診療所A ⑤
④
あんまり「かわいそうだね」と言われすぎると本当にかわいそうな夢に破れた大したことのない才能のない愚か者に自分が思えてしまいます。わたしはかわいそうな子でしょうか。就職もできない仕事も上手くこなせない夢も叶えられない家族に頼りきりの馬鹿でかわいそうな子でしょうか。口だけのかわいそうな子でしょうか。苦労を知らない温室育ちのかわいそうな子でしょうか。言い訳ばかりのゆとり世代のかわいそうな子でしょうか。自分の好きなことだけにお金を使っている贅沢者のかわいそうな子でしょうか。結婚もできないかわいそうな子でしょうか。嫌われ者の性格の悪い器量の悪いかわいそうな子でしょうか。かわいそうなかわいそうなかわいそうな、
そんなに同情して蔑んでもらえるほどかわいいかわいそうな子ではないと思います。
ありがたくもいただいた人生を精一杯走ることもできないただの不孝者です。不細工な表情でちくちくと日記を書くことくらいしか楽しみがなく、その趣味も世の人のために使えない不孝者です。すべてはただ、わたしの被害妄想なのです。
「姉はこの日記を最後に姿をくらましたのです、先生」
「今、お茶を出しますね」
「わたしは姉に何をしてやればよかったのでしょう」
わたしは彼の靴をじっと見ていた。きれいな革。買い換えたばかりだろうか。陽のひかりを反射してつややかだった。
「コーヒーと緑茶、どちらがいいですか?紅茶もありますよ」
「なにもしてはいけなかったのです。なにをしても姉はこうなっていたのです」
「野菜ジュースもあります。僕は野菜ジュースを飲もうかな」
「姉は自分が病気であることを知りながら誰にも診せず治療しませんでした。姉はどこかで死んだのでしょうか。死んだとすればこれは自殺です」
「うちのお手伝いさんが最近お菓子作りにはまってるんです。上手なんですよ。今日はクッキーをこんなにたくさん!」
「先生、自殺した人間の魂は地獄に落ちると言います」
「美味しくてパクパク食べてしまうのですがなにせこんなにたくさんですから全然減らないんです」
「先生、姉は今ごろ地獄でしょうか」
「もうすぐお昼なのに、ずっとクッキーつまんでるからお腹が空かないなあ」
「先生、姉の声が聞こえます。姉の匂いがします。わたしに彼女が染みついているんでしょうか。でも姿は見えないのです」
「この茶色いのはココア味です」
「わたしは、会いたいのに」
「最近、暑くなってきましたね」
「……先生」
「まだ朝は少し肌寒い」
「先生」
「風邪をひかないようにしなくては」
「……このお紅茶、とっても、おいしいです」
「そうでしょう。お手伝いさんはお茶をいれるのも上手なんです」
「すごく、とっても」
「ええ」
「先生、」
「はい」
「姉の日記をどうしたらいいでしょう。捨てたくなんて、ないのです」
「埋めましょう」
「はあ」
「日記とはたぶん、秘密で、しかしたまに人から触られて、しかし書いてあることの奥は自分だけにしか読むことができず、しかし蔑ろにされたくなくて、形があって」
「ひっそり、こっそり、でもしっかり、どっしり」
「そう、だから」
「……そうですね。埋めます」
「よかった。よし、ここの庭に埋めるといい。ちょうど綺麗に花が咲いるんです、その下に。一緒にやりましょう。スコップを用意しなくては」
「先生」
「お姉さんが帰っていらっしゃって掘り起こすときにわかりやすいところがいいですよね。まあ、その前に。どうぞクッキーを。なんせこんなにたくさん!」
「一人で食べたらメタボになってしまいますね」
「そうなんですよ!」
「いただきます」
「どうぞどうぞ!さて、スコップはどこにあったかな」
「先生」
「納戸かなあ」
「先生、とっても、おいしいですわ……クッキーも」
診療所の窓の外に見える花、あれはたしか木香薔薇だ。あの下に。
秘密は薔薇の下に。
「ええ、そうなんです」
やわくはにかんだ先生の口元にはたくさん、クッキーのくずがついていた。姉さんが好きそうな人だわ、ねぇ?
姉さん。
おわり。
登場人物紹介
[診療所従業員]
陽子…女性。診療所のお手伝いさん。料理よりもお菓子作りが好き。得意な家事はお掃除。医療的な資格は持っていないが治療や出産の手伝いをすることもある。同僚や常連の患者さんからはいじられかわいがられている。
先生…男性。診療所の所長。医者ではない。他には言えない悩みを抱える患者の話を聴くのがいつのまにか仕事になっていた。鈍感。後藤寺は大学時代の友人。人望が厚い。ケーキなど甘いもの好き。
名子…男性。診療所のスーパードクター。けだるげだが腕はたしか。なんでもこなす。プータローをしていた頃に先生に声をかけられ、診療所で働くようになる。空気清浄器に「サワラ二号」という名前をつけて愛用している。愛煙家。ビジュアルは闇医者だが、医師免許はちゃんと取得しているらしい。
後藤寺…男性。診療所の新メンバー。医師。現在は恋人と駆け落ちして同棲している。駆け落ちする前は大病院の小児科で働いていた。育ちが良い。
[診療所の患者]
まささん…男性。元気なご老人。恋人がたくさんいる。現役バリバリである。お金持ち。出産する恋人に立ち会う常連さん。
青年…恋人は魔女ではないかと疑っている。
ファイトクラブの人たち…近所の闇ファイトクラブで闘う戦士たち。老若男女さまざま。生傷を作っては診療所を訪れる。体育会系。
妹…女性。陽子の妹。陽子の日記を持って診療所を訪れる。
ありがとうございました。