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劇場

 レイモンドと会ってから1週間後、ソフィアは再びローグ・ホテルを訪れていた。

 併設された劇場に歌劇を観に行かないかと、ヴァネッサが誘ってくれたのだ。


「男なんて星の数いるんだから! 次よ次!」


 ヴァネッサは先日の夜会での一件以来、以前にもましてソフィアを外に連れ出そうとしている。気落ちしているソフィアを慰めるように、連日オールドマン家を訪れては、明るい話題を提供して帰っていく。この日ヴァネッサが選んだのは、ソフィアが好きな演目で、そんなところにもヴァネッサの気遣いが見て取れた。

 あの日の夜会の出来事は、落ち着いて考えてみれば、恥ずかしいことこの上ない。以前会ったことはないか、などという台詞は、古臭い誘い文句のようで、思い出すたび顔がほてった。

 

 ーーでも、言ってしまったものは仕方がないもの。


 一度口にした言葉を取り消すことはできないのだから、くよくよ悩むことに意味はない。過去を悔やむことも必要だが、これから先どうするのかを考えるほうが、きっとずっと建設的だ。

 この考え方はヴァネッサも共通で、彼女は終わったことを引きずらない。ヴァネッサの切り替えの早さや、前向きさがソフィアは好きだった。


「劇場も実は出会いの場だって知ってた?」

「なんだ、それで私を誘ったの?」


 わざとむくれてみせると、「どんなチャンスも無駄にしちゃいけないのよ」とヴァネッサは涼しい顔で答えた。

 ヴァネッサが用意したのは3階の桟敷席さじきせきで、ここからは劇場全体がよく見える。熱心に階下を眺めるヴァネッサは、まるで幼い少女のよう。きらきらと目を輝かせて、一心に運命の相手との出会いを信じている友人の横顔が、ソフィアには眩しく映る。


 ーーきっとヴァネッサにはいい人が現れるわ。


 運命を自ら手繰り寄せようと、積極的に行動するヴァネッサは、いつか自分で幸せを掴み取るに違いない。

 ヴァネッサと他愛のない会話に花を咲かせていると、まもなく上演開始の口上とともに幕が上がり、2人の視線は舞台に釘付けになった。

 

 物語は、幼い少年少女の出会いからはじまる。小さな村で暮らす少女と、行商人の息子として各地を回る少年は、仲の良い友達になるのだ。会えるのは年に数度だけという僅かな時間の中で、2人はやがて恋人同士になる。

 大人にさしかかる頃、2人は将来の約束を交わすが、戦争が二人を引き裂いてしまう。


『いつか必ず迎えにくる』

『待っているわ』


 第一幕のクライマックス。戦地に赴く青年を、主人公が見送る場面である。朗々と歌い上げるテノールとソプラノの調和に、会場全体が聴き入っている。

 最後に主人公の独唱で第一幕が終わると、息をつめていた観客達の溜息があちこちで漏れ聞こえた。ソフィアも深く息を吐いて、集中を解く。


「やっぱり素敵ね」

「何回見ても飽きないもの?」


 ソフィアのほうっとした表情に、隣のヴァネッサがそう言った。


「うん。この話、すごく好きなの」


 この物語に、何度も勇気づけられた。第二幕では、終戦後1年経っても帰らない恋人を探しに、主人公は生まれ故郷の村から旅立つのだ。

 恋人は心変わりしたのではと不安を抱えながらも、彼女は長い旅の道中、どんな真実でも受け入れる決意を固める。心を決める主人公のアリアを聴くたび、ソフィアは主人公と己とを重ねてしまう。


 ーーどんな真実でも、受け入れる。


 その歌が、グウィンにもう会えないのではと不安に駆られる心を、幾度となく奮い立たせてくれたのだ。


 しばし劇の余韻に浸っていたソフィアが、その時階下にレイモンドの姿を見つけたのは、本当に偶然だった。あ、と思わず呟いたソフィアに「どうかした?」とヴァネッサが視線を向けた。

 ソフィアは小さく肩をすくめる。


「ーーレイモンド様がいたの」

「ええ? どこ?」

「ほら、1階のそこの壁際の通路に」

「あら、本当ね。何をしているのかしら?」


 レイモンドは壁際の通路に立ち止まったまま、観客席の方をじっと見つめている。休憩に席を立つ人々のざわめきの中、まるでレイモンドの周りだけがひっそりと静まりかえっているようだった。微動だにせず、一点に視線を注ぐ。


 ーー何を見ているんだろう?


 彼の近くに同行者の姿は見えない。レイモンドの視線の先を追うように、ソフィアも1階の観客席に目を向ける。

 中央の観客席付近で5人の紳士が談笑しているのが目に入った。40代から50代位の男性達が挨拶を交わしている。まじまじとその集団を見て、ソフィアはその中に見覚えのある人物がいることに気がついた。


 かつてグウィンが口にした人物ーートビー・ヒッグスである。

 ソフィアがトビーの顔を知っているのは、数年前に一度、見たことがあるからだ。グウィンは基本的に調査を単独で進めることが多く、詳細まではソフィアに教えてくれなかったから、ソフィアが手がかりにできるものはわずかしかなかった。

 トビーはグウィンが口にした容疑者の一人。自身で調査を進める中で、当然トビーのことも死者に調べてもらった。けれど彼に事件とのつながりを示唆する言動は見られず、すぐにソフィアは運輸省内部の調査に注力するようになる。その過程で一度だけ、ソフィアはトビーを直接目にしていた。長身にダークブラウンの瞳を持つ、少し冷たい印象を与える壮年の男。


 ーーまさか、トビー・ヒッグスを見ているのかしら。


 ソフィアのいる位置からは確証は持てない。けれどレイモンドの視線はトビーに向けられているのではと、そんな考えが浮かんで、鼓動が早まる。

 やはり彼はグウィンではと、再び胸にはそんな考えが湧き上がった。


「もう帰ってしまうみたいね」


 ヴァネッサの言葉に視線をレイモンドに戻すと、彼は奥の扉から出ていくところだった。結局レイモンドが何を見ていたのかは分からないまま。彼が出て行った扉をじっと見つめるソフィアに、ヴァネッサが声をかける。


「やっぱり彼のことが気になるの?」


 その言葉に、ソフィアは小さく頷いた。多分ヴァネッサは恋愛感情があるのかという意味で聞いているのだろうが、あえて否定しなかった。レイモンドが気になるという点では、間違っていないと思ったからだ。


「ーーなら、私はソフィアを応援するわ」


 ライバルは強力だけどね、と真剣な表情で頷くヴァネッサに、ソフィアは目を丸くした。


「え?」

「なによ、何もしないつもり? あの彼のことが気になるんでしょう。なら待っていないで自分から積極的に行かないと。うかうかしてたらアリシア嬢に取られるわよ」

「取られるって……」

「あれから実は調べたの。彼女が熱をあげているだけで、まだ2人は恋人同士じゃないみたい」


 いつの間に調べたのだと呆れと感心の混ざりあった視線でヴァネッサを見ると、「私は顔が広いのよ」と胸を張る。その仕草にくすりと笑みがこぼれて、ソフィアは口を開いた。


「ありがとう。いつも私を元気づけてくれて」

「もう、そんなことはいいのよ。友達でしょ。で、どうするの?」

「うん。ーー私、彼の事が気になるみたい。もう一度ちゃんと話してみたいの」


 あの吸い込まれるような黒曜石の瞳が、忘れられない。彼の瞳にグウィンの影を見てしまうのだ。

 レイモンドときちんと話がしてみたいとソフィアは思った。彼の人となりを、この目で確かめたい。


 ーー結論を出すのは、きっとそれからでも遅くない。


 既に5年経った。とうに長期戦になる覚悟はできている。


 舞台上では、第二幕がはじまろうとしていた。再開を知らせるベルが鳴り響いて、舞台の幕が上がる。

 けれどソフィアの頭には、これからどうしようとそんなことばかりが浮かんで、舞台にはちっとも集中できなかった。

 劇中の決意のアリアを聴きながら、ソフィアは出会ったばかりの青年の事に思いを巡らせ続けたのだった。

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