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彼女には触なかった。記憶は抜け殻にすぎなかった。姿形が似ていようと少女の熱を感じることはできない。さまよう拝島の視線の糸は美しい女性に引きよせられる。
黒い帽子、黒い服、黒い瞳、微笑み浮かべる女性が描かれたエドゥアール・マネの描いた肖像画『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』。互いに好意を持っていたはずなのにエドゥアールの弟と結婚したベルト・モリゾ。マネが描く彼女が好きで、拝島は複製画を買って部屋の壁にかけていた。夢から覚めた虚脱感から人との繋がりを求め、彼はその絵から作者の心に触れようとした。
過ぎるしかない時を、変わり続ける感情を、記憶という抜け殻にせずに物質という枠に固定すること、それは現実的に不可能である。そう考えながらも、拝島は部屋の本棚に並ぶ数百の蔵書を眺めて不可能を行ってきた人々がいるのだと信じられた。子供じみたその考えは友人に馬鹿にされることも多く、彼自身でさえ愚かさを認めていた。だが彼はその想いを捨てられなかった。
夏目漱石の全集が目に入ると、彼はクローゼットをあさって高校の卒業アルバムをとり出した。クラスのページを開き顔と名前を確認していく。……釜田優太……矢部三次……渡辺小夜。少女の顔写真を見て何も感じないことに拝島は驚く。写真の中のベルト・モリゾと同じく、それは彼にとって冷えきった抜け殻に過ぎなかった。
卒業アルバムの顔写真と繋がるのは先週出会ったスーツ姿の女性だった。彼女が渡部であるならば未だ就職活動を続けていることになり、同窓会で苦労話を共有できるかもしれないと拝島は考えた。直ぐにその空想をつまらないものと放棄した。
暖かな空気を貪るように雨粒は猛々《たけだけ》しく地面へ向かい、交響曲の音色さえもたいらげいく。台所で煙をふかしながら拝島は愛おしげに本棚を眺めた。古本屋が二束三文で引き取るであろう金銭的価値のないガラクタの山でも彼にとっては大切なものだった。
紫煙をスクリーン代わりに澄みきった少女の幻を投影する。渡部ならばあの想いを共有してくれるような気がした。彼女がトーマス・マンの小説をどう読み、マーラーの交響曲をどう聴くのか、考えるだけで胸が弾んだ。まぼろしの少女が彼へと笑いかける。お互いの知識と意見を共有し、二人の喜びと悲しみをまぜあう日々は、どれだけ素晴らしいことだろう。がらんどうの彼の胸を紫の霧が満たしていく。
雷鳴が轟き、低い音を立てて部屋を震わす。力ない霧は散ってしまう。どしゃぶりの外を見やって家に居続けるのも悪くないと拝島は思った。天気を確認するために携帯電話を開くと一通のメールが届いていた。
『拝島様……慎重に検討いたしましたが、残念ながらご希望に沿えないこととなりました。悪しからずご了承のほどお願い申し上げます。』
先日志望した企業からそうお願いされた。拝島は吸いかけの煙草を乱雑に灰皿の底で潰す。もう慣れきったはずのやり取りに彼の胸は殴られたかのように打ちのめされていた。
俺は一体何をしている? 何をしてきた? 何もない。拝島はそう答える。少女は弱々しい目で彼を見た。夕焼けの一瞬は彼の感覚を外に開き、心を開拓して広くしたものの、それを満たすものを与えはしなかった。
空想の霧で現実を包みこみ、空しさをごまかすことを覚えた。だが現実には何もない。彼に何も価値を与えない。まぼろしのすみかである煙は換気扇に吸い込まれていく。
これから先、俺は何をするのだろう。事実から目をそらすことだけが得意な俺に何が出来るのだろう? 現実的な脅威から彼を守り癒してきたのは、他ならぬ空想の産物だった。そうして拝島は傷つつかない日々を送ってきた。
今の彼は知っている。苦労こそが人を成長させるということを。自分が創作物を逃避に使ってきたことを彼は認める。
少女との出会いから空想の喜びを教えられ、拝島はそれを探求するために文学部に入った。その喜びさえも逃避から生じた偽りのものだと感じ始めると、彼はあのとき彼女が隣に居てくれたことさえも嘘のように思えた。
何もない。俺は阿呆だ。小説なんて読むのを止めて新聞をとれと父親が言った。曖昧でなくしっかり志望理由を考えろと就職課の職員が言った。履歴書を締め切り間近まで書かず、面接後の反省も終わったことと放置した。全て先のことと後回し、未来の自分に放り投げ、彼は手の届かない空にばかり想いをはせてきた。
空想は誰もが愉しむだろう。だが、子供を過ぎた人々は絵空事と現実にはっきり境界線を引く。その境目を無視して目先の楽しめることを彼は優先してきた。目的地へ行くため若者はつらい道さえ選び、汗をかき、傷を作る。拝島は自分との違いを思い浮かべ、強い無力感に苛まれた。
文学という語感が有益なものに思えた。読書する時間を価値あるものと捉えてきた。しかし、それが現代社会において何の役に立つ? 自分がただの読書家であり、小説家になる才覚もなく、学歴も高くないがために大手の出版社には入れず、中小の出版社も貧弱な学生は求めていないことを彼は知っている。そんな人間にとって小説は暇つぶしと慰めにしか過ぎないということも知っている。では、もっとすべきことがあったのではないか。なぜ、そうしなかった?
疑問が彼を蝕む。だが、彼の心は飲まれなかった。心の奥ではどこかで創作物に救いを感じていた。その一方で、その考えこそが自分に深く根を伸ばした巨大な空想のように思えた。空想、空想、空想。空への想い。空っぽな想い。
胸にはびこる嫌悪感は、愚かな自分への憤りであり、空想に捧げたものへ見返りがないことへの怒りなのかもしれない。彼とてこの現状を望むわけではない。醜い感情を立派な義務感にこしらえようとした。
携帯が震える。同窓会への出発時刻を伝えるアラームが行進曲のように彼をせかす。進め。彼は己にそう叫ぶ。タバコを箱ごとゴミ箱に投げ捨てる。ゴミを捨てろ。そして前に進め。灰の山を捨てていく。
全ての創作物が少女に通じ、太陽を中心に惑星が回るように彼女から展開されていると拝島は感じてきた。今なお黄金のように輝く太陽を叩き壊すことで、彼は仮象の天体模型の檻から抜け出ようとした。その機会は正に今しかないように思われた。空想の天敵が現実ということを彼は知っていた。
拝島は扉を開く。あの夕焼けの少女を殺すために。