帰京
エルド市を流れる川幅300メートルの河川トーリ川。20年ほど前から上下水道の整備が進み、大都市エルドにあって飲み水として使えるほど透明度は高い。
トーリ川の川べりで、一人の浮浪者が釣り糸を垂らしていた。水質改善によって最近この川に戻ってきた魚を釣り上げるためだ。ここでの釣果が、彼の生活に直結する。
釣りをはじめて小一時間程経った頃、男はふと視界の端に映ったものに目を留めた。彼から30メートル程離れた草むらに、灰色の物体が置かれていた。近づいてみると、背の高い草の中に隠すように布でぐるぐる巻きにされた物体が放置されている。
身の丈ほどもある大きさで怪しいことこの上なかったのが、逆に男の好奇心を駆り立てた。ーーわずかでも金になれば、儲けものだ。
男が布をめくっていくとはじめに見えたのは、足だった。
ぎょっとして男は思わず後ずさる。その拍子に握ったままだった布が引かれ、その中身を太陽の元に晒した。
「ひぃっ」
浮浪者の男は腰を抜かした。
苦悶に満ちた男の死体が、布の中から出てきたからだ。
口元は苦痛に歪み、混濁した目は見開かれて上を向いている。腐敗した身体には、血の染みがべっとりと残っていた。
「だ、誰か!」
男の叫び声が、切り裂くように空気を震わせた。
***
早朝、バスカヴィル領を立った二人は、昼過ぎにはエルドに到着した。
ソフィアを家まで送り届けたグウィンを待っていたのは、ロジャーとセオドアだった。
玄関ホールで待ち構えていたロジャーに、グウィンは驚きを隠せない。
「グレグソン警部。こんなところで一体何を?」
なぜオールドマン家にいるのだと、不思議そうな顔をするグウィンに、いつになく厳しい表情でロジャーは口を開いた。
「あなた方の帰りを待っていたのですよ」
その言葉に、用があるのはグウィンだけではないのだと悟る。困惑顔のグウィンに、セオドアが口を挟んだ。
「ここで立ち話もなんです。応接間で話しましょう」
荷をほどく間もなく応接室へと移動すると、ロジャーはおもむろに口を開いた。
「今朝、オリバー・ボウマンが遺体で発見されました」
「ーーっ!」
驚きに、咄嗟に言葉が出てこない。
「トーリ川の川堤に捨て置かれていたのを、浮浪者が見つけ警察に通報が」
「死因は?」
「胸を撃たれたことによる失血死です」
家族と同じだと、グウィンは思った。
「殺されたのはいつですか」
「死後十日ほどと見ています」
十日、とグウィンは呆然と口の中で繰り返した。
それはグウィン達がオリバーを訪ねた直後、彼が殺された事を意味している。隣に座るソフィアは真っ青になっていた。
「オリバーに会いに行かれましたね?」
ロジャーの確認するような、しかし確信のこもった声にはっとする。ロジャーが待ち構えていた理由は、グウィンだけでなくソフィアと護衛のライオネルにも話があったからなのだと気がついた。
「ええ。会いに行きました」
「なんの話を?」
「わかるでしょう? 事件当日の彼のアリバイを確認したかったんですよ」
グウィンがそう言うと、ロジャーは渋面を作った。
「独自捜査などやめるんです。自分がどれほど危険な事をしているか分かっているんですか」
子供を諭すような、叱るような声音だった。
ロジャーにこの件が知られれば、反対されるのは分かっていた。だから、こっそりと調べていたのに。
「危険だとは分かっています。けれど家族を殺した犯人を、私はどうしても許せない」
怒りに震える声で、グウィンは言った。鋭く睨むように前を見据えるグウィンに、先ほどまでの勢いは消え、ロジャーの表情が揺れている。グウィンが自ら動いたのは、いまだ犯人を捕まえられていない警察のせいでもあると気づいたからだ。
「今日はわざわざ叱りに来たんじゃないんでしょう?」
話題を変えるようにグウィンが言うと、ロジャーはひとつ咳払いをした。
「オリバーの家に行った時、何を話したかもう少し詳しく教えてください。それに、何か気づいたことはなかったかも」
ロジャーはソフィアとライオネルにも視線を送った。その質問に対してグウィンが答え、ライオネルが補足をしていく。
「臨時収入、ですか」
オリバーの家に行った時の様子を伝えると、ロジャーは首をひねって考え込んだ。
「ええ。仕事もせず、贅沢品を買える程度のまとまった金があったようです」
グウィンが説明を終えると、ロジャーは捜査があるからと応接間を後にした。残された部屋で、真っ先に口を開いたのはセオドアだった。
「まだ挨拶も言ってなかったな。二人とも元気そうでなによりだ。おかえり」
セオドアの言葉に、張り詰めていた場の空気が緩む。
「ソフィア、バスカヴィル領はどうだった?」
セオドアが水を向けると、ソフィアは笑顔になった。
「とても素敵な場所でした。皆いい人ばかりで、楽しかったです」
頬を紅潮させながらそう言ったソフィアを微笑ましく思いながら、グウィンも口を開いた。
「今回彼女を連れて行くことを認めていただきありがとうございました。使用人達もソフィアに会えて喜んでいました」
グウィンの言葉に、「そうか」と答えたセオドアはどこかそっけない。セオドアはソフィアの方を見ながら口を開いた。
「疲れただろう。ソフィアは部屋で休んでいていいよ。ライオネルもご苦労だった」
グウィンには話があるから残って欲しいと言うセオドアに、ソフィアが口を挟んだ。
「私も一緒にいてはだめですか?」
「後見人のことや領地のことなんかの込み入った話をするから、ソフィアは先に部屋に戻りなさい」
声音は優しいが有無を言わせぬセオドアに、心配そうにグウィンを見つめながらソフィアは部屋を後にした。
「それで、話というのは?」
二人だけになった部屋でグウィンが口を開くと、セオドアは真剣な表情になった。
「バスカヴィル卿がエルドを離れている間、何度かオズワルドという男が屋敷を訪ねて来たのです」
「叔父上が?」
驚いて聞くと、ややうんざりした口調でセオドアが続ける。
「平たく言うと仕事を斡旋しろという要求でした」
「それは、……申し訳ありません。追い返してくださって構わないのですよ」
「そうなんですがね。彼の扱いについては、私に一任していただけますか?」
「はい。セオドア殿の判断にお任せします」
身内の暴挙に頭痛がしたが、セオドアなら上手くやってくれるだろうという安心感もあった。
これで話は終わりだろうかとセオドアを見れば、彼は尚も深刻な顔つきをしている。
「ーーそれから先ほどの話ですが、私もグレグソン警部に賛成です。事件を追うのはもう止めなさい」
危険すぎる、とセオドアは言った。
「ソフィアを巻き込んだのは申し訳ないと思っています。これからは私一人で調査を進めるつもりです」
後でソフィアには怒られるだろうが、新たな犠牲者が出たとあってはこれ以上彼女を巻き込むわけにはいかない。しかしグウィンの言葉に、セオドアは首を振った。
「勿論ソフィアのこともありますが、私は貴方のことも心配しています。もう危険なことに首を突っ込むのはやめた方がいい」
諭すような口調に、グウィンは膝の上に置かれた手をぐっと強く握り締めた。セオドアは、己の気持ちを分かってくれると思っていた。彼がこれまでグウィンを子供扱いしたことは、一度としてなかったから。
「できません」
思った以上に硬い声が、口から漏れた。
「犯人を見つけるまで、私の心に平穏は訪れない」
挑むように見つめるグウィンに、セオドアは溜息を吐いた。「ならばーー」とセオドアは口を開く。
「婚約の件は、考え直さなければなりません」