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「また今度ね」が口癖の婚約者様へ。婚約の継続も、また今度にさせていただきます

作者: 千波
掲載日:2026/10/25

「また今度ね、コルネリア」


 劇場の入口で、婚約者のジュリアン様はそう言った。

 開演の鐘が鳴る少し前。私は、二人分の切符を握ったまま立っていた。


「ベティーナが、宿で具合を悪くしているらしいんだ。王都に出てきたばかりで心細いんだろう。様子を見てくる」

「……はい」

「芝居は、また今度一緒に観よう。埋め合わせはするから」


 ジュリアン様は私の肩を軽く叩いて、待たせていた馬車に乗り込んだ。

 馬車が角を曲がって見えなくなるまで。いや、見えなくなってからも、しばらくそこを見つめていた。


 今夜の演目は私の楽しみにしていたものだった。

 切符を取ってくれたのはジュリアン様で、だから少しは楽しみにしてくれていると……そう思っていたのに。


 結局、劇場には入らなかった。

 入口の屋台で焼き栗を一袋買って、帰りの馬車で一人で全部食べた。

 無意識に二人分を買ってしまって、胸焼けしてしまう。


 屋敷に帰って、机の引き出しから小さな青い帳面を出した。

 新しい行に書く。


 ──劇場。『森番の娘』。また今度。⬜︎


 行の終わりの四角は、約束が守られたら印をつけるためのものだ。

 帳面をめくって、前の行を見た。けれどどの四角も、白いまま。


 この帳面を付けはじめたのは、婚約が決まってすぐの頃。


 ジュリアン様は、侯爵家の次男だ。

 家同士の話で婚約が決まって、初めて会ったのは伯爵家の庭だった。

 ジュリアン様は庭の隅に咲いていた小さな花を摘み、押し花にするといい、と笑った。

 私は本当に押し花にして、帳面の最初のページに挟んだ。


 優しい人だと思った。

 否、今でも、そう思っている。

 ただ、その優しさが私の番まで回ってくる事は、あまりなかった。


 帳面は、もともと責めるために付けはじめたわけではない。

 ジュリアン様は忙しいから、約束を忘れることもあるだろう。

 次に会った時にそっと見せれば、思い出してもらえる。

 そのつもりだったのに、一度も見せられなかった。


 ◆


 帳面が最後まで埋まると、私は街の文具店へ行く。


 大通りから一本入った、古い石造りの店だ。

 扉を開けると、りんと年季の入った鈴の音が鳴った。


「いらっしゃいませ」


 奥の作業台から、ロイクさんが顔を上げる。

 彼はこの店の若い店主で、たぶん私とそう変わらない年だと思う。

 いつも袖をまくっていて、指先に少しインクが付いている。


「いつもの帳面を、一冊お願いします」

「はい。今、お持ちします」


 この人は、何を頼んでも『今』と言う。

 その言葉の通りに、今持ってくる。

 お店の人だから当たり前のことなんだろうけど。

 でも私の周りには、こういう人間は少ない。


「前のが、もういっぱいになりましたか」

「……はい」

「たくさん書かれるんですね。あ、いえ、詮索するつもりでは。……今日はいいお天気で」

「えと……はい。曇り空も、綺麗だと思います」

「……そ、そうですね」


 ロイクさんは窓の外を見て、バツが悪そうに唇を閉じた。

 そんな彼に私は笑いそうになってしまって、口元を手で押さえてしまう。

 何を書いているのかは言わなかったし、ロイクさんもそれ以上は聞かなかった。


 帰ってから包みを開けると、薄い木の栞が一枚出てきた。

 おまけです、と書いた小さな紙つきで。

 ひどく四角張った字だった。


 それからも、帳面の行は増えていった。


 ──誕生日の昼食。また今度。

 ──刺繍の展覧会。また今度。


 他にも、湖の舟遊びや、新しくできた菓子店の約束が並んでいる。


 理由は、いつもベティーナ様だった。


 ベティーナ様は、ジュリアン様の幼馴染。

 田舎の男爵家の娘で、少し前に王都へ出てきたらしい。

 ベティーナ様からジュリアン様への手紙は、いつも菫の香水の匂いがした。

 私の屋敷に届く断りの手紙にまで、その匂いが移っていて、どうも居心地が悪い。


「ベティーナには、俺しかいないんだ」

「はい」

「君は、しっかりしているから大丈夫だろう?」

「……はい」


 ジュリアン様は、侯爵家では次男だ。

 何を決めるにも、まずお兄様が先で、ジュリアン様の意見は誰も聞かない。

 だから、頼られるのが嬉しいのだと思う。

 それが分かるから、私は強く言えなかった。


 友人たちは、私を心が広いと褒めたけれど、心が広いのではなかった。

 広いことにしているだけだった。近寄って目を凝らせば、案外狭い。


 代わりに、帳面の隅に小さな顔を描くようになった。

 口をへの字に曲げた、怒った顔だ。

 誰にも見せないつもりだったけど、段々上手くなっていった。



 その年の春、一つだけ、どうしても守ってほしい約束があった。

 それは、母の命日。

 母は、港町の商家の娘だった。

 父と結婚する時は、ずいぶん反対されたらしい。

 伯爵夫人になってからも、街の店には自分の足で行く人で、親戚にはよく眉をひそめられていた。けれど私が小さい頃に、病で亡くなった。


 毎年その日には、郊外の丘の墓地へ花を持っていく。

 去年、ジュリアン様は言ってくれた。

 来年は、一緒に行こう、と。


 その日の朝、菫の匂いのする手紙が届いた。


『すまない、コルネリア。ベティーナが熱を出した。墓参りは、また今度一緒に行こう』


 私は、一人で丘を登った。

 母の墓の前に花を置いて、しばらく座っていた。

 風が強くて、花が何度も倒れた。

 そのたびに立て直していたら、日が傾いた。


 ──お母様のお墓参り。また今度。


 ◆


 新しい帳面を買いに行ったのは、雨の日だった。

 店に入ると、ロイクさんが私の肩を見て、奥から布を持ってきた。


「どうぞ。今、拭く物を」

「……ありがとうございます」


 髪を拭いている間に、帳面を包んでくれた。

 何も言わなくても、もう出してくれていた。

 包みを渡しながら、ロイクさんが言った。


「あの、コルネリア様」


 名前を呼ばれたのは、初めてだった。


「昔、この店によくいらしていた奥様を覚えています。小さな女の子を連れて」

「……え」

「その子は、店の奥で、試し書きの紙に猫の絵を描いていました。耳が片方しかない猫でした」


 ロイクさんは、作業台の引き出しを開けた。

 中から、黄ばんだ紙を一枚出した。

 耳が片方しかない猫の隣に、もう一匹、違う猫が描いてあった。

 こちらは耳が三つあった。


「下手な方が、僕です」


 思い出した。

 店の奥で、同じくらいの年の男の子と並んで、紙がなくなるまで猫を描いた。

 帰る時、母が言った。

 今度じゃなくて、今描きなさい。また来られるか分からないんだから。


 あれが、母と来た最後だったのかもしれない。


「どうして、まだ持っているんですか」

「捨てそびれました」


 ロイクさんは、少し赤くなった。


「本当です。引き出しの整理が下手で」


 雨が強くなって、窓を叩いた。


「傘を、お持ちください。店のですが」

「お返しに来ます」

「いつでも構いません。……いえ。できれば、近いうちに」


 借りた傘を差して、店を出た。

 角を曲がる時に振り返ると、ロイクさんが店先で空を見上げていた。

 店の傘は、あれ一本しかなかったらしい。


 ◆


 私の誕生日の夜会は、伯爵家の広間で開かれた。


 父が、私のために開いてくれた夜会だった。

 ジュリアン様は、婚約者としてエスコートしてくれる約束になっていた。

 帳面には、まだ書いていなかった。


 ジュリアン様は、遅れてやってきた。

 最初の曲には、間に合わなかった。


「遅くなってすまない。ベティーナの部屋の暖炉が、うまく点かなくて」

「……そうですか」


 次の曲を、一緒に踊った。

 踊りながら、ジュリアン様は何度も入口の方を見ていた。

 私は、その視線の先を見ないようにして、ステップだけを数えた。

 曲が終わると、従僕がジュリアン様に何か耳打ちした。


「ベティーナの馬車が、帰り道で立ち往生しているらしい。迎えに行ってくる」

「今夜は……私の誕生日です」

「分かってる。埋め合わせは、また今度するから」


 ジュリアン様は、私の手を離した。

 広間の人たちがこちらを見ていた。父が杯を持ったまま立ち尽くしていた。


 私は楽団に次の曲をお願いした。それから、父と踊った。

 父は踊りが下手で、私の足を二度踏んだ。


 部屋に戻って、髪飾りを外した。

 今夜のために選んだ、真珠の髪飾りだった。

 思っていたより、ずっと重かった。


 帳面を開くと、ちょうど最後の一行が残っている。


 ──誕生日の夜会。また今度。


 四角を描こうとして、手を止めた。

 どうしてを手を止めたのだろうか。

 また今度、ということにはしたくなかったからだろうか。

 けれどまぁ……もういいか。と、私は帳面を閉じて、引き出しの中にしまった。


 今までの帳面を、いくつも重ねた。


 ◆


 次の日、父と一緒に侯爵家を訪ねた。

 応接間には、侯爵様と侯爵夫人と、ジュリアン様がいた。

 ジュリアン様は、私から目を逸らして、気まずそうに笑った。


「昨夜はすまなかった。今度、ちゃんと埋め合わせを」

「ジュリアン様」


 私は、いくつかの帳面を卓の上に置いた。


「ジュリアン様と交わした約束を、書き留めておいた物です。忘れてしまわないように」


 ジュリアン様が、一番上の帳面を開いた。

 侯爵夫人が、横から覗き込んだ。

 ページをめくる音だけが、しばらく続いた。


「……この、隅の顔は何かしら」


 侯爵夫人が言った。

 私は、顔が熱くなった。


「それは、その。見せるつもりのなかった物で」

「ずいぶん、たくさん描いてあるのね」


 侯爵夫人はページをめくった。

 めくるたびに、怒った顔が出てきた。

 そして──。


「……お母様の、お墓参り」


 手が、ぴたりと止まった。


「ジュリアン。あなた、これにも行かなかったの」


 ジュリアン様は、答えなかった。

 侯爵夫人は帳面を閉じて、しばらく目を閉じていた。

 侯爵様が、低い声でジュリアン様の名前を呼んだ。


「待ってくれコルネリア。たまたま重なっただけなんだ。ベティーナは本当に困っていて」

「はい。何冊もそのたまたまが重なったというのなら、信じましょう」


 言ってから、少し言いすぎたかもしれないと思った。

 でも、取り消さなかった。


「ですので、婚約の継続も、また今度にさせていただきます」


 ジュリアン様は、口を開けたまま固まった。


「また今度、というのは……いつだ」

「ジュリアン様のおっしゃる、また今度と同じです」


 それ以上は、誰も何も言わなかった。

 婚約は、侯爵家の側から解消を申し出る形で終わった。

 帰りの馬車で、父が私の手を握った。


「気づいてやれなくて、すまなかった」

「いいえ。私が、言わなかったんです」


 父は窓の外を見たまま、もう一度私の手を握り直した。


 ◆


 何日かして、借りた傘を返しに文具店へ行った。


「いらっしゃいませ」


 ロイクさんは、私の手元を見た。

 傘しか持っていなかった。


「今日は、帳面は」

「もう、書く事がなくなりました」


 ロイクさんは、作業台の上の紙を片付けはじめた。

 片付けているのに、なぜか散らかっていった。


「あの帳面には、何が書いてあったんですか」


 私は、初めて人に話した。

 白いままの四角の事も、隅の怒った顔の事も。

 ロイクさんは、怒った顔の所で少し笑って、すぐに真面目な顔に戻った。


「その中で、今でも行きたい所はありますか」

「……刺繍の展覧会が、今日までです。母が好きだった職人の作品が出ていて」

「では、今から行きませんか」

「え……っと。それは」


 ロイクさんは、もう前掛けを外していた。

 私は平静を装って問うてみる。


「お店は、大丈夫ですか……?」

「今、閉めますから」


 扉の札を裏返すと、本日は閉店しました、と四角張った字で書いてあった。


「いいんですか」

「今度にしたら、終わってしまいますから」


 私は、声を出して笑ってしまった。

 笑ったのは、ずいぶん久しぶりだった。


 展覧会の帰りに、ロイクさんが言った。


「ほかの所にも、行ってみませんか。帳面に書いてあった所に」

「全部、ですか……?」

「全部は、無理かもしれません。舟遊びは、僕、漕げないので」


 それでも、行ける所から行った。

 湖では、結局ロイクさんが漕いで、二人とも濡れた。

 帳面の四角に、少しずつ印がついていった。


 ある晩、劇場にあの日観れなかった演目を観に行った。

 帳面の最初の方に書いてある、あの演目だ。


 幕間に、ロビーでジュリアン様を見かけた。

 ジュリアン様が、菫色のドレスの女性に声をかけている。

 ベティーナ様だった。その腕は、知らない男性の腕に絡んでいた。


「ベティーナ。今夜は、一緒に帰らないか。話したい事が」

「ごめんなさい、ジュリアン。こちらの方と約束があるの」


 ベティーナ様は、男性の腕を引いた。


「また今度ね」


 ベティーナ様の縁談の噂は、私も聞いていた。

 相手は、王都で一番大きな商会の跡取りだという。

 侯爵家の次男の、婚約を解消されたばかりの人より、ずっと条件がいいのだろう。


 ジュリアン様は、その場から動かなかった。

 それから、私に気づいた。

 隣のロイクさんを見て、もう一度私を見た。


「コルネリア。少し、話せないか。やり直したいんだ。今度こそ、約束は守るから」


 私は、考えるふりをした。


「では、また今度」


 ジュリアン様の顔が、こわばった。

 同じ晩に二度も言われるのは、さすがに気の毒だと思った。

 思っただけだった。


「行きましょう、ロイクさん。二幕目が始まります」

「はい。今、行きます」


 ロイクさんは、なぜか私より先に歩き出して、柱にぶつかりかけた。


 ◆


 母の命日が、また巡ってきた。

 朝、屋敷の門の前に、ロイクさんが立っていた。

 手には、小さな花束。


「お供をしても、いいですか」

「……はい」


 丘の上は、去年と同じで風が強かった。

 花が倒れると、ロイクさんが黙って石を拾ってきて、根元に置いた。


「お母様に、ご挨拶をしてもいいですか」

「どうぞ」


 ロイクさんは、墓石の前で背筋を伸ばした。


「文具店のロイクです。昔、青い帳面を買っていただいていました。それから、娘さんと猫の絵を描きました。耳が三つの方です」


 私は、吹き出しそうになった。


「お嬢様を、いただきたいと思っています。今度ではなく、今、お願いに来ました」


 吹き出しそうだったのに、急に何も言えなくなった。

 何か言ったら、泣いてしまいそうだった。


 その日の夕方、ロイクさんは父に会いに来た。

 今度ではなく今日がいい、と言って聞かなかった。


 父は、応接間で長いあいだ黙っていた。

 ロイクさんは、手土産の紙の束を膝の上で握りしめている。

 私は扉の陰で、息を止めた。


「……あれも、港の商家の娘だった」


 父が、壁の母の肖像を見て言った。


「私の父には、最後まで反対された。親戚には、伯爵家の恥だとまで言われた」

「はい」

「後悔した事は、一度もない」


 父は、ロイクさんの方に向き直った。


「店の帳面を、一冊もらえるか。青いのを」

「……はい。今、お持ちします」


 ロイクさんは立ち上がって、そのまま扉の方へ歩き出した。

 店まで取りに行くつもりらしかった。

 父が、慌てて呼び止めた。


 その夜、ロイクさんにもらった白い帳面を開いた。

 青い帳面は、押し花を挟んだまま、引き出しの奥にしまった。


 最初の行に書く。


 ──お母様のお墓参り。ロイクさんと。


 四角に、しっかりと印をつけた。

 そしてもう一行、書き足した。


 ──ロイクさんに、お返事をする。


 この印をつけるのは、今度ではなく、今。

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