第二話
理解を越えた事象や、本当に恐ろしい出来事に出くわした時、人がまぬけた事をしたり言ったりしてしまうのは、よく聞く話だ。
羽島湊から信じられない話を聞いたあと、紫苑が最初に発した言葉は、「心臓がドキドキすることがなくていいですね」だった。なんと言うふざけたコメント。紫苑の言葉に、羽島は弱く笑んだ。
翌朝、香ばしく焼かれたトーストやウィンナーや、程良く半熟に茹でられた玉子や添えられた瑞々しいレタスやトマトが並んだテーブルを、紫苑は寝不足のぼんやりした目で見つめる。これらはすべて、羽島湊が紫苑の為に作ってくれたものだ。
紫苑は、未だに羽島のマンションの一室に居た。
別に監禁された訳ではない。ただ、今夜は遅いから部屋に留まるようにと説得されただけだ。内側からかけられるタイプの鍵付きの部屋の鍵を渡しながら、心配だからそうして欲しいと羽島は言った。
人に心配してもらったことなんて、いつ以来だろうか。あ、人って言っていいんだっけ? 微妙だ。
――生ける屍なのです……。
羽島湊は、そう言って困ったようにほほ笑んだ。昨夜のことだ。
紫苑は途方に暮れる。生ける屍……それって、世間ではゾンビって言うんじゃないかい?
かなり遠い昔、羽島湊は墓場で目覚めたのだと言う。気づいたら、白い着物を着て、大きな木の根元に泥だらけで転がっていたのだそうだ。最初は、間違って葬られたのだろう思ったらしい。そこで、幽かな記憶を辿って、自分の生家があるはずの村を目ざした。ところが、そこに羽島の生家はおろか、村さえなかった。否、厳密に言えば、村自体はあったのだ。だが、そこは羽島の暮らしていた村ではなかった。名前こそ同じだったのだが、そこは断じて羽島が暮らしていた村ではなかった。
しかし、やがて羽島は、その村が自分の暮らしていた村だと気づく。違っているのは場所ではない、時間だったのだ。羽島が葬られた時から、かなり長い歳月が過ぎていた。それとほぼ同時に、自分の体の異変にも気づく。
この体は生きていない……屍だ。なぜなら、脈がない、体温が低すぎる、そしてなによりも……食べた物がそのまま肉体となる体とは一体なんだ?
緑の野菜を食べ続ければ緑色に、焼いた肉を食べれば焼いた肉に、魚を食べれば魚の匂いのする魚の体になってしまうのだ。同様に、飲んだ液体は、そのまま血となった。だから、先ほどドアに挟まって手首が落ちた時、血が鮮やかなピンク色をしていたのだ。羽島はファミレスでピンクレモネードを飲んだばかりだった。
「ですから、食べるものは、なるべく生肉を、飲むものは、なるべくトマトジュースを、飲むことに、しているのです。しかし、大抵の、ファミレスのドリンクバイキングには、トマトジュースが、ないでしょう? まさか、今夜こんなことになるとは、思っていなかったので、ピンクレモネードを、飲んでしまったのです。驚かせてしまいましたね」
紫苑は硬直したまま、首を横に振る。飲んだのがトマトジュースだろうが、ピンクレモネードだろうが、怖いことには違いがない。
「でも、つまみって……」
人を食べるってことだろうか? 食べたいと思うってことだろうか。世間で言うところのゾンビは、確か人を食べていたはずだ。
「いつも、なるべく匂いの薄い肉を、食べるようにはしているのです。ですが、どうしても、食べたその獣の匂いに、なって行くようなんです。それで、人の匂いを保つために、髪や爪を摂取しているのです。父が生きていた頃は、父からもらっていたのですが、その父も、亡くなってしまいましたし……」
羽島の言葉に、紫苑は顔を強ばらせる。
「こんなことを訊くのは大変失礼かもしれませんが……あの……人を食べる訳じゃ……ないんですよね?」
恐る恐る聞いた紫苑の言葉に、羽島は少し強ばった表情で、しかし悲しげに、
「私は今までに、人を食べたいと思ったことは、一度だってありません」と言って項垂れた。
これじゃあ、まるで紫苑が意地悪をしたみたいだ。結局、ひとしきり羽島に詫びた後、紫苑はあのまぬけた言葉を口走ってしまった訳なのだった。
「あ、あのっ、脈がないってことは、心臓がドキドキすることがなくていいですねっ、あはっ」
□■□
「あの……いただきます」
紫苑は、こんがりと焼けたトーストを頬張った。香ばしい匂いが口中に広がる。朝食を用意してもらったのなんて、中学生の時以来だ。あの頃は母がいて、父がいて……決して裕福な家庭ではなかったけど、幸せだった。
ふと、気づくと、羽島はトマトジュースだけを飲んでいる。
「あれ? 羽島さんは食べないんですか?」
「私は生肉しか食べないので、一緒は嫌でしょう? 父も、めったに一緒に食事を摂りませんでした。私は後で食べます。どうぞ気になさらず食べてください」
確かに、いきなり目の前で小動物を食いちぎられたら、少々具合が悪そうだ。紫苑がそう言うと、羽島はスーパーのパック入りの生肉を食べるのだと言う。そこで紫苑は、一緒に食べようと提案した。作ってもらった上に、一人だけ先に食べるのは肩身が狭かったし、それ以上に、一人ではないのに一人で食べるのが味気なく感じたからだった。紫苑の提案に、羽島は血色の悪い顔に淡く喜色を浮かべると、冷蔵庫から鶏肉を取り出してきた。
紫苑は羽島と契約することにした。つまり羽島が提示した三つの労働条件を呑み、食と住を提供してもらう訳なのだが、ただし、期限を切った。紫苑が職を探し、自力で安定した暮らしができるようになるまでだ。羽島は、それで構わないと言った。
ところで、羽島湊のお父さんって、一体何者なんだろう。ゾンビの父親って、ゾンビじゃないんだろうか。面接用の履歴書を書く手を休めて、紫苑は頬杖をつく。
羽島湊は午前中、仕事だからと自室に籠っていたが、先ほど青白い顔を更に青白くして出てきた。出てくるなり冷蔵庫からトマトジュースを取り出す。トマトジュースを腰に手を当てて一気飲みすると、顔色が少し良くなった。
赤い色水に浸けられた白いカーネーションみたいだ。
「いえ、父は、ゾンビではありませんでした。そもそも、父とは血がつながっていないのです。父は、」
紫苑の質問に、羽島は緩慢に答える。
「密かに、ゾンビを研究していた、科学者でした」
そりゃ、マッドサイエンティストって呼ばれていたんだろうと紫苑は推測する。
「父が、大学の研究室に居た頃は、私も良く大学に通いました。実験体としてね。父はなんとか私を、普通の人間に戻そうとしてくれていたのです。とても、良い父でした」
なるほどね、そりゃ良い人だ。血も繋がってないのに。
「紫苑さん、面接に、行くのですか?」
「うん。とりあえず、アルバイトからでも始めようかなと思ってるんだ。私、高卒だから、厳しいんだよね」
「そうですか。頑張ってください。あ、いや、あまり頑張らなくていいですよ。なるべくゆっくり、ここに居てくれると、私としてはありがたいです」
ここに来て、既に一週間が過ぎていた。そんなことを言われなくても、紫苑は十分ゆっくりしていた。少し甘え過ぎていると反省しているほどなのだ。羽島が作ってくれる料理は美味しかったし、スプリングが程良く効いたベッドは寝心地が良かった。紫苑が借りている部屋は羽島の父親の部屋だったらしい。気になるなら、ベッドを新しいものにしよう言ってくれたのだが、紫苑にとってはなんの不満もなかった。もともと、部屋さえ失くして公園のベンチで寝なければならなかった身の上だ。寝具もシーツも真新しいものに換えてもらって、まるでお姫様にでもなった気分だ。
条件通り、一日に数回髪の毛を提供する。髪の毛など、わざわざ抜かなくても自然に毎日抜けるものだ。何の不都合もなかった。しかも、紫苑は髪を長くのばしていたので、羽島の父親よりも量が多いと喜ばれた。爪は伸びていなかったので、まだ切っていない。羽島は切った時にくれればいいと言った。
ただ、少し困るのは、それを口にする時の羽島だ。よくよく匂いを嗅いでから、恍惚とした表情で口に入れるのはやめてほしい。なんだか、自分が食べられているような錯覚を覚えてしまう。