罪
グウィンは足元からぞくりと這い上がるような、得体のしれない不安を感じた。イライアスの瞳の奥に広がる闇は深い。両親は何を知ったのだろう。イライアスの言う秘密が何を指しているのか、グウィンには見当もつかなかった。
「本当にアドルファスから、何も聞いてはいないのか?」
尚も念押しするように、イライアスは問いかける。
「封筒の中身を見たならわかるだろう。父が残したのはそれだけだ」
探るようなイライアスの瞳を、グウィンは睨み返した。
「父と母は、何を知ったと言うんだ?」
逆にグウィンが問い返せば、イライアスは口をつぐんだ。答えるべきか、考えあぐねている様子だったが、やがてイライアスは口を開いた。
ーーあれは、事件の前日。
事件前夜、イライアスはひっそりとバスカヴィル家を訪問していた。アドルファスに身辺整理が終わらないからもう少し待ってくれと、頼みに行くためである。
夜も深く、使用人たちは既に部屋に下がっている。隠れるように屋敷を訪ねたイライアスを、玄関で出迎えたのは、エミリアだった。イライアスにとって、アドルファスの妻に会うのは実に7年ぶり。反射的にいつもの人当たりの良い微笑みを浮かべていた。
『こんばんは。お久しぶりですね』
お元気でしたか、と言ったイライアスに、エミリアが見せた表情は奇妙なものだった。固まって目を見開き、その顔には怯えが広がる。
怪訝な顔をしたイライアスに気づくと、エミリアは慌てたように取り繕った。
『アドルファスが待っています。こちらへ』
イライアスを書斎へ案内するエミリアの様子は、明らかにおかしかった。
アドルファスから収賄の件を、何か聞いているのかもしれない。びくびくとイライアスを気にするエミリアに、いくつか思い浮かんだことはあったが、疑問を口にする間もなく書斎についてしまった。
書斎の扉を開けると、エミリアは耐えきれぬというように、アドルファスへと駆け寄る。部屋に入った途端、逃げるように離れたエミリアに、イライアスは眉をひそめた。それが客に対する態度か。
イライアスの胸の内など微塵も知らないエミリアが、アドルファスの耳元で何事かを囁くと、彼の表情はみるみる変わっていった。アドルファスはイライアスの方へ顔を向けると、愕然と呟いた。
『あなたは、何という事をーー』
直後にアドルファスが口にしたのは、イライアスが誰にも話したことのない、罪だった。なぜ、そのことを知っているのかと、激しく動揺した。アドルファスの隣で怯えるエミリアもまた、その秘密を知っている。イライアスは瞬時にそう結論を下した。
ーーなぜ、分かった?
この二人は、何をどこまで知っているのだろうと、唐突に恐ろしくなった。どくどく心臓の鼓動が早くなり、言いしれない不安が胸を支配する。
もはや、一刻の猶予もない。早く彼らを殺さねば。
その後何を話したのか、あまりよく覚えていない。あれこれと言葉を重ね、自首はするからあと一日だけ待ってくれと、なんとか二人を言いくるめた。残された時間は、たった一日。バスカヴィル家を後にしたイライアスは、すぐにナサニエルに連絡をとった。
『奴らを、殺せ』
ナサニエルはイライアスの顔を数秒見つめた後、一言「御意」と口にして去っていった。それで、終わりだった。
ーー父上と母上は、何を知ったんだ?
イライアスの話に耳を傾けながら、グウィンは思う。グウィンは続く言葉を待ったが、イライアスはそれ以上語る気がないようだった。しばらくして「ーー何故」と再び口を開いたイライアスの言葉は、グウィンの疑問に対する答えではなかった。
「何故、あの二人には私の秘密が分かったんだ?」
それがイライアスにとっての最大の関心事なのだとグウィンは悟る。どうして秘密が知られたのか。再び秘密が暴かれるおそれはないのか。イライアスの話を聞きながら、グウィンには一つ思い当たることがあった。エミリアは、何かを見たのだ。
「ーー私に分かるわけがないだろう」
その言葉に、イライアスは目を伏せる。考え込む表情になったイライアスに向かって、グウィンは尋ねた。
「弟まで殺したのは何故だ」
ジョエルにまで手をかける必要はなかったのに。
「親切心だよ」
「親切心……?」
「朝目覚めた時、隣で寝ていたはずの両親が血まみれで死んでいるのを目にするのは、あまりにも可哀想だろう?」
自らの正しさを、疑っていない声だった。イライアスの言葉が、グウィンの頭の中を滑る。言葉の意味はわかるのに、彼の思考が理解できないのだ。イライアスの言葉を聞いていると、頭がおかしくなりそうだった。
「……少し喋り過ぎたな。そろそろ終わりにしよう」
実はゲストを呼んでいる、と一転して楽しそうに言ったイライアスに、グウィンは怪訝な顔を向けた。ナサニエルが地下室の扉を開くと、一人の男が中に入ってくる。黒目黒髪の、グウィンのよく見知った人物。
男の顔を見た瞬間、グウィンは瞠目した。
「叔父上……?」
オズワルドはグウィンの手を拘束している縄にちらりと視線を送ると「いいざまだな」と、そう言った。
なぜオズワルドがここにいるのだ。混乱の極みにあるグウィンの表情に、イライアスは楽しそうに笑う。
「オズワルドには、君のいなくなった後のバスカヴィル家の事を任せてある。彼が我々の都合の良いように取り計らってくれるはずだ。人を一人消すのは、手間がかかるといったろう?」
君の場合は準備する時間があったからね、と話すイライアスは、奇術の種明かしをするように嬉々としている。グウィンはその顔を、ぎりりと睨む。
「こんなことをしても事件のことを調べる人間は出てくるぞ。それに私が死ねば、警察も動くはずだ」
「証拠はもうないさ。それに君の件を、警察は調べない」
この男は何を言っているのだと、眉をひそめたグウィンに、イライアスは柔らかく目を細めた。グウィンの相談に乗っていた時と同じ、あの優しげな顔である。
「君の死体は出てこない。君は失踪するんだよ。ただの家出人を探す為に、警察は人員を割かないだろう」
そう言うと、イライアスはポケットからマッチを取り出した。グウィンの前で見せつけるようにゆっくりとそれをこすると、反対側の手に持っていた手紙に火をつける。
ゆっくりと書簡が灰になっていくさまを、グウィンは絶望的な気持ちで眺めた。
「これで、証拠も消えた」
グウィンの表情を満足そうに眺めた後、イライアスはそう言った。
「さて、オズワルド。後の事は分かっているね?」
「……ああ」
歯切れの悪いオズワルドの顔を、イライアスは推し測るように眺め回した。オズワルドの表情に何かを読み取ったのだろうか。イライアスは思案顔で顎をさすると、「念には念を入れておこう」と呟いた。
イライアスはおもむろに懐からピストルを取り出すと、躊躇することなくグウィンに向けて発砲した。
ドンッという発砲音が部屋に響くと同時に、グウィンの脇腹を激痛が襲う。
咄嗟に脇腹に手をやれば、ぬめる感触があった。撃たれたのだと、じんじんと痺れるような頭で考える。あまりの痛みに、グウィンは床の上でうめいた。
「急所は外してある。オズワルド、後は指示通りに」
ぽんぽんと二度オズワルドの肩を叩くと、イライアスはナサニエルを伴って部屋を出て行った。床に転がるグウィンに、イライアスは一瞥もくれない。
部屋を出た直後、ナサニエルは前を歩くイライアスへ問いかけた。
「よろしかったので?」
「何がだ?」
振り返ってそう言ったイライアスに、「とどめを刺すところを、見届けなくて」とナサニエルは答える。息の根を完全に止まるまで、決して手を緩めない。それが、ナサニエルの信条であった。雇い主の意思とはいえ、このような中途半端なやり方は、ナサニエルの美学に反する。
「あの男に、他に選択肢などないよ」
オズワルドがグウィンを逃がすかもしれない、というナサニエルの懸念に、イライアスは確信を込めて返した。賽は投げられた。オズワルドにはグウィンを殺す以外、選択肢はないのだ。あの自尊心の高い男が、甥に決定的な弱みを握られることに、耐えられるわけがない。バスカヴィル家の動向を長いこと注視してきたイライアスは、オズワルドの性格を見抜いていた。
「オズワルドは殺すさ」
そう言うと、イライアスは前を向いて歩きだした。
***
床の上でぐったりするグウィンを見下ろしながら、オズワルドは内心焦っていた。
ーーどうして、こんなことになっている。
2週間前。
オズワルドの前に、突然ナサニエルと名乗る男が現れた。
『我が主人は、あなたのことを非常に買っています』
そう言うと、男はオズワルドの前に大金を置いた。「まずはご挨拶に」と、なんでもないことのように金をオズワルドの方へ押し出す男は、どう見ても普通ではない。オズワルドは不審な顔を見せたが、目の前に置かれた金を無視することもできなかった。
とりあえず話だけは聞いてやろうと、そう言ったオズワルドに、ナサニエルが提案したのは、グウィンの殺害だった。
『は?』
露骨過ぎる依頼に、オズワルドは思わずそう言った。
『無論成功報酬は弾みますし、死体の処理方法も我々が用意しましょう』
お膳立てをした上で殺人を依頼するナサニエルに、オズワルドは警戒を強めた。
『それだけ用意周到にやるなら、何故俺などに頼む』
自分でグウィンを殺せばいい、と言ったオズワルドに「交換条件ですよ」とナサニエルは言った。
『どういうことだ?』
『貴方は爵位と領地が欲しい。違いますか?』
押し黙ったオズワルドに、ナサニエルは淡々と言葉を紡ぐ。
『しかしグウィン少年の死を望んでいても、貴方には殺せない。今、彼を消してそれを表沙汰にしないよう手を回すことは、貴方にはできないでしょう? あの少年が死ねば、真っ先に疑われるのは貴方なのだから』
ですから我々が手をお貸しします、とナサニエルは言った。
『我々の用意した方法なら、殺人は露見しません。彼は失踪したまま、死体は決して見つからない。三年待てば、貴方は爵位も領地も手に入れることができる』
三年。この国の法律で、失踪宣告に必要な期間である。宣告が成されれば、全てはオズワルドに相続される。
『少年の失踪後、彼の行方を探す者がいないか、監視する者が欲しいのです。寝た子を起こすような真似を、許さぬように』
ナサニエルの説明に、オズワルドは引き込まれていた。露見しない殺人。憎いグウィンが死に、全てがオズワルドに転がり込む可能性。
『我々は貴方が望むものを全て与えることができる。あの少年の死も、金も、領地も、爵位もね。ですから、貴方にも誠意を見せてもらいたい』
『誠意?』
『貴方が協力者として信頼できる人間かどうか、示してほしいのです』
『それが、殺しか』
『そうです。ただの監視者というだけでは、我々もあなたを信用しきれませんから』
男の説明に、オズワルドは考え込んだ。ここで断ったとしても、彼らはグウィンを殺してくれるのではないだろうか。そうすればオズワルドは、自らの手を汚すことなく、全てを手にできる。
『協力していただけないなら、少年の死は公になるでしょう。その場合、爵位も領地も手に入りませんが、よろしいですか』
『なんだと?』
『あの少年はもし自分が死んだ場合、爵位は国へ返すと』
『……それは本当か』
『ええ。セオドアという後見人の入れ知恵かもしれませんが。貴方も随分、嫌われたものだ』
ナサニエルの言葉を聞いて、一気に頭に血が上る。かっとなったオズワルドは、その言葉の真偽を確かめようとさえ思わなかった。
ーーグウィンがまた、俺の邪魔をしようとしている。
何度自分の邪魔をすれば気が済むのか。可愛げのない、生意気な甥。激情のままに、オズワルドは口を開いた。
『いいだろう。協力してやる』
その言葉に、ナサニエルは興味深そうに目を細めた。
「ゔぅ」
グウィンの呻き声が足元から聞こえて、オズワルドははっとした。立ったまま、放心していたことに気づく。
脇腹から血を流すグウィンは、蒼白だが意識はあるようだった。右手で撃たれた脇腹をおさえている。
グウィンを見下ろしながら、オズワルドは正直、尻込みをしていた。殺すと言う決意とは裏腹に、いざグウィンを前に、己が殺人者になるという事実に怖気づいたのである。
だが、今更やめるわけにもいかなかった。グウィンを生かせば、オズワルドは殺人未遂の共犯者として牢に繋がれる。オズワルドの罪を前に、叔父を嫌っているグウィンが、手加減をするはずがなかった。
オズワルドはイライアスの指示を、頭の中で反芻した。自分は、言われた通りにすればいいのだ。グウィンにとどめを刺し、その死体を彼らの用意した墓地に埋めること。それが、グウィンの死が露見しない方法だという。
『無縁墓地ですから、訪れる者もいません。仮に掘り起こされても棺の中を見る酔狂はいないですし、すぐに誰が誰だか、判別は不可能になります』
死体を隠すなら墓地が最適ですよ、と笑ったナサニエルを見て、オズワルドは内心ぞっとした。この男は、人殺しに慣れているのだと。
ーーグウィンを殺して、埋めるだけだ。
そうすれば、オズワルドは全てを手に入れられる。
けれど尊大な振る舞いに反して、彼の本質は小心であった。
否、心の内の怯懦を隠す為に、必要以上に己を大きく見せようとしていたのかもしれない。本当のオズワルドは、プライドが高く周りを見下している割に、ひどく臆病な男だった。
これまでの人生においてオズワルドが犯した罪といえば、恐喝がせいぜい。殺人など、完全に未知の領域だった。
オズワルドをためらわせているのは、グウィンへの情ではなく、自らの手を汚したくないという利己心だけだった。
ーーどうする?
このままグウィンを逃がすことはできない。けれど殺しも、したくない。殺人という最後の一線を越える覚悟を、オズワルドはついに持つことができなかった。
憎しみと怯懦の狭間で、オズワルドの下した決断は、結果的により残酷な方法だった。すなわち、生きたままグウィンを土に埋める、という方法である。
ーーどうせ放っておいても、死ぬ。
血を流すグウィンを見てオズワルドは考える。グウィンを殺すのはイライアスだ。自分はそれを遺棄するだけなのだと。
己の中で理屈をひねり出したオズワルドは、床に転がるグウィンの足首を再び縄で縛ると、その小さな身体を担ぎ上げた。まだ成長前の細っこい身体は、異様なほど軽い。
そのまま地下室を出て馬車にグウィンを放り込むと、手綱を引いて墓地までの道を駆ける。
やがてナサニエルの言っていた無縁墓地に着くと、指示通りに彼は用意された棺の中にグウィンを横たえた。グウィンはぐったりと目を瞑り、その呼吸は浅い。
グウィンの顔をできるだけ見ぬよう蓋を閉めると、オズワルドは木製の蓋の四隅に釘を打った。用意された穴の中に棺を落とし、近くの土をその上からかける。一心不乱に、オズワルドはグウィンの入った棺を埋めた。
やがて周囲に薄闇が立ち込めても、夕方から降り出した雨がどしゃ降りに変わっても、オズワルドは手を動かし続けた。大粒の汗を流しながらオズワルドが全てを終えた時、雨は更に勢いを増して、オズワルドの身体を打ちつける。
ーー怨んで出てくるなよ。
足元に眠るグウィンに、オズワルドはそっと心の中で語りかけた。土の中は、ひっそりと沈黙している。びしょ濡れの服が身体にまとわりついて、不快感が増した。もう行こう、とオズワルドは思う。ここにはもう、いたくない。
深い闇に飲み込まれそうな気がして、ひとつ大きく身震いをすると、何かから逃げるようにオズワルドはその場を後にした。




