ソフィアの秘密
三ヶ月前の雷鳴の夜。バスカヴィル邸で、事件は起こった。
グウィンの両親と八歳になる弟が、何者かによって殺されたのだ。
現場となった寝室には、ベッドの上に三人の亡骸が眠るように横たわっていた。死因は射殺。いずれも胸を撃ち抜かれた状態で発見された。第一発見者のメイドは、あまりの凄惨さに卒倒したという。
当時親元を離れ、全寮制のパブリックスクールにいたグウィンだけが助かった。
事件は新聞でも大々的に報じられた。警察も人員を投入して犯人を追っているが、三ヶ月が経った今も捕まっていない。
唯一の生き残りであるグウィンは悲劇の少年として、各紙の一面を飾り、ソフィアもその記事を目にしたことがあった。喪服に身を包み、葬儀に臨む悲壮な少年の写真。同じ年の少年が味わった苦しみを想像して、胸が痛くなったのを覚えている。
まさかその少年と自分が婚約することになるとは。
一体自分はどうグウィンに接すればいいのかという問題に、ソフィアは弱りきっていた。結局、出会ったばかりの少年との距離を掴めないまま、ソフィアはバスカヴィル家を後にしたのだった。
***
シュタール国は四大陸の一つ、メベル大陸の北東岸に位置している。北部はなだらかな高地が、南部は五大湖を有する湖水地帯が広がる。
冬でも凍土に覆われることはないこの国の北部では酪農が盛んで、南部の綿花と並んで国の基幹産業となっている。
ソフィアは鉄道王セオドア・オールドマンの末娘として生を受けた。
父親譲りの灰色の瞳と、母親譲りの金褐色の髪をした少女は、周囲の愛情を受けてすくすくと成長した。角度によって青にも見える瞳は、周囲から「海のグレー」と呼ばれていた。国内随一の資産家の娘として、何不自由なく育ったソフィアであったが、一つ、人には言えない秘密を抱えていた。
死者の姿を見、声を聞くことができるのだ。
初めて死者の姿を見たのは、ソフィアが九歳の時。祖母の葬儀に参列した時のことだった。ブロンドの若い女性が、聖堂の祭壇上に置かれた祖母の棺の横に佇んでいた。ソフィアが棺に花を手向けた時も、参列者が一同に席で祈りを捧げる時も、棺の傍らから動かず、じっと棺を見つめる女性。その不思議な光景に、幼いソフィアは首を傾げた。
ーーどうして誰も、あの人に声をかけないのだろう。
その謎が解けたのは葬儀後、亡き妻の思い出を語る祖父が結婚式の写真を見せてくれた時だった。若い男女が写った色褪せたセピア色の写真。そこに写った女性の姿を見て、ソフィアは息を呑んだ。葬儀中に目にした女性が、そこに写っていたからだ。
あの女性は、若かりし日の祖母なのだと、ソフィアは唐突に理解した。それ以来、ソフィアは己の能力に悩まされることになる。
普通に生きていれば、人の死に接する機会はそう多くはない。それでも、これまで何度かソフィアは死者と出会い、関わりを持った。そうしてソフィアが知ったのは、彼らは人と同じように考え、人と同じように欲を持つということだった。
善人と悪人がいるように、死者にも善良な者と悪辣な者がいる。ソフィアにとって、後者が厄介な存在だった。
生きている頃のしがらみから離れれば、彼らは実に欲望に忠実だ。ソフィアが自分たちの呼びかけに応える存在だと知った途端、自らの願いを叶えようと時も場所もわきまえずソフィアにつきまとう。死者は騙し、嘘もつく。善人のふりをして近づいてくる者もいれば、脅してソフィアを動かそうとする者もいた。中には善良な死者もいたのだが、総じて迷惑をかけられたという印象の方が強かった。
幼いソフィアにとって死者の横暴な振る舞いは、脅威だった。心のやわらかい時期に刻まれた恐怖心は、簡単には消えない。物理的に影響を及ぼすことはできないと分かっていても、声が聞こえ、姿が見えるのだ。幾度となく眠れない夜を過ごし、ベッドの中で震えながら涙を流す日々。
『願いを叶えねば呪ってやる、呪ってやるぞ』
そのように脅されたことは、一度や二度ではない。
両親にさえ、打ち明けることができなかった。
死者に怯えているなどどうして言えよう。空想癖だと受け止められかねず、最悪精神異常と思われる恐れもあった。
本気で心配してくれるはずだとも考えたが、いくらソフィアを助けたくとも、死者の振る舞いを止めることはできない。泣いて怯える娘を前に何もできないと知った時、両親は己を責めるだろう。家族を愛しているからこそ、そんな思いをさせたくなかった。
死者の存在を証明する術を持たなかったことも、秘密を口にできない理由の一つだった。ソフィアにしか聴こえない声。ソフィアにしか視えない姿。いくら本を読み漁ってもソフィアと同じ力を持つ者は見つからず、これは物語の中にしかない能力なのだと、幼いソフィアは理解した。生々しい視覚と聴覚だけが、彼らの存在は幻ではないのだとソフィアに告げる。
悩みに悩んだ末、ソフィアは沈黙を選んだ。
生者にも死者にも、この秘密を悟らせてはいけない。ただひたすらにそうやって、秘密を抱えて生きてきたのである。
「ーーで、グウィン殿のことはどう思った?」
バスカヴィル家を訪問した日の夜、ソフィアはセオドアに居間へ呼ばれた。部屋には父セオドアだけでなく、母ダイアナの姿もある。セオドアはどこか居心地悪そうで、ダイアナは明らかに不機嫌だった。ソフィアが二人の前に腰を下ろすなり、前置きもなくセオドアから問われて、ソフィアはきょとんとした。
「どう、というと?」
質問の意図をはかりかねて首を傾げる。
「気にいったかい?」
セオドアの質問に、ソフィアは口籠った。気に入らなかったと言ったら、この縁談は無かったことになるのだろうか。ふとそう思ったが、すぐに自分自身でその考えを否定した。セオドアは子供達に愛情を注いではいるが、我儘を許すタイプではない。
本気で嫌がればまた違うのだろうが、そこまでこの縁談が嫌だともソフィアは思っていなかった。どう答えるべきかとしばし考えた後、出てきたのは今の正直な気持ちだった。
「まだ何とも言えません。グウィン様がどういう方か、全然知りませんから」
「そうか」
ソフィアのその答えに、セオドアはちらりと隣の妻へ視線を送る。セオドアの視線を受けて、不機嫌そうな顔のまま、ダイアナが口を開いた。
「ソフィーが反対するなら、この縁談は考え直してとセオドアに言っていたの」
ソフィアを愛称で呼びながら「この人ったら話を急ぎすぎるんだから」と、そう言ったダイアナの口調は荒い。その言葉に、ソフィアは疑問を口にした。
「もしかして、お母様も縁談の話は知らなかったんですか?」
「そうよ! セオドアったら私に相談も無しに」
ぎりりと睨みつけられて、セオドアは肩をすくめる。
「まあ、ソフィアも今のところは嫌じゃないみたいだし。いいじゃないか」
「そういう問題じゃないの! 勝手に決めるなんて酷いわ!」
ちっとも反省の色が見られないと、ダイアナはセオドアに詰め寄っている。
ダイアナは、恋愛結婚推奨派なのだ。自身が恋愛結婚だったこともあって、子供達には好きな人と添い遂げて欲しいとよく口にしていた。
「お母様、私は大丈夫です。それにこれは、オールドマン家にとって大事な縁談なのでしょう?」
「どうしてそう思う?」
セオドアから問いかけられて、ソフィアは考えながら言葉を紡ぐ。
「我が家は資産家とはいえ、上流階級の仲間入りを果たしたのはお父様の代からです。まだまだ侮られることも多いですし、商売に差し障ることもあるのではないですか? 私が貴族の方と縁を持てば、家名に箔をつける事ができると思いました」
「うん。一人で考えたにしては、なかなか悪くない推理だ」
ソフィアは賢いなとにこりと笑いかけられるが、セオドアの口ぶりからその答えが正解ではないのだと分かった。
「他に理由があるんですか?」
「ソフィアの言った理由も少しはあるけどね。それが一番の目的じゃないよ」
「じゃあ一体何が?」とソフィアは問うような視線を送ったが、セオドアはそれ以上教えてくれなかった。子供達に答えを簡単に与えず、自ら考えさせるセオドアの教育方針は立派だが、こういう時は恨めしいとソフィアは思う。
「いつか教えて下さいね!」
じとりと父親を睨む末娘に、セオドアはくっと喉の奥で笑った。
「その時がきたらな」
それまでは自分で答えを探してみなさいと、セオドアは言う。二人のやりとりを見ていたダイアナが不満そうに口を開いた。
「二人でわかり合っちゃって、なんだかずるいわ」
嫌になったらすぐにでも破談にしてあげますからね、と物騒なことを呟いている。
実際、セオドアの意向に背いて婚約解消などそう簡単にできないだろうが、本気で拒否すればダイアナは味方してくれるのだろう。それが分かって、どこかほっとした。
話は終わったからもう戻っていいとの言葉に、ソフィアは部屋を後にする。
「疲れた……」
自室に戻ると、ベッドに力無く倒れ込んだ。酷く疲れる一日だったと、ソフィアは思う。グウィンの事やこの縁談の思惑など考えるべき事は多かったが、今はただただ眠りたかった。まぶたを閉じると、すぐに激しい睡魔に襲われる。そのままソフィアは引きずり込まれるように深い眠りに落ちていった。