番外編(四) 招霊木 -おがたま-
本作品は、ペンギンフェスタ2012参加作品です
「紫苑さん、本当に、ペンギンなんて、見つかるんですか?」
早朝、河口付近の堤防に立って湊 さんは双眼鏡を覗いている。
「だってニュースで言っていましたよ? 水族館から逃げだしたペンギンがこの辺りで目撃されたって……」
私は開けっ放しになっていた車の窓から顔を出して返答する。
水族館から逃げ出したそのペンギンは、既に逃亡歴三ヶ月というツワモノだった。あちこちで目撃情報が寄せられているにもかかわらず捕まったという情報は未だ無い。
ペンギン氏の種類はフンボルトペンギン。学術名はSpeniscus humboldti、中型のペンギンで体長は65cm、体重は4kg程度。フンボルディとは、この種がエサをフンボルト海流(ペルー海流) に依存しているところからきている。雌雄の外観はほぼ同じ。
「雌雄の区別はつかないみたいですね」
湊さんが検索してくれたフンボルトペンギンの情報を車内で見ていた私はノートパソコンをぱたりと閉じると、やはり用意していた双眼鏡を手に車から降りた。
よっこらしょと堤防に手をついてよじ登ると、湊さんが手を差し出してくれた。
「雄ですかね、雌ですかね? 湊さんはどっちだと思いますか?」
夜が明けたばかりの海岸には、人っ子一人いない。
「どっちでしょうね」
湊は双眼鏡を目から外して微笑んだ。
水平線から登り始めた太陽が湊の横顔を照らす。
湊さんの横顔はとても素敵だ。すーっと通った鼻すじもシャープな顎も前髪がはらりとかかった額も、全てのバランスが絶妙で見とれてしまう。
惜しいのは顔色の悪さかな。でも、今なら逆光で顔色の悪さも目立たないけどね。それに、さっきトマトジュースを飲んでいたからそろそろ顔色も良くなってくるはずだ。
湊さんはゾンビだ。
と言っても、腐臭がしたり、いきなり襲いかかってきて人を食べたり、そんなことはしない。ただ、心臓が動いていなかったり、手足がとれても針と糸で縫いつければすぐに使えるようになったり、食べたものがそのまま肉になり飲んだものがそのまま血になったりするだけだ。だからさっきトマトジュースを飲んだ湊さんからは、微かにトマトの青い匂いがする。
「もし、ペンギンが見つかったら、どうするつもり、なんですか?」
湊さんのしゃべり方はとても緩慢だ。最初はなんて不気味なしゃべり方なんだろうと引いたけど、今ではそれが心地よいとさえ感じる。まるで風の音とか川のせせらぎとか汀に打ち寄せる波の音のように、穏やかな気持ちになる。
「どうもしませんよ。ただ見たかったんです」
そう。私は脱走したペンギンが、どんな様子でいるのか知りたかった。手に入れた自由に喜び勇んで広い海を泳いでいるのか、仲間のいない一人ぼっちの海で途方に暮れているのか、ただただ生きるために必死になっているのか……それを知りたかった。
それに……。
「それにね、湊さんと海に来てみたかったんです」
太陽の光や高い外気温で劣化しやすい体の湊さんは、外で活動できるのはどうしても陽が落ちてからになってしまう。だけど夜の海はなんとなく怖い。暗い水面、海上に茫漠と広がる虚空の空間。吸いこまれてしまいそうで、私は夜の海に来たいとは思わなかった。
「本当なら、一緒に海水浴に、行けたら、良かったのですが……」
「いえ、海水浴に行きたい訳じゃないんですよ。こうして二人で海を見たかったんです。波の音を聞いたり、光る水面を見たり……」
眼下に広がる砂浜を見下ろして、しかし私は言葉を途切れさせた。
「打ち寄せられた、ゴミを見たり……ですか?」
湊が笑いながら後を引きとる。
「そんなの一緒に見たい訳じゃないですよぉ。も~」
湊さんのジャケットの袖口を掴んで軽く引っ張ると、もう一方の手で逆に掴まれて引き寄せられた。
「こんなところで、急に引っ張っては、危ないですよ。一緒に落ちたいのならば、止めませんが……」
覗きこむ穏やかな瞳の色にうろたえて……。
一緒に堕ちたい……そう言ったら湊さんはどんな顔をするだろうか。そんなことを脳が勝手に妄想するものだから、益々ひどく動揺する。
近づいてくる穏やかな瞳に目を閉じれば、湊さんは冷えた果物のようなキスをたくさんくれた。湊さんが落とす口づけは森の精霊のキスみたいだ。ひんやりとしていて、爽やかな風のようで、清らかな水のようで、でも大地に突き刺さる根のように私を捉えて離さない。
――私ってば馬鹿だ。もう既に堕ちているというのに……。
結局ペンギンは見つからず、それでも早朝の爽やかな空気を堪能した私は気分良く家路へ向けて車を走らせた。だいぶ陽が高くなってきたのでエアコンを入れる。湊さんは助手席を倒して日よけの布を被った。
「そのまま寝ててください。小一時間はかかりますから」
湊さんが昨夜もパソコンに張り付いて仕事をしていたのを私は知っていた。本来なら早朝のこの時間、彼は眠りについているはずなのだ。
すみません。そうさせてもらいます、と言って湊さんは沈黙した。私は耳触りにならないくらい小さく音楽をかける。それはあまりよく知らない英語の曲で、”I won’t go home without you” と歌っていた。
□■□
――まずい……どうしよう。
不都合な出来事は三十分ほど走ったところで発生した。
検問だ。何か事件でもあったんだろうか。五台くらい先の車が誘導されて左へ寄った。ここでUターンすれば、間違いなく私は追跡されて捕まってしまうだろう。しかし、検問を受けて無事に通過できる自信が無かった。なにせ湊さんはゾンビなので、眠ってしまって意識が無くなれば死体そのものになってしまう。助手席に死体を乗せた運転手が無事に検問を通過できるとはとても思えない。
「湊さん、起きてください。湊さんっ」
さっきから何度も揺すってみるが反応が無い。湊さんは一旦眠ってしまうと、いつ目を覚ますか分からないのだ。以前一度外出中に眠ってしまったことがあるが、自宅であるマンションの駐車場についても目覚めないので、そのまま車の中で一晩一緒に眠ったことがあった。
そうこうしている内に、検問の順番が回ってきてしまった。
――どうしよう。どうか……どうか気づかれませんように……。
私は祈る思いで窓を開けた。
その後のことは、混乱し過ぎていてうまく説明できない。私は死体を乗せていたドライバーとして、あっという間に警察署に連行されたからだ。
「お願いです。湊さんに会わせてください。湊さんはどこにいるんですか? 湊さんは死んでないんです。生きているんです。すぐに目を覚まします。お願い、会わせてっ」
私は尋問する警官に取り縋って懇願した。
「あんたねぇ、ありゃ誰が見たって死体だよ。今、死因を調べるために検死官を呼んでるから」
警官はまるでゴミがついたとでも言いたげに、眉間にしわを寄せて私の手を振り払った。
「……っ、やめてくださいっ 湊さんを解剖するつもりですか? やめて! お願いやめてくださいっ! 湊さんが死んじゃう。死んじゃいますよぉっ」
「いい加減にしろっ。やつはいつ死んだんだ? 外傷は特にないようだが、何を使った? 毒か?
あんたあの死体をどうするつもりだったんだ?」
警官が机をびっくりするくらい強く叩くので、ビクリと顔を上げて警官を見上げた。涙が後から後からボロボロと零れる。
「湊さんは死んでいません……」
そう言って号泣する私をしばらく警官は睨みつけていたが、もう一人の警官が入ってくるとドア口で声を潜めて話し始めた。
なんかの宗教かとか、身代金当てかとか、痴情のもつれか……などとヒソヒソ話しているのが聞こえた。しかしそんなことよりも、私は気が気でなかった。解剖なんてされたら、湊さんはどうなってしまうんだろうか。切った所は、ちゃんと元通りに縫ってくれるんだろうか。臓器の一部を証拠品として押収されたりしないんだろうか。そうなったら湊さんはどうなってしまうの? もしこのまま湊さんが目覚めなくて、荼毘 にふされでもしたら……。私は気が狂いそうだった。
尋問はその後も数時間続いて、しかし一向にらちが明かないと判断した警官は、私を留置所に押し込んだ。
面会人だと言われて留置所から出されたのは、もうすっかり陽が落ちた頃だった。
案内された部屋のソファには見知らぬ若い男が座っていた。鋭い瞳に鋭い顎、何もかもがシャープでひどく冷徹な雰囲気の男だ。私が部屋に入ると、意地悪そうな眼つきでじろじろと私を見つめる。泣きつかれて眠ってしまっていた私の眼は、鏡を見るのが怖いくらいに瞼が腫れていた。
――私の顔がそんなにおかしいの?
私は少しムッとしながら、その男を睨みつけた。どう見ても味方には見えなかったからだ。
「あなたが西島紫苑さん?」
男が口を開く。深い良い声だった。その怖そうな顔さえなければ……。
「そうです」
不機嫌なままぶっきらぼうに返事を返す。
「私は沢井七瀬 と言います。警察から社の方に連絡が入ったので来ました。専務の沢井の息子です。が、羽島会長の専属医師でもあります。以後、お見知りおきを……」
差し出された名刺を、私は呆然としながら受取った。
かつて湊さんが立ちあげた会社は、かなり大きくなっていた。しかし表立って活動できない彼は、会社運営の実務のほとんどを、現在、沢井専務に任せていた。なにせ、湊さんはゾンビなので、年を取らない。戦後すぐに立ち上げた会社の創設者が、どう見ても二十代後半にしか見えないのは、非常に不都合だったのだ。
「お医者様……」
こんなにとっつきにくい感じで医者なのかと、しげしげと名刺を見て本人を見て更に名刺を見て……を繰り返す私に、七瀬は苦笑する。
「日頃は医師業をしている訳ではありませんよ。だから言ったでしょう? 羽島会長の専属医師なのだと……。今から羽島会長の面会に上がります。あなたもご一緒したいのじゃないかと思ったのですが……」
「そうだっ、湊さんは無事なんでしょうかっ?」
解剖されてしまったんじゃないだろうか。
「ご無事ですよ。あなたは警察に連行された時点で、すぐに沢井に連絡するべきだったのです。そうすればここまでひどい目に遭わずに済んだ」
――何か問題が起こった時には、沢井専務に相談してください。
以前、湊さんからそう言われていた。だけど動転し過ぎていて私はそれを忘れていた。
死体安置室に置かれていた湊さんは、冷やされていてびっくりするくらい冷たくなっていた。顔には白い布が被せられている。
「湊さん……湊さん、起きてくださいよぉ~」
駆けよって白い布を取り去り、肩をゆすった。冷たい顔を何度も手で擦る。再び涙がぽたぽた零れて、湊さんの頬にいくつもの涙の筋を描いた。
「さて、感動の対面はそのくらいにして、私に仕事をさせてもらえませんかね」
少し呆れたような声が背後から聞こえる。
――あ、沢井さんの存在をすっかり忘れてた。だけど、感動の対面だなんて、そんなんじゃないのに……。
少し決まり悪い思いをしながら後ろに下がると、七瀬は手持ちの黒鞄から何か液体が入った試験管を取り出した。そのゴム栓を湊の鼻先で開けると、軽くあおる。
途端に湊の睫毛が揺れて、ゆるゆると目を開いた。
湊は少し腑に落ちない表情で七瀬を見、更に困惑した表情で紫苑を見、ガバリと起き上って回りを見回した。
「ここは、どこですか?」
「こんばんは。会長。ここは死体安置所です。あなた、もう少しで解剖されるところでしたよ?」
試験管を片づけながら七瀬が肩をすくめる。
「あぁ……、何か、あったんですね」
泣き腫らした目を更に涙で濡らしながら立ちつくしている紫苑を、気の毒そうに、そして少し哀しげに湊は見つめた。
「あれは招霊木の花の匂いなんです」
ようやくのことでマンションに辿りついて、コーヒーを淹れながら訊いた紫苑の問いに七瀬は事もなげに答えた。
「おがたま……ですか?」
「といっても、これは唐種招霊木 の匂いです。そっちの方が効き目が良かったので、花の季節に関係なく使えるように抽出してあるのですよ」
匂ってみますか? と問われて嗅いでみると、それは甘いバナナのような匂いがした。
「七瀬、すまなかったね」
湊が謝ると、
「会長、私に謝罪など必要ありませんよ。これが私の仕事なんですから。それに、かねてより気になっていた西島さんにお会いできましたしね」
そして七瀬は紫苑に向き直り続けた。
「西島さん、会長と一緒に居れば、何かと不都合なことも起こるでしょう。私の父は忙しい人ですから連絡をとっても掴まらない場合があります。そんな時には、私に直接連絡をください。私は大抵、大学の研究室の方におりますからね」
そう言いながら、七瀬は手帳に携帯の番号を書きつけるとビリリと切り取って紫苑に手渡した。
「あの……本当にありがとうございました」
紫苑は深々と頭を下げた。そして心の中で謝る。
――さっきは、怖そうな顔とか、意地悪そうな眼つきとか心の中で言ってごめんなさい。
「七瀬、どうして紫苑さんに、会ってみたかったんですか?」
怪訝そうに首を傾げる湊に、七瀬は唇の片方を引きあげて嫌な感じで笑って答える。
「ゾンビの会長と一緒に暮らす若い女って何が目当てなのかと、ちょっと興味があったのでね。金目当てか、地位目当てか、単なるもの好きか、それとも何か別に理由があるのか……」
七瀬の言葉に私は瞠目する。
「少なくとも金や地位目当てではなさそうですね……ってことは、単なるもの好きってことですかね?」
呆然としている私に七瀬は意地悪気に笑いかけた。
――なんとゆー暴言。やっぱりこの人、嫌なやつじゃんか。私、ちっとも悪くなかった。ごめんなさいは撤回!
心の中で悪態をつく。
一方、湊も七瀬の言葉に顔を顰めた。しかし、
「七瀬、もう少し、柔らかい言い方を、したらどうですか? あなたは小さい頃から、ちっとも変わらない……女性に、嫌われますよ?」
などとのんびり湊が言うものだから、ぷしゅーと毒気が抜けてしまう。
――そんな内容をどんなに柔らかく言ったって、嫌味以外の何モノにもならないでしょう?
あの後、死体安置所から歩いて出て来て、しかも、ご迷惑をおかけしましたね、などとのんびり謝罪する湊に、警察官たちは顔を引き攣らせた。彼は特殊な持病をもっていて、たまに深く昏倒すると死体のようになってしまうのです、と七瀬がもっともらしく説明してその場は収まった。
医師の肩書きの威力はもの凄い。どんなに嫌味な人でも、今の湊にはなくてはならない人だ。
紫苑は七瀬の暴言を聞き流すことにした。
――私は大人だし……ね。
七瀬が帰って、いつもの静けさがリビングに戻ってくると、ようやく紫苑の緊張がほぐれてきた。ソファに座ったまま顔を両手でごしごしこすって脱力する。この場でこのまま丸まって眠ってしまいたい程度に疲れていた。
――良かった。無事にこの場所に湊さんと一緒に戻って来れて……本当に良かった。
「紫苑さん、すっかりご迷惑をかけてしまったようですね」
そんな様子の私に湊さんがすまなさそうに、しかし何故か緊張気味に声をかけてきた。
「いいえ、私ってば色々気がつかなくって……。迷惑をかけてしまったのは私の方です」
もっと早くに検問に気づいて迂回していれば……、連行された時点で沢井専務に連絡をしていれば……、なによりも、脱走ペンギンを見に行きたいなどと言いださなければ良かったのだ。
「紫苑さん!」
パソコンを覗きこんでいた湊さんが声を上げた。
「どうしたんですか?」
「あのペンギン、捕獲されたそうですよ」
――え?
慌てて湊さんが開いている画面を覗きこむ。記事によると、ペンギンは今朝、水族館の職員によって無事保護されたらしい。しかもペンギンは逃亡中にエサを獲る為に、かなり体力を使ったらしく、筋肉モリモリのマッチョペンギンになっていた、と書かれていた。
私は思わずクスクス笑いだす。
逃げ出したペンギンは、たくましく生きていたんだ。追手から逃れ、自分を養い、もしかしたら同じように広い海を泳ぎ回っている仲間がいないかと探していたかもしれない。逃げ出したペンギンはDNA鑑定の結果♂だと言うことが分かったと記事に書かれていた。
「あ、そうだ~。私あの招霊木の花の匂いのエキスを少しもらっておこうかな。そうすれば、湊さんの意識が戻らなくて困った時もへっちゃらだし」
私の言葉に湊さんがどこかほっとした様子で柔らかく微笑んだ。
「良かった。今回のことでこりて、ここを出て行きたいって、言われるんじゃないかと密かに、緊張していました」
私は座っている湊さんを背後から抱きしめた。
「むしろ逆ですよ。一緒に居られる間は、絶対に離れないって……そう思いました」
そう、ゾンビと暮らしている人間が他に誰もいなくても、単なるもの好きだと揶揄されても、私は私。自分の気持ちに正直に生きるしかない。だって私は湊さんの傍にいたいんだから仕方が無い。あのペンギンが大海原を泳ぎ回りたかったように……。
――だから、私も行けるところまでいくよ。
『大事だと思っている世界なら自分自身で守りぬけ。 俺もやるだけやったぜ。おまえも頑張れ』
パソコン画面に映し出されているマッチョペンギン氏がフリッパーをパタパタ振っているのが見えた気がした。
(了)




