バスカヴィル邸
二度目の対面は、それから3日後。
できるだけ早く次の場を設けて欲しいと、ソフィア自身がセオドアに願い出て実現した。
ソフィアに特段、深い考えがあったわけではない。
ただ家族を一度に失ったグウィンが、あの広い屋敷に一人でいる。そう考えると、落ち着かない気持ちになった。彼がいるのは、事件があった現場なのだ。
家族を思い出して辛くはならないのだろうか。あの邸宅で一体どう過ごしているのだろう。あれこれと想像すると、もうたまらない気持ちになってしまい、セオドアにグウィンと会わせて欲しいと口にしていた。
まだ一度しか会ったことのない婚約者。渋い表情しか見ていない上、交わした言葉も儀礼的なものばかりだったが、嫌っているわけではなかった。
最低限『よろしく』という言葉は得た。グウィンの方だって歩み寄るつもりはあるはずだと、ソフィアは思う。
貴族の子弟の中には、我儘、高飛車、自惚れ屋と三拍子揃った子供が山のようにいる。それと比べれば随分ましだと、やや志が低いながらも、ソフィアなりにグウィンを評価していた。
恋人は無理でも友人くらいにはなれたらいいな、とおよそ婚約者に向けるべきではない事を考えながら、ソフィアは伯爵邸に到着したのだった。
「今日は手土産を持って参りました」
「これは……菓子?」
ソフィアが手にしたバスケットを覗き込みながら、グウィンが呟く。
「はい。好みが分かりませんでしたので、塩味のきいた軽食から焼き菓子まで揃えてみました」
にっこりと微笑んで、グウィンによく見えるようにバスケットを持ち上げる。
朝からオールドマン家の料理人に腕によりをかけて作ってもらった品々だ。ほうれん草とベーコンのキッシュにミートパイ、オレンジピールたっぷりのスコーン、オールドマン家自慢のブラウニーとプディングなどがバスケットにぎっしり詰まっている。
グウィンの好みを知る目的と、美味しいものを食べると幸せになるというソフィアの持論が合わさった結果である。
「茶器をお借りしますね」
ソフィアが部屋の隅に用意してある茶器に手を伸ばすと、意外そうにグウィンが目を見開いた。
紅茶を手ずから入れようとするソフィアに、グウィンが呟く。
「自分で淹れるのか?」
「あら、私世間知らずですが、お茶くらい淹れることはできますのよ」
ふふん、とわざとおどけながら胸を張ると、その仕草に微かにグウィンが笑った。
微笑と言っていいのかすら怪しいほどの、僅かな表情の変化だったが、それを見てソフィアはほっとする。
ーーちゃんと笑うことができるんだ。
初対面が初対面だっただけに、渋い顔で表情筋が固定されているのかと心配だったのだ。おまけにあんな事件があって、グウィンが心を閉ざしていてもおかしくなかった。
コポコポとカップに紅茶を注ぎながら、グウィンは見た目より強いのかもしれないとソフィアは思う。爵位を継ぎ、この広い邸宅に住む。それだけでもソフィアには、凄いことに思えた。
グウィンの前に湯気が立つカップを置いて、ソフィアも椅子に腰かける。ふっかりと詰め物がたっぷり入ったアームチェアの座り心地は最高で、さすが伯爵家と思わせる一級品である。
グウィンはソフィアの持ってきたバスケットの中からブラウニーを摘むと、それを口に入れた。
「……美味い」
その言葉に、ソフィアの顔がほころんだ。
「我が家自慢の料理人達が作ってくれたんです。どうぞお好きなだけ召し上がって下さい」
さあ遠慮せずと機嫌の良さそうなソフィアに、グウィンが不思議そうに首をひねる。料理人を褒められて喜ぶとは、少し変わっているーーそう思ったが、勿論口には出さなかった。
「そういえば」
と、二つ目のブラウニーに手を伸ばしながら、グウィンが口を開く。
黒曜石の瞳にじっと見つめられて、ソフィアもまじまじとその瞳を見つめ返した。
「なんでいつまでも敬語なんだ?」
「え?」
思わぬ言葉に、ソフィアの頭に疑問符が浮かぶ。
これは、どういう意味だろう。
「敬語じゃなくてもよろしいんですか?」
「だっておかしいだろう。同い年で、あまつさえ婚約者なのに」
グウィンが眉を寄せる。
グウィンがくだけた口調になったのは、ソフィアを下に見ていたからではなかったのか。
そう思い至って、ソフィアはかあっと赤くなった。
ーーひどい思い違いをしていたみたい。
グウィンに失礼だったと、恥じ入ってソフィアは俯いた。突然頬を染めて下を向いたソフィアの様子に、グウィンは怪訝そうにしている。
「そんなに敬語がいいなら、無理にとは言わないが」
「いえいえ! お言葉に甘えます」
「……まだ敬語だぞ」
「そんなにすぐには……ええと、こんな感じでどう?」
まあいいんじゃないかと、グウィンが頷く。どうにもグウィンの態度が少し上からのように感じるが、これが彼の仕様なのかとソフィアは理解した。
ほっとしたらなんだかお腹が減ってきてしまい、ソフィアも持参したキッシュに手を伸ばす。外はさっくり、中はとろりとした卵とクリームたっぷりのキッシュは、ソフィアお気に入りの一品である。
ほくほく顔でキッシュを頬張るソフィアを、グウィンは黙って見つめる。しばらくしてその視線に気づいたソフィアが、グウィンに問いかけた。
「どうかした?」
「いや、いい顔で食べるなと思って」
「だって美味しいんだもの。グウィンだって美味しいものを食べたら幸せになるでしょう?」
そう問われて、グウィンは考え込んだ。そんなこと考えたこともない、という顔をしている。
結局グウィンが口にしたのは、「食べられれば何でもいいと思ってた」というなんとも味気ない言葉だった。
グウィンの返答に、これはいけない、とソフィアは思う。彼を見つめる表情も、自然と真剣なものになる。
「美味しいものに興味がないなんて、人生の半分損してると思うの」
「そんなにか」
「そうよ。これから私が美味しいものを毎回持参しますから、一緒に食事をしましょう」
単なる思いつきだったが、口にしてみると意外と良いアイデアのように思えた。グウィンに美味しいものを食べさせるついでにソフィアもおこぼれにあずかれる上、親睦を深めるチャンスだ。
グウィンに食べさせるのだと言えば、オールドマン家の料理人達は腕を奮ってくれるだろう。
何より一人で食べる食事は美味しくないと、ソフィアは思う。逆に普通の食事だって、誰かと一緒なら美味しく感じる。元々美味しいものを誰かと一緒に食べれば、もっともっと美味しく感じるはずだ。美味しいものを美味しくいただく。そのための努力は惜しまないのが、ソフィアの信条である。
富豪の娘のくせにスケールが小さいと言うなかれ。一代前まで生粋の中流だったオールドマン家は庶民派なのだ。
次はスコーンを食べようと、ソフィアがバスケットに手を伸ばしかけた時。突如、テーブルの真横から涼やかな声がした。
「わあ! 美味しそう!」
瞳をきらきらと輝かせながら、テーブルに身を乗り出すようにして少年が歓声をあげた。
耳元で大声で叫ばれ、ソフィアはびくりと身を震わせる。反射的にそちらへ顔を向ければ、黒目がちの大きな瞳と視線がぶつかった。ゆるくウェーブがかった漆黒の髪がふわふわと揺れる、可愛らしい少年である。年は八歳くらい、とソフィアは思う。
しまったと、ソフィアは内心動揺していた。
この屋敷に出入りすることになった時、少なからずソフィアも考えてはいたのだ。「見てしまうかもしれない」可能性を。
殺人事件のあった家。
三人もの人間がここで命を落としたのであれば、死者の姿を見る可能性は高かった。たとえ見てしまっても、それを表に出すような真似はすまいと決めていたのに。
至近距離での大声に、思わず身体が反応してしまった。
「僕が、見えるの?」
不思議そうに問いかけられて、ソフィアはさり気なく視線を外した。
少年の言葉に反応しないように気をつけながら、ソーサーを手に取る。動揺で震えた指のせいで、かしゃり、と陶器が音を立てた。
「ねえ! 見えてるよね!?」
耳元で興奮したように騒がれて、ソフィアは困り果てていた。
自分より小さな男の子の言葉を無視し続けるのは、なんとも良心が痛む。
どうしようと、色を無くしたソフィアに、何も知らないグウィンが声をかけた。
「顔色が悪いようだが、どうした」
訝しげにソフィアの顔を覗き込むグウィンに、ソフィアはかすれた声で口を開いた。
「……なんだか気分が悪くて。従者を呼んでもらっても?」
力なくそう言ったソフィアの言葉に、グウィンが頷く。
「分かった」
少し待っていろ、と言い置いてグウィンが部屋を出たのを見届けた後、ソフィアは目の前の少年に目を向けた。
急がなければグウィンが戻ってきてしまう。
今度こそしっかりソフィアと目が合って、少年が目を見開いた。その表情をじっと見つめながら、ソフィアはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ーーあなたは、グウィンの弟ね?」
そう問いながら、彼の足元に視線を落とす。
ほっとした表情で頷く少年には、影がなかった。