番外編(壱) ゾンビ取扱説明書
リビングのテーブルの上に置いてあるノートを恐る恐る手に取ってみる。私の愛すべき同居人が、この『ゾンビ取扱説明書』を書き始めてから既に二週間が経っていた。
自分がゾンビなどというものである自覚はあまりない。それは、ゾンビという言葉をネットで調べた時の感想だ。そもそも私が死んだのは、刀で切られたのが原因だったはずだ。武士だった……と思うのだ。若(決してバカではない)とか何とか呼ばれていたような気がするのだが、それも定かではない。その頃の記憶がうっすらと残っていた。だからヴードゥー教だのゾンビパウダーだのウィルスだの寄生虫だのとかとは、無関係なはずだったのだ。
しかし、心臓は動いておらず、食べたものがすべてそのまま肉になり、飲んだものがすべてそのまま血になり、手足がとれても針と糸で縫いつければすぐに動くようになるのは、人間かゾンビかと問われれば、それはゾンビだろうとも思う。
私は途方に暮れる。私はどうやったら死ぬのだろうか。
途方に暮れたまま、ノートのページをめくった。彼女の丸くて味わいのある文字を目で追う。
(1)できるだけ匂いのない、新鮮な肉を選んで買うこと。
他のゾンビの方々がどうなのかは知らないが、私の場合、食べた物がそのまま体になるので、まともな外見を保つために、毎日新鮮な生肉を食べる必要があった。焼き肉の方がうまいのだが、香ばしい体になってしまうと、散歩中の犬やパトロール中の猫が放っておいてくれないのだ。
(2)トマトジュースをきらさないこと。
そして、飲んだ物はすべて血になる。本当はメロンソーダが大好きなのだが、顔色が悪くなるし、炭酸ガスが血管の中でぼこぼこ音をたててはぜるので、同居人が怖がってしばらく近寄らなくなるのだ。それでは寂しい。
(3)室温は低めにしておくこと。
これは言うまでもなく、体の劣化を防ぐ為だ。生肉は冷蔵庫に。これ常識。
(4)犬が寄って来たら、早めに教えて避難させること。
犬も猫も要注意なのだ。肉の匂いが彼らを興奮させてしまうらしい。中でも、もっとも注意しなければならないのは大型犬だ。リードを持っている飼主でさえ押えられない場合があるからだ。しかし私の同居人は、犬に関しては実に頼りになる人だ。ある時、押えられなくて襲いかかって来た犬がいたのだが、あっという間に服従させた。ただ、その時の命令が少し引っかかっている。
「おあずけ!」というのは、食べ物を前にした時の命令だと思うのだ。
同居人は今、リビングのソファで眠っている。彼女はとても若い、そしてとても愛らしい。私は時々、これは私のヘンテコな脳みそが創りだした幻なのではないかと思うことがある。ゾンビなんかと一緒に居てくれる、こんな可愛らしい女性がこの世に存在するなんて……あまりにも都合が良すぎないか?
私はおずおずと、彼女の髪に手を伸ばす。
私は人間の匂いを保つために、彼女から髪の毛や爪を提供してもらっている。そうしないと食べた獣の匂いになってしまうからだ。髪は、抜けたものならば、いつでも好きな時に採っても良いと彼女に許可されていた。
ゆっくりと髪を梳く。とれない。もう一度梳く。一本だけ採れたが、一本では足りない。何度も何度も飽きることなく梳く。しまいには、抜け毛を集める為ではなく、彼女の髪を梳くことの方が目的になっていたりする。滑らかで指どおりの良いしなやかな髪。甘やかでいい匂いのする肌。
彼女が身じろぎをする。起こしてしまったか……。
「うん? ううん?」
彼女がぼんやりと目を開けた。鼻をひくひくさせている。私はギクッとして手を引くが、彼女は俊敏な動きで私の手を捕まえた。寝起きが良くない癖に、こういう行動だけは素早い。彼女は虚ろな瞳で私の手を凝視する。
「アップルパ~イ」
彼女は寝ぼけ声でそう呟くと、はむっと私の手に噛みついた。
「紫苑さん! 私はアップルパイではありませんよ。起きてください。私なんかに噛みついてゾンビになっても知りませんよっ」
彼女に付き合って、さっきアップルパイを食べたばかりだった。噛みつかれていない方の手を嗅ぐと、確かにうっすらとアップルパイの匂いがする。彼女が一緒に住むようになって、ケーキやお菓子を食べる回数が劇的に増えていた。
余程眠かったのか、彼女は手に噛みついたまま再び眠りこんでいる。
彼女に噛みつかれたのは実はこれが初めてではない。だけど、彼女がゾンビになることはなかった。
もしかしたら、死んだあとにゾンビになるのかもしれない。それならそれでもいいかと思いなおす。
彼女と居るととても楽しい。自分がゾンビであることすら楽しい。
彼女の隣、それが私の一番居たい場所なのだ。