番外編 翡翠の瞳
バスカヴィル事件終結から、3ヶ月。クリスはこの日、大学が所有する図書館の一つに足を運んでいた。
エルド大学は16の学寮からなる総合大学で、それぞれの学舎は独自に図書館を有している。クリスの所属するセントブルックカレッジは、大学最古の伝統を誇る名門。学舎同様大学創立当初からあるこの図書館は、値のつけようのない稀覯本の宝庫である。
クリスは閲覧室にある席の1つを陣取ると、手元の書籍に視線を落とした。ふわりとした前髪が影を作る。薄茶色の髪に翡翠の瞳を持つ彼は、一見して遊び人にも見える華やかな容姿の持ち主である。しかしその外見に反して、彼は真面目な学生だった。
15分ほどしてクリスの向かいに、誰かが腰を下ろした。はじめは気にも留めなかったクリスだが、ふと顔を上げて目を見開く。目の前に座っているのが、現在世間の注目を集めている人物であったからだ。
レイモンド・マックスウェル。
その名は、バスカヴィル一家殺人事件の実行犯を仕留めた人物として、ここ数ヶ月、新聞で大きく取り沙汰されていた。レイモンドは半身に構えて、手に持った書物を読んでいる。
クリスが周囲を見渡せば閲覧室は人もまばらで、ほとんどの席が空いていた。しばし言葉もなくその姿を見ていたクリスだが、最初の驚きが去ると停止していた思考が戻ってきた。
レイモンドがその席に座った理由を考えて、クリスは読んでいた本をそっと閉じる。
「……私に何か?」
そう聞けば、レイモンドはゆったりとした動作で顔を上げた。
「本はもういいのかい?」
閉じられた本をちらりと見ながら口を開いたレイモンドに、クリスはゆるく首を振った。
「今更集中できないさ。私に話があるんだろう。外に出た方がいいだろうか?」
聞けば、レイモンドは静かに頷いた。
クリスは書架に本を戻すと、レイモンドと連れ立って図書館を後にする。外は小気味良く晴れていた。空気は日を追うごとに涼しさを増し、夏の暑さは徐々に遠ざかる。間もなく秋が訪れるのだ。
レイモンドはクリスの隣を黙って歩いていた。その様子をちらりと横目で窺う。
「……ソフィアの事だろうか?」
クリスの方から水を向けると、レイモンドは不思議そうに首を傾げた。
「ソフィア? 彼女が何か?」
「先日、手紙をもらった。君達は交際してるんだろう? 話というのは、そのことと関係してるんじゃないのか」
確認するように聞けば、レイモンドは何を言われているのかわからないと言うように、漆黒の瞳を瞬かせた。その反応を内心訝りつつ、クリスは続ける。
「別に私は君達の交際に反対しているわけじゃない。だから気にしないでくれ」
そう言えば、レイモンドは益々不可解そうな顔になる。その表情を見て、クリスは急に不安になった。
「ーーソフィアに言われて、来たわけじゃないのか?」
「まさか」
即座に否定され、クリスは困惑した。レイモンドはソフィアから何かを聞いてここに来たのだろうと、頭から決めてかかっていたのだ。
「じゃあ、何故?」
「君は私がソフィアと交際することに反対なのか?」
クリスの質問には答えず、レイモンドは別の問いを口にした。レイモンドを前に、クリスは言葉に詰まる。これは余計な事を言ってしまったか。
「……さっきも言ったが、君達の交際に反対してるわけじゃないんだ。ただ私はグウィンと友達だったから」
素直に祝福できなかったんだ、とクリスは口にした。レイモンドは無言のまま、クリスの言葉を聞いている。
1週間ほど前、ソフィアから届いた手紙。そこには正式にグウィンと婚約を解消した旨と、レイモンドと恋愛関係になった事が端的に記されていた。これまで心配をかけた事に対する謝罪も。
その手紙を読んだ時、正直に言ってクリスは複雑な気持ちに襲われた。ソフィアが新しい道を歩みだしたことを喜ぶ一方、どこか落胆もしたからだ。
ーーソフィアには、グウィンだけを想い続けて欲しかった。
それが身勝手な願望だとは、よく分かっていた。ソフィアには幸せになる権利がある。5年もの間グウィンを探し続け、苦しんできたのだから。
加えて、ソフィアが巻き込まれたあの誘拐事件。
彼女を救い出したレイモンドと劇的に恋に落ちたからといって、文句を言われる筋合いなどあるはずもない。
ーーそう、思うのに。
クリスは返事を書けなかった。純粋に祝福だけできないと、自覚していたからだ。
つまるところ、ソフィアにはグウィンだけであって欲しかったのだ。グウィンは既に死んでいると、知っているにもかかわらず。自己嫌悪に陥るほど、身勝手で子供じみた望みだった。
「ソフィアに幸せになって欲しい気持ちは本当だ。だがグウィンの事を思うと、心からの祝福を送れない。許してくれ」
罪悪感を滲ませながら謝罪したクリスに対して、レイモンドは特に気分を害した様子はない。
それどころか、何故かレイモンドは困ったような顔になった。
「今日君に会いに来たのは、ソフィアの事とは関係がないんだ」
「なら、どうして」
その疑問に対してレイモンドがさらりと口にしたのは、全く予期していなかった言葉だった。
「君と友達になりたいと思って」
「ーーは?」
まるで幼子のような理由に、クリスは間の抜けた顔で固まった。
その日の夜。
クリスは大学寮にあるヘクターの部屋を訪れた。
「ーーヘクターのところにも来た?」
聞き返せば、目の前に座るヘクターは首肯した。ヘーゼルの瞳をこちらに向け、その手にはビールの入ったグラスが握られている。
「ああ、昨日な」
「やはり友人になりたいと?」
「まあ、似たような事を言っていた」
グラスを傾けながらそう言ったヘクターに、クリスは難しい顔になる。
「……ヘクターお前、どう思う?」
「どうって、何が」
「あのレイモンドという男だ。何か裏があると思うか?」
「裏ってどんな?」
逆に聞き返されて、クリスは不満げに唇を尖らせた。
「それが分からないから、聞いてるんじゃないか」
そう言えば、ヘクターは「私に聞くな」と肩をすくめる。クリスは少し思案する顔になった後、再び口を開いた。
「……なぁ、ヘクター。前にソフィアが言っていた事をどう思う」
「ソフィアが言っていた事?」
何の話だという顔をしたヘクターに、クリスは補足した。
「前に言ってただろう。あのレイモンドがグウィンに似ていると」
「ああ」
そのことか、と言った後ヘクターは手元のグラスへ視線を落とす。
「似ていると言われればそんな気もするが、だが彼はグウィンとは別人だろう。2人で学籍簿も調べたじゃないか」
「それはそうだが……」
「クリス。もしかしてまだあの時の事、引きずっているのか?」
そう言われ、クリスは暗い顔になった。途端、ヘクターの口調は気遣うようなものになる。
「グウィンがもし生きていたら、気にするなと言うはずだ。グウィンはお前を責めたりしない」
「分かってる」
「いいや、分かってない。グウィンは恨み言をいうような奴じゃなかった。覚えてるか? 昔3人で上級生相手に喧嘩したことがあったろう」
「……懐かしいな」
ヘクターの言葉に、クリスは遠い目をした。思い出していたのは、パブリックスクールに入学して間もない頃の出来事だった。
『グウィンもヘクターも、巻き込んでごめんな』
しゅんとした声で、クリスは謝罪を口にした。
幼かったあの日。3人は自らが起こした喧嘩の罰として、校庭の草むしりにいそしんでいた。
同級生をいじめていた上級生5人を相手に、3人は寄宿舎で殴り合いの喧嘩をしたのである。そもそもはいじめの相談を受けたクリスが、食堂で主犯の上級生に掴みかかったことがきっかけだった。
喧嘩にこそ勝利したものの、その事実が学校側に知られたのはまずかった。3人は教師からこってりと絞られ、罰として一週間の奉仕活動を命じられたのである。
クリスの隣で、グウィンは淡々と草むしりをこなしている。
『謝るな。クリスは何一つ悪くないんだから』
その声音からは、クリスを責めようという色はまるで感じられない。これにヘクターも同意を示した。
『そうそう。いじめていた奴らも罰を受けたし、アンソニーからも礼を言われたじゃないか。お前は悪くない』
アンソニーというのが、いじめられていた同級生の名前である。
『でも……』
『もうこの話は終わりだ、クリス。お前は友達を守ったんだ。私はお前と友達で良かったと思ってるし、アンソニーもそうだろう』
グウィンからそう言われ、次の言葉が咄嗟に出ない。クリスの頬に赤みがさす。
真顔で草を抜き続けるグウィンの横顔を見ながら、嬉しいような面映ゆいような気持ちに、クリスはさせられたのだった。
「あいつはさらっと照れる事を言う奴だったな」
「ああ」
懐かしい思い出話に、クリスの口元がほころんだ。
「グウィンはお前を責めないよ、クリス」
ヘクターからもう一度言われ、クリスは返事の代わりに、ビールを喉に流し込んだ。
その後、レイモンドはクリスとヘクターの所に、頻繁に足を運んでくるようになった。友人になりたいという言葉は、どうやら冗談ではなかったらしい。レイモンドはいつもどこからともなく現れては、とりとめもない話をして帰っていく。
長く時を過ごせば不思議なもので、これまでは気付かなかった様々な事が見えてくる。それまでは目につかなかったレイモンドとグウィンの共通点に、次第に気づくようになったのである。
最初に気になったのは、講義を聴く際のふとした表情が、グウィンによく似ていることだった。
グウィンともヘクターとも、初等教育にあたる予備学校時代からの付き合いである。グウィンの失踪前、ともに過ごした時間でいえばソフィアよりも長いのだ。だからグウィンの癖も性格も、クリスはよく知っていた。
例えば、几帳面で美しい筆致。食事の好み。本を読む時、集中すると眉間に寄る皺。話を聞きながら、時折優しく細められる黒曜石の瞳。
そうした中に、グウィンの面影を見る機会が増えていく。
ひとつひとつは些細な共通点。しかしそれが重なるにつれ、クリスの胸にかつてソフィアが抱いたものと同じ疑問が膨らんでいった。すなわち、レイモンドはグウィンと同一人物ではないか、という疑問である。おそらくヘクターも同じ思いを抱いたはずだ。
「ありえない」という思いと、「もしかしたら」という考えがせめぎ合う。レイモンドと話すようになって3ヶ月が経つ頃には、その疑問はクリスの胸を大きく占めるようになっていた。
故に構内を3人で歩いている時、クリスがそのことに触れたのは、ある意味必然だったのかもしれない。
「ーー親友がいたんだ」
そう口火を切れば、隣を歩くレイモンドがちらりとクリスの方を見る。その視線に気づかぬフリをして、クリスは喋り続けた。
「知っていると思うが、かつてソフィアの婚約者だった少年は私達の親友だった。失踪する直前、最後にグウィンと話したのは私なんだ」
レイモンドは黙って、耳を傾けている。
「……当時の事をずっと後悔していた。あの時、私がグウィンを引き留めていれば、グウィンは死ななかったかもしれないと。そうでなくてもグウィンが乗った馬車を見ていたら、すぐに助けられたかもしれないのに」
クリスが告白したのは、ずっと抱えてきた後悔の念だった。
グウィンが失踪したあの日。パブリックスクールでグウィンと会った時、クリスは彼を引き留めなかった。もしクリスがあの時違った行動を取っていれば、何かが変わったかもしれないのに。
ソフィアが抱いたのと同じ後悔を、クリスもまた抱えていた。自分に何かできたのではないかと、そう思い続けてきたのである。
だからレイモンドの中にグウィンの影を見た時、当時の事を懺悔したくなったのだ。無論これまでの経緯から「君はグウィンなのか」と単刀直入に尋ねても、答えてはくれないだろうという考えもあった。
「誰にも何もできなかっただろう」
レイモンドの答えは、淡々としたものだった。
「おまけに君は子供で、相手は殺人鬼だ。場合によってはクリスが巻き込まれた可能性だってあったはず」
だから罪悪感を感じる必要はない、ときっぱりとレイモンドは言い切った。
「しかし」
「逆に聞くが、親友がそのことで、君を責めると思うのか?」
「いや……グウィンならきっと責めないだろう」
「ならそういうことだ」
レイモンドの口調は終始感情のこもらないものだった。レイモンドがグウィンであるという確信が持てず、クリスは黙り込む。考え込むクリスを見て、レイモンドはひとつ息を吐く。
ーーもしも私なら、とレイモンドは再び口を開いた。
「もしも私がその親友の立場だったなら、君が後悔している所など見たくはないはずだし、君を責めると思うのかと問い詰めたくなるだろう」
だから気にするべきではない、とレイモンドは言う。
「……君のような友人を持てて良かったと、そう思っているはずだから」
驚いてレイモンドの顔を見れば、彼は穏やかで落ち着いた表情をしている。隣を歩くヘクターも息を止めたのが、気配で分かった。
続く言葉を待ったが、レイモンドはそれきり口を閉ざしてしまった。どう声をかけていいのか分からず、3人は無言で歩みを進める。
10分程して入口の門が見えてきた所で、ヘクターが声を上げた。
「ソフィアじゃないか」
視線を向けると、こちらに向かって手を振りながら、門の側に金髪の少女が立っているのが視界に入った。ソフィアの隣には熊に似た大柄が護衛がひとり、付き従っているのも見える。
何故ソフィアがここにいるのだろうと考えて、すぐに分かった。
「そうか、レイモンド。きっと君にーー」
会いに来たんだろう、と言いかけてクリスはそこで言葉を切った。隣にいたはずのレイモンドが、かき消えていたからである。その姿を探せば、レイモンドは驚くような素早さでソフィアの元へ向かっているところだった。
レイモンドが傍まで近づくと、ソフィアの顔がぱっと嬉しそうに輝いた。ソフィアは見る者がつられて微笑んでしまうような幸せにあふれた表情で、真っ直ぐにレイモンドを見つめている。
そしてソフィアの隣で立ち止まったレイモンドもまた、愛おしくてたまらない者を見る目をしていた。楽しそうに言葉を交わす2人の声は、クリスには聞こえない。
けれどレイモンドとソフィアが並んでいる所を目にした瞬間、これまで胸にわだかまっていた疑問が雪どけのように氷解してゆくのを、クリスは感じたのだった。
ーーなぜ、気づかなかったんだろう。
答えなら、そこにあったのだ。ソフィアのあの一途さの中に。彼女はずっと、グウィンだけを見ていたではないか。
もしもグウィンが本当に死んでいたならば、ソフィアがあれほど憂いなく笑えるはずがない。そこに答えがあったのだ。
ソフィアは、心変わりをしたわけではないのだ。彼女は今も昔も、ただ一人だけを想っている。
そう思い至った時、クリスは全てを理解した。そして隣にいたヘクターもまた、クリスと同じ答えに辿りついたようだった。
「なぁ、クリス。やっぱりレイモンドってーー」
「それ以上は言うな」
ヘクターの言葉を、クリスは遮った。そうして緩く首を振る。レイモンドが語らぬのだから、それは口にすべきでない事なのだ。
「今私たちが考えている事は、胸の内に留めておくべきだ。違うか?」
「……そうだな」
事件はもう終わったのだ。今更波風を立てるような真似はしたくなかった。
だってあんなにも、2人は幸せそうではないか。しばらく立ち止まって目の前の光景を見ていたクリスとヘクターであったが、ややあってクリスの「行こう」という言葉に再び歩き出した。
ソフィアに伝えなければいけないことがあると、思い出したのである。
「私はまだソフィアに祝いを言っていないんだ」
レイモンドとの事を祝福しなければ。そう笑ったクリスの顔は、晴れ晴れとしていた。




