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バスカヴィル家の政略結婚  作者: 柴崎 ふじ子
後日談&番外編
105/110

後日談 雨上がりの庭

 耳朶を打つ水音に、レイモンドは深い眠りの中から意識をたぐり寄せた。


 ーーああ、雨か。


 しかも今日は休日だ、と覚め切らない頭でそう思う。

 うっすらと目を開けると、腕の中に波打つ金褐色が見えた。穏やかな寝顔ですやすやと眠るその姿を目にして、レイモンドの顔に笑みが広がる。

 レイモンドの腕の中で眠るその人は、静かな寝息を立てている。

  

 ソフィアがこの家に来てから3ヶ月。

 普段は朝に強いソフィアがレイモンドより遅く起きるのは、大抵こうした休日に限られた。

 レイモンドが金褐色の髪をいてその柔らかさを楽しんでいると、腕の中でソフィアが身じろぎをした。くぐもった小さな声が唇から漏れ聞こえる。ソフィアが目を開けるのを待って、レイモンドは口を開いた。


「おはよう」


 まだ眠そうな顔のまま、ソフィアはその瞳にレイモンドを映し出す。美しい灰色の瞳がゆっくりと焦点を結び、己の姿をとらえる瞬間がレイモンドは好きだった。

 レイモンドの姿を認めてふわりと蕾がほころぶように微笑んだソフィアに、自然と頬が緩む。こうした時の彼女は驚くほど無防備だ。

 

「おはよう」


 そう言ったソフィアの声が耳に心地良い。ややあってソフィアは自身の一糸まとわぬ姿に気づいたらしい。ほんのりと頬を赤らめると、胸元までかかっていた毛布をもぞもぞと首の方まで引き上げた。

 口元まで毛布に埋まったソフィアは、酷く恥ずかしそうにしている。

 その一連の動作を目にして、レイモンドは笑いをかみ殺す努力をせねばならなかった。もっとも、それが成功したとは言い難かったが。


「笑わなくてもいいのに」


 ソフィアが不平の声を上げ、レイモンドはついにこらえきれなくなった。楽しげに笑い声をたてたレイモンドに、ソフィアは恨みがましい視線を向ける。


「だって、なんだかおかしくて」


 ーーもう何度も肌を合わせているのに。


 口にはせずともレイモンドが何を言わんとしているか、ソフィアには伝わったようだった。

 ソフィアの顔は茹で上がったように赤くなった。


「……夜は暗いから」


 朝の光のもとでは幻滅させてしまうかもしれない、とソフィアは零す。その一言を耳にした瞬間、レイモンドは目の前の毛布ごとソフィアの身体を抱き締めていた。その耳元に唇を寄せ発せられた声音は、思いのほか切実で余裕がなかった。


「幻滅など、するわけがない」


 ーー絶対に。


 かすれた声で囁くと、腕の中でソフィアは沈黙した。


「それとも私の言葉では信じられない?」


 わざとそう尋ねれば、ソフィアはぶんぶんと首を振った。


「ーーううん。信じてる」 

「それなら良かった」


 つかの間、沈黙が2人の間に落ちた後で、ソフィアは外の気配に気づいたように耳をそばだてる。


「雨が降ってる?」


 しとしととした雨音が耳に届いて、ソフィアは首を傾げた。

 閉じられたカーテンを開けようとソフィアは身を起こそうとして、ーーしかし、レイモンドの腕によってそれは押し留められたのだった。


「今は6時だ。まだ起きなくても、誰も文句を言わないだろう」


 毛布にくるまったままがっちりと身体を固定され、身動きのできないソフィアは、レイモンドの瞳を至近距離からのぞき込んだ。


「つまり?」

「もう少しこうしていよう」


 そう言えば、ソフィアは少し楽しむような口調になる。

 

「雨だから?」

「雨だから」

「おまけに今日は休日ね」

「そう、今日は休日だ」


 レイモンドがソフィアの言葉を繰り返すと、彼女はクスクスと笑い出す。それにつられるように、レイモンドも笑みを深めた。

 こうしてソフィアと交わすたわいのない会話が、どれほど尊く得がたいか、レイモンドはよく分かっていた。かつてティトラに来たばかりの頃は、望むことさえ許されないと思っていたもの。


「休みの日のあなたは、少し怠け者になるのね」


 寝台から出ようとしないレイモンドに、ソフィアの声に笑いが混じる。その声を聞きながら、レイモンドは目を閉じた。


「その通りだ。怠け者だからこういう日はまだ寝ていたい」


 だからソフィアも付き合ってくれ、と言うと腕の中で頷く気配がある。

 柔らかな感触に、レイモンドはほっと息をついた。こうしているとまるで氷が溶けていくように、心に平穏が訪れる。彼女は陽だまりのようだと、そう思う。

 そんなことを考えていると再び睡魔が襲ってきて、レイモンドはゆっくりと意識を手放した。



 次にレイモンドが目覚めた時、時計の針は10時を指していた。雨音は既に止んでいる。腕の中にあった感触がなくなっている事に気がついて起き上がると、すぐにその姿は見つかった。

 ベッドの縁に座るソフィアは水色のドレスに身を包み、レイモンドが目覚めるのを待ち構えていたかのように口を開いた。


「雨が上がったから、散歩に行こう」


 そう言った笑顔が眩しい。否を言う理由などあるはずもなく、レイモンドは素直に頷いた。

 遅い朝食を済ませた後で、2人は外に繰り出した。屋敷の北側には池があり、それをぐるりと半周するとマックスウェル家の裏庭が広がっているのだ。

 レイモンドとソフィアは手を繋いだまま、池の周りを歩いて行く。こんな風に予定のない休日には、2人でのんびりと過ごすのが常だった。

 平日のレイモンドは大学と製鉄所に行っていて、夜まで戻ってくることができない。だから1日中ソフィアといられる休日は、とても貴重なのだ。

 池を越え、小さな林のある一帯まで来ると、ソフィアは目を細めた。


「土の匂いがする」


 雨上がり独特の匂い。この匂いが好きだと、ソフィアは言った。


「ああ。どこか懐かしい気持ちになる」

「シュタールの雨上がりと、同じ匂いがするから?」

 

 しっとりと濡れた庭に、2人の声が小さく響く。


「メーガンとはその後上手くやれている?」

「仲良くなったとまでは言えないけれど、最近は表情の変化が分かるようになってきたの」

「本当に?」


 レイモンドが驚いて聞き返すと、ソフィアは嬉しそうに頷いた。

 メーガンはマックスウェル家に仕えている家政婦長の女性である。厳格という言葉を体現しているような人物で、有能だが自分にも他人にも厳しい。50歳に手が届こうかという年齢で、身なりは清貧を旨とし、常に険しい表情を浮かべている。彼女が笑みを浮かべたところを、レイモンドは一度として見たことはなかった。

 女主人としてマックスウェル家にやって来たばかりのソフィアにとって、まずは彼女に認められることが重要だった。ソフィアの説明によれば、今は「鋭意努力中」という事らしい。


「最初から何もかも上手くいく関係の方が、珍しいんだと思う。本心まではわからないけれど、この家の事を何も知らない私に、皆良くしてくれているわ」

「何か困ったことは?」


 その質問に、大丈夫だとソフィアは首を振る。レイモンドは気遣わしげな顔になった。


「本当はもっと傍にいることができればいいんだが。すまない、平日は私がいないから……」

「謝らないで。お互いの事を理解するのに時間がかかるのは、当然のことよ。それにこれはレイモンドも通ってきた道でしょう?」 


 レイモンドがその言葉の真意を探るように視線を向けると、ソフィアは説明を補足した。


「マックスウェル家の養子としてあの家に入ったあなたは、私以上に周りの目が厳しかったはず」


 ソフィアの言葉に、レイモンドは軽く息を呑んだ。


 ーーソフィアは時折、察しが良すぎる。


 確かにメイソンの養子になったばかりの頃、レイモンドに注がれた周囲の視線は痛いほどであったのだ。後継者としての資質を推し測ろうと、四六時中厳しい目が向けられた。


「だから私は大丈夫」


 ソフィアの答えに、レイモンドは少し寂しそうな顔になる。頼られたいと思うのは、我儘だろうか。


「そうか。でもどんな些細なことでも、何かあったら言ってくれ」

「ありがとう。……何もなくても甘えたい時は、言っていい?」


 その言葉に、レイモンドは笑顔になった。


「いくらでも」


 手に込める力を強くすると、ソフィアは心から嬉しそうな顔をする。

 日々をこうして重ねていくことで、2人の思い出が増えていく。それはとても幸せな事だと、レイモンドは思う。

 ソフィアとともに歳を重ねる未来を、今はもう信じられる。明日もその先も、彼女は隣にいるのだと。


 周囲に人目のないことを確認して、レイモンドは立ち止まった。木立ちの中、ソフィアの肩をそっと抱き寄せる。

 その頬を優しくなでると、ソフィアはゆっくりと目を閉じた。そのままレイモンドは誘われるように唇を重ねる。

 互いの吐息を分け合うように口づけを交わした後で、2人は見つめ合って微笑んだ。

 重い雲の切れ間から、明るい陽が射し込んでいる。葉に浮かんだ雫が光を吸って、清涼な空気の中輝いていた。

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