街灯
授業で生物の走光性について習ったとき私が考えていたことは、学校からの帰り道によく見かける女性のことだった。
教師曰く、蛾やなんかの夜行性の虫が光に向かって飛ぶのは、一定の高さで飛び続けるためであるらしい。授業の後で天下のウィキ先生に詳しく尋ねたところ、空の高みから降り注ぐ光に対して一定の角度で飛ぶことで高さを保てるはずが、人工の光が放射状に放たれるために虫たちは光源に体当たりすることになるとのことだった。つまり夜人工の光に集まっている彼らの有様は、彼らの望みではなく、そうせずにはいられないだけのことなのだ。
スマホの画面に映し出された文字を斜め読みし、昼間の授業も思い出しながら、あの人もそうなのだろうか、と私はぼんやり考えていた。日はすっかり沈んでしまっている。田舎道のことで周囲には田植え前の田んぼが海のように黒々と広がっている。わずかな民家の明かりといくつかの街灯の光だけが星と同じくらい遠くにぽつぽつと見える以外、風景は闇に塗り込められている。部活の後片付けをしてやおら帰路につく頃には、同じ通学路を使う生徒もすでにおらず、月明かりとスマホを頼りに足早にこの道を歩くのが少し前までの私の帰宅風景だった。
この通学路のあまりの暗さに、保護者から要望があったのか、何本かの街灯が設置されたのは数ヶ月前のことだ。しかし設置された街灯の数は充分とはいえずその間隔はかなり広い。そのため、街灯に辿り着いては闇に慣れ始めた目を最初の状態に戻され、次の街灯までの暗闇に放り出されるということを繰り返す羽目になってしまった。光源ができたというのに、体感的には街灯が設置される前より帰り道が暗いものになってしまった気がする。
けれど私にとってより問題だったのは、街灯が設置されてからというもの、ほぼ毎日同じ女の人とすれ違うようになったことだった。
彼女はいつも街灯の下にいる。丁度暗い道に差し掛かる地点と我が家との中間あたりにある街灯の真新しいLEDの光の中にぴったりと収まるように立っている。暗闇をかき分けるように歩いていると、突然目の前に彼女が現れたように見えて、最初に彼女とすれ違った時、私は思わず声を上げてしまった。彼女はちらりと私を見て会釈しただけで何も言わなかった。その日の後も彼女は頻繁に街灯の光の中に現れた。よく目をこらせばかなり離れた場所からでも彼女が光の中に立っているのが見えるから、湧くようにそこに現れているわけではないことは直にわかった。
しかし、そんなことが幾度も起き、何度すれ違っても彼女が同じ服を着ていることや、その街灯の下からは決して動かないことに気がついてしまえば、彼女が生きている人間なのだと思うことは不可能だった。だからと言って、彼女が悪意のある存在だとも思えなかった。彼女はそこに立っているだけで、こちらからアクションを起こさない限り私に目線をやることさえしない。そこにいるだけの彼女はそう時間をかけずに私の日常の一部となった。もちろん死んでいる人間の傍を毎日通るのは気持ちの良いものではなかったけれど、闇の中に浮かぶ光の下でかすかな存在感を主張しているだけの彼女の姿を見ていると、積極的に排除しようという気にもならなかった。
だから、私は生物の走光性の話を聞いたとき、なるほどそういうことなのかもしれないと思い、それを確かめてみようと考えたのだった。この世の者ではないのであろう彼女が、それでも現実の光の下に佇み続ける理由が、もしも夜行性の昆虫と同じように、そうしようとは思っていなくてもそうせずにはいられない何かしらの性質に由来しているのなら、わずかに抱き続けていた彼女への恐怖を完全に払拭してしまうことができるかもしれないと期待して、遠い街灯の下に今日も彼女がいるのを認めた時、私は死者に話しかけることを決心した。
彼女はいつもと全く変わらなかった。無闇に明るい街灯の光のバリアの中に身を寄せるように、少し肩を落としてうつむき気味に立っている。私にはその姿がはっきりと見えてはいたけれど、もしも触ろうとしたなら揺らいで消えてしまうのではないかという程度の厚みしか感じないこともまた事実だった。
私は警戒されないようゆっくりと近づき、彼女の正面に立った。彼女が視線だけをそっとこちらに向けたのが分かった。私は一度ごくりと唾を飲み込んでから、
「あなたはなぜここにいるのですか」
と一息に尋ねた。
彼女は長く垂れた髪の隙間から覗く目を少し見開いて、何を聞かれているのか分からないというように首を傾げた。その動作は想像していたよりもずっと人間的で、私はそのことに勇気づけられるように言葉を続ける。
「ずっと気になってて、あのつまり、この街灯の下にいるのはどうしてなのかってことです。私にはあなたは光の下に避難してきているような、そんな風に見えていて…」
彼女はそこまで聞いてから、ああというように少し口元を緩めた。これまで感じてきた様々な異常性を考えなければ、生きている人間と何も変わらない表情だった。もしかして全ては私の勘違いで、この人はただの人間なのかもしれない、という考えまで一瞬頭をよぎった。けれど彼女はゆっくりと、言い含めるように言った。初めて耳にする彼女の声は動物が低く喉の奥を震わせているような響きをもっていた。
「光の下に、私がいるんじゃない、のよ。私だけの上にたまたま、光が置かれたの」
それは私が考えていたような答えではなかった。光が置かれた、とはどういうことだろう。街灯が設置される以前から彼女はここに佇んでいたということだろうか、いやそれより、私だけ、とはどういう意味なのだ。彼女以外に誰がいると言うのだろう。
「それは、どういう」
混乱する私をよそに、彼女はぶおんぶおんと勢いよく顔を左右に振って自分の周囲を見回した。つられて私も周囲をうかがう。けれどそこには日々の生活で馴染んだ闇があるだけだった。街灯のすぐ傍にいるせいで、闇はその中にいる時よりもずっと濃い。
「そのままの意味よ。少し前に街灯が置かれた。だから、あなたには私が見える。そうでない場所にいる者は、見えない。暗いから。そういうこと」
見えない。暗いから、見えない。私には彼女しか見えてない。
私はその言葉を頭の中で反芻するうちに、彼女から目を離すことができなくなっていた。そうしていないと、私と彼女が佇む光の外側の空間に絡め取られてしまいそうだった。
「何、どういうこと。誰も、何も、いないじゃない」
言葉の終わりが震える。彼女はふっと笑った。さも可笑しいという感じの屈託ない笑い方だった。
「いるわ、私たちはいる、ずっと前から、この道が、私たちの場所だから。私たちは、いるのよ」
ほら、と指さす彼女の指先を私は思わず追ってしまった。そこには闇があった。いつも見ているのと同じ、田舎の夜があるようにしか見えなかった。
ふふ、ふふふ
ふいにどこからか忍び笑いが聞こえた。声は次第に増え、幾重にも重なり合って、闇を揺らめかせる。
私たちはいる
もう一度頭の中にその言葉が響いた瞬間、私は何かを振り切るように、ずっとお守りのごとく握りしめていたスマホの液晶の光を勢いよく背後の闇にかざした。小さなディスプレイの光は思いがけない強さで地面を照らし出した。
足、だった。彼女と良く似た細さの白い足が、二本一組になっていくつもいくつも地面から生えていた。靴をはいているものもあれば、土で汚れた裸足もある。それは小さな光源が照らし出した範囲の外側までずっと続いているような気がした。ささやくような声が一層大きな波となって覆い被さってくる。
「ほら、ねえ」
笑いを含んだ彼女の声を背中で聞きながら、私は光に向かわずにはいられない虫は自分だったのだと知った。