零話
パタパタ、ともドタドタともつかぬ荒々しくスリッパが床を蹴る音が、横になるソファーを振動させて嫌でも耳に入る。音の主は分かっている。騒がしい上司だ。
上司、とは言っても職場には自分も入れて三人しかいないのだが。
もう一人は足音を立てるような愚は犯さない。気付けば後ろで笑っていて、毎度毎度心臓が止まるのではないかというぐらいに驚かせてくれる。
結果結論、この職場にはろくな人間がいない。無論、自分も含めての話だ。
「リンタロウ! たいっへんなのよぅ!」
甲高く耳に突き刺さる喚き声。喚きよりも叫びに近いのかもしれない。
これは彼女が自分を見つけるまで続くだろうという事は、今までの経験から痛い程に知っている。
視界を暗くする為に被せていた雑誌を投げ捨て、リンタロウは午睡を貪っていたソファーから体を起こす。
スプリングのイカれた襤褸ソファーで凝り固まった全身を伸ばして解していると、蝶番が外れたのではないかというぐらい勢いよくドアが開かれる。
まともに油を差していない蝶番は耳障りな音を立てる。
部屋に飛び込んできたリンタロウの上司――カエデの足音や大声と合わせると二重苦だ。
「リンタロウ! 大変なのよぅ、これマジで! 冗談じゃなく!」
「そんなに叫ばないでも聞こえるっての。黙ってろ」
細い鼻梁に皺を寄せてそう言えば、カエデは子供のように頬を膨らませる。
その頬は、声の限り叫びながら走ってきたせいか上気している。
駄々っ子のようにリンタロウの目の前で跳ねる為、ショートヘアにカットされた鳶色の髪がカエデの動きに合わせて揺れる。
「Fー3とOー6が、んむもっ」
「それ以上は分かってっから言わんでいい」
小ぶりの上唇と下唇を合わせて摘まむとアヒル口を通り越してタコのようで、これが中々に笑いを誘う。
面白がるリンタロウとは裏腹にカエデの方は苦しいらしく手足をばたつかせている。拳骨を唇を摘まむ腕にぶつけてくるので渋々手を離す。
「ぷはぁ。なぁにすんのよぅ!」
「毎度毎度同じこと聞かされて飽きない方がおかしいだろうが」
涙目で見上げるカエデの文句を受け流す。
折角の眠りを邪魔されて文句を言いたいのはリンタロウの方だった。
「今回は俺一人か? それともミヤトも一緒か?」
「ミヤトは一緒よ」
カエデが細やかでおしとやかな膨らみの胸を張る。
彼女がこんな表情をする時はリンタロウにとっては喜ばしくない話をする時と相場が決まっている。
「今回は私も一緒に行くわよ! 三人で頑張るんだからね」
「ふざけんな。頑張れるかボケチビ」
貶すと、カエデが両腕を振り回して怒る。
「チビは関係ないでしょ! ミヤトはどうぞって言ってくれたもの。ね?」
ふとリンタロウの隣を見て話を振る。
「うん。言ったね」
「うおっ」
先程までは確かに誰も居なかったはずのリンタロウの隣に、いつの間にかミヤトが腰掛けていた。
ミヤトが神出鬼没なのは今さら言うまでもない事だが、やはりいきなり出てこられると驚いてしまう。
存在感がない訳ではない。むしろ一般人と比べれば無駄に有り余る程ある。ミヤトがリンタロウにさえも気付かせない身の運び方を好んでするのだ。
「隣に座る前に何か言えよ。ビビったじゃねぇか」
「嫌だよ。そんなのつまんないもん」
輝くような笑顔で返されてリンタロウは言い返す気力さえ削がれてしまう。
多数決で勝ち、などとカエデがほざいているのは無視した。
ミヤトは余裕の表情で綺麗に綿を取り払った蜜柑を口に運んでいる。
その蜜柑は不思議な剥き方をされていて、中心で真っ二つにされている。以前に何故このような剥き方をするのかと聞いた時、最初に蜜柑に爪を立てて剥くと爪が黄色くなるのが嫌だからだと言っていた。なるほど彼の言う通り、初めに二つに割っておけば後は指の腹を使えば綺麗に剥ける。よく考えたものだと理由を教えられた時の感心が、その姿を見て再来した。
「つまるつまらないの問題じゃなくてだな……いつか俺は心臓発作で死ぬと思う」
「そう。それはご愁傷さま」
さらりと流してミヤトは最後の一房を口に放り込んで咀嚼する。酷薄そうな薄い唇が笑みの形に歪められた。
「何でリンタロウはカエデがついてくるのを嫌がるの?」
「腹立つから」
「リンタロウの馬鹿ぁ!」
キャンキャンと吠え立てるカエデの額を押さえつける
ミヤトはと言えば二つ目の蜜柑に手を伸ばしていた。
「冗談だ……お前の煩さは現の世を思い起こさせる」
「そんなに酷いかしら?」
「確かにとても煩いね」
変わらず微笑を湛えたミヤトにはっきりと肯定され、カエデはがっくりと肩を落とす。
くるくると表情の変わる様は愛嬌があると言えば物の聞こえは良いのだろうが、実際は長い年月を共に過ごしていると鬱陶しいのみである。
本人がそうと自覚していないのだから更に質が悪い。
「それにしても……」
「ぅん?」
泣いているのか執拗に鼻をかみ続けるカエデから視線を離す。
彼女の鼻はとても敏感だから、もしかすればただ単に鼻水が出ているだけなのかもしれない。
顎に手を当てて唸れば蜜柑を口に運ぶミヤトと視線がかち合った。
ミヤトが触れれば冷たく割れてしまいそうな薄氷を連想させる水色の瞳を瞬かせ、独り言も同然だったリンタロウの言葉の続きを促す。
「……Fー3って確か前にも無かったか?」
「あったね。八年前だよ。Cー2とLー5とMー6を巻き込んだ大規模な奴だったから、記憶によく残ってる」
「やっぱりか」
カエデがかみすぎて赤くなった鼻を労るように撫で擦りながら、口を挟んでくる。
「起こった場所が同じニホンのトーキョーなの。起こしたのが同一人物の可能性があるわ」
「同一人物? 有り得ねぇだろ」
カエデの言葉にリンタロウは眉を潜める。
その裏にある意味を感じ取ってしまい、リンタロウは冷たい手で背中を撫で上げられたような緊張を走らせる。
「あの時、起こしたのは九歳のガキだ。今はもう十七ぐらいになってるだろうが」
「常識が染み付いた意識で世同士を歪ませたとしたら、末恐ろしい子だよね」
言葉とは裏腹にミヤトは新しい玩具を見つけたかのような無邪気な笑みを浮かべていた。
面白がっているという事は疑い様もない程に明瞭であった。
カエデでさえもその事実に眉を暗くするのに。
リンタロウが溜息をつくとそれをどう受け取ったのか、ミヤトが蜜柑を一房唇に押し当ててきた。
冷たさに驚きはしたものの、拒否する理由はないので大人しく口を開いて蜜柑をくわえる。
「何も考えていない唯の阿呆なのか……それとも無意識なのか」
育つにつれて自然と常識が染み付く為に、大人が世を歪ませるのは難しい。
『そんな事は出来ない、有り得ない』と分かっているからだ。
それは例え表面上偽るのを試みたとしても、心の奥底に刻み込まれ行く物であるので覆せない。
ただ、リンタロウ、カエデ、ミヤトの三人は例外中の例外であるのだが。
「でもまだ、あの子と決まった訳じゃないわ」
「極近くにいる別の人物って可能性もあるわな」
左右に勢いよく首を振りながらカエデが否定する。
リンタロウが同意してやれば、カエデが不安を浮かべた瞳で上目遣いに見てくる。
確かに同一人物とは限らないのだ。何しろ、トーキョーには沢山の人々が押し合いへし合うようにして、生活を営んでいるのだから。
しかし考えていたリンタロウの顔に蜜柑の皮が投げ付けられる。
瑞々しい果実の蜜柑だっただけに頬に張り付いてしまった綿を摘まみ、投げた主を睨む。言わずもがな、ミヤトである。
「何すんだ、コラ」
「現実から逃げるなんて。タブー以外の何物でもないよ」
ミヤトの言う通りだった。
自分達は誰よりも何よりも現実を見ていなければならない。
個人の感情や感傷に惑わされてはならないのだ。
「人口が多いとはいえ、空間を歪ませられる子がそう何人もいたら困るよ」
純度の高い薄い蒼氷がゆっくりと瞬いてカエデに向く。
「だからカエデも『自分も行く』なんて言い出したんでしょ?」
図星を突かれた様子のカエデが呻いて軽く後ろに仰け反る。
それを見たミヤトが満足そうに笑みを深くした。
「まぁ、僕も同一人物であって欲しくはないと思ってるんだけどね」
納めるように言う。
「どちらにしろ厄介なのに変わりはねぇだろ。ほら、急ぐぞ」
三個目の蜜柑に手を伸ばそうとするミヤトの手の甲を叩き、リンタロウは重い腰を上げた。