対峙
ガタンガタンと激しく馬車が揺れて、グウィンは覚醒した。
目の前が暗い。すぐに、目隠しをされているからだと気がついた。殴られたせいで、全身がずきずきと疼くように痛んでいる。見動きしようにも手足をきつく縛りあげられ、身体を捩ると、縄が肌を擦ってひりひりとした。
今は何時なのか。あれからどれほど意識を失っていたのか、全くわからなかった。目隠しのせいで外の景色も見えない。どこかに移動していることだけが、身体に感じる振動からかろうじて分かった。
あの男は、誰だろう。
身体の痛みを頭の端に追いやって、グウィンは思考を巡らせる。
灰色の瞳を見た時、真っ先に思い浮かんだのがジャック・スミスという正体不明の男の名だった。
あの男が、グウィンの家族を殺した張本人なのだろうか。すぐに殺されなかったことに安堵しつつも、自分の置かれた状況が極めて危険なものだということを、グウィンは感じていた。
しばらく馬車に揺られていると、身体に感じる振動が弱くなり、やがて徐々に速度を落として止まった。直後にガチャリと扉を開ける音がして、男が馬車に入ってくる気配がする。彼はグウィンの足の縄を解くと、「立ちなさい」と命じて、引きずるようにグウィンの腕をとって歩きだした。
土を踏む感触が、別の固いものを踏む感触に変わり、室内に入ったのだと分かる。
「階段があります」
手荒な真似に反して、男の言葉遣いは妙に丁寧であった。それが余計に不気味だと、グウィンは思う。
降りなさいと命じられて、グウィンはそろそろと一歩を踏み出した。
目隠しをしたまま階段を降りるという行為がこれほど恐ろしいものだとは、グウィンは思いもよらなかった。一歩踏み外せば、転げ落ちそうな恐怖。慎重に足を踏み出して、ゆっくりと階段を降りていく。もうこれ以上降りれないところまで来て、ギギ、と扉の軋む音がした。その音に、ここが地下室の前であると知る。
「ここです」
男に腕を引かれて、そのまま床へと座らせられると、そこでようやく目隠しを外された。
この時にはもう、自分が誰によってこの場に連れてこられたのか、グウィンは理解していた。ここで死ぬかもしれないという恐怖と、それ以上の憎悪。そして遂に犯人と対峙するという胸の昂ぶりがあった。
目隠しを外されたグウィンは、目の前に座る男を視界に捉える。
「イライアス……!」
イライアス・フェラー。それが、アドルファスが残した書簡に記された名だった。
「もうフェラーさんとは、呼んでくれないのかい?」
残念だ、と言ったイライアスの顔は、親身にグウィンの相談に乗っていた時と同じ顔をしていた。それが、吐き気がするほど気持ち悪かった。
どれほど面の皮が厚ければ、自分が殺した人間の家族に、親切面をして近づくことができるのか。グウィンには想像もつかない。
「お前が殺したんだな」
グウィンの言葉に、イライアスはわざとらしく肩をすくめた。
「実行犯は、私ではないがね。まあ、命じたという意味なら正解だ」
そう言うと、イライアスは傍らに立つ男に視線をやった。長身に、灰色の瞳。髪は栗色ではなく黒髪の、端正な顔立ちの男だった。グウィンの目には20代後半に見えるが、正確な年は分からなかった。
「お前がジャック・スミスか」
「おや、その名をどこで?」
面白そうに眉を上げた男の声は、先ほどの御者と同じ声をしていた。あの御者は、この男の変装なのだとグウィンは気づく。今はもう付け髭は取り去られ、素顔を晒していた。
「さて、君の質問には一つ答えた。こちらの質問にも答えてもらおう」
そう言うと、イライアスはすぅっと目を細めた。グウィンの表情の変化を見逃さぬよう、瞳には剣呑な色が宿る。一瞬で豹変したイライアスの表情に、グウィンは息を飲んだ。
「セオドア・オールドマンは、どこまで知っている?」
冷淡な声でイライアスは問うた。それが自分をここへ連れてきた理由かと、グウィンは思う。
「セオドア殿は何も知らない」
「ふむ、本当だろうか。どう思う? ナサニエル?」
イライアスが傍らに立つ男にそう言うと、ナサニエルと呼ばれた彼はいきなりグウィンの首を絞め上げた。男の力は強く、ぎゅっと喉が締まる。手を縛られ、ろくに抵抗もできぬまま、グウィンの意識は次第に朦朧としていく。しかしグウィンが意識を失う寸前で、唐突に首に回った手が外された。解放されたグウィンは空気を肺に送り込むべく、必死に息を吸い込む。
ひゅう、ひゅう、と苦しげな呼吸音が部屋に響いた。
「知っているなら早く言った方がいい。本当に死んでもいいのかい?」
「……嘘じゃない」
「なかなか君も、強情だね」
しょうがないねえ、とイライアスが言うと、隣の男は再びグウィンの首を絞め上げた。今度も、意識が飛ぶ寸前で彼は手を離す。確実に痛みと恐怖を植え付けるそのやり方は、拷問に近かった。
その行為が何度か繰り返された後。それでもセオドアは何も知らないと言い続けるグウィンに、イライアスはようやく納得したようだった。
「どうやら、本当らしい」
ゴホゴホと身体を折って咳き込むグウィンを眺めながら、イライアスは安堵したようだった。
「最後に、言い残すことは?」
余裕ができたからか愉快そうに言ったイライアスは、この状況を楽しんでいるように見える。妙に機嫌がいい。自らの生命の危機を感じながら、グウィンは会話を引き伸ばそうと口を開いた。
「オリバーを殺したのもお前達か?」
「愚問だな」
そんなつまらない質問はよしてくれ、と顎を上げたイライアスに、「何故」と尚もグウィンは尋ねた。
「あの男はバスカヴィル邸で、私とアドルファスの会話を盗み聞いていたからさ。手癖の悪い男というのは、これだからいけない」
「口封じに殺したのか」
「一度は、チャンスをやったさ」
金を渡したにもかかわらず、性懲りもなくまた金をゆすり取ろうとしたのだと、イライアスは忌々しげに言う。
「人を殺すのは金も手間もかかるからね。あくまで殺しは最終手段にしている」
できるだけ私は穏便に済まそうとしてるんだが、と溜息をつくイライアスの顔を、グウィンは違う生き物を見るように眺めた。
ーーこいつは一体、なんだ。
息をつくように人殺しを命じるこの男は。
かつてイライアスがグウィンに言った言葉の何が本当で何が嘘なのか、まるで分からなかった。全てが嘘で塗り固められていたのか。それとも一欠片でも真実が含まれていたのだろうか。心の底から心配そうな顔をしておきながら、その実グウィンの家族を殺していた。
「なぜ、私に近づいた」
「もしかして、まだ分からないのかい?」
そう言うとイライアスはひらひらと白い封筒を手元で振った。それは先ほどまでグウィンの胸元にあった、証拠の書簡だった。はっとして目を見開いたグウィンに、イライアスは笑った。
「これを手に入れるためさ。どこを探しても見つからなくてね、困ってたんだ。君が見つけてくれて助かった」
イライアスに利用されていたと分かって、グウィンは歯噛みした。間抜けにも犯人の思惑に乗り、証拠の品を探し回っていたわけか。
「見張られていたことに、全然気づかなかっただろう? ナサニエルは殺しだけじゃなく、諜報員としても優秀だ」
高額なだけのことはある、とちらりとイライアスから視線を送られて、隣の男は「恐れ入ります」と淡々と口を開いた。そのやり取りを見ながら、この男は殺し屋の類なのかとグウィンは思う。ジャック・スミスが偽名なのは分かるが、ナサニエルというのも、本名ではないのかもしれない。
「父の事はいつから疑っていたんだ」
グウィンの質問に、イライアスは声を上げて笑った。不審げにグウィンが眉をひそめると、「最初からさ」とイライアスは言った。
「アドルファスは省内の不正の相談を、あろうことか私にしたのだ。あれは、傑作だった」
まあそのおかげで私としては助かった、と続けたイライアスは楽しげだ。協力するふりをして、イライアスはアドルファスを騙してきたのだ。真実に辿り着かぬように。
イライアスのどこか小馬鹿にしたような響きに、グウィンは手を強く握りしめた。アドルファスはイライアスが裏で糸を引いているとは、思いもしなかったに違いない。新人時代を世話になったイライアスを、アドルファスは信頼していた。
「だが、父はそれでも真実に辿り着いた」
どこかの時点でアドルファスはイライアスを疑うようになったはず。1年前、アドルファスがセオドアに協力依頼をしたのは、その証左のように思える。グウィンの反論に対して、「まあ、そうだな」とイライアスは同意した。
「セオドアという男は、なかなか厄介だった」とイライアスは続けた。
「金も立場もある人間というのは面倒なものだ。確かにアドルファスは、徐々に真実に近づいていた。だから私としても別の方法で、バスカヴィル家を探る必要があった」
それがナサニエルがアルマに近づいた理由かと、グウィンは思う。
「父が証拠の品を持っているとどうして知った?」
グウィンが尋ねると、イライアスはくっと吹き出した。真実おかしそうにくつくつと笑う。
「アドルファスは私に自首しろと言ってきたのさ」
事件の一ヶ月前。
アドルファスから手紙を受け取ったイライアスは、バスカヴィル家を密かに訪ねた。ここのところ連絡をしてこなかったアドルファスが何を言うのか、大いに気になっていたからだ。しかしアドルファスが口にしたのは、イライアスの予想を上回る言葉だった。
『自首してください』
貴方が賄賂を受け取っていたのですね、とアドルファスは苦しげに言った。
『何を言っているんだい?』
『しらを切るのはよしてください。貴方が賄賂を受け取った証拠があります』
アドルファスが口に証拠の内容は、かつてイライアスが北部シュタール鉄道の幹部に宛てた手紙だった。鉄道事業者選定にイライアスが便宜を図ったこと、そしてその見返りについて記された書簡である。その手紙が公表されれば、イライアスは終わりだった。
想像以上にアドルファスが真実に近づいていたことに、彼は焦った。
『待ってくれ』
『自首をしてください。そうすれば裁判でも情状酌量されるはずです』
『娘がいるんだ!』
イライアスの懇願する声に、アドルファスの顔にはためらいが浮かぶ。その表情に、付け入る隙をイライアスは見た。
『言う通り自首はする。しかし、私が牢に入れば娘は一人残されることになる。だから少しだけ時間をくれないか。自首をする前に、私がいなくなった後もあの子が生活できるよう、出来るだけのことをしておきたい』
自分の息子と同じ年の娘がいることを、アドルファスは知っている。イライアスが一人で娘を育てていることも。イライアスの頼みに、彼の心には迷いが生じたようだった。逡巡した後で、彼は「分かりました」と頷いた。
『ですが、あまり待つことはできません』
『勿論だ。感謝する』
猶予を与えられたイライアスは、素早く頭の中で計算を巡らせた。
まずはアドルファスが見つけた証拠の品を探さなければ。
この時点でイライアスは焦ってはいたが、アドルファスを殺すことまでは考えてはいなかった。ナサニエルという名の裏稼業を生業とする男に、これまで何度か仕事を依頼してはいたが、殺人を頼んだことはなかったのだ。証拠さえ奪えば後はどうにでもなると、そう思っていたのである。
しかし、証拠探しは難航した。アドルファスは証拠の書簡を、簡単には見つからぬ場所に隠したのだ。それからひと月が経っても書簡は見つからず、アドルファスのいう猶予の、限界が迫っていた。
「……だから、殺したのか?」
腹の底から湧き上がる憤怒を抑えきれないまま、グウィンは呟いた。
「なぜ父だけでなく、母や弟までーー」
たとえアドルファスが証拠の品を持っていたとしても、エミリアやジョエルまで殺す必要はなかったはずだ。二人は何も知らなかったのだから。イライアスは殺すつもりはなかったと言ったが、その言葉はとても信じられない。グウィンには、イライアスが狂っているとしか思えなかった。
ちらりとグウィンを見ると、「君は本当に何も知らないんだな」とイライアスは呟いた。
「彼らは、私のもう一つの秘密を知ったからさ」
そう言ったイライアスの表情には、底なしの暗い穴が開いたかのようにぽっかりと虚無が広がっていた。




