「また今度ね」が口癖の婚約者様へ。婚約の継続も、また今度にさせていただきます
「また今度ね、コルネリア」
劇場の入口で、婚約者のジュリアン様はそう言った。
開演の鐘が鳴る少し前。私は、二人分の切符を握ったまま立っていた。
「ベティーナが、宿で具合を悪くしているらしいんだ。王都に出てきたばかりで心細いんだろう。様子を見てくる」
「……はい」
「芝居は、また今度一緒に観よう。埋め合わせはするから」
ジュリアン様は私の肩を軽く叩いて、待たせていた馬車に乗り込んだ。
馬車が角を曲がって見えなくなるまで。いや、見えなくなってからも、しばらくそこを見つめていた。
今夜の演目は私の楽しみにしていたものだった。
切符を取ってくれたのはジュリアン様で、だから少しは楽しみにしてくれていると……そう思っていたのに。
結局、劇場には入らなかった。
入口の屋台で焼き栗を一袋買って、帰りの馬車で一人で全部食べた。
無意識に二人分を買ってしまって、胸焼けしてしまう。
屋敷に帰って、机の引き出しから小さな青い帳面を出した。
新しい行に書く。
──劇場。『森番の娘』。また今度。⬜︎
行の終わりの四角は、約束が守られたら印をつけるためのものだ。
帳面をめくって、前の行を見た。けれどどの四角も、白いまま。
この帳面を付けはじめたのは、婚約が決まってすぐの頃。
ジュリアン様は、侯爵家の次男だ。
家同士の話で婚約が決まって、初めて会ったのは伯爵家の庭だった。
ジュリアン様は庭の隅に咲いていた小さな花を摘み、押し花にするといい、と笑った。
私は本当に押し花にして、帳面の最初のページに挟んだ。
優しい人だと思った。
否、今でも、そう思っている。
ただ、その優しさが私の番まで回ってくる事は、あまりなかった。
帳面は、もともと責めるために付けはじめたわけではない。
ジュリアン様は忙しいから、約束を忘れることもあるだろう。
次に会った時にそっと見せれば、思い出してもらえる。
そのつもりだったのに、一度も見せられなかった。
◆
帳面が最後まで埋まると、私は街の文具店へ行く。
大通りから一本入った、古い石造りの店だ。
扉を開けると、りんと年季の入った鈴の音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
奥の作業台から、ロイクさんが顔を上げる。
彼はこの店の若い店主で、たぶん私とそう変わらない年だと思う。
いつも袖をまくっていて、指先に少しインクが付いている。
「いつもの帳面を、一冊お願いします」
「はい。今、お持ちします」
この人は、何を頼んでも『今』と言う。
その言葉の通りに、今持ってくる。
お店の人だから当たり前のことなんだろうけど。
でも私の周りには、こういう人間は少ない。
「前のが、もういっぱいになりましたか」
「……はい」
「たくさん書かれるんですね。あ、いえ、詮索するつもりでは。……今日はいいお天気で」
「えと……はい。曇り空も、綺麗だと思います」
「……そ、そうですね」
ロイクさんは窓の外を見て、バツが悪そうに唇を閉じた。
そんな彼に私は笑いそうになってしまって、口元を手で押さえてしまう。
何を書いているのかは言わなかったし、ロイクさんもそれ以上は聞かなかった。
帰ってから包みを開けると、薄い木の栞が一枚出てきた。
おまけです、と書いた小さな紙つきで。
ひどく四角張った字だった。
それからも、帳面の行は増えていった。
──誕生日の昼食。また今度。
──刺繍の展覧会。また今度。
他にも、湖の舟遊びや、新しくできた菓子店の約束が並んでいる。
理由は、いつもベティーナ様だった。
ベティーナ様は、ジュリアン様の幼馴染。
田舎の男爵家の娘で、少し前に王都へ出てきたらしい。
ベティーナ様からジュリアン様への手紙は、いつも菫の香水の匂いがした。
私の屋敷に届く断りの手紙にまで、その匂いが移っていて、どうも居心地が悪い。
「ベティーナには、俺しかいないんだ」
「はい」
「君は、しっかりしているから大丈夫だろう?」
「……はい」
ジュリアン様は、侯爵家では次男だ。
何を決めるにも、まずお兄様が先で、ジュリアン様の意見は誰も聞かない。
だから、頼られるのが嬉しいのだと思う。
それが分かるから、私は強く言えなかった。
友人たちは、私を心が広いと褒めたけれど、心が広いのではなかった。
広いことにしているだけだった。近寄って目を凝らせば、案外狭い。
代わりに、帳面の隅に小さな顔を描くようになった。
口をへの字に曲げた、怒った顔だ。
誰にも見せないつもりだったけど、段々上手くなっていった。
その年の春、一つだけ、どうしても守ってほしい約束があった。
それは、母の命日。
母は、港町の商家の娘だった。
父と結婚する時は、ずいぶん反対されたらしい。
伯爵夫人になってからも、街の店には自分の足で行く人で、親戚にはよく眉をひそめられていた。けれど私が小さい頃に、病で亡くなった。
毎年その日には、郊外の丘の墓地へ花を持っていく。
去年、ジュリアン様は言ってくれた。
来年は、一緒に行こう、と。
その日の朝、菫の匂いのする手紙が届いた。
『すまない、コルネリア。ベティーナが熱を出した。墓参りは、また今度一緒に行こう』
私は、一人で丘を登った。
母の墓の前に花を置いて、しばらく座っていた。
風が強くて、花が何度も倒れた。
そのたびに立て直していたら、日が傾いた。
──お母様のお墓参り。また今度。
◆
新しい帳面を買いに行ったのは、雨の日だった。
店に入ると、ロイクさんが私の肩を見て、奥から布を持ってきた。
「どうぞ。今、拭く物を」
「……ありがとうございます」
髪を拭いている間に、帳面を包んでくれた。
何も言わなくても、もう出してくれていた。
包みを渡しながら、ロイクさんが言った。
「あの、コルネリア様」
名前を呼ばれたのは、初めてだった。
「昔、この店によくいらしていた奥様を覚えています。小さな女の子を連れて」
「……え」
「その子は、店の奥で、試し書きの紙に猫の絵を描いていました。耳が片方しかない猫でした」
ロイクさんは、作業台の引き出しを開けた。
中から、黄ばんだ紙を一枚出した。
耳が片方しかない猫の隣に、もう一匹、違う猫が描いてあった。
こちらは耳が三つあった。
「下手な方が、僕です」
思い出した。
店の奥で、同じくらいの年の男の子と並んで、紙がなくなるまで猫を描いた。
帰る時、母が言った。
今度じゃなくて、今描きなさい。また来られるか分からないんだから。
あれが、母と来た最後だったのかもしれない。
「どうして、まだ持っているんですか」
「捨てそびれました」
ロイクさんは、少し赤くなった。
「本当です。引き出しの整理が下手で」
雨が強くなって、窓を叩いた。
「傘を、お持ちください。店のですが」
「お返しに来ます」
「いつでも構いません。……いえ。できれば、近いうちに」
借りた傘を差して、店を出た。
角を曲がる時に振り返ると、ロイクさんが店先で空を見上げていた。
店の傘は、あれ一本しかなかったらしい。
◆
私の誕生日の夜会は、伯爵家の広間で開かれた。
父が、私のために開いてくれた夜会だった。
ジュリアン様は、婚約者としてエスコートしてくれる約束になっていた。
帳面には、まだ書いていなかった。
ジュリアン様は、遅れてやってきた。
最初の曲には、間に合わなかった。
「遅くなってすまない。ベティーナの部屋の暖炉が、うまく点かなくて」
「……そうですか」
次の曲を、一緒に踊った。
踊りながら、ジュリアン様は何度も入口の方を見ていた。
私は、その視線の先を見ないようにして、ステップだけを数えた。
曲が終わると、従僕がジュリアン様に何か耳打ちした。
「ベティーナの馬車が、帰り道で立ち往生しているらしい。迎えに行ってくる」
「今夜は……私の誕生日です」
「分かってる。埋め合わせは、また今度するから」
ジュリアン様は、私の手を離した。
広間の人たちがこちらを見ていた。父が杯を持ったまま立ち尽くしていた。
私は楽団に次の曲をお願いした。それから、父と踊った。
父は踊りが下手で、私の足を二度踏んだ。
部屋に戻って、髪飾りを外した。
今夜のために選んだ、真珠の髪飾りだった。
思っていたより、ずっと重かった。
帳面を開くと、ちょうど最後の一行が残っている。
──誕生日の夜会。また今度。
四角を描こうとして、手を止めた。
どうしてを手を止めたのだろうか。
また今度、ということにはしたくなかったからだろうか。
けれどまぁ……もういいか。と、私は帳面を閉じて、引き出しの中にしまった。
今までの帳面を、いくつも重ねた。
◆
次の日、父と一緒に侯爵家を訪ねた。
応接間には、侯爵様と侯爵夫人と、ジュリアン様がいた。
ジュリアン様は、私から目を逸らして、気まずそうに笑った。
「昨夜はすまなかった。今度、ちゃんと埋め合わせを」
「ジュリアン様」
私は、いくつかの帳面を卓の上に置いた。
「ジュリアン様と交わした約束を、書き留めておいた物です。忘れてしまわないように」
ジュリアン様が、一番上の帳面を開いた。
侯爵夫人が、横から覗き込んだ。
ページをめくる音だけが、しばらく続いた。
「……この、隅の顔は何かしら」
侯爵夫人が言った。
私は、顔が熱くなった。
「それは、その。見せるつもりのなかった物で」
「ずいぶん、たくさん描いてあるのね」
侯爵夫人はページをめくった。
めくるたびに、怒った顔が出てきた。
そして──。
「……お母様の、お墓参り」
手が、ぴたりと止まった。
「ジュリアン。あなた、これにも行かなかったの」
ジュリアン様は、答えなかった。
侯爵夫人は帳面を閉じて、しばらく目を閉じていた。
侯爵様が、低い声でジュリアン様の名前を呼んだ。
「待ってくれコルネリア。たまたま重なっただけなんだ。ベティーナは本当に困っていて」
「はい。何冊もそのたまたまが重なったというのなら、信じましょう」
言ってから、少し言いすぎたかもしれないと思った。
でも、取り消さなかった。
「ですので、婚約の継続も、また今度にさせていただきます」
ジュリアン様は、口を開けたまま固まった。
「また今度、というのは……いつだ」
「ジュリアン様のおっしゃる、また今度と同じです」
それ以上は、誰も何も言わなかった。
婚約は、侯爵家の側から解消を申し出る形で終わった。
帰りの馬車で、父が私の手を握った。
「気づいてやれなくて、すまなかった」
「いいえ。私が、言わなかったんです」
父は窓の外を見たまま、もう一度私の手を握り直した。
◆
何日かして、借りた傘を返しに文具店へ行った。
「いらっしゃいませ」
ロイクさんは、私の手元を見た。
傘しか持っていなかった。
「今日は、帳面は」
「もう、書く事がなくなりました」
ロイクさんは、作業台の上の紙を片付けはじめた。
片付けているのに、なぜか散らかっていった。
「あの帳面には、何が書いてあったんですか」
私は、初めて人に話した。
白いままの四角の事も、隅の怒った顔の事も。
ロイクさんは、怒った顔の所で少し笑って、すぐに真面目な顔に戻った。
「その中で、今でも行きたい所はありますか」
「……刺繍の展覧会が、今日までです。母が好きだった職人の作品が出ていて」
「では、今から行きませんか」
「え……っと。それは」
ロイクさんは、もう前掛けを外していた。
私は平静を装って問うてみる。
「お店は、大丈夫ですか……?」
「今、閉めますから」
扉の札を裏返すと、本日は閉店しました、と四角張った字で書いてあった。
「いいんですか」
「今度にしたら、終わってしまいますから」
私は、声を出して笑ってしまった。
笑ったのは、ずいぶん久しぶりだった。
展覧会の帰りに、ロイクさんが言った。
「ほかの所にも、行ってみませんか。帳面に書いてあった所に」
「全部、ですか……?」
「全部は、無理かもしれません。舟遊びは、僕、漕げないので」
それでも、行ける所から行った。
湖では、結局ロイクさんが漕いで、二人とも濡れた。
帳面の四角に、少しずつ印がついていった。
ある晩、劇場にあの日観れなかった演目を観に行った。
帳面の最初の方に書いてある、あの演目だ。
幕間に、ロビーでジュリアン様を見かけた。
ジュリアン様が、菫色のドレスの女性に声をかけている。
ベティーナ様だった。その腕は、知らない男性の腕に絡んでいた。
「ベティーナ。今夜は、一緒に帰らないか。話したい事が」
「ごめんなさい、ジュリアン。こちらの方と約束があるの」
ベティーナ様は、男性の腕を引いた。
「また今度ね」
ベティーナ様の縁談の噂は、私も聞いていた。
相手は、王都で一番大きな商会の跡取りだという。
侯爵家の次男の、婚約を解消されたばかりの人より、ずっと条件がいいのだろう。
ジュリアン様は、その場から動かなかった。
それから、私に気づいた。
隣のロイクさんを見て、もう一度私を見た。
「コルネリア。少し、話せないか。やり直したいんだ。今度こそ、約束は守るから」
私は、考えるふりをした。
「では、また今度」
ジュリアン様の顔が、こわばった。
同じ晩に二度も言われるのは、さすがに気の毒だと思った。
思っただけだった。
「行きましょう、ロイクさん。二幕目が始まります」
「はい。今、行きます」
ロイクさんは、なぜか私より先に歩き出して、柱にぶつかりかけた。
◆
母の命日が、また巡ってきた。
朝、屋敷の門の前に、ロイクさんが立っていた。
手には、小さな花束。
「お供をしても、いいですか」
「……はい」
丘の上は、去年と同じで風が強かった。
花が倒れると、ロイクさんが黙って石を拾ってきて、根元に置いた。
「お母様に、ご挨拶をしてもいいですか」
「どうぞ」
ロイクさんは、墓石の前で背筋を伸ばした。
「文具店のロイクです。昔、青い帳面を買っていただいていました。それから、娘さんと猫の絵を描きました。耳が三つの方です」
私は、吹き出しそうになった。
「お嬢様を、いただきたいと思っています。今度ではなく、今、お願いに来ました」
吹き出しそうだったのに、急に何も言えなくなった。
何か言ったら、泣いてしまいそうだった。
その日の夕方、ロイクさんは父に会いに来た。
今度ではなく今日がいい、と言って聞かなかった。
父は、応接間で長いあいだ黙っていた。
ロイクさんは、手土産の紙の束を膝の上で握りしめている。
私は扉の陰で、息を止めた。
「……あれも、港の商家の娘だった」
父が、壁の母の肖像を見て言った。
「私の父には、最後まで反対された。親戚には、伯爵家の恥だとまで言われた」
「はい」
「後悔した事は、一度もない」
父は、ロイクさんの方に向き直った。
「店の帳面を、一冊もらえるか。青いのを」
「……はい。今、お持ちします」
ロイクさんは立ち上がって、そのまま扉の方へ歩き出した。
店まで取りに行くつもりらしかった。
父が、慌てて呼び止めた。
その夜、ロイクさんにもらった白い帳面を開いた。
青い帳面は、押し花を挟んだまま、引き出しの奥にしまった。
最初の行に書く。
──お母様のお墓参り。ロイクさんと。
四角に、しっかりと印をつけた。
そしてもう一行、書き足した。
──ロイクさんに、お返事をする。
この印をつけるのは、今度ではなく、今。




