第三話
数日後、羽島は紫苑のバイト先を訊いて顔を顰めた。面接を受けた日の事だ。紫苑はその場でバイトを許可されて、次の日から駅前のコンビニで働くことになっていた。
「どうして、その時間帯なんですか? 昼間働くことは、できないのですか?」
「時給がいいんですよ。それに、昼間は人手が足りてるみたいで……」
働くのは夕方から夜間にかけてだ。その時間帯は割と自給が良かった。深夜帯ならば、もっと時給は良いのだが、女性だからということで勧められなかった。
「コンビニ強盗にでも遭ったら、どうするつもりです? しかも……」
羽島はいつもの緩慢な口調で続ける。
「駅からマンションまで、どうやって、帰るつもりですか? 十時を過ぎたら、バスはほとんど、なくなりますよ?」
「歩けば十五分くらいでしょう?」
「歩くなんて、危ないですよ。あなたは、女性なんだから……」
「でも、羽島さんに出会わなければ、私は野宿するしかない身の上でしたよ?」
「それとこれとは、話が違います。今あなたは私と、契約しているのでしょう? 無事に過ごして、きちんと条件を満たしてもらわなければ、契約不履行とみなしますよ」
「分かってますって。ちゃんとバスの時間に間に合うようにしますからっ」
紫苑は、この話はおしまいと言うように打ち切った。
「ねぇ、紫苑ちゃん。君、悪い男に付きまとわれているんじゃないかい?」
そう店長に言われたのは、コンビニで働き出して三日目の事だった。店長によると、私が店を出るのを見計らったように、後をつける怪しい男がいると言うのだ。顔色の悪いひょろ長い若い男で、あれはとてもまともな人間じゃないと言う。
ピンポーン、正解ですっ。彼は人間ではなくゾンビなのです……と言いたいのを、紫苑はぐっとこらえる。怪しい男と化した羽島に紫苑が気づいたのは、二日前の事だ。黒い中折れ帽子に黒いジャケットとパンツ、ご丁寧に中のシャツまで黒といういでたちで、まるで黒子だ。帽子を目深にかぶってついて来るので、暗い夜道では夜と一体化して本当に目立たない。しかし声を掛けようにも、紫苑が振り向くとまるで忍者のように物陰に隠れてしまうので、声を掛けそびれてしまっていた。帰宅後羽島に問いただすと、何のことですか? などととぼけていたが、確認するまでもなく、その黒子が羽島なのはすぐに分かった。なぜならば、その黒子の衣装一式が羽島の部屋にあったのを見てしまったからだ。
「あ、でも彼は心配ないですよ。私の知り合いの人なんです。なんだか心配らしくて……」
紫苑がコンビニ強盗にあって、髪や爪を提供できなくなることを心配しているのだということは、もちろん内緒だ。
「へぇ、それって君に気があるってことじゃないの? いくら知り合いだからと言っても、用心した方がいいよー」
紫苑は店長の心配を笑い飛ばすと、「いらっしゃいませー」と入ってきたお客に愛想よく声を掛けた。
□■□
週に一度、紫苑は羽島と一緒にスーパーに買い物に行く。会員になれば、業務用の大量の食料品を安く手に入れられるという外国資本の店だ。肉屋でもやってるんですか? と訊きたくなるくらいの大量の肉を羽島は購入する。それを二つのマイカートに積んで、二人で引っ張って帰る訳だ。大量の肉を載せたカートは信じられないくらい重い。夕闇せまる歩道の上で、紫苑は汗だくになって黙々と歩く。
「紫苑さんが、車の免許を持っていなくて、残念です。もし……」
軽々とカートを引っ張りながら羽島はのんびりとしゃべる。
「紫苑さんが、免許をとるつもりがあるのなら、教習所へ行く費用を、私が出しますよ?」
「はい? 羽島さん、何か言いましたか?」
後方で汗だくの顔を上げて問い返すと、羽島は振り返って、しばらくぼんやりと紫苑を見つめてから、紫苑が引っ張っているカートをひょいと持ち上げて肩に背負って再び歩き出した。
「え? 駄目ですよ。羽島さん。買出しをするのは私の仕事でしょ?」
慌てて駆け寄ると。少し困ったように羽島は紫苑を見下ろした。
「すみません。女性に力がないことを、忘れていました。一番目の労働条件は、車の免許が取れてからにしましょう、もし……」
羽島は、カートの上に置いてあって今にも落っこちそうだったドーナツの袋を紫苑に渡すと続けた。このドーナツは羽島が紫苑にと買ってくれたものだ。
「紫苑さんが、運転免許を取る意志があればですが……もちろん、費用は私が出します」
羽島との生活は実に実に穏やかだ。
基本的に、羽島は午前中に仕事を終えてしまうらしい。何をしているのか訊いたけど、ごにょごにょと誤魔化された。どんな怪しい仕事をしているのか見当もつかない。
午後はゆっくり過ごす。恐ろしいくらい大量の肉をのんびりと食べていたり、大好きな読書をしていたりする。何を読んでいるのかと覗きこんだら、『タコはいかにしてタコになったか』などという珍妙な科学本を読んでいた。ゾウリムシから哺乳類まで、何億年、何千万年を生き抜いてきた生物たちの、奇想天外な生きる知恵と驚異的な忍耐力云々と裏表紙に書いてある。いやいや、もっとも奇想天外なのは恐らくあなたですよ、と突っ込みたくなるのを紫苑はぐっとこらえた。
夕方から紫苑がバイトに出ると、相変わらず黒子になっているようだけど、相変わらずそれを認めようとしない。夜は普通に眠っているようだけど、一見すると死んでいるように見える。
いつもトマトジュースを飲んでいるが、本当に好きなのはメロンソーダなのだと言う。だったら我慢せずに飲めばいいのにと言ったらすごく喜んだ。でも飲んだ後の顔色を見て紫苑は激しく後悔した。元々悪い顔色が、恐ろしいくらい悪くなったから。
暑いのと光が苦手らしい。体の劣化が早く進むからだそうだ。吸血鬼みたいに怖いものとか、これだと死んでしまうというものがあるのかと訊いたら、十字架もニンニクも怖くない。他にも特に怖いものは無いと言う。完全に死ぬ方法を知っていれば教えて欲しいと羽島は言った。真面目な顔で……そう言った。