往路編
空は久しぶりに気持ち良く晴れている。ここしばらく降り続いた雨も嘘のように雲一つ無い。目に見える限りの家々や植え込みは朝日を受けてきらきらと輝いている。そして目の前に広がる海はエメラルドの輝きを湛えている。イングリア島の夏はこれから始まる。
ここイングリア島最大の港町ベリアの港は、先を争うように入港する大陸からの大小の船によって多いに活気付いている。しかし、その喧騒からは離れたところにベリアの軍港はあった。世界最強ともいわれるイングリアの軍港だけあって、その威容もなかなかのものである。桟橋には幾艘もの軍船が繋がれ、それぞれに補給や補修を受けている。けれども「女王陛下の無敵艦隊」とも呼ばれる自慢の船はそのほとんどがこの大洋のどこかでそれぞれの任務についている。
今、この軍港に繋留されている軍船の中でも中規模の船が慌しく出港の準備に追われている。既に、上甲板はきれいに磨かれ、巻き取られている帆も補修がなされている。そして今この船の桟橋で10人ほどの船員が整列している。
「……諸君はぁ、海軍士官学校の最終課程をこの軍船に実際に乗務する事によって士官として……」
指導教官の声が青空に拡散されて虚ろに聞こえる。
(あぁ~もうサイアク)
サグレスは教官の話を聞いていない。
(よりにもよって、コイツが指導教官なんてなー最低だー)
サグレスの胸にはいびりにいびられた士官学校生活が思い起こされた。しかもそのほとんどが、貴族の子弟ではないという理由からだった。そのぐらいでいじけてしまうようなサグレスではなかったが、外洋訓練と言う新天地に期待もしていただけに、しょっぱなからのこの仕打ちはあまりといえばあんまりだった。
(それでも俺は絶対偉くなってやるからな!誰よりも偉くなるんだ)
「以上」
ぼんやりしていたサグレスは教官の声に現実に引き戻された。一瞬目をぱちくりしてしまった。幸いな事に教官は気づかなかったようだ。
教官と入れ替わりに、教官の後ろに控えていた人物が前に出た。なかなかに美人で頭も良さそうだが男装しているのが不思議と言えば不思議だった。サグレスには教官の秘書に思えた。
「<我が女神号>にようこそ。私はこれから皆さんが乗船するこの船に乗務している士官候補生副長のエスメラルダといいます。何か分からない事がある時は遠慮せずに聞いてください。そしてこれからの航海が皆さんの最終訓練になります。また、船上では上官の命令には絶対服従になります。僅かな判断ミスが命取りになります。このことだけは肝に命じておいてください。それでは一日も早く士官に昇格出来るようにお互いがんばりましょう。教官この後の指示は……」
この挨拶を聞いてサグレスは思わず開いた口が閉まらなかった。まさか、こんな美人が男でしかも先輩に当たるなんて!他の候補生達も意外だったらしく一時空気がざわついた。
しかし更に意外だったのは指導教官の態度だった。エスメラルダの視線を受けて急に教官はおどおどし始めたのだった。
「いや、その……う、うむ。それでは、私は残りの仕事があるので...」
「教官、今回は乗り組まれないのですか?」
「今回の候補生は、優秀なのでその必要はないだろう。では私はこれで」
教官はほとんど逃げ腰でもごもごと口の中でつぶやくとそそくさとその場を離れてしまった。サグレス達にはなにがなんだか解らない。指導教官も無しにこの先の訓練はどうなるのだろう?
エスメラルダは小さくため息をつくと、サグレス達に向き直った。
「ということだそうです。この後は船内の食堂に移動。昼食後全員出航準備のため甲板に集合するように。以上解散」
この先一体どうなる事かと、サグレス達新米士官候補生達の胸に早くも不安が押し寄せてきていた。