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鋭い舌打ちがしたかと思うと、扉の向こうから大柄なクルゼンシュテルンの体が現れた。エディラの脱出劇から更に2日経ったところだった。その間クルゼンシュテルンは日参どころか、食事を手ずから運ぶほどであった。
その姿に気づいたエトワールは慌てて通路の脇へ避けた。クルゼンシュテルンはエトワールを認めたものの、何も言わずに去っていった。その瞳には怒りと困惑が混ざり合っていた。
「惚れたか?……まさか、ね」
あのクルゼンシュテルンを日参させ、思い通りにさせないとは。エトワールにはそれが面白くて仕方がなかった。
(あいつが人間らしい振る舞いをする所を見てみたいもんだ)
船倉から見つけ出した誰かの竪琴を抱え直すと、エトワールは扉に向った。
軽くノックをして室内に入る。もちろん返事は無い。室内では相変わらず、エディラが姿勢を崩さず、長椅子に座っていた。ちらりと、エトワールを認めたが、すぐにつんとそっぽを向いてしまう。やれやれ、とエトワールは手近な椅子に腰掛けると気にせず調弦を始めた。
「何をしているの」
やがて、エディラがとげとげした声をだした。目はあらぬ方を見つめている。やや、やつれたものの却って綺麗になったような気がする。目元がますますシィエン様に似てきた。
「俺も同じく囚われの身なので、籠の鳥でも慰めようか……と」
「誰が!無礼者。さっさと出てお行き!」
エディラの強い口調にエトワールは軽く首を竦めてみせた。
そして、エトワールは全く無視して、竪琴を弾き始めた。イングリアの古い謡だった。何曲か続けて弾いた後、エトワールがちらと目を上げるとエディラの瞳には大粒の涙が浮んでいた。素知らぬ顔で、エトワールは呟いた。
「小鳥が大空を飛ぶには、翼を休めて機会を窺え」
はっと、顔を向けたエディラの瞳には既に涙は消えていた。にっこり笑ったエトワールは手近の篭から果実を放り投げて寄越した。それは見事にエディラの膝に落ちた。
「ファナディーア様は俺の竪琴を聞く時、どんな歌も涙されるんだ。哀しい歌も楽しい歌も。哀しい歌はシィエン様を想って。楽しい歌はシィエン様とそして君との思い出を想って」
エディラは果実を手に取って、香りを確かめるように顔に近づける。
「シィエン様が。先の国王が亡くなられた後を引き継いだファナギーア様は臣下の前で泣く事が出来なくなってしまったんだ」
竪琴の音が柔らかく響く。
「皆、それを知ってるから、俺の様な者が自由に城に出入りさせてもらえるんだ。そして、ファナギーア様は誰よりも君のために歯を食いしばってでも王国を守っているんだ。だから、君は生き延びて無事に国に帰らなければならない。女王陛下だけではなく多くの民が今、君の無事を祈っている」
エディラは一口その果実を齧った。初めて口にするものだったが、甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がった。エディラは静かに泣きながら齧り続けた。
エトワールはエディラが食べ終えるまで静かに竪琴を弾いていた。




