リリーの祈り
ぐずぐすと目を赤くしたソフィアが、ようやく落ち着いた頃。ソフィアはセオドアの胸に埋めていた顔を上げた。ソフィアの瞳には、まだ涙が膜を張っている。
セオドアは愛おしそうに娘の髪を手で梳きながら、ソフィアの瞳を覗き込んで笑った。それからソフィアの頬を柔らかくなでると、再びぎゅっとソフィアを抱きしめる。セオドアのその行為に、くすぐったいような、気恥ずかしいような気持ちになって、ソフィアは頬を染めた。
ーーなんだか今日は、ものすごく甘やかされている。
へへっと大照れしながら微笑を浮かべるソフィアの横顔を、グウィンはそっと見つめていた。ソフィアがこんなに安心しきっているところを、彼は初めて見たのだ。
やがてソフィアが「もう大丈夫」と言って、セオドアから離れると、グウィンが口を開いた。
「セオドア殿は父が見つけたという証拠がどのようなものか、ご存知ですか?」
ソフィアから目線を外し、真面目な顔になったセオドアは、「書簡だ」と口にした。
「それが不正の決定的な証拠らしい。だが内容については、アドルファスは教えてくれなかった。詳細を聞いた私に、彼はもう少しだけ公表を待ってほしいと、そう言ったんだ」
「待つ? なぜです?」
怪訝そうにグウィンが尋ねるも、「分からない」とセオドアは首を振る。
「何か事情がありそうだった。だが、もっと強引にでも聞くべきだったな」
「では、証拠はセオドア殿に預けたわけではないんですね」
落胆したグウィンの様子に、ソフィアは心配そうにその顔色を伺う。一日も早く事件が解決し、グウィンの憂いが取り除かれること。それは、ソフィアの願いでもあった。
「やはり君は、事件を追うことを止めないんだな」
セオドアが嘆息すると、グウィンは「はい」と目を伏せた。
「セオドア殿の心配は、分かります。でもソフィアのこともきちんと考えています。彼女のことを蔑ろにはしません」
「いつなん時でもソフィアを優先させると約束できるのか? 父親として君には、ソフィアのことだけを見ていて欲しい」
「私は気にしません」
ソフィアが横から口を挟むが、セオドアは承服しかねるようだった。尚もグウィンにかける言葉は厳しい。
「事件を追うならソフィアに会わせないと言ったのは本心だ。ソフィアを第一にするのでなければ、私は認めない」
セオドアの言葉に対し、グウィンはこれには答えなかった。否、答えられなかったのだ。無言のグウィンに、セオドアはふぅーと長い息を吐き出した。
「君もまだ大人の庇護下にいるべき子供だよ」
その事だけは忘れないでくれ、とグウィンに言ったセオドアの瞳は、子供を心配する親の目をしていた。やれやれと立ち上がると、「今日はもう遅いから帰りなさい」と最後にセオドアはそう言った。
「また来る」
セオドアとの話を終え、玄関でソフィアに向き直ったグウィンの声は、はっきりしていた。まだまだセオドアの説得には、時間がかかりそうだった。グウィンの声音から、彼は長期戦になることを覚悟しているのだな、とソフィアは感じた。
グウィンがソフィアの事を諦めないでいてくれることが、言葉にできないほど嬉しかった。自然とソフィアの口からは、ふわりと柔らかな笑みが零れる。
その時、突然グウィンがソフィアの頬に手を伸ばした。え、と目を見開いて固まるソフィアの頬を、グウィンはふにふにとなでる。ソフィアの表情を注意深く見ながら、グウィンはやや不満そうに眉を寄せた。
「やはり私では、ソフィアにあんな顔をさせられないか……」
突然のことに、ソフィアはぱくぱくと口を開閉させた。あ、とかう、とかいう意味をなさない声が口から漏れる。
ソフィアは耳まで赤くなったが、今日のグウィンは照れた様子もなく、「じゃあ、またな」と挨拶をしてさっと踵を返してしまった。
颯爽と遠ざかるグウィンの背中をソフィアは呆然と見送る。
あんな顔とはどんな顔だとは、最後までグウィンには聞けなかった。
***
翌日、ソフィアは久しぶりに屋敷の図書室へと足を向けた。昨日の出来事を、リリーに報告するためだ。
「お祖母様、いらっしゃる?」
ソフィアが部屋の入り口で呼びかけると、ほどなくして金髪の女性が姿を現した。相変わらず祖母は美しい、とソフィアは思う。腰まで伸びた白金の髪に、ほっそりとした肢体。ソフィアの目には、まるで妖精の国の女王様のように見える。
「ソフィー、いらっしゃい」
そう言ったリリーの微笑みは麗しい。ソフィアが足が遠のいていたことを謝罪すると、いいのよとリリーは目を細めた。
グウィンがソフィアの事情を分かってくれたと報告してから、ソフィアは図書室に来ていなかった。事件のことがあって、それどころではなかったのである。
「それで、今日はどうしたの?」
そう聞かれて、ソフィアは昨日のセオドアとの会話をリリーに話した。ソフィアの様子がおかしいことにセオドアが気づいていたこと。ずっと心配をかけていたこと。そしてソフィアの力を、信じてくれたこと。
かつて唯一の理解者だったリリーには、きちんと伝えておきたかった。
「この力を隠す必要はないって。お父様もお母様も、私の見るものを信じてくれたんです」
嬉しそうに語るソフィアに、リリーは慈しむような視線を向ける。
「もう、大丈夫ね」
ソフィアの話を聞き終わったリリーは、そう言った。見れば、リリーの姿が淡く発光しはじめている。
ジョエルが消えた時と同じだと、ソフィアはすぐに気がついた。目を見開いたソフィアに、リリーは優しく微笑みかける。
「これで、心置きなくあちらへ行けるわ」
それが、リリーの最後の言葉だった。ソフィアが別れの挨拶を口にする間もなく、リリーの姿は跡形もなく消えてしまった。
目の前で唐突に起こった事態に、ソフィアは言葉もない。
ーー私の為、だったの?
四年もの間、リリーが現世に留まっていた、その理由は。死者を見るソフィアのことを心配したからなのだろうか。呆然としてそう考えるが、その答えを聞くことは、もうできなかった。
ーー私は至らないところばかりだわ。
セオドアの心も、リリーの心も知らず。どれほどの心配を、周りの人にかけていたのだろう。自分ばかりが孤独だと、そう思っていた。
せめてリリーに感謝の言葉を伝えたかったと、ソフィアは思う。ずっと見守っていてくれてありがとう、と。
それさえもう叶わない。ソフィアの頬を、一筋の涙が濡らした。
この時、ソフィアの中には、ある変化が起こっていた。
ジョエル、オーレリア、そしてリリー。ここ数ヶ月の交流を通して知った彼らは、死者でありながら決して恐怖の対象ではなかった。
誰かを愛し、それ故に現世に留まる死者の魂。彼らに出会えた経験は、ソフィアの価値観を変えつつあった。
自分の力を忌避する必要はないと、そう思いはじめていたのである。
ーーだって、見えてよかった。
その声を聞き、彼らの心に触れることができて、ソフィアは良かったと思う。
この力は忌むべきものではないのかもしれない。ゆっくりと、しかし確実に、ソフィアはこの力を肯定しはじめていた。
リリーの消えた場所を見つめながら、ソフィアは自分自身の力に、静かに向き合い続けたのだった。




