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第四話

 注) 本文には『マザー・テレサ 愛のことば』からの引用文が含まれています。


「紫苑ちゃん、奥からポテトをとってくるから」

 店長がそう言って奥に引っこんで、紫苑がはーいと気持ちよく返事を返したのと、その男が店に入ってきたのはほぼ同時だった。


 その男の格好を見るなり、紫苑に緊張が走る。こんな暑い夜に、黒い毛糸の帽子にサングラス、黒いジャンパーを羽織っていたからだ。まさに全身黒ずくめ。でもそれは決して羽島ではなかった。もっとずんぐりした感じの中年の男だ。


 羽島はすらりとした長身で、顔色こそ悪いが鼻筋の通った精悍な顔で、笑うとなかなか愛嬌のあるミルキーフェイスになる。トマトジュースを飲んだ直後が見ごろだ。


 店内に入ってきた男は、一人っきりなった紫苑に足早に近づくと、ジャンパーのポケットから取り出したバタフライナイフを突き付けた。

「金を出せ、あるだけ全部だ」

 男は低い声で唸るようにそう言った。


 ええええ~? コンビニ強盗? マジ? どうする? ど、どーしよ~。


 硬直して奥に居る店長に視線を投げる紫苑に、男は更にナイフを近づけた。店長も異変に気づいたらしい。慌てて奥から出てきたが、男に動くなと威嚇されて、半泣きの顔で硬直する。


 男に命令されて、紫苑はのろのろとレジを開いた。紫苑の震える手が、男の用意していた黒いカバンに売上金を入れようとした、まさにその時、店のドアが開いて人が入ってきた。男と同じ黒ずくめの男だ。仲間がいたのかと店長の顔が更に強ばり、紫苑は逆に震えが止まってポカンとする。


 羽島さん? どうしてここに……。


 黒子の羽島は、ついて来ても決して店の中には入ろうとしなかった。だから、送り迎えだけで、その後は家に帰るか、どこかで時間を潰しているのだろうと思っていた。


 羽島は、何事も起こっていないような自然な足取りで、カウンターまでゆっくりと歩み寄ると、強盗が突きつけているナイフの刃を何のためらいもなく素手で掴んだ。


「すみません、この人にそんな危ないものを、向けるのはやめてもらえますか? なぜならば、」

 羽島は、今夜も熱帯夜ですねぇなどと、まるで世間話でもしているかのような穏やか口調で話しかけながら、ナイフを男から取り上げた。

「彼女は私の大事な人なので……」


 ナイフの刃を握った手から、ぼたぼたっと血が滴り落ちる。男はそれを見て、ひぃぃーと叫んで、店を飛び出した。


「手っ! 血がっっ」

 紫苑は慌てて落ちた血、ではなくトマトジュースを素早く布巾で拭きとると、同様にナイフについたトマトジュースも拭きとった。

「紫苑ちゃん! 凶器に触ったら駄目だよ! 今警察を呼ぶからっ」

 店長が慌てた様子で奥の電話を使い始めた。


「羽島さん……」

「騒ぎが大きくなりそうですから、私は外で隠れています。待っていますから、絶対に一人では帰らないでくださいね」

 そう言い残すと、羽島は店を出た。


 それからは、羽島の言葉通り大騒ぎだった。警察や野次馬などで店はいつもよりもごったがえしている。紫苑は、凶器のナイフを拭いたことをがっつり責められ、羽島の身元を問い正された。ナイフの件は、拭いたのは柄ではなく刃の方だったし、血に動揺していたと言うことで平謝りに謝って収まったが、羽島に関しては知らぬ存ぜぬで通して、かなり問い詰められた。


「だって、紫苑ちゃんの事を大事な人だって言ってたよ? 君をいつもつけてる心配症の彼なんじゃないの?」

 店長はじれったそうに紫苑を追及する。

「でも……私……あの人、知らないし……」


 身元を晒してしまえば、困るのは強盗よりも羽島の方だろう。強盗の方は、盗みも傷害も、すべてが未遂で終わっている。ゾンビを傷つけても傷害罪は適用されるのだろうか? 限りなく否定的だ。器物損壊罪? ひょっとすると死体損壊罪になるのかな? 微妙だ。そんなことよりもゾンビだと知られた後の羽島の方が心配だった。あの平和で穏やかな暮らしが損なわれることは目に見えている。


 お陰で、被害者なのに紫苑は散々取り調べられた。結局、大した被害は無かったからと、やっと解放された頃には、もう日付が変わろうとしていた。


 □■□


 送ると言ってきかない店長に、親戚の人が迎えに来ているからと断ってようやく店を出た。


 紫苑が店から出ると、夜陰に隠れていた黒子の羽島がすぐにやって来た。

「随分遅くまでかかりましたね。お疲れさま」

「羽島さん、今日は本当にありがとうございました」


 かなりな量のトマトジュースを失ったからか、羽島の顔色は凄く悪い。だけど、ニコッと笑った見ごろでないミルキーフェイスに、紫苑はひどくホッとした。

 慣れたのかな……。


「私が出て行ったせいで、逆にかなり困ったんじゃないですか?」

 羽島は心配そうに紫苑を覗きこんだ。

「いえっ、ちっとも。私ね……羽島さんが来てくれた時、本当に心からホッとしたんですよ。羽島さんは単に契約不履行を恐れたのかもしれませんが、私はとても嬉しかったです」

「……私は単に紫苑さんが心配だったんですよ。特に、ナイフを突き付けられているあなたを見た時は頭に血が上りました。あ、血ではなく実際は、トマトジュースですが……」


 羽島さんってば、心配してくれてたんだ。だから、いつもついてくるの? そしていつも終わるまで待ってくれていたの? 私の代わりなんていくらでもいるだろうに。こんな、ほぼ何もメリットもない私なんかの為に……。


 紫苑は、硬く握りしめたままの羽島の手に、ふと気がついた。

「あ、そうだ! 羽島さん、手は大丈夫ですか? 見せてください」

 羽島の右手の掌はざっくりと切れていた。血は、否、トマトジュースは止まっているようだけど、骨が見えるくらい深く切れている。痛くないのかと訊いたら、痛くは無いと羽島は悲しそうに答えた。

「帰ったら、私が縫って上げますよ」

 そう言ったら、羽島は嬉しそうに笑った。


「羽島さん、よく強盗だって気付きましたね。近くに居たんですか?」

「いえ、駅前の古本屋で立ち読みをしていました」

 それほど距離は無いが、コンビニの様子が見える位置に古本屋は無い。

「え? じゃあどうして強盗だって分かったんですか?」

 紫苑の問いに、羽島は少し躊躇ってから、ぼそぼそと言った。

「……匂いが変わったので……」

 匂い? 強盗の匂い?


「いえ、強盗の匂いではなく、紫苑さんの匂いです。私は異常に鼻が効くようなのです。特に紫苑さんの場合は、普通の時や、喜んでいる時や、悲しんでいる時の匂いを知っているので、いつもと違う匂いに変わった時点で、何かがあったのだと、そう思ったので急いで行ったのです」

 羽島の説明に紫苑は絶句する。それって、匂いで気持ちを読まれるってこと?


「あ、あの、紫苑さん、困ってます……よね? 大抵の人は、それを知ると困った顔をしてそして……私から遠ざかってしまうのです。しかし、あの、完璧に他人の心が分かる訳ではなく、あの、その、なんとなくなんですよ? なんとなく……」

 追い詰められたような顔をして、言い訳めいた言葉を並べたてる羽島に、紫苑は泣きたくなった。羽島さんは人助けをしたのに……。


 本来ならば、警察で表彰されても良いくらいの行動だったのだ。だけど身分は明かせない。なんて理不尽で孤独な身の上。唯一理解してくれていたお父様が亡くなって、羽島は本当に困っていたのだろう。


「……羽島さん、私、コンビニのバイトを辞めてもいいですか? そして可能ならば、お言葉に甘えさせていただいて、車の免許をとらせて下さい。しばらくは、私、羽島さんのお手伝いがしたいですよ」

 羽島は、数秒ぼんやりとした顔をしてから、ミルキーフェイスで破顔した。

「願ったりかなったりです」


 マンションに帰りつくと、玄関のドアの前に何かオレンジ色の実をつけた鉢植えが置かれていた。

「あぁ、ホオズキですね。そう言えば、今日はホウズキ市だから、後で届けると沢井が言ってました」


 沢井氏とは、今羽島の会社を任せている人物なのだそうだ。

 会社を任せている? 紫苑は首を傾げる。


 羽島の仕事を聞いて、紫苑はぶっ飛んだ。羽島は会社を立ち上げるのが趣味だったのだそうだ。戦後すぐに始めた会社がかなり大きくなって、かなり多種多様な事業を展開しているらしい。つまり、会社の社長ではないけど、会長であるということらしい。


 この年恰好で会長? そりゃ、誰も信じないでしょうよ。どれほど多く見積もっても、羽島は三十代くらいにしか見えなかった。


「本当なら自分で、色々やりたい所なんですが人間なら、もうかなりな年寄りに、なっている頃でしょう? 今は、電話やパソコンと言う便利な道具があるので、顔を出さなくてもある程度指示を出せば、後は誰かがやってくれるんですよ」

 昔は何をやっていても、いつまでも年をとらないことを不信がられた時点で、蒸発したり、死んだり(もちろん偽装だ) しなければならなかったのだと言う。

「自分が始めた仕事なのに、再度丁稚からやり直しなんて事が、よくあったんですよしかし、今なら文明の利器を使って、どんな偽装もできますから、良い時代になったものです」


 丁稚……一体いつの時代のことですかっ。歳はいくつなのかと訊いたら、定かではないが、戦国時代くらいから記憶があると言う。紫苑はくらりと気が遠くなった。


「そうだ、羽島さん、手を縫いましょうか」

 気を取り直して紫苑がそう声を掛けると、羽島は無言で頷いたが、少し首を傾げてこう言った。


「羽島ではなくもしよければ、湊と呼んでもらえませんか? 羽島は父の姓であって、私の本当の姓ではないのです」

「え? そうなんですか。本当の姓は何なんです?」

九戸くのへと、いうのですが、この姓にも色々思うところがあるので、湊と呼んでもらえると嬉しいのですが……」

「分かりました。湊さんですね?」

 紫苑の言葉に、湊はくすぐったそうに笑うと頷いた。


 湊の背後に置かれた、ホオズキの鮮やかなオレンジ色の実が、嬉しそうに小さく揺れた気がした。鉢植えにはカードが刺さっていて、メッセージが書かれている。

『羽島会長のご健康と益々のご発展をお祈り申し上げます 社員一同』


 この社員さん達は、湊さんがゾンビだって知ってるんだろうか? いや、知ってたらご健康なんて祈らないか……。


 ホオズキは漢字で『鬼灯』とも書くらしい。それが妙に湊にあっている気がした。少なくとも今の紫苑にとって、羽島湊は闇夜にぽっかりと浮かんだ灯だ。


「糸の色は何色にしますか? おしゃれに赤ってのはどうです?」

 紫苑の提案に、羽島は少し困ったような顔で、お任せしますと呟いた。


『あなたがなんであり

どこの国の人であろうと

金持ちであろうと 貧乏であろうと

それは問題ではありません。

あなたは

同じ神さまがおつくりになった

同じ神さまのこどもです』

『マザー・テレサ 愛のことば』より


 マザー・テレサが、湊さんにもこの言葉を言ってくれるかどうかは分からない。だけど、万が一言ってくれなくても、私が言いますよ。


 紫苑は小さく笑うと、赤い糸を針穴に通した。


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