後日談 蛍火
マックスウェル家には、緑の指を持つ園丁がいる。
植物を育てる事が得意な者を指す言葉であるが、目の前で土をいじる老人にはそれ以上の力があるとソフィアは思った。
彼の育てた植物には、蝶や小動物が誘われるように引き寄せられるのだ。この不思議な力に、名はあるのだろうか。
「はて、儂にそんな力があるとは思えませんが」
ジョゼフという名の庭師の老人は、ソフィアの疑問に首をひねった。節くれ立ったゴツゴツとした指を持ち、顔は日に焼けて皺が多い。彼はソフィアがこの家に来てから、一番はじめに親しくなった使用人である。
「そうかしら。ジョゼフが育てる花や木々には、蝶だけでなく他の動物達も寄ってくるみたい」
感心したようにその手元をのぞき込みながらソフィアが言うと、ジョゼフは目尻に皺を寄せて笑った。
「そう言われると、なんだか大層な力に思えますなぁ」
のんびりと他人事のように言う。ジョゼフは最初に会った時からこんな調子で、ソフィアに接してくれている。ソフィアを警戒するのでも、おもねるのでもない。それがソフィアにはありがたかった。
「さて、若奥様。今日はどの花にしましょうかね?」
そう聞かれ、ソフィアは色とりどりの花を前に思案する顔になる。
ジョゼフの隣にしゃがみこみ、ソフィアが屋敷に飾る花を選ぶのは、ここ最近すっかり馴染みとなった光景だった。
「その青い花は、何という名前?」
鮮やかな青紫色の花を指してソフィアが尋ねると、ジョゼフはひとつ頷いた。
「スターチスですな。切花にするには良い花です」
後で屋敷に飾っておきましょうと、ジョゼフは言う。
「ありがとう」
隣で立ち上がったソフィアを、ジョゼフが不思議そうに見上げた。
「おや、もう行かれるので?」
「そろそろ子供達が学校から帰ってくる時間だから。出迎えないと」
「もうそんな時間でしたか」
子供達とは、メイソンが使用人として雇い入れた孤児達のことである。後30分もすれば、元気に帰ってくるはずだ。
屋敷に戻ろうとしたソフィアに、ジョゼフはふと思い出したように声をかけた。
「そうだ。今日の夕方、庭においでください。良いものが見られますから」
「良いもの?」
「ええ、蛍です」
「まあ」
この国にも蛍がいるのね、と呟いたソフィアに、ジョゼフが頷く。
「この国の人々は、夏になると蛍を愉しみます」
「私の生まれ育った国でも、蛍を愛でる風習があるわ」
「ティトラで蛍が好まれるのは、単純に闇夜に光る姿が美しいからでしょうな」
そこに別の意味を持たせたりはしません、と言ったジョゼフにソフィアは小首を傾げる。不思議そうな顔のソフィアに、ジョゼフは言い添えた。
「若奥様の生まれ故郷では、蛍は死んだ人間の魂が姿を変えたもの、という話があるそうですね」
その言葉に、ソフィアは内心驚いた。
「――ええ、確かにそういう言い伝えがあるけれど」
シュタールの民間伝承である。蛍火は、死者の魂の光なのだという。
だが何故ジョゼフはシュタールの伝承など知っているのだろう。ソフィアのその疑問は、顔に出ていたらしい。ジョゼフが種明かしをするように答えた。
「親父がシュタールからの移民でしてね。そういった話は、子供の頃よく聞いていたのです」
「お父様から」
ではジョゼフは移民二世なのか。ジョゼフの中にあるシュタールとの繋がりを知って、ソフィアは遠い故郷に想いを馳せる。家族と別れてから、まだ一年と経っていない。にもかかわらずソフィアの胸に去来したのは、郷愁の念だった。
「レイモンド様もこの季節になると、庭でよく蛍を見ておりました」
「……そう」
「蛍を見ながら、どこか寂しそうな顔をされていたのが、妙に印象に残りましてな」
よく覚えています、とジョゼフは声を落とした。その時の様子を想像して、ソフィアの胸はきゅっと切なくなる。彼は蛍火の中に、何を見ていたのだろう。
ソフィアの顔が翳ったのを見て取ったのか、ジョゼフは一転して明るい口調になった。
「とはいえ今年は若奥様も一緒ですから、寂しい事はないでしょう」
ソフィアはゆっくりと頷いた。
「ええ、今年は二人で見るわ」
そう言って、ソフィアはその場を後にした。
ソフィアが屋敷に戻ってほどなくして、子供達が学校から帰ってきた。
屋敷の前でソフィアの姿を見つけて、子供達が駆け寄ってくる。下は10歳から上は15歳まで、6人の子供達が昼間は学校に通いながら働いているのだ。
「ただいま戻りました!」
「おかえりなさい」
満面の笑みでソフィアが出迎えると、子供達の顔がぱあっと輝く。
「今日は楽しいことはあった?」
そう聞けば、子供達が我先にと口々に喋りだす。その日の出来事を熱心に報告する子供達の声で、一気にその場は騒がしくなった。ソフィアはその一つ一つの話に、嬉しそうに耳を傾ける。
平日はこんな風に子供達を迎える事が、すっかり日常になっている。
――もう、7ヶ月になるのね。
ソフィアがマックスウェル家の一員となってから。早いものだと、ソフィアは思う。
ティトラに来てから程なくして、ソフィアはこの家における己の役目を思い定めてしまった。ひとつは、女主人として屋敷を切り盛りすること。もうひとつは、ここにいる子供達を一人前に育て上げることである。教育を施し、人としての情緒を育む。
それはメイソンの妻ステラが、かつてしていた事だった。
自分なりに考えた結果、ソフィアは毎日子供達を学校に送り出し、迎え、親しく声をかけることにした。そして出来る限り時間を作り、子供たちと話をする。
こうしたソフィアのやり方に対し、「一時の情けで甘やかしては、子供達の為にならない」と以前、家政婦長のメーガンに言われた事がある。あれは多分彼女なりに子供達の将来を心配する故の、忠言だったのだと思う。
ソフィアがマックスウェル家に来て3ヶ月が経った頃、遂にたまりかねたのかメーガンがソフィアの私室にやってきたのだ。ソフィアを前に、メーガンはしかつめらしい顔で口を開いた。
『子供達を甘やかして、この扱いが当然だと思ってしまっては、将来よそに行った時困るでしょう。使用人としての立場を逸脱しています』
『メーガン』
『ソフィア様はこの屋敷の女主人なのです。威厳を持ち、使用人達とは一定の距離を取るべきです』
あの子達は使用人だということをお忘れなきよう、とメーガンは言う。
メーガンの言っている事は、ある面では正しいのだろう。ソフィアの態度が気安すぎる、というのも理解できる。ソフィアは少し考えた後、口を開いた。
『貴女の言いたい事は分かる。でも子供達には、人間的な愛情が必要だわ』
彼らの中には親を亡くしたり、貧困から親に捨てられた子供もいる。
親代わりにはなれなくても、せめて自分達を気にかけ守ろうとする大人がいるのだと、子供達に伝えたかった。
『雇用主として距離を保って接する家もあるでしょう。――でも、それは私のやり方ではない』
きっぱりとした声が響く。メーガンはわずかに目を瞠った。
『私はね、メーガン。皆の事をもっとよく知りたいと思う。それは何も、子供達に限った話じゃない。こうしてせっかく会えたんだもの。お互いの事を何も知らずに過ごすのは、勿体ないことではないかしら。だから、私は貴女の事も知りたいわ』
その瞳を見つめ柔らかく微笑んだソフィアに、メーガンがふいに見せたのは、困惑したような、虚をつかれたような顔だった。
それ以来、メーガンはソフィアの振る舞いに関して何も言わなくなった。ソフィアの言葉に納得したのか、説得を諦めただけなのかは分からない。
けれどメーガンは話の分からない人ではない、とソフィアは思う。おそらくはもっと言いたい事はあったはずだが、メーガンはソフィアの気持ちを尊重してくれたのだ。
あの日を境に、少しずつメーガンとの関係は良くなっている。
常に険しい顔をして口調も強いので誤解されやすいが、メーガンは筋の通らない事を言ったり、自分の主張を無理に通したりはしなかった。正義感が強い故の厳しさはあるが、納得をすれば他者の意見を受け入れる柔軟さを持っている。
そんな風に相手の事をひとつひとつ知っていく事が、ソフィアにとって日々のささやかな喜びだった。
夕刻、ソフィアはレイモンドの帰りを待つ間、再び庭に出ることにした。蛍がいる場所を、事前に確認しておこうというのである。
空を見上げれば、群青色と茜色が混じり合っている。屋敷の北側を歩きはじめてすぐに、池のほとりに淡い光を見つけた。蛍の群れだ。
ソフィアが立ち止まると、ふわりと一筋の光が宙を舞った。
「……綺麗」
黄緑色の光を見ながら、昼間のジョゼフの言葉を思い出した。あの光は人の魂が形を変えたものだという。
しばし物思いにふけってその場に佇んでいると、後ろから声がかかった。
「ソフィア、ここにいたのか」
振り返れば、レイモンドが立っていた。暑いのか白シャツの袖をまくり、額には汗が浮かんでいる。
「おかえりなさい」
笑顔でそう言うと、ソフィアは自らのハンカチでレイモンドの額の汗を拭おうと手を伸ばす。その動作があまりにも自然だったので、レイモンドが小さく笑った。
「ただいま」
額をそっとハンカチで押さえるソフィアに、レイモンドはされるがままになっている。
「今日は早かったのね」
「ああ。製鉄所もこの暑さで、少し早めに終わったんだ」
「そうだったの」
「ソフィアは、ここで何をしていたんだ?」
そう聞かれ、ソフィアは「あれを見ていたの」と池の方を指さした。
「……蛍か」
得心したように、レイモンドが呟く。
「今日ジョゼフに教えてもらったの。そろそろ蛍が見られるからって」
隣に並んだレイモンドを見上げて、ソフィアはそう言った。
「そうか」
静かな声音でレイモンドは答えると、視線を蛍へと移した。夜のとばりが落ちて、その中を無数の蛍が細い光の糸を引きながらさまよっている。闇を幻想的な光の粒が柔らかく照らし出す。
淡い輝きに見入るその横顔を、ソフィアはそっと窺った。
レイモンドの顔は、凪いだ海のように穏やかだ。その表情からは、悲しみや寂しさといったものは見つけられない。そのことに、ソフィアは胸をなでおろした。
――良かった。
ジョゼフに寂しそうな顔をしていたと聞いて、心配だったのだ。
ほっと息をついた気配が伝わったのか、レイモンドがソフィアの方へと顔を向けた。
「どうかしたか?」
「……ううん、なんでもない」
ソフィアは首を振ると、寄り添うように距離を縮める。そしてそのままレイモンドの左手に、そっと自身の右手を差し入れた。指を絡めると、ぎゅっと握り返される。
レイモンドは柔らかく微笑むと、ソフィアのこめかみに口づけを落とす。
「今年は、ソフィアと一緒に見ることができて良かった」
それはソフィアにとっても同じだった。
「来年も一緒に見てくれる?」
ソフィアの願いに、一瞬レイモンドは何とも微妙な顔つきになった。
「……来年だけでいいのか?」
そう問われ、ソフィアは笑顔で首を振る。
「いいえ。ずっと、ずっとよ」
来年も、再来年も、その先も。一緒にこの景色を見たかった。ソフィアの返事に満足そうに頷くと、レイモンドは耳元で囁くように答えを返した。
「――それならば、約束しよう」




