父の後悔
ソフィアはセオドアを見つめたまま固まった。思考停止状態のソフィアに代わり、口を開いたのはグウィンだった。
「……知っていたんですか」
「知ったのは、最近だがね」
アドルファスが教えてくれたのだと、セオドアは僅かに目を伏せた。その顔には、悔いるような表情が浮かぶ。
きっかけは本当に何気ない会話からだったと、セオドアは語りはじめた。
アドルファスと友人になって三ヶ月ほど経った頃、会話の流れの中でふと、セオドアはソフィアの事をアドルファスに話したのだ。何かをアドルファスに期待していたわけでも、答えを求めていたわけでもなく。ただアドルファスの家ではどうなのか、知りたかっただけだった。
『突然、何かに怯える?』
そう聞き返したアドルファスの表情は、思いのほか真剣味を帯びていた。
『ああ。君の息子達にそういったことはあるか?』
上の6人の子供達には見られなかったことだが、他の家の子供はまた違うかもしれない、とセオドアは思った。
『うなされて目覚めたり、何もない部屋の一点を凝視したり?』
まるでソフィアの事を見てきたかのようにぴたりと言い当てるアドルファスに、セオドアは目を瞠った。
『その通りだ。どうしてわかる』
ソフィアの異変に気づいたのは、ここ数年だった。何もないところで目を見開いて固まったり、突然びくりと身を震わせたり。ソフィアが何かを恐れていることは分かるのに、何に対して怯えているのかは、セオドアにもダイアナにも、全くわからなかった。
普段のソフィアは健康的で闊達な少女で、何か深い悩みを抱えているようにも見えない。生活に不自由をさせたことはなく、両親はもとより兄姉達からも愛情を受けて育ってきた。
甘やかしてきたわりに、本人は我儘に育つどころか家の為、家族の為と気を回している。手のかからぬ事が、逆に心配になるほどの娘。
そんなソフィアが時折、眠れないほど何かに怯えている。心配にならないわけがなかった。
アドルファスの何かを知っているような様子に、セオドアは自然前のめりになる。しかし、アドルファスが次に口にしたのは、謎かけのような言葉だった。
『セオドアは、目に見えないものの存在を信じるか?』
突然話題が変わったように感じて、セオドアは眉を寄せた。そんな問いが、ソフィアのことと何か関係があるのだろうか。
『それは、神や悪魔の存在を信じるかと、そういう意味か?』
『……ああ、そうだな。広くはそういう意味と思ってくれて構わない』
『証明できないからといって、存在しないことにはならんだろう』
それは意図の読めぬ問いに対する、婉曲で曖昧な答えだった。
目に見えぬものの存在を否定も肯定もしないセオドアの答えに、アドルファスは苦笑した。この会話がどこへ向かっているのか分からないまま、セオドアはアドルファスの言葉を待つ。
『君の娘は、エミリアと同じかもしれない』
『同じ?』
続けられたアドルファスの説明は、信じがたいものだった。エミリアもソフィアも、死者を見ることができるのだという。はじめは、アドルファスに謀られているのかと思った。
『私とエミリアは幼馴染だったから、小さい頃から彼女の事はよく知っていた。いきなり走り出したり、物陰に隠れたり、びくつく彼女を見て、変なやつだなとそう思っていたよ』
馬鹿だった、とアドルファスは言った。その声音には、後悔の色が滲む。聞きながら、セオドアは混乱していた。アドルファスは、何を言っているのだろう。死者の存在など本気で信じているのだろうか。セオドアの顔を見て、私もそうだったと、アドルファスは苦いものを噛むように笑った。
『エミリアから死者を見ることができると告白された時、私もはじめは信じていなかった』
昔から何かに怯えていたエミリア。もしかしたら、彼女は死者を見るという妄想に取り憑かれているのかもしれない。当時、アドルファスはそう思った。
『その時のことを思い出すと、自分で自分を殺したくなる』
エミリアに対してひどいことを考えていたのだと、懺悔するようにアドルファスは言った。結局アドルファスがエミリアの言葉を信じたのは、死んだ祖父母の事を言い当てられたからだったという。
それを聞いて、セオドアにも思い当たるふしがあった。
ソフィアは、亡くなったセオドアの母リリーの事に、妙に詳しいのだ。特にソフィアが生まれるより前の、リリーの若き日の姿を、まるで見てきたかのように語ることがあった。
『お祖母様みたいな、白金の髪も素敵だなと思います』
己の金褐色の髪をいじりながら、ある時ソフィアはそう言った。
おやと、セオドアは疑問を感じたが、あまりにも小さいそれは形を持たないまま、胸の中に溶けて消えた。
『ソフィアは白金の髪色の方が良かったかい?』
『いえ。お母様譲りの髪は好きです』
それとこれとは別なんです、とソフィアは笑った。他愛のない、父娘の会話。
しかし後から思えば、なぜソフィアはリリーの髪色を知っていたのだろうと不思議だった。ソフィアが生まれた頃、既にリリーは白髪だったからだ。
アドルファスの話を聞いた後も、セオドアは死者を見るという力をどこか信じきれずにいた。
確信が持てないまま、これまで以上にソフィアのことを注意深く見るようになって、セオドアはある疑問を抱くようになる。もしアドルファスの話が本当だとして、なぜソフィアは死者を見る力のことを自分やダイアナに打ち明けないのだろう。しかしセオドアの抱いた疑問には、すぐに答えが出た。言わないのではない。言えないのだ。
セオドア自身が、現にソフィアの力に懐疑的ではないか。人の気持ちに敏いあの子が、自ら告白できるはずもない。
様々な葛藤をセオドア自身が抱えながら、それから数ヶ月をかけてようやく、セオドアはソフィアの力を信じるようになった。
死者を見る能力を認めるようになったのと時を同じくして、セオドアはソフィアの将来を案じるようになった。
血を分けた己でさえ、すぐには信じがたいソフィアの力。この先あの子が生きる上で、どれほどの足枷になるのだろう。セオドアの不安は募る。
一生、自分がソフィアの側についていることはできない。己が死んだ後、誰がソフィアを守り、彼女を支えてくれるのだろう。
「グウィン君なら適任だと、そう思った」
セオドアが求める条件に、グウィンはぴたりと当てはまった。エミリアの息子である彼ならば、ソフィアのよき理解者になるだろう。
バスカヴィル家を襲った悲劇が起こる前から、二人の婚約を考えていたのだとセオドアは言った。
「この婚約は、私の為だったんですね」
セオドアの話を聞いて、ソフィアはぽつりとそう言った。胸の中には、様々な感情が渦を巻く。
「でも、もしグウィンと私が合わなかったらどうするつもりだったんですか?」
ふと頭に浮かんだ疑問を、ソフィアは口にしていた。実際、セオドアは読み違えている。ソフィアと出会った時、グウィンはエミリアの能力のことを知らなかった。セオドアはエミリアの息子がまさか母親の能力を知らないなどとは、考えもしなかったに違いない。
グウィンがソフィアの力を信じ、彼女の理解者になったのは、ソフィアからしてみれば運が良かったとしか言えない。
グウィンが柔軟な心でソフィアの話に耳を傾けてくれたこと。ジョエルの協力があったこと。グウィンがソフィアの話を信じてくれたのは、様々な偶然が重なった奇跡のような結果であると、ソフィアは思っている。
ソフィアが己の力を告白した時、グウィンが彼女をあのまま嘘つきだと断じ、二人の間に決定的な亀裂が生じていた可能性だってあったのだ。
「二人が合わなければ、婚約の話自体なかったことにしていたさ。正式に婚約発表するまで、一ヶ月、時間があったろう?」
一ヶ月は二人の性格が合うか見るつもりだったのだと、セオドアは言った。
「でしたらわざわざ婚約という形を取らなくても、普通に引き合わせてくださればよかったのに……」
「事件がなければそうしていたかもな。だが不自然に思われないようにバスカヴィル家に援助をするには、婚約という形が一番都合がよかったのだ」
「これまで一度も面識のない男が、理由もなく金を出すのはおかしいだろう?」とセオドアは言った。
どうやらこの婚約は、セオドアの様々な思惑の上に成っていたらしい。告白された話はソフィアにとって驚くことばかりで、とてもすぐには消化できそうにない。それでも、セオドアがソフィアの為にこの婚約を組んだのだということだけは、はっきりしていた。
「……ごめんなさい」
何をどう言えばいいのか分からず、結局ソフィアが口にしたのは謝罪の言葉だった。本当は感謝を述べるべきだと思ったが、ずっと黙っていた罪悪感の方が上回った。ソフィアの言葉に、セオドアは困ったように眉を下げる。
「ソフィアが謝る必要なんてないんだよ」
「でも、ずっと私は自分の力の事を隠してました。お父様にもお母様にも心配をかけてたのに、気がついてもいませんでした」
ぎゅっとドレスの裾を強く握りしめる。唇を噛み締めたまま俯いたソフィアに、セオドアは優しく声をかけた。
「ソフィア、こちらにおいで」
そう言って、ソフィアを手招きする。立ち上がって書き物机のところまで行くと、セオドアはソフィアの手を握ってその瞳をのぞき込んだ。
「私にも謝らせてくれ。すまなかった、ソフィア。ずっと辛い思いをさせたまま、気付かなかった」
私は駄目な父親だな、とセオドアは言った。セオドアの瞳には、情けなく眉尻を下げた愛娘の姿が映る。
「これからは私にもダイアナにも、ソフィアが見ているものを教えて欲しい。ソフィアがどんな世界を見て、何を感じているのか知りたいんだ」
セオドアがそう言うと、ソフィアの瞳がじわっと潤みだした。ぽろっと耐えかねた雫が、一筋頬をつたう。それ以上の涙をこらえるように、唇をぎゅっと結んで眉間に皺を寄せたソフィアの頬を、セオドアは柔らかく撫でながら小さく笑った。
「美人が台無しだ」
泣くのを我慢しなくていいと言われ、感情の制御が効かなくなった。
父親の胸にすがりついて泣くソフィアを、セオドアはぎゅっと抱きしめた。ソフィアを落ち着かせるように、とんとんと優しく背中を叩く。
その行為に、また涙が溢れた。あとからあとから涙が流れ出る。
幼子のようにわんわん泣くのはみっともないとか、好きな人の前で恥ずかしいとかいう気持ちは、この時はどこかに行ってしまっていた。
だって自分はまだ子供なのだ。たまには父親に甘えたって、許されるに違いないとソフィアは思う。
翌日間違いなく目が腫れると分かるほど、ソフィアは泣いた。でもここはあたたかいし、今日だけは甘えたっていいんだと、セオドアの胸の中でソフィアは止まらない涙の言い訳を考えていた。




