ソフィアの望み
シュタール国南東の港町クリンプトン。
埠頭からほど近い場所に、オールドマン家が所有する巨大倉庫がある。外国から入港した汽船から降ろされた積荷が、この倉庫に搬入されるのだ。海運業はオールドマン家の主要事業の一つである。
「おい、新入り! ぼさっと突っ立ってんじゃねえ!」
倉庫の入り口で、浅黒い肌の男が怒声を上げた。彼はこの倉庫に運び込まれる荷の管理責任者を務めている。
怒鳴られた黒目黒髪の男は、不快げに眉を顰めた。
「なんだ、その目は!」
「ーーいえ」
屈辱に腸が煮えくり返りながら、かろうじてオズワルドはそう言った。なぜこんな男に怒鳴られなければならないのかわからず、怒りだけが腹の底に溜まっていく。
ーーどうして、俺がこんなことをしなければならない。
内心で毒づきながら、オズワルドは三日前のセオドアとの会話を思い出していた。
『私の元で自分の能力を試したいと、そう言うんだな?』
セオドアの元へ足を運ぶようになって、四度目。これまでなしの礫であったセオドアが、初めてそう言った。その言葉に、ここが売り込み時だと、オズワルドは勢い勇む。
『ええ。必ずやお役に立ってみせましょう』
『ふうん』
セオドアは検分するようにオズワルドを眺めた後、口を開いた。
『いいだろう。そこまで言うならチャンスをやる』
『感謝します』
『私の指定する場所で、成果をあげてみせろ。話はそれからだ』
ーーやっと、俺の能力を証明する時が来た。
そう思っていたオズワルドに与えられた職は、倉庫内での荷積みの仕事であった。想像していた華やかな職とは程遠く、知的労働でさえない。オズワルドは、愕然とした。
「ちんたらやってんじゃねぇ! 日が暮れちまうだろうが」
聞いているのかと、肩を掴んだ男の腕を、オズワルドは不快そうに振り払った。男のぞんざいな扱いに、屈辱感は更に増す。
オズワルドは驚く男の顔を冷たく睥睨すると、言い放った。
「ーーやめだ」
「何だって?」
怪訝そうに聞き返した男を尻目に、オズワルドはつかつかと倉庫を出ていく。こんな仕事はやめだ。はじめから、嫌がらせ目的だったに違いない。「おい!」と制止する声は、オズワルドの耳には入らなかった。
怒りで、目の前がどす黒く染まる。
ーーグウィンだ。グウィンがセオドアに、俺の悪言を吹き込んでいるに違いない。
グウィンの姿が、かつてのアドルファスに重なる。跡継ぎだというだけで、己が受けるべき称賛を全てかすめ取っていった兄。
こうやって邪魔をするところなど、グウィンはアドルファスにそっくりだった。死して尚、アドルファスが自分の行く手を阻んでいるような、妙な感覚に襲われる。
ーーグウィンも、死ねばいい。
グウィンさえいなくなれば、領地も爵位も手に入れられる。それが、本来の正しい姿ではないのか。
恥辱を与えられ、湧き上がる憎しみはグウィンへと向かう。エルドに戻る列車の中でも、オズワルドの憎悪の言葉が途切れることはなかった。
***
バスカヴィル領から戻って四日。グウィンの訪れは、途絶えている。
ソフィアは二階のバルコニーで頬杖をつきながら、ぼんやりと庭を眺めていた。
本来この程度の期間連絡がないのは普通のことだが、ここのところ毎日顔を合わせていたからか、会えない期間はとても寂しく感じられた。
ーー何か、あったのかな。
無意識に、ソフィアはドレスの胸元に手を置いた。その下にあるものの輪郭を、そっと指でなぞる。
ソフィアの胸元には、グウィンからもらった指輪が下げられている。
バスカヴィル領から戻った夜、ソフィアは手渡された指輪にチェーンを通し、ネックレスにしたのだ。グウィンに知られるのは恥ずかしい気がして、ドレスの中に隠してあった。
一度グウィンの心配をはじめると、どうにも止まらなくなってしまい、ソフィアはバスカヴィル家へ行くことにした。
ーーグウィンが来ないなら、こちらから行けばいいんだわ。
その考えは、ソフィアにとってごく自然なものに思われた。
「なりません」
バスカヴィル邸に行くので馬車を出してほしい、と言ったソフィアを止めたのはライオネルだった。目の前に立ち塞がったライオネルに、ソフィアは目を丸くする。
「どうして?」
「セオドア様のご命令です」
「お父様の?」
ライオネルはそれ以上説明する気がないのか、はたまたセオドアから喋るなと厳命されているのか、それきり口を閉ざしてしまった。
納得のいかないソフィアがライオネルの脇を通り過ぎて外に出ようとすれば、彼はソフィアを丸太のように担ぎ上げ、部屋まで連れ戻してしまう。あまりのことに、ソフィアは唖然とした。
「なぜ、グウィンに会いに行ってはいけないの?」
「私の口からは、申し上げられません」
「つまり、お父様に聞けということね」
黙り込んだライオネルに、それが肯定の意だとソフィアは解釈した。じりじりとセオドアの帰宅を待つ時間は、とても長く感じられた。
その日の夜遅く、屋敷に帰ってきたセオドアをソフィアはつかまえた。
「お話があるのですが」
真剣な顔でそう言ったソフィアに、セオドアも何かを察したようだった。居間で待てという言葉に従い静かに待っていると、着替えを済ませたセオドアがまもなくやってきた。
「それで、どうした?」
セオドアに促され、なぜバスカヴィル家へ行ってはいけないのか、グウィンが最近来ないのは何か関係があるのかとソフィアは尋ねる。その問いに対してセオドアが口にした言葉に、ソフィアの頭は真っ白になった。
「婚約を考え直す?」
「そうだ。彼には決めるまでソフィアには会わせないとも言った」
だからソフィアも会いに行ってはいけない、とセオドアは言う。
ソフィアは唇を噛み締め、下を向いた。ソフィアと事件の調査、どちらか一つを選べと、セオドアはグウィンに迫ったという。そんなもの、結果は明らかだった。グウィンがどれほど家族を愛し、犯人への怒りを胸に秘めているか。
勝負になどならない、とソフィアは思った。
「いきなり婚約解消だなんて、そこまでしなくてもいいのではありませんか」
震える声で、ソフィアは言った。
もう婚約は新聞でも発表されてしまった。すぐまた婚約解消などすれば、二人の評判だって悪くなるのではないか、とソフィアは更に言い募る。どうにかセオドアを説得しようと必死だった。
「この婚約が政略であることは、誰の目にも明らかだ。婚約を解消したからといって、世間は家の利害の不一致としか思うまい。二人の年齢では、誰も醜聞とは考えないだろうよ」
「でも」
「ソフィア。私は、間違ったことを言っているか?」
セオドアから静かに見つめられて、ソフィアは言葉を失った。
「事件はまだ終わっていない。相手は四人も殺した凶悪犯だ。もし、彼に何かあったらどうする? このまま犯人が見つからなかったら? 事件に囚われた彼を、ソフィアはずっと待ち続けるのか?」
そんな男に娘を任せてはおけない、とセオドアは言った。
「彼がソフィアより事件を取るなら、婚約の話は白紙に戻す」
セオドアの言っていることは正しい。けれど、正論が常に正解なのだろうか。ソフィア自身が、婚約解消など望んでいないというのに。
ーーこんな気持ちにさせてから婚約解消なんて、あんまりだわ。
セオドアが居間を出ていってからも、ソフィアはその場から動けなかった。
セオドアを説得するにはどうすればいいのだろう、とソフィアは思う。グウィンはどう考えているのだろう。
突然のことに、頭は働かない。ベッドに入ってからもなかなか寝付けず、まとまらない思考をソフィアは彷徨わせ続けた。良い解決策を見つけられないまま、夜は更けていく。
そして翌日、グウィンがオールドマン家へやってきた。




