後日談 ティトラへ(前編)
ティトラへの出発を一週間後に控えた日、ソフィアとレイモンドはささやかな式をあげた。
ソフィアの家族と、親しい友人のみを招いた結婚式。
『式は、シュタールで挙げよう』
セオドアの許しが出た直後、レイモンドはそう言った。オールドマン邸の庭。東屋に並んで座りながらレイモンドが口にした言葉に、ソフィアは目を見開いた。
『君の花嫁姿を見てもらいたいんだ』
ティトラへ行けば、そう簡単に帰ってくることはできない。恐らくはソフィアにとって、家族と過ごす最後の日々。せめて花嫁姿だけでも見せたいと、レイモンドは思っているようだった。
『……でも、いいの?』
こういった場合、普通は嫁ぎ先で式を挙げるものではないのだろうか。ソフィアが躊躇いがちに尋ねると、レイモンドは力強く頷いた。
『実は以前から考えていた。結婚の許しを得てすぐに電報を送ったら、メイソンさんもその方が良いと言ってくれたから。こちらとしては、何の問題もない』
ソフィアが気にすることはないよ、とレイモンドが微笑むと、ソフィアはほっと表情を緩めた。
『ありがとう』
ソフィアは心から感謝を述べた。レイモンドを困らせると思って口には出さなかったが、家族に花嫁姿を見せたいという思いは確かにあったからだ。レイモンドはそういうソフィアの気持ちを、汲んでくれたのかもしれない。その思いが嬉しくて、ソフィアの胸は温かい気持ちに満たされる。
それからはティトラへ向かう準備と並行して、結婚式の準備が大急ぎで進められた。
郊外にある小さな聖堂で2人が式を挙げたのは、2ヶ月後。ここまで準備期間が短くて済んだのは、招待客が少なかったのもあるが、レイモンドとセオドアが婚礼の為にその手腕を余すところなく発揮したからであろう。
式当日は、好天に恵まれた。穏やかに晴れた冬の日。
控室で少し緊張しながらソフィアが準備を終えた頃、両親と兄姉達が部屋を訪ねてきた。家族全員が部屋に入ってくると、ソフィアは笑顔で立ち上がる。
ソフィアを見るなり、三女レティが感嘆のため息を漏らした。
「ソフィア、凄く綺麗よ」
その言葉に、ソフィアは顔をほころばせた。
絹糸でできた純白のドレスの胸元は繊細な刺繍が施され、裾は美しい曲線を描いて床まで広がっている。少し大胆に背中を露出したデザインは、しかし細身のソフィアが着ると絶妙なバランスで品よくまとまって見えるのだった。
複雑に編み込まれた髪は金糸をあしらったベールに覆われ、見るものに神聖な何かを感じさせる。他の姉達からも口々に褒め称えられ、ソフィアは照れたように頬を染めた。
「ありがとうございます」
「本当に綺麗だ」
眩しそうに目を細めて、セオドアはそう言った。セオドアの隣で、ダイアナは少し目尻に涙を溜めている。
「おめでとう。娘達が全員家を出るのは寂しいけれど、喜ばなければいけないわね」
いつもは明るいダイアナの、寂しさを滲ませた声音に、ソフィアの胸に熱いものがこみ上げる。
「ソフィア、今は泣いちゃ駄目よ」
せっかくのお化粧が落ちちゃうわ、と慌てて長女マチルダがハンカチを差し出したので、ソフィアはありがたくそれを受け取った。マチルダはソフィアを笑顔にしようと、努めて明るい声で言う。
「今日はミアとパーカーも張り切ってるから、声をかけてあげて」
ミアとパーカーは次兄レナードの子供達である。今年6歳になる姉のミアと、4歳になる弟パーカー。2人はそれぞれこの婚礼において重要な役を任されている。式の中でミアはソフィアが祭壇に行くまでの先導をし、パーカーは結婚指輪を運ぶのだ。
ソフィアは2人の前に屈み込むと、目線の高さを合わせた。
「ミア、パーカー。今日はよろしくお願いね」
ソフィアがにっこりと微笑むと、2人は照れくさそうに顔を見合わせる。
「まかせて」
そう言って、ミアは胸を張った。ソフィアと同じ金褐色の髪が、ふわりと揺れる。生まれて初めての大役に、ミアは並々ならぬ気合が入っているようだ。
「そろそろ式がはじまる。ソフィア、後で」
ケニーのその声をきっかけにして、エスコート役のセオドアを除いて全員が控室を後にした。セオドアはソフィアに腕を差し出すと、極上の笑みを浮かべる。
「さぁ、行こう」
聖堂に足を踏み入れた時、真っ先にソフィアの視界に飛び込んできたのは、やはり愛しい人の姿だった。
祭壇の前に立つ赤銅色の髪をした青年。ダークグレーの正礼装のレイモンドは、貴公子然とした佇まいでソフィアを待っていた。
その姿を目にして、ソフィアの胸はいっぱいになってしまう。
ーー夢を見てるみたい。
こんな日が来る事を、願ってはいても想像はできなかった。幸福で満ち足りた日、夢のようだと思ってしまってもそれは仕方がないだろう。
レイモンドは一歩一歩祭壇へ近づいてくるソフィアを、愛おしそうに見つめていた。ソフィアと目が合うと、その笑みを深める。
ミアはソフィアを先導しながら、祭壇へ続く道に花びらを撒いていく。籠からさらさらと花びらを取っては散らすその可愛らしい姿に、参列者の誰もが目を細めた。
祭壇の前までたどり着くと、セオドアはソフィアを引き渡した。
司祭の言祝ぎの後、互いに誓約を口にするのが、シュタールにおける結婚式の習わしである。レイモンドは聖典に手を置くと、誓いの言葉を口にした。
「この命尽きるまで、いかなる時も共にあり、妻を愛し、敬い、慰め、慈しむことをここに誓います」
続いてソフィアも聖典に手を置きながら、同じ誓約を口にする。互いの誓約が終わると、指輪の置かれたリングピローを持ったパーカーが緊張した面持ちでやってきた。真剣そのものの表情が見る者の笑みを誘うが、本人は必死である。パーカーは祭壇まで無事指輪を運び終えると、ひどく得意そうな顔で母親のもとに帰っていく。
レイモンドはソフィアの手を取ると、厳かな表情で左手の薬指に指輪をはめた。ソフィアも緊張しながらレイモンドの指に慎重に指輪を差し入れる。無事指輪の交換が終わると、ほっと小さく息をついた。
レイモンドと見つめ合って、自然と笑みがこぼれる。
「愛している。生涯、君を大切にする」
レイモンドはソフィアのベールを上げると、両手でその肩に触れた。
2人の距離が徐々に縮まり、やがてその唇が重なると、参列席からほうっという溜息が漏れ聞こえる。唇が離れた後、幸せそうな顔ではにかんだソフィアに、レイモンドもまた幸福に満ちた顔をした。
「もう決して離さない」
そう言ったレイモンドの真っ直ぐな瞳を見返しながら、この人を幸せにしよう、とソフィアは誓う。胸を締めつけられる程の愛しさも、ソフィアの世界を色鮮やかに染め上げる幸福感も、他に知らない。レイモンドがソフィアに与えてくれるものを、自分もまたレイモンドに返したい。
「愛してるわ」
ソフィアがそう伝えれば、レイモンドは嬉しそうに破顔した。
ステンドグラスから差し込む光が聖堂の中を淡く照らし、神聖な空気が場に満ちる。この場にいる誰もが、年若い2人の歩む道に幸多からんことを希い、そして恐らくはその願いは叶うだろうと信じたのだった。
挙式後の披露宴は、オールドマン家のホールで催された。レイモンドとともに式に集まったひとりひとりに、ソフィアは挨拶をして回る。
会場にはライアンやライオネルの姿も見える。その中に友人達の姿を見つけると、ソフィアの顔がぱっと輝いた。
「レイモンド、ソフィア。今日は本当におめでとう」
クリスが祝いの言葉を述べると、レイモンドは穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとう、クリス。ヘクターとヴァネッサも来てくれて感謝する」
今日、クリスとヘクターはレイモンドの学友として参列している。ソフィアと婚約するまでの2年間、レイモンドはいつの間にやら彼らと友誼を結んでいたのである。
クリスとヘクターがレイモンドの正体を知っているのか、はっきりとした事をソフィアは知らない。レイモンドが教えてくれなかったからだ。
以前一度だけ、尋ねたことがある。「2人に本当の事を話したのか」と。けれどレイモンドは曖昧な笑みを浮かべたまま、答えてはくれなかった。
だから正確な事は分からない。
けれどクリスもヘクターもレイモンドがグウィンであることに気づいているのではないか、とソフィアは密かに思っている。なんとなく、レイモンドに対する2人の態度が気安いように感じるからだ。まるで長年の友であるかのようにーー。
「ソフィア、本当に素敵よ」
ヘクターの隣にはヴァネッサの姿もある。
「ヴァネッサ。今日は来てくれてありがとう」
「結婚おめでとう」
ヘクターの腕に手を添えながらそう言ったヴァネッサに、クリスは改めて、といったように呟いた。
「しかしまさか、ヘクターとヴァネッサが結婚するとはね」
しみじみと口にされた言葉に、レイモンドが小さく笑う。
ヘクターとヴァネッサは、ソフィア達より半年早く式を挙げていた。はじめに二人から結婚の報告を受けた時、ソフィアは心底びっくりしたものだ。ヴァネッサは言いにくそうにしていたが、どうやらソフィアの事を心配して相談するうちに……ということらしい。親友の結婚にソフィアは大喜びしたし、レイモンドもまた2人を祝福した。
「皆が幸せそうでなによりだ」
クリスの少し拗ねたような口調に、その場にいる全員が笑った。
「ソフィア、踊ろう」
レイモンドがそう言ったので、ソフィアはひとつ頷くと、その手を取りホールの中央に歩を進める。参列者の視線を一心に浴びながら、ホールの中央でレイモンドと向かい合うと、曲調が変化した。しっとりとした調べから、軽やかな音楽へ。
2人は互いの手を取ると、流れるような動作で踊りはじめた。ソフィアとレイモンドの視界には、互いの姿だけが映っている。
今宵の主役達のダンスに、参列者達から温かな視線が集まる。レイモンドの顔を見ながら、ソフィアは幸せそうに呟いた。
「さっき式であなたを見た時、夢みたいだと思ったの」
「夢?」
「こんな日が来る事をずっと願っていたけれど、今日それが叶って、まるで夢の中にいるみたいだと」
「……夢だったら困るな」
レイモンドは至極真面目な顔になる。
「やっと君を手に入れることができたのに。夢だったら困る」
低く深みのある声で囁かれ、ソフィアの体温は大いに上がった。きっとこの先何度も何度も、こんな風にレイモンドの一挙手一投足に胸を高鳴らせ、振り回されるのだろうとソフィアは思う。
そしてそれを嬉しいと思うのだから、どうしようもなかった。
その日の披露宴は深夜まで続けられた。皆大いに食べ、飲み、そして踊った。愛する人達からの祝福を受け、この夜ソフィアはもう何度目かわからなくなる程幸せを感じたのだった。
そして挙式から一週間。ついにシュタールを旅立つ時が来た。駅構内は人々でごった返している。周囲を喧騒が包む中、ソフィアは家族と最後の別れを惜しんでいた。
「ティトラへ着いたら、電報をちょうだいね。無事かどうか、知りたいから」
ダイアナはそっとソフィアの頬に触れると、その顔をのぞき込んだ。ソフィアは「はい」と頷きを返す。
「お前は私達の自慢の娘だ。自分を信じなさい、ソフィア。お前ならどこへ行ってもうまくやれるから」
「はい。ありがとうございます」
セオドアの言葉に、視界が滲む。ケニーは心底寂しそうにソフィアの肩を抱き寄せた。
「ソフィア、会いに行くよ。お前が幸せに暮らしているところを見るために」
ぎゅっとソフィアを抱きしめながら、これは今生の別れではない、とケニーは囁く。
「離れていても、私達は家族だ」
「はい」
ソフィアの頬を涙が伝う。ソフィアは何度も頷いた。
出発を知らせる汽笛が鳴り響いて、ソフィアはケニーの胸からそっと離れる。ーーいよいよ別れの時がきたのだ。
レイモンドとともに汽車に乗り込み、席についてからも、ソフィアは窓を開けて家族の姿を見つめていた。その光景を目に焼きつけようとするかのように。
「手紙を書きます。必ず」
「待ってるわ」
「どうか、元気で」
窓から身を乗り出して手を振ると、汽車はゆっくりと動きはじめた。汽車は徐々に速度を上げ、愛しい人々の姿はどんどん小さくなっていく。
ソフィアはその姿が完全に見えなくなっても、家族のいるはずの場所をずっと見つめ続けていた。




