レーヴ家の晩餐会
シュタールの社交シーズンは、春に最盛期を迎える。
この季節、連日のように舞踏会や晩餐会が催され、未婚の男女は将来の伴侶を探す為に、それ以外の者は人脈作りや仕事の交渉の為に、夜ごと夜会へと繰り出す。大きな仕事がほんの些細な会話からまとまることも珍しいことではない。
この日オズワルドは、パトリック・レーヴの館へと招かれていた。
「よくおいでくださいました」
そう言ってオズワルドを出迎えたのは、侯爵その人であった。
「お招きいただき、光栄です」
にこやかに挨拶するオズワルドの顔には、抑えきれない喜色が溢れている。
ーーやっとここまできたか。
パトリックと握手を交わしながら、オズワルドは内心でひとりごちた。
より高位貴族の屋敷で催される晩餐会に参加することは、己の社会的なステータスを確認する行為に等しい。
自身の社交界での地位を押し上げるため、積極的に人脈を広げてきたオズワルドにとって、今日は一つの成果といえた。
パトリックの屋敷で開かれる夜会に招かれるのは、名門貴族や大富豪ばかり。招待されるのはごくごく一部の選ばれた者のみで、多くの有力者がこの場に招かれることを望んでいた。招待されること自体、特別な存在であることの証。
ここ最近、せっせと人脈作りに励んだ甲斐があるというものだった。
2年前、グウィンの失踪宣告が正式に成り、オズワルドは伯爵位を継いだ。相続税の捻出の為、領地の一部を手放したが、尚も手元にはそれなりのものが残っている。
伯爵という地位を得たことによって、周囲の反応は明らかに変わった。平民は媚びへつらい、貴族であっても一目置かざるをえない。
ーーやはり、爵位というのは違う。
立場が他者へ与える影響。それを身を持って感じる2年だった。バスカヴィル卿という呼び名は、今や完全にオズワルドのものだった。5年前の罪は、誰にも悟られてはいない。
「バスカヴィル卿、どうぞこちらへ」
正餐室に入ると、パトリックの妻であり、この屋敷の女主人であるアデラがオズワルドを席へと促した。既にオズワルド以外の招待客は、全員揃っているようだった。
「これは、遅くなって申し訳ありません」
遅れてきたことを詫びると、「かまいませんわ」とゆったりと微笑むアデラは、気の強そうな美人であった。若かりし頃は数多の男を惑わしたであろう片鱗が、今も色濃く残るこの女主人は、社交界の女王。彼女に気に入られるか否で、今後の社交界での立場が決まると言っても過言ではない。
少し緊張した面持ちで席に座ると、隣の男から声をかけられた。
「はじめまして。お会いできて光栄です」
その男を最初に見た時、随分若いなと、オズワルドは思った。有力者の妻を除けば、年配者ばかりのこの場において、随分と目を引く。オズワルドよりふたまわりは年下に見える、切れ長の目をした赤黒い髪の男だった。
「失礼ですが……?」
「これは名乗りもせず申し訳ありません。レイモンド・マックスウェルといいます。2ヶ月前からエルド大学で経済学を学んでいます」
「ああ、君が」
ここ最近、よく耳にした名前だった。マックスウェル家の御曹司という噂は、オズワルドも知っている。この男が噂の人物かと、ついつい値踏みするように眺め回したのは、人間の性というものだろう。オズワルドのなめるような視線を受けても、レイモンドは笑顔を崩さなかった。
「オズワルド・バスカヴィルです。噂の青年と話ができるとは、今日貴方にお会いできただけでも、ご婦人方への土産話にできそうだ」
鷹揚にそう言うと、レイモンドは若者らしく恥ずかしそうな素振りをみせた。
「やめてください。資産家のマックスウェル家とは無関係ですから。なぜそんな話になっているのか、私にも分からないんですよ」
「さて、どうでしょうか。女性たちはそうは思っていないようですよ」
「参ったな」
卿も否定しておいてくださいよ、と苦笑するレイモンドは、見た目より話しやすい男だった。
晩餐会の最中も彼は敬意を持ってオズワルドに接していたし、話題も豊富。オズワルドの話を熱心に聞き、時折自分の意見を挟むものの、終始オズワルドの話に感心したように頷いていた。
アデラは随分とこの男のことがお気に入りのようで、何度もレイモンドに話題を振っては、はしゃいだような笑い声を立てる。頭の回転も早く、女受けする顔立ち。
ーー噂もあながち、根拠のない話ではないようだな。
オズワルド自身、食事が終わりにさしかかる頃には、この男は評判通りマックスウェル家の血族ではと思うようになっていた。洗練された振る舞いに、有力者達を前にしても物怖じしない度胸。何よりパトリックがレイモンドの顔色を気にしている。ただの留学生とは思えなかった。
「では、女性の方々はわたくしと一緒にまいりましょう」
食後のコーヒーに口をつけながら近くの招待客と話をしていると、席を立ったアデラがにこやかにそう言った。食事が終われば女は応接間へと移動し、正餐室に残った男は葉巻や酒を楽しむのだ。
アデラに促されるまま女達が部屋から出ていくと、早速周りの男達は煙草に火をつけ始めた。
「お一ついかがです?」
葉巻をひとつ差し出して、そう言ったのはオズワルドの斜め前に座っていた男。リチャードと名乗った彼は、ホテル経営を生業にしていると、オズワルドに語っていた。
「これはどうも。上質な葉巻だ」
「そうでしょう。私はこれが好きでね。わざわざこの葉巻だけをトリオン大陸から輸入させているんです」
目元に皺を寄せながら、何でもないことのようにそう話す。パトリックに招かれているだけあって、この男も相当な金持ちのようだった。
葉巻に火をつけ、煙をくゆらせていると、テーブルの向こうに座っていた別の男が口を開いた。
「皆さん、カードはお好きですか?」
そう言って座を見回したのは、招待客の一人、ベンサム・バノンという名の白髪混じりの貴族だった。
「バノン卿はかなりのポーカー狂いなのです」
「へぇ」
声を潜めてそう言いながら、リチャードは「私は遠慮しておきますよ」と椅子にもたれかかる。
「バスカヴィル卿、いかがです?」
ベンサムから誘われ、オズワルドは少し迷う素振りを見せた。
酒とギャンブル。この二つは、オズワルドが何より好んできたものである。しかし爵位を継いでから、賭け事には手を出していなかった。どちらかといえば負けがこむ方が多かったし、財産を食い尽くすだろう自覚はあったからだ。
しかし2年も賭け事を絶っていると、やりたいという欲求は日に日に高まる一方で、禁欲によるストレスは極限の状態だった。ベンサムの言葉は、強烈にオズワルドを誘惑した。
「ほんのお遊びですよ。親睦を深める場です。ぜひ」
そう強く言われては、断るのも野暮ではないか。ーー今日だけ、今日だけだ。そう、自らに言い聞かせた。
「ーーでは、少しだけ」
「そうこなくては」
満足そうに頷いたベンサムは、使用人を呼ぶと大型の円卓を用意させた。ポーカーに参加することになったのは、ベンサムとオズワルド、ハウエルという名の男、そして最後にレイモンドの4人。
席につくと、ベンサムがすぐに賭け金について口にした。
その額を聞いて、オズワルドは目をむいた。普段の賭け金とは、桁がひとつ違ったからだ。動揺した心を押し隠して、ちらりと他の2人に目を向けると、共に涼しい顔で頷いている。自然オズワルドの背中を、冷や汗がつたった。
ーーこれは、絶対に負けられん。
今更降りるという選択肢は考えられなかった。賭け金の額に尻込みしたのだとは、どうあっても思われたくない。勝てばいいのだ。勝てば。
いつになく集中して、オズワルドは卓上を睨みつけた。
それから、2時間。
「ーーフォーカード」
オズワルドの手役に、目の前の男達は頭を抱えた。
「やぁ、やはりさっき降りていればよかったか!」
「今日はバスカヴィル卿の一人勝ちですねぇ」
ベンサムとハウエルは口々にそう言って、オズワルドの方へと視線を向けた。オズワルドの前には、4枚のクイーンが並ぶ。
この日、オズワルドは勝ちに勝っていた。面白いように役が揃う。10年に一度あるかというほどの、大勝ちである。
「こんなところにポーカーの名手がいたとは、騙されました」
やられたなぁと悔しそうなベンサムに、オズワルドはゆっくりと笑みを作った。
「私などまだまだです。今日は運が良かっただけですよ」
「ご謙遜を。能ある鷹は爪を隠すと言いますからな」
うんうんと一人納得したように頷かれて、オズワルドの自尊心は大いに満たされた。
「しかしレイモンド君は随分負けたな」
「ま、これも人生勉強だ」
「そんなに楽しそうに言わないで下さい。まぁ、実際いい勉強になりました」
肩をすくめたレイモンドの顔には、しかし一切の悲壮感は見られなかった。勝ち続けたオズワルドとは反対に、今日のレイモンドは大損している。オズワルドが青褪めるほどの大金を、彼は僅かな時間で失っていた。
「なに、父君におねだりすればいいんだろう?」
探るように意地の悪い笑みを浮かべたハウエルに、レイモンドはにやりと笑う。
「言質をとろうとしても無駄ですよ。マックスウェル家とは無関係だと言ったでしょう」
「なかなか口を割らないな。そろそろ本当の事を言ったらどうだい?」
「随分信用がないのですね。私はいつだって真実を言っていますよ」
尚もしつこく問い詰めようとするハウエルを抑えたのは、パトリックの柔らかい声だった。
「ハウエル殿は随分酔われているようだ。今日はもう遅いですから、部屋を用意させましょう」
「ーーいや、今日はもうこれで帰りますよ」
やんわりと止めに入ったパトリックに首を振って、ハウエルはそう言った。ややおぼつかない足取りで彼が部屋を出ていったのをきっかけに、他の面々も席を立ちはじめる。
オズワルドも帰り支度を始めようとしたところで、レイモンドから声をかけられた。
「今日はお会いできて光栄でした」
「ーーああ、こちらこそ」
握手を求めたレイモンドの手を、オズワルドも握り返す。大儲けさせてもらった相手だが、レイモンドの方にはわだかまりがないようだった。それがなんとも妙に感じる。
大金をすって、普通こんなに平然としていられるものだろうか? 恨みがましく愚痴の一つでも言いたくなるのが、人間というものではないのか。オズワルドの表情に、レイモンドは首を傾げた。
「なにか?」
「いや、今日は随分と私に運が味方したようだから。……失礼ですが、大丈夫なのですか?」
オズワルドから懐具合を心配されたのだと分かって、レイモンドは声を立てて笑った。
「なんだ、そんなことですか。あのくらいは大した金額ではありません。父もそんなことは気にしないでしょう」
はじめ強がりかと疑ったが、レイモンドは本気で言っているようだった。大金を端金だと笑い、頓着しない様子に、オズワルドは内心驚きを隠せない。
この男は本当にマックスウェル家の御曹司ではと、そんな思いは強まっていく。少なくとも、彼の実家は大金持ちには違いない。
ーー今日の最大の成果は、この男かもしれん。
有力者達と縁を持つ。その目的は、大方達成していた。しかしいずれ劣らぬ大者達は、オズワルドの手にあまることも確か。彼らと比べて反応が素直なレイモンドは御しやすいと、オズワルドは思った。
「バスカヴィル卿の話は非常に勉強になりました。またこれからも色々と教えてくださいますか?」
尊敬のこもった瞳に見つめられ、オズワルドも笑顔になる。
「こちらこそ、これからもよろしくお願いしますよ」
そう言うと、レイモンドは嬉しそうに頷いた。
***
招待客の帰った屋敷の書斎で、パトリックはレイモンドと向き合っていた。既に使用人達も眠りにつき、館はしんと静まりかえっている。時計の針は、まもなく1時を指そうとしていた。
先ほど客を出迎えた際の柔和な笑みから一転して、パトリックの顔には苦々しげな表情が浮かんでいる。それに対して、目の前で足を組んで座るレイモンドは、無感動にパトリックを見つめていた。
それがまたなんともふてぶてしい、とパトリックは忌々しく思う。
「約束は果たしたぞ。例のものを渡してもらおう」
パトリックがそう言うと、レイモンドは上着の胸元から十数枚の封筒を取り出した。そのまま手紙の束をばさりと机の上に投げ出す。パトリックは慌ててそれらを掻き集めた。
「そんなに焦らずとも、約束は守りますよ」
「人を脅すような男を、信用できるものか!」
「随分な言われようだ。奥方を騙しているあなたには、言われたくないな」
二ヶ月程前、パトリックの前に突然現れたこの男は、とんでもない爆弾を持っていた。
『この手紙を公開されたくなければ、私の要求を飲んでいただきます』
そう言ってレイモンドが出したのは、パトリックが愛人に宛てて書いた手紙の数々だった。ーーなぜこの男が手紙を持っている。
前後を失うほど、この時パトリックは動転した。
よき夫、よき父であれと人は言う。それが理想の紳士の条件でもある。当然個人の欲望に忠実な者はいるが、彼らに向けられる世間の目は厳しい。人格者として通ってきたパトリックにとって、不倫が公になることは、致命的なスキャンダルになりかねない。これまで積み上げてきたものが一瞬で失われる恐怖。何より悋気の強いアデラに知られることだけは避けたかった。
『ーー何が欲しい。金か?』
『いいえ。私が欲しいのは、あなたの"社交界での評判"です』
『評判?』
その後レイモンドが要求したのは、社交場での有力者達への紹介と、レイモンドが指定する人物を招いた晩餐会だった。何か犯罪行為の片棒でも担がされるのではと、疑いの目を向けたパトリックに、レイモンドは静かに首を振る。
『言う通りにすれば、あなたに迷惑をかけるようなことはしません』
信じがたいと思ったが、パトリックに拒否権はなかった。
レイモンドに言われるがままこの一ヶ月半、彼を社交界に紹介してまわり、有力者達にも引き合わせた。
だがそれも、今日で終わり。約束通りレイモンドが手紙を渡してきたことに、パトリックは胸をなでおろした。ついつい気が緩んでしまうのは、どうしようもない。
「君は一体、何をしようとしている?」
手紙を引き出しにしまいながら問いかけたパトリックに、レイモンドは目を細めた。
「それを聞いてどうするんです?」
「本当に私に迷惑はかからないんだろうな? 君に何かあれば、紹介した私の名前にも傷がつくんだ」
その言葉に、レイモンドはからからと笑った。と次の瞬間、レイモンドの表情ががらりと変わる。目には剣呑な色が帯び、纏う空気は一気に殺気立つ。ぞわりと鳥肌が立って、パトリックは息を飲んだ。
「ーー余計な詮索はしないことです。私が誰で何をしようとしているか、それはあなたが知る必要のないことだ」
いいですね、と念を押すように鋭い視線を投げつけられて、言葉なくこくこくと頷く。レイモンドはさっと立ち上がると、そのまま扉を開けて出ていってしまった。
残された部屋で、パトリックの額からはどっと冷や汗が吹き出した。
ーー殺されるかと思った。
まだ心臓が音を立てていた。一瞬で変わったレイモンドの表情。恐怖を覚えるほどの、凍てつくような冷たさがあった。あの若さであんな目ができるものなのか。
レイモンドが出て行った扉を見つめながら、緊張と安堵とで、放心したようにパトリックはその場から動けなかった。
 




