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レイモンド・マックスウェル

 ーーレイモンドに会おう。


 そう決めてから、ソフィアは彼が出席するという噂のある夜会に、次々に参加するようになっていた。

 これまで滅多に社交界に顔を出さなかったことが嘘のように、ソフィアは積極的だった。


 この日ソフィアが参加したのは、とある貴族のタウンハウスで開かれる夜会。隣には赤いドレスに身を包んだヴァネッサがいる。ここ最近の夜会には、彼女とともに出席するのが常だった。


「こんなに毎回付き合ってくれなくてもいいのよ?」

「好きでやってるんだから、気にしないで」


 私は私で出会いを探してるから、と明るく笑うヴァネッサに、ソフィアも笑顔になる。華やかな装いに身を包み、楽しげに話す二人は周囲の注目を浴びていた。

 と、そこへ声がかかる。

 振り返って、よく見知った優しげな顔が目に入った。立っていたのは、小柄な老紳士である。灰色の瞳を少しだけ驚きに見開かせた後、自然とソフィアの顔はほころんだ。


「ソフィア嬢。最近夜会に出るようになったと聞いて、久しぶりに会いたいと思っていたんだ。たまには噂を信じるのも悪くない。後で是非一曲お相手いただきたいのだが、いいだろうか?」

「まぁ、ボルティモア卿。ご無沙汰しております。私で良ければ、是非」


 レイモンドを探し始めて1週間。3回目の夜会で懐かしい人物に声をかけられて、ソフィアの声が弾む。

 愛想の良い笑顔で頷けば、目の前の老紳士も頬を緩めた。彼はオールドマン家と昔から縁のある子爵で、オールドマンの名が広まる前から随分と目をかけてくれた人物である。ソフィアにとっても幼い頃からの顔なじみで、親類のような親しみを持っている。ほっそりとした輪郭に真っ白な髭。優しげな瞳からは、品の良さが漂う。

 ソフィアの成長した姿に目元を緩ませる姿は、実の祖父かと見紛う程だ。


「本当に立派な淑女になったものだ。ご両親も鼻高々だろう」

「お上手ですね。でも、ありがとうございます」

「世辞ではないよ。そうだ、君に紹介したい青年がいるのだが。どうだろう? 今度会ってみないか?」


 突然の提案に、ソフィアは返答に窮した。彼の表情から、下心や打算で言っているのではないと感じたからだ。言葉巧みに言い寄る人間をあしらうことはできても、善意の言葉を軽んじることはできない。ソフィアは困って、眉を下げた。


「……すみません」

「性格も家柄も申し分ない男だよ。それでも駄目かね?」

「その方に思うところがあるわけではないんです。これは、私の問題なのです」

「夜会に顔を出すようになったと聞いて、のことは吹っ切れたのかと。……自分の将来を前向きに考えるようになったのだと、そう思ったのだが。違ったかね?」

 

 心から心配するような静かな声音に、胸がぎゅっと締め付けられた。ソフィアがグウィンの失踪後、ひどく弱っていたことを、この紳士は知っている。大人達の善意と優しさに満ちた言葉を聞くたび、ソフィアの胸には苦いものが広がった。

 彼らは口を揃えて言う。自分の将来を大切にしろ。前を向け、と。

 グウィンを忘れずにいることは、後ろ向きなことなのだろうか? 自分は過去に囚われている?

 そろそろ前を向くべきだと言われる度に「そうじゃない」と、反発したくなった。ソフィアとグウィンの間にあった絆は、決して後ろ向きな感情ではない。優しさと暖かさに満ちた絆が、確かに2人の間には存在していたのだから。この気持ちを大切にすることが後ろ向きな行為だとは、ソフィアにはどうしても思えなかった。


 そう思ってはいても、大人達が心から心配してくれていることも分かるから、結局、何も言えなくなる。

 この時もソフィアは次の言葉を探して、顔を伏せた。金色の睫毛が、影を作る。


「せっかくのご好意を無下にして、申し訳ありません」

「別に無理強いするつもりはないんだ。だがもし気が変わったら、教えてくれるかい?」

「……」


 もう一度申し訳ありませんと謝ると、老紳士は小さくため息を漏らした。それを目にして、きゅっと唇を結ぶ。「それでは、また後で」という彼の言葉に小さく頷くと、彼はその場から立ち去った。遠ざかる背中を見送って一息つくと、妙な徒労感を感じる。

 隣でずっと無言を貫いていたヴァネッサが口を開いた。


「ソフィアも色々大変そうね」

「私の為に紹介しようとしてくれているのは分かってるんだけど」

「でも、会う気はない?」

「そう……私は、我儘なのかしら」

「さあ、分からないわ。家のためではなく、自分の好きな相手を選ぶことを我儘だという人もいるもの」


 それを言ったら私も我儘女よ、とヴァネッサは前を見ながら言う。自らを我儘だと言いながら、ヴァネッサの瞳に迷いはない。「それより、レイモンド・マックスウェルを探しましょ」と手を打つ友人に、ソフィアは頷きを返した。

 レイモンドは今日来ているのだろうか。ソフィアは改めて周囲を見渡した。


 天井には豪奢なシャンデリアがきらめく広間には、今日も大勢の人間がひしめいている。喧騒と軽やかな音楽。

 向かいの彫刻の近くに人だかりができているのが目に入った。その中心に、レイモンドの姿を見つけて、ソフィアの心臓がとくんと跳ねる。

 髪を後ろになでつけたレイモンドは、やはり今日も目立っていた。年配の男性となにかを語らっているレイモンドに、熱い視線がいくつも注がれている。ソフィアの視線に気づいたヴァネッサも、レイモンドの方へと顔を向けた。


「ついに見つけたわね。良かった、今日はアリシア嬢はいないみたい」


 そうソフィアに耳打ちして、腕を組む。


「どうやって話しかける? 流石に2人で突撃するわけにはいかないわよね」

「飲み物を取りに行く時に、ひとりにならないかしら」


 じっと見つめていると、しばらくして空になったグラスをかえる為かレイモンドがその場を離れた。今がチャンスとソフィアは隣のヴァネッサに「行ってくる」と囁く。

 人混みを縫うように、レイモンドの方へと歩みを進める。と、ソフィアの視線の先でレイモンドはグラスを給仕の男性に手渡すと、くるりと向きを変えた。そのままソフィアに背を向けて、廊下の方へと向かってしまう。

 思わぬ動きに、慌ててその後を追う。「すみません」と謝りながら、人の波を掻き分けていく。

 必死に奥まった廊下へ出た時には、レイモンドの姿は見えない。どこの角を曲がったのだろう。つきあたりまで行って、左右を見回した。両側に伸びる廊下には、似たような形の扉が並び、右へ少し進めば階上へ向かう階段がある。もしかしたらどこかの部屋に入ったのかもしれない。

 ソフィアはうろうろその場を行き来した。

 困って佇んでいると、ふいに右の手首を掴まれた。はっとして顔を向けると、立っていたのはドミニク・ソーンである。つい先日の己の捨て台詞を思い出して、ソフィアの警戒心は上がった。


「やっと見つけました」


 弾んだ声でそう言って、ドミニクは身体を密着させるように距離を縮める。近すぎる、とソフィアは逃れるように右手を引いたが、思いの外強く掴まれているのか振りほどくことができない。


「手を離して下さい」

「離せば貴女は、また逃げるでしょう?」


 だから駄目です、とドミニクは微笑んだ。

 ぞぞっと悪寒が走って、ソフィアはドミニクを睨む。


「こんな強引な事をするなら、当然でしょう」

「なぜ私を拒むのです。貴女は私の本気を疑っているようですが、私の想いは本物です。貴女のような人には、これまで会った事がない」

「貴方は自分の思い通りにならない女が珍しいだけだわ」

「そうかもしれません。けれどそれで何か問題がありますか? 私は貴女に恋をしている。貴女を望み、伯爵夫人という将来も約束できる。何が不満なのです」

「……まずは手を離して下さい」


 なぜドミニクと話すとこうも疲れるのだろう。いつも話が噛み合わない。考え方が違いすぎる、とソフィアは思った。

 ソフィアの強張った表情に、ドミニクは首を振った。掴んだ手は離さぬまま。はっきりと拒絶するつもりで、ソフィアは言い切った。


「離してくれないなら、人を呼びます」

「できるものなら、やってごらんなさい。この状況を見て、人がどう思うのかは知りませんがね」


 そう言われ、ぐっと言葉につまる。確かに傍目には、ドミニクに抱き込まれているようにも見える距離。

 人気のないところに二人でいたとなっては、噂になることは避けられまい。己の迂闊さに、舌打ちしたい気分だった。しかしこのままでいることの方が、もっと危険なことは分かりきっている。どう切り抜けるのが最善なのだろう。逡巡していると、凄みのある低い声が廊下に響いた。


「ーーそこまでクズな発言は、己の品位を貶めるだけですよ」


 声のする方を見れば、廊下にレイモンドが一人立っている。自分の置かれた状況も忘れて、ソフィアはポカンとした。いつの間にそんな所にいたのだろう。

 レイモンドはつかつかと大股で二人のいる方へ歩み寄ると、ドミニクの腕を捻り上げた。一瞬の早業。レイモンドが掴んだ腕が不自然な方向に曲がり、ドミニクが悲鳴をあげた。


「っ痛い! 離せよ!」

「この女性の手を離さなかった君がそれを言うのかい?」

「ーー分かった! 謝るから離せ! 腕が折れる!」

 

 たっぷり数十秒はそのまま腕をねじった後で、レイモンドは手を離した。

 解放されたドミニクの顔は、痛みのせいか青ざめている。二、三度腕をさすった後、ドミニクはソフィアへ顔を向けた。


「……申し訳ない。少し度を越えていた」

「少し?」


 ピクッとレイモンドが目をすがめ、ドミニクを睨みつける。その視線を受けて、もごもごと謝罪を口にすると、ドミニクは足早にその場を立ち去った。先ほどまであれほどしつこかったのに、去る時はあっという間だった。呆気に取られながらその背を見送た後、レイモンドと2人残されて、ソフィアは頭を下げた。


「ありがとうございます。助かりました」


 心からの礼を言って顔を上げ、レイモンドを見てぎょっとした。レイモンドの眉間には皺が寄り、ひと目見て不機嫌だと分かるような表情をしていたからだ。


「貴女はよくそれで、これまで無事でこられましたね」

「え?」


 何を言われたのか分からず、気の抜けた顔で聞き返す。レイモンドは苛立った様子で、ソフィアの方を見ていた。一体何がこれほど彼の怒りを買っているのか。全く見当がつかず、ソフィアは困惑した。

 そのソフィアの表情に、レイモンドは更に不機嫌さを増したようだった。


「あんな男とこんな人気のない所へ来て、取り返しのつかないことにでもなったらどうするつもりです」

「誤解です。彼と一緒に来たわけではありません!」


 名誉にかけて違う、と力説するソフィアに、レイモンドは不信げな顔をした。


「では、なぜこんな所へ?」

「それは……」


 本人を前に「あなたを追ってきたのだ」とは、さすがに言えない。口ごもったソフィアに、レイモンドはため息をつくと、切々と語りかける。


「貴女のような若い女性は、自分の身は自分で守らねば。もっと警戒心を持つんです。そうでなければ、酷い男の餌食になるばかりですよ」

「……はい。おっしゃる通りです」


 なぜこんな場所でレイモンドから説教を受けているのだろう。いや、悪いのは脇の甘い自分には違いないのだが。躊躇いがちに、ソフィアは口を開いた。


「……あの、何故レイモンド様がそんなに怒ってるんです?」


 おずおずとそう口にすると、レイモンドはかっと目を見開いた。鋭く睨みつけられて、びくっとソフィアの肩が震える。明らかに、怒っている。だが、どうして。

 確かな怒りがレイモンドの瞳に浮かんでいるのを目にして、思わず「すみません」と謝っていた。

 レイモンドは深く息を吐き出すと、眉間の皺をいっそう深くした。


「ええ、私にはあなたがどうなろうが関係のないことですがね。私はあなたの父親でもなければ兄でもないのだから。だが目の前で危険に置かれている女性がいて、見て見ぬ振りをするような人間だとお思いか? あなたがこれほど無防備でなければ、私だってわざわざあんな事をする必要はありませんでした」


 もっと慎重に行動なさい、とレイモンドの言葉が続く。神妙に話を聞きながら、ソフィアはこの後の事に頭を巡らせていた。

 やっとレイモンドと二人きりになれたというのに、この状況では落ち着いて話を聞くのは無理そうだった。しかしせっかくの機会。次にいつ会えるかも分からないとあっては、このチャンスを無駄にはできなかった。


「今回の事は私の迂闊さが原因です。助けていただいて本当にありがとうございました。私はソフィア・オールドマンといいます。……あの、今度改めてお礼をさせてもらえませんか?」

「あなたは話を聞いていなかったんですか? 無警戒によく知りもしない男と会うなと言ってるんです」

「でもレイモンド様は酷いことなどなさらないでしょう?」


 その言葉に、レイモンドは複雑そうな顔をした。ソフィアの顔をじっと見つめた後、レイモンドの口をついて出たのは、拒絶の言葉。


「礼など必要ありません」


 静かな口調だったが、明確な意思表示だった。


「助けたのはそれが、人として当然の振る舞いだからです。我々が今後関わり合いになることもないでしょう」

「これから先のことなんて、分からないでしょう」

「いや、私はもうこの先あなたと会うつもりはありません」

「理由をお聞きしても?」

「……誤解を与えたくない人がいるからです」


 それはアリシアの事だろうか。レイモンドの言葉が棘のように刺さって、チクリと胸が痛んだ。


 ーーだってやっぱり、グウィンに似てるんだもの。


 濡れたように光を集める黒曜石の瞳が。長い睫毛が陰影を作る、少し憂いを含んだ表情も。至近距離だと、余計にグウィンを思い出した。もしかしたら今日が話を聞く最後のチャンスかもしれない。そう思ったら、レイモンドに会えたら投げかけようと考えていた言葉を口にしていた。


「ーーグウィン」


 真っ直ぐにレイモンドの顔を見つめて、ソフィアはその名を口にした。もし彼がグウィンなら、僅かでも反応があるのではないかと思ったのだ。けれどレイモンドは不思議そうに首を傾げただけだった。


「誰です? それは」

「グウィン・バスカヴィルという名に、聞き覚えはありませんか?」

「初めて聞く名です。それが、私と何か関係が?」


 ソフィアの瞳を正面から見つめ返して、レイモンドはそう言った。レイモンドと視線を合わせながら、ソフィアはその問いに答える。


「私の大切な人の名前です。その人を、ずっと探しています」


 ずっとずっと忘れられない人。ソフィアの言葉に、レイモンドは淡々と返した。


「そうですか。しかし、知らぬ名です」


 力になれず申し訳ないですが、と言うレイモンドに首を振って、ソフィアは「変なことを聞いてすみません」と呟いた。レイモンドの顔に変化を見つけられず、落ち込んで顔を伏せる。


「広間まで送ります」


 その申し出に、言葉なく頷いて2人で連れ立って歩く。広間までは、僅かな距離しかない。もう広間の明かりが足元まで届くという所で、半歩前を歩くレイモンドがぽつりと言った。


「そのグウィンという人物ですがーー」


 その言葉に、耳を澄ませる。彼の方を見上げれば、少し顔を横に向けてレイモンドが続けた。その表情は、ソフィアからはよく見えない。


「探しているのに見つからないのなら、彼の方は貴女に会いたくないのかもしれない」

 

 突き放すような、冷たく感情のこもらない声だった。何を言えばいいのか分からず、ソフィアは黙ってレイモンドの言葉の続きを待つ。彼は何を言いたいのだろう。


「ーーだからそんな人間の事は忘れてしまいなさい。時間の無駄だ」


 最後に吐き捨てるようにそう言って、レイモンドは口を閉じた。その一言が今日ソフィアが耳にしたレイモンドの言葉の中で、最も感情的になった瞬間だった。やがて広間へと戻ってきて、レイモンドはソフィアの方へと顔を向ける。


「つきました。私はこれで」


 そう言うと、ソフィアを残して再び廊下の奥へと消える。その姿が見えなくなっても、レイモンドの言葉がずっとソフィアの耳に残り続けていた。

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