朝靄の少女
「これは見事ですなぁ」
後方からのんきな護衛の声がして、ソフィアははっとした。振り返ると、三人の護衛が立ち止まったソフィアのすぐ後ろまで来ている。
「どうかしましたか?」
不思議そうに尋ねる護衛に、人目があったことをソフィアは思い出した。慌てて「なんでもないの」と首を振る。
「……そろそろ戻ります。ついてきてくれてありがとう」
最後にちらりと少女の方を見るも、彼女は微笑を浮かべて花の中に佇んだまま、ソフィアの背中を見送った。
館に帰ったソフィアは、グウィンのいる書斎へと駆け込んだ。
部屋の中は、足の踏み場もない有様になっていた。自分の用件も忘れて、ソフィアは目を丸くする。
「すごいことになってるわね」
呆れ混じりの声で言うと、ああソフィアか、とグウィンは顔を上げた。
「どこかに秘密の隠し場所があるんじゃないかと、書棚や引き出しを徹底的に調べてるんだ」
ソフィアは床に積み上げられた本を慎重によけながら近づくと、大変なことがあったのだとグウィンに顔を寄せた。
「ーー父上と母上がいたのか?」
探索の手を止め、グウィンがそう言った。ソフィアを見つめるその瞳には、期待と不安が浮かぶ。
「いいえ。でも森の中で死者を見たの」
ソフィアは先ほどの出来事をグウィンに伝えた。話が進むにつれ、グウィンの表情は段々と険しいものになっていく。
話を聞き終わった後、グウィンの顔には深い当惑の色が浮かんでいた。
「母上が死者を見ることができた?」
まさか、とグウィンは呟いた。彼が知らなかったのは本当のことだろう。もし知っていたらソフィアが己の能力を告白した時、はじめから耳を傾けていたはずだ。
「さっきは護衛の目があって、あまり話せなかったの」
あの少女は何者なのか。エミリアは本当に死者を見ることができるのか。もう一度確認しなければとソフィアは思う。
「もう一度、あの森へ行ってみる」
今度は一人で行ってくると言うと、グウィンはソフィアのおでこにぺちんと手を置いた。面食らって目をぱちぱち瞬かせてグウィンを見れば、彼は不満げに眉を寄せている。
「一人で行かせるわけがないだろう」
私も行くからな、とむすっとしながらグウィンが言う。
「でも、いいの?」
グウィンには死者が見えない。彼の目には普段通りの森が映るだけなのだ。ソフィアがためらいがちに聞くと、グウィンは「何を言ってるんだ」と呆れた。
「私に一人で調べるなと言ったのはソフィアじゃないか」
その言葉をそっくりそのまま返すと言われ、ソフィアは押し黙る。
むくむくと胸に湧き上がる感情を、どう処理すればいいのか分からない。ぽっと火がついたように顔が熱くなった。
ーー嬉しい。
不機嫌顔のグウィンを前にこんな気持ちになるのが自分でもおかしかったが、止められなかった。気を抜くとだらしなく頬が緩んでしまいそうで、ソフィアは必死に真面目な顔を作る。
「いつがいいかしら? 夜、館を抜け出すことはできる?」
「夜の森は獣が出るから駄目だ。明日の明け方にしよう」
ソフィアの動揺など微塵も知らないグウィンは、顎に手を添え思案顔である。そんなグウィンの表情に、再びソフィアはどきどきした。ちらちらとグウィンを盗み見るが、グウィンがソフィアの方を向くとつい恥ずかしくなって視線を逸らしてしまう。
挙動不審のソフィアに、「どうかしたのか」とグウィンが聞くが、最後まで答えられずに首を振って押し通した。
翌朝、まだ館が深い眠りにつく中、ソフィアは起き上がった。手早く身支度を整えると、足音を忍ばせながら屋敷を抜け出す。外に出ると、東の空からわずかに顔を出した日の光が、群青色の空に滲んでいた。
屋敷の裏手にまわると、グウィンの姿が目に入る。
「おはよう。ごめんね、待たせた?」
「今きたところだ」
朝の挨拶もそこそこに、二人は足早に歩き出した。太陽が夜を完全に追い出す前に、バスカヴィルの森から帰ってこなければならない。
森の端までは、館から20分程の距離にある。
朝露に濡れるバスカヴィルの森。その中に足を踏み入れると、ソフィアは深く息を吸い込んだ。瑞々しい空気が胸に沁み渡る。
昨日のソフィアの説明で、死者のいた花の群生地がグウィンにはすぐに分かったらしい。ソフィアの前を迷いなく進んで行く。グウィンの後を遅れずについていくと、間もなく昨日と同じ場所に出た。
朝靄が周囲に漂い、幻想的な雰囲気に包まれている。
ソフィアが探すまでもなく、あの少女は昨日と同じ場所にいた。二人の姿に気がついて、先に声をかけたのは少女の方だった。
「あら、また来たのね」
にっこりと微笑む彼女を、ソフィアはまじまじと見つめる。
色素の薄い茶色の髪に、白磁の肌。ぱっちりと大きな黒目が印象的な美少女だった。
「おはようございます。少しお話させてもらっても?」
丁寧にソフィアが言うと、少女はくすりと笑った。
「いいわ」
何を知りたいのと促されて、ソフィアは単刀直入に尋ねた。
「昨日エミリア様があなたの姿を見ることができると言ったのは本当ですか?」
「ホントよ。エミリアは私の話し相手になってくれてたの」
あの子が小さい頃から知ってるわ、と続けた少女の口ぶりはとても親しげだった。ソフィアはひとつ頷いて、次の質問をする。
「あなたは、いつからここにいるんですか?」
「さあ。いつだったかしらーー」
昔過ぎてもう覚えていないわねと言った少女に、ソフィアは困惑した。
それほど長く現世にとどまる死者を、未だかつてソフィアは見たことがない。エミリアが小さい頃から、という彼女の言葉を信じるなら、10年や20年では足りないはずだ。
「夏になると毎年エミリアはバスカヴィル領に遊びに来ていてね。あの子はよくここで泣いていたわ。誰も死者を見ることを信じてくれないのが、辛いのだと。こんな力はいらないってよくべそをかいていてね」
ソフィアには、かつてのエミリアの姿が目に浮かぶようだった。
誰も自分の言葉を信じない。その辛さを、ソフィアは誰より知っていた。
かつての自分の姿が、エミリアにだぶる。
「アドルファス様は、エミリア様の能力を知っていたんでしょうか?」
「勿論よ。二人が許嫁になって随分経ってからだけど、エミリアが打ち明けたと言ってたわ」
「アドルファス様はエミリア様の話を信じたんですね」
「二人の夫婦仲は良かったわ。つまり、そういうことね」
少女は懐かしそうに微笑んだ。隣にいるグウィンは、ソフィアの言葉からおおよその会話の流れを察したようだった。
「母上は、なぜ私にその力の事を教えてくれなかったのだろう」
ぽつりと呟かれた問いに、少女は目を細めた。
「無理に隠していたわけじゃないわ。もう少しグウィンやジョエルが大きくなって、きちんと話を理解できるようになってから伝えるつもりだったのよ。刷り込みのように信じさせるのは、嫌だと言ってたわ」
少女の言葉をグウィンに伝えると、彼は「そうか」と頷いた。
「あなたはなぜここにいるのですか?」
「それも、もう忘れたわ。誰かを、ずっと待っているような気がするのだけどーー」
自分の話になると彼女の表情はどこかぼんやりとして、とらえどころがなかった。隣のグウィンがそろそろ戻らないとまずいと、ソフィアに告げる。
館に戻ろうとして、最後にソフィアは少女を振り返った。
「名前を教えてもらっても?」
そう聞くと、彼女は柔らかく微笑んだ。
「オーレリアよ」
バスカヴィルの館に戻りながら、ソフィアは死者の存在に思いを巡らせる。
彼らはどこから生まれ、どこへ行くのだろう。彼らが現世にとどまる期間には、何か法則があるのだろうか。
けれどどの問いにも、明確な答えを見つけることはできなかった。
バスカヴィル領に来てから三日後。
グウィンはどこで見つけてきたのか古い新聞記事をソフィアに差し出した。
「これが、ソフィアの見た人物かは分からないが」
そう言って手渡されたのは、三十年前の小さな記事。若い女性の死を伝えるその記事に書かれた名前に、ソフィアは目を見開いた。
『オーレリア・フロスト』。
18歳の女性が、バスカヴィル領内で事故死したと記事には書かれている。戦地に赴いた恋人を待ち続けた中の不運な死であると、最後に数行付け加えられていた。読み終わった後、ソフィアは深く息を吐き出した。締め付けられるような物悲しさが胸に去来する。
ーーあの少女の魂は、どこへ向かうのだろう。
目的さえ忘れてしまっても、彼女は恋人を待ち続けるのだろうか。
オーレリアのことを思って、ソフィアはしばし目を閉じた。




