が受け継いできたものを、オズワルドは換金し、賭け事につぎ込んでいた。
その事実を知った時、オーティスはいよいよ覚悟を決めねばならなかった。ーーもう、この家はだめかもしれない。いずれオズワルドはこの家の全ての財産を食い潰すだろう。
この先の身の振り方をどうすべきか、答えはまだ出ていない。今更よそでやっていけるのかという不安と、この家の最後を見届けねばならぬという思いが、バスカヴィル家を去る決心を鈍らせていた。
「次の働き口が見つかったら、すぐにでも辞めるのに」
愚痴をこぼすキャシーをもう一度だけたしなめて、オーティスは席を立った。
その日の昼過ぎ。オズワルドの言葉通り、レイモンド・マックスウェルと名乗る青年がバスカヴィル家を訪れた。
はじめにその人物を見た時、少し予想外に感じた。なんとなくオズワルドと似たような人物を想像していたからだ。
だか玄関の扉を開けたオーティスの前に立っていたのは、これまで会ったことがないタイプの青年だった。
オーティスよりも高い目線。鍛えられた長身と鋭い眼光からは、どこか大型の獣を連想する。年の頃は二十歳前後だと思われたが、纏う空気は独特で年に似合わぬ落ち着きがあった。
鋭利な刃のように研ぎ澄まされた美貌に反して、口を開いた青年の声は穏やかだった。
「バスカヴィル卿から文を貰ったのだが、伯爵はいらっしゃるだろうか?」
「主人より話を聞いております。ご案内致しますので、どうぞこちらへ」
後ろを歩くレイモンドの視線を背中に感じながら、オーティスは薄暗い廊下を進む。
1階の応接間へ着くと、レイモンドは扉の前に立つオーティスを振り返って礼を口にした。
「ありがとう。つかぬことを聞くが、あなたはこの家に勤めて長いのか?」
「はい、35年になります」
「それはすごい。では今日私が呼ばれた理由を、何か聞いてはいないだろうか」
「申し訳ありません。内容については、主人からは聞いておりません」
「そう。ならいいんだ」
レイモンドに席を勧めた後、退室しようとして、レイモンドが物言いたげな表情でオーティスを見ていることに気づく。
「なんでしょう?」
「おかしなことを聞くようだが、……バスカヴィル卿はあなたに優しいかい?」
妙な質問だったが、オーティスは少し考えた後で口を開いた。
「……はい。良くしていただいています」
嘘だったが、初対面の人間に屋敷の内情をべらべらと話すわけにはいかない。オーティスの表情に何かを読み取ったのか、レイモンドは「そうか」と呟いたきり黙ってしまった。レイモンドの表情を伺うと、彼は先程より沈んだ表情をしている。
部屋を退いていいのか迷っていると、オズワルドが廊下の向こうからやってくるのが目に入った。少し慌てた様子でドタドタとした足音が廊下に響く。
「おお! レイモンド君、よく来てくれた」
「バスカヴィル卿。お久しぶりです」
立ち上がって挨拶を述べたレイモンドに親しげに近寄ると、オズワルドは笑顔で握手を交わす。普段とは明らかに違う態度で接しているオズワルドを目にして、オーティスは辟易した。オズワルドは相手の地位や財産によって、対応が極端に変わるのだ。オズワルドの態度を見るに、レイモンドという青年はどこかの資産家か有力者の子供なのかもしれなかった。
「オーティス。なんだ、まだいたのか。もう下がっていい」
追い払うように手を振るオズワルドに一礼して、オーティスは部屋を後にした。
ーーしかし、妙に印象に残る青年だな。
一度会えば、忘れられないような存在感があった。オズワルドとどのような繋がりがあるのか、気にはなったが詮索もできない。仕事に戻ろうと気持ちを切り替えて、オーティスは元来た廊下を歩き出した。
***
降霊会に参加してから3日。ソフィアは約一月ぶりにハイゲート墓地へ足を向けていた。今日手にしているのは、黄色を基調にした花束である。
いつものように馬車で近くまで乗り付けると、そこからは護衛達と一緒にゆっくりと歩いていく。隣接する公園を突っ切るように進むと、10分ほどでバスカヴィル家の墓がある緑の丘陵地が見えてくる。
普段は人もまばらで、丘の上にいるのはソフィア達だけということも珍しくはない。
だが今日は、いつもと様子が違っていた。
バスカヴィル家の墓石の前に、男性がひとり、ぽつねんと佇んでいる。後ろ姿の男性は、遠目からは顔の判別まではできなかったが、それを目にした瞬間、ソフィアは走り出していた。瞬時に脳裏に浮かんだのは、毎年数度だけ手向けられていた花の痕跡。
グウィンかもしれないと、期待は一気に膨らんだ。急に駆け出したソフィアの後を、護衛の男達も慌てて追いかける。
全力疾走をしたせいで、すぐに息があがったが、それでも速度を緩めず墓石まで走って行くと、遠目からは暗色に見えていた髪色が白髪混じりダークブラウンであることに気づく。
グウィンより随分年上の男性のようだと分かって、ソフィアは混乱した。ぜぇぜぇと荒く息を吐き出しながら、「あの!」とその後ろ姿に声をかけると、男性が驚いた表情で振り返った。
「ーー君は?」
怪訝そうに口を開いた男性の顔には、見覚えがある。相手はソフィアの事を知らないだろうが、ソフィアの方は5年も前から知っていた。
ダークブラウンの髪と瞳を持つ、少し冷たい印象を与える壮年の男性。
立っていたのは、トビー・ヒッグスだった。
 




