番外編(弐) 夜間飛行
本作品は、東日本大震災の復興支援チャリティ企画 One for All , All for One ……and We are the One
オンライン作家たちによるアンソロジー~ に参加した作品です。企画終了にともない、手元に戻ってきましたので再掲載致します。
「本当に今から、散歩に行くんですか? もう、真夜中ですよ?」
リビングのテーブルでノートパソコンを睨みつけていた湊は、いそいそとコートを着こむ紫苑を、怪訝そうに見上げる。
紫苑は湊のコートも取ってくると、強引に羽織らせた。
「真夜中だからいいんですよ。湊さんも周りを気にせずに歩けるでしょ?」
草木も眠る丑三つ時、季節は秋、そしてハーフムーン。
湊さんと散歩に行くには絶好の条件だ。
湊さんは強い日差しに当たれない、犬が散歩しているのに出くわすのもあまり好ましくない。特に犬は、湊さんの気配に敏感で吠えついてくるので要注意だ。
なぜならば、彼はゾンビだからだ。
だからと言って、腐臭がしたり、いきなり襲いかかってきて人を食べたり、そんなことはしない。ただ、心臓が動いていなかったり、手足がとれても針と糸で縫いつければすぐに使えるようになったり、食べたものがそのまま肉になり飲んだものがそのまま血になったりするだけだ。あと、どうやったら死ぬのか分からないらしいので、今のところ不死身という事になっている。
私は、とびきりミルキーフェイスで、とびきり優しくて、とびきり頼りになる、ゾンビの湊さんと暮らしている。
半分だけのお月さまが優しく淡い光を落とす早秋の夜道を、二人でゆっくり歩く。
半月はいい。満月のように明るすぎず、新月のように暗すぎない。月面のクレーターを観察するのは、半月が一番良いのだそうだ。真実の姿を隠さない弓張月。
秋の初めの冷ややかな風には、金木犀のいい匂いが濃密に溶け込んでいる。
紫苑は足取りも軽く川原を目指す。湊はそんな紫苑の後ろをゆっくり歩く。
ススキに似たイネ科の雑草が生い茂る土手の上には、川の流れに沿ってどこまでも続く遊歩道がある。まるで滑走路だ。真っ暗で、先が見えなくて、
――飛びたてるもんなら飛びたってみれば?
とやけに挑戦的で意地悪な滑走路。
「私ね、ついてないなぁと思う時はいつも、自分は今、飛行機の操縦をしているんだって想像するんですよ」
「飛行機の……操縦ですか?」
ゆっくりと土手を登ってきた湊は、不思議そうな顔で紫苑を見つめる。紫苑のサラサラのロングヘアと小作りな横顔の輪郭を、月の光は柔らかなエッジで浮かび上がらせる。
「そう。ついてないのは気流が乱れているせいなんです」
そう言いながら紫苑は湊の腕を持ち上げると、その間にすっぽりと収まった。
「当機はまもなく離陸致します。みなさまシートベルトをしっかりお締め下さい」
「私の腕が、シートベルトなんですか?」
「そうですよ」
澄まして答えた紫苑は、自分を見下ろす湊の柔らかな視線に気づいて釘づけになる。
あぁ、手遅れかもしれない。私はどうしようもなく、この人に惹かれてる。
こほん、と軽く咳払いをすると、紫苑はアナウンス口調を再開させた。
「当機は間もなく乱気流に突入しまーす」
「機長、突入はまずいんじゃ、ないですか? 迂回して、ください」
クスクス笑う湊に、紫苑は口をとがらせる。
「迂回は不可能なんですっ。でも当機は乱気流に慣れっこなので心配無用です。コツは、しっかり操縦かんを握ること。でも浮上しようなんて思っちゃ駄目ですよ? 失速しちゃいますから。ただしっかり前を見て、落ちない事だけを考えるんです」
比較的厚みのあるコートに阻まれて、私の温かい体温は湊さんには伝わらない。同様に湊さんの冷たい体温も私には届かない。
それでいい、そうじゃなきゃいけない。私の体温は湊さんの体の劣化を速めてしまう。
触れあえない、触れあってはいけない。異なった温度。
私はもどかしくなる。
冷蔵庫になれたらいいのに。そうしたら私は、湊さんを適切な温度で抱きしめることができる。
――ゾンビですから。
そう言って寂しげに笑うことが癖になってしまった彼を、抱きしめてあげられる。
黙りこくってしまった紫苑に、湊がおずおずと話しかける。
「どうです? 機長。乱気流はそろそろ、抜けられそうですか?」
湊さんの声に、私の縮こまった気持ちがふわりと解ける。
「……ご安心ください。シートベルトが優秀なので、当機は乱気流の中でも安定飛行です」
「なんですか? それ。シートベルトがいくら、優秀でも、操縦かんを握っている人が、優秀でなければ、飛行機は無事に、飛び続けられませんよ?」
そう言いながら、湊は笑う。
「シートベルトの安心感があるから、私はこうして飛び続けていられるんですよ。湊さんは分かってないなぁ」
「私のシートベルトで、紫苑さんが安心して飛び、続けられるのならば、私は喜んで、あなたを座席に縛りつけて、おきますよ」
湊は紫苑に回していた腕に力を入れた。
あぁ、手遅れだ。ゾンビの自分が、こんな気持ちになる、なんて思わなかった。
心臓なんか動いて、いないはずなのに、ドキドキしている、ように感じるのは、一体どういう仕組み、なんだろうか。
私は腕の中でクスクス小さく笑っている紫苑さんの髪にそっと口づける。
紫苑さんは、小さい頃、自動車事故に遭ったのだ。ご両親は亡くなって、紫苑さんだけが、助かった。当時まだ、中学生だった彼女は、その後親戚に、引き取られたらしいのだけれど、どんな暮らしを、していたのかは、分からない。その時の事を、紫苑さんは決して、口にしなかった。辛い思い出、なのかもしれない。
私は小さくため息をつく。
ゾンビの自分では、大した事を、してあげられない。こんなに、冷えきった体では、紫苑さんの小さな体を、温めてやることすらできない。
触れられない、触れても意味がない。役に立たない体。ホットカーペットの方が、まだましだ。
私は切なくなる。
だからこそ私は、紫苑さんの言葉の中から、自分の存在価値を必死に、掬い上げる。それは、まるで砂礫に混ざった、砂金のように、儚くきらめいて私を、魅了する。私はそのきらめきを、守る為ならば、何だってするだろう。シートベルトにだって、なる。
「はぁ、ダメだなぁ、私ってば……」
紫苑さんが突然ため息をついた。
「湊さんをシートベルト扱いなんてしちゃいけませんでした。私ってば何て失礼な事を……ごめんなさい……頼ってばかりで、ごめんなさい……」
夜空に幽かな轟音が響いて、夜間飛行の赤い光を点滅させた飛行機が、星の海を渡って行くのが見えた。
私は、背後から両腕で紫苑さんを抱きしめた。
「いいえ、私から見たら、紫苑さんは頑張り過ぎな、くらいですよ。一歩でも前に進めたら、よく頑張ったと自分を、褒めてあげれば、いいんです。一歩も進めなかった時は、そこに留まれた自分を、ねぎらってあげて、ください。二、三歩後退した時、だって、それ以上落ちなかった自分を、誇りに思えば、いいんです。紫苑さんが、望むなら、どんな時でも私が、守ってあげます。だから遠慮なく、頼ってくれて、いいんですよ?」
励ましというよりも、ほとんど懇願だ。私は苦笑する。
震えているのは寒いからじゃない。
それは、震えるほどに心を揺さぶられているから……。
頬をつたう雫は雨じゃない。
それは、渇きを癒す甘露にも似て……。
――私たちはいつまでこんな風にしていられるだろう。
堕ちた罠の甘さを知る。
「さぁ、機長、進路をオリオンに、とってください。機長は冷えきって、いるようだから、私が特製の、熱いココアを淹れて、あげますよ」
紫苑さんはクスッと笑って私を振り仰ぐと、
「まもなく目的地周辺です。音声案内を終了します」と言って歩き出す。
「紫苑さん、それカーナビに、なっていますよ? 操縦かんは、どうしたんですか」
「お空の星になりました」
真夜中のクスクス笑い声。空にはハーフムーン。心の中には同じ温もりが……。
(了)