第一話
「本当に、ほんっとうに何でも頼んでいいんですね?」
西島紫苑は、ウェイトレスに渡されたメニューを食い入るように見つめながら念を押す。向かいに座った血色の悪い男が静かに、そして無表情に頷いた。
ファミレスなんて何カ月ぶりだろうか。最後に給料をもらったのは半年前だった。それも贅沢をできるような金額を稼いでいた訳でもないので、ファミレスなど、もう丸々一年くらいは寄り付きもしていない。紫苑はそこまで考えると、落ち着く為に、既に運ばれていた水に口をつけた。メニューを持つ手が軽く震えている。
でも、まてよ。ここ二週間ほど、私はまともな食事をしていない。言わば飢餓状態にある訳で……。昔、歴史ドラマで見た、秀吉の兵糧攻めのワンシーンが脳裏を掠めた。飢餓状態になっている者が、突然食事を与えられて、ドカ食いしたあげく死んでしまうというシーンだ。
やはり、ここは理性的にスープなどから始めるべきか……。
「じゃあ、コーンスープと……リゾットあたりにしようかな?」
ぶつぶつ呟く紫苑に、目の前の男は軽く首を傾げた。
「……もし遠慮しているのならば、それには、及びません、なぜならば……」
男は青白い手を伸ばして、自分の前にも置かれていたメニューを取り上げて、ぱらりと開く。男の口調は実に緩慢で起伏に乏しい。
「……まず、第一に、私はお金には困っていません。そして次に……ここで食事を摂るのはあなただけなので、二人分注文してもちっとも、変な目で見られない訳です。お腹がすいて、いるのでしょう?」
時間はちょうど夕飯時だ。店内は、かなりな人で賑わっている。そもそも、ちょうど夕飯時だから食事でもどうかと誘って来たのは、この陰気くさい空気を纏った青白い顔色の男の方だったはずなのだが。
「あなたは食べないんですか?」
紫苑は首を傾げる。
「私は、羽島湊と言います。私は、外では食事をしないように、しているのです。ですから……」
羽島湊は、メニューをぱたりと閉じた。
「……ドリンクバイキングだけを、注文します」
羽島湊のしゃべり方は遅いだけでなく、どことなく不気味で、まるで怪談話を聞かされているような錯覚に陥ってしまう。だから、ドリンクバイキングが所謂ドリンクバイキングのことなのだと理解するまでに、一秒ほどのタイムラグが発生した。
「……すみません。そうなのに、付き合わせてしまったんですね……あの……私は西島紫苑と言います」
背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、紫苑は謝罪しつつ本名を名乗った。偽名を使った方が良いかもしれないと思わないことはなかったが、名前を知られたところで、今の自分には何も困ることはないと判断したのだった。なにせ、家なし、職なし、家族なしだ。失うものは何もない。つまり怖いものがない。その時は、そう思っていた。
「……いえ、付きあっていただいているのは、私の方なので……西島さんさえ、気にならなければ食事を、ゆっくりと楽しんでください」
紫苑は強張った顔のまま小さく笑う。何故なら、そう言って笑んだ羽島湊は、そのままお化け屋敷でバイトができるくらい怖かったからだ。
やっぱり、偽名にしておけば良かったかもしれない。早速、少し後悔した。
□■□
「……そうですか職場を追われて、失業中ですか……しかも住むところまで、失ったんですか。ふむ……ところで……」
紫苑は、コーンスープをがつがつと飲みながら、うんうんと相槌を打つ。スープが届くまでの短い間に、紫苑は自分の身の上を手短に話した。それは夕飯をおごってくれた羽島湊への少しばかりのサービスのつもりだった。
人の不幸は蜜の味ってなもんだしね。
ところが、次に羽島湊から出てきた言葉は、同情でも激励でも、世間話ですらなかった。
「……実は私は逆に、求人中なんです。どうですか? 私の所で働く気はありませんか? もちろん……」
羽島湊は、ドリンクバイキングで注いできたピンクレモネードを一口啜る。
「……報酬は大した額を払えませんが、住む所と食料だけは、十二分に提供できると思うのですが……」
「へぇ、そうですか……はい?」
紫苑は軽く相槌を打ってから、弾かれた様に顔を上げると羽島湊を睨みつけた。
今、なんかめっちゃうまい話を聞かされた気がするんだけど。衣・食・住のうち、二つを提供? いやいや、空耳だよ。空耳。でもでも……。
「今、なんて言いました?」
紫苑は、ガムシロをガバガバ入れたアイスティーを一気飲みしてから、問い返す。
「……ですから……」
あー、もう、そののんびりした接続詞がうざったいのです。早く内容をっ!
羽島湊のゆっくりした口調に、紫苑は少しイライラしながら続きを待つ。
「私は、求人中なのです。というのも……」
「もしかしてっ、羽島さんは、どっかの会社の社長さんですかっ?」
「……いえ、違います」
羽島湊の答えに、乗り出した身をすとんと落とす。
そうだよね~、そんなうまい話がある訳がないか……。
「……仕事の内容は、ここではなんですので、できれば、私のマンションまで、ご足労願いたいのですが、ここに住んでいますのでもし……」
そう言いながら、羽島湊はファミレスの紙ナプキンに住所とケータイの電話番号を記入した。
「その気があるのならば連絡をくれるか、直接来てくれても構いません」
羽島湊のマンションは、都内の雑多なビルが立ち並ぶ一角にあった。すぐ脇を狭い川が流れており、闇色の水がよどんでいる。連絡の為の電話代さえケチった紫苑は、結局羽島について来たのだった。
ごうんごうんと不穏な音をたてて上昇する古ぼけたクリーム色のエレベーターは、最上階である五階で止まった。羽島は、緩慢な足取りで一番奥の扉の前で立ち止まる。
「本当は一階か、地下階が良かったのです。しかし……」
羽島はポケットから、じゃらじゃらといくつか鍵がぶら下がっているキーホルダーを取り出すと、がちゃがちゃ騒々しい音を立てながら開錠した。
「父が、最上階の方が良いと言い張るので……」
「お父様がいらっしゃるんですね?」
少しホッとした気持ちで、嬉々として尋ねる。
「いえ、父は先月亡くなったのです。どうぞ……」
羽島は開いた扉の向こうを手で指し示す。
ん? 何の匂いだろう……。
開け放たれたドアから、微かにエスニックな香りの空気がぼわっと流れ出す。紫苑は、ついクンクンと臭ってしまう。
「もしかして……臭いますか? もし……」
羽島湊は、少し怯えた様子で言葉を途切れさせた。
「いえ、あ、ごめんなさい。お香焚いてます? あ、お父様が亡くなったばかりだから……」
紫苑はそう言いながら、きまり悪げに、慌てて玄関に入った。
「いえ、父が亡くなる前から香は、焚いていたのです。が、もし……」
羽島湊はドアを閉めると、かちりと鍵をかけた。その音が、何故だか取り返しのつかないことになったことを告げているような気がして、紫苑はごくりと唾を飲み込んだ。
「この匂いが、嫌いならば、変えても構いません」
「はぁ……」
いや、香りよりも、あなたのしゃべり方の方が不気味なのです。
□■□
羽島湊が出した労働条件は次の通りだった。
① 週に一度、食材の買出しをする。
② 自分の部屋は自分で管理する。(どうやら、鍵付きの部屋を一つ貸してもらえるらしい)
③ 時々、つまみを提供する。
ん? つまみを提供する? つまみを作れってこと? 紫苑は首を傾げる。
「あの……最後のつまみを提供するって、つまみを作れってことですか? 私、あまり料理が得意じゃなくて、レパートリーが少ないのですが……」
「いえ、そうではありません。貴女の、髪とか爪とかそう言ったものを……可能な範囲で……」
羽島湊は、冷蔵庫から取り出したトマトジュースの缶を紫苑の前に置き、自分の分の缶のプルタブをパチンと開けた。
「提供して、欲しいのです」
「え? 提供するのって、つまみですよね?」
ん? 聞き間違えたのか? 私……。
しかし羽島湊は、なんの躊躇いもなく頷いた。
つまみが、私の髪とか、爪とか、そう言ったものってこと? え? ええっ?
きゃぁぁぁぁ! この人、へ、変態だぁぁ。紫苑はざっと後ずさる。
「す、すすすすす、すみません。私には、そそそその仕事は、むむむ、向いていないようですっ」
後ずさりながら、ドアまでの距離を目で測る。
「向き不向きはあまりないかと、思うのですが……では三番目の条件は、あきらめても、構いません。ただ……」
羽島は、ひどく落胆した様子で俯いてから、
「気が変わったらいつでも、そう言ってください。喜んで、提供を受けます」
と、それでもあきらめきれないという風情で、紫苑を見つめて言った。
ちょ、ちょっと待ってよ! 私、まだ仕事引き受けるって決めてないし……。
「わ、私、やっぱり、か、帰ります。夕飯、どうもごちそうさまでしたぁー」
紫苑は脱兎のごとく玄関まで走ると、後ろも見ずにドアを開けた。
「……西島さん! あの……」
羽島湊が声をかけていたのは気づいていたが、とても返事をする気にはならなかった。靴を履くのさえもどかしく、ドアの外に転がり出る。
ドアを勢いよくバタンと後ろ手に閉めて立ち去ろうとした時、後ろで聞こえた奇妙な物音に振り向いて、紫苑は凍りついた。
落ちてる……。
そこには紫苑のバッグが落ちていた。しかし、バッグはただ落ちていたのではなかった。手首から先の羽島湊の手が、紫苑のバッグを握りしめたままの状態で一緒に落ちていたのだ。切断された手首の断面はほのかに紅く……紅というよりも、むしろ、それはピンクに近い薄く鮮やかな色をしていた。
凍りついている紫苑の目の前で、緩慢にドアが開く。
「……あ、挟んだらとれてしまいました……驚かせてしまいましたね。すみません。しかし……」
羽島湊は、相変わらず緩慢なペースでしゃべりながら、とれていない方の手で紫苑のバッグを拾い上げると、自分のとれた方の手を持って、バッグを差し出した。
「驚くことはありませんよ。こっちの手はとれやすいのです」
「……」
義手……なんだろうか?
しかし、どう見ても作り物には見えない。その証拠に、落ちた手首は痙攣しているようにピクピク動いていたし、切断面からはポトポトと液体が滴り落ちていた。滴り落ちた液体は、しかし血にしては薄い染みをコンクリートの床に落としている。紫苑は呆けた顔のまま、羽島湊とバッグを交互に見つめた。
「……バッグを、とってもらえますか? 片手だと離せないので……」
「……」
それでも、紫苑は硬直したまま動けない。
「……困りましたね。とりあえず、少し話を聞いてもらいましょうか」
羽島湊は紫苑のバッグを小脇に挟むと、紫苑を再びドアの中に、信じられないくらいの力で引きこんだ。
紫苑は羽島の部屋のソファに腰掛けたまま、身じろぎもできぬまま硬直していた。
目の前で、羽島はとれた手首を針と糸で縫いつけている。手術用の針と糸ではない、裁縫箱の中から取り出した普通の針と糸だ。羽島は、紫苑をソファに座らせた後、落ちた手首を流しで、まるで茹であがった麺を湯きりするように軽く振ってから、この作業を始めたのだった。
「何から説明すれば、いいのか……」
俯いてちくちく縫いながら、羽島は困ったように言葉を探す。
「……あの……痛くないんですか? それ、義手ですか?」
恐る恐る質問する。
「痛くはありません。義手ではないのです。しかし……」
羽島は縫いつけた手首を確かめるように何度か動かしてから、糸切ばさみで糸を切った。紫苑は瞠目する。縫いつけただけで、動いた?
「何故か、こちらの手首だけは何度くっつけてもすぐに、はずれてしまうのです」
そう言って羽島はにっこりほほ笑んだ。紫苑は硬直したまま、顔を引きつらせて無理やりのように笑い返したが、内心、泣きだしたい気持ちでいっぱいだった。怖かったからだ。
羽島は裁縫箱を片付け終わると、改まった様子で紫苑の前で膝をついた。
「私が怖い、ですか?」
怖い。即座にそう思ったものの、そう言ったらすべてが終わるような気がして、紫苑は硬直したまま首を横に振った。紫苑の様子を見て、羽島は軽く苦笑する。
「怖いでしょうね。無理をする必要は、ありません。しかし……」
羽島は突然、紫苑の手首を掴んだ。
「あなたには実際に触れて、確認してもらってから話を始めたいのです。怖いでしょうが、少し我慢してください」
怯えて手を引っこめようとする紫苑を無視して、羽島は紫苑の手首を掴んだまま、その指先を自らの頸動脈にあたる位置に触れさせる。痩身な体躯に似合わず羽島は力が強かった。
体温が低い性質なのか、紫苑が触れている羽島の首筋も、紫苑の手首を掴む手もひんやりしている。
「やっ、やだ……お願い、やめて……」
泣きじゃくりながら、紫苑は手を引っ張るがびくともしない。
「脈を……私の脈を確認して、欲しいのです」
そう言われて、ようやくのことで指先の神経に集中する。
羽島湊の首筋は、よく冷えた果物のようにひんやりとしていて、そして、脈が……なかった。




