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午後四時の雨と、影のような黒い耳  作者: はまゆう


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或る翻訳家の、静かな崩壊について

本作はエドガー・アラン・ポーの古典名作『黒猫』をモチーフに、舞台を現代日本へと移したオマージュ短編です。

静かな雨の日の読書のように、少しずつ日常が変容していく違和感を楽しんでいただければ幸いです。

その黒猫には名前がなかった。名付けなかったと言えるかもしれない。名前を付ける行為は、対象をこの世界の座標に固定することだ。黒い塊を「彼」と呼び、彼は部屋の静寂の一部としてそこにいた。

世田谷の隅にあるマンションは、驚くほど防音が行き届いていた。外で激しい雨が降っていても、部屋の中には真空に近い沈黙が流れている。古い北欧の翻訳書を日本語に置き換える作業をして生活していた。

彼との関係が狂い始めたのは、六月の湿った午後だった。

理由はなく、暗い気分に沈んでいた。それは井戸の底に溜まった泥のような、出口のない悪意だった。書斎で、エリック・サティを小さな音で流しながら、隣で眠る黒猫を見つめていた。彼の片目は、机にあるペーパーナイフの鋭利な輝きを反射していた。

その後の記憶は、断片的で、色彩を欠いている。

気づいたとき、彼の左目は潰れていた。指先に残る、濡れた粘土のような感触を眺めていた。彼は悲鳴を上げなかった。ただ、裏切られたような、あるいは深い絶望を知った賢者のような目で見つめていた。

翌朝、自分のしたことを後悔した。しかしそれは、道徳的な罪悪感ではなかった。完璧に調律されていた世界に、修復不能な亀裂を入れてしまったことに対する、技術的な失望に近かった。

一週間後、彼をベランダのオリーブの木に吊るした。

首を絞められる彼との間には、奇妙な一体感があった。彼の命が細い糸のように引きちぎれる瞬間、胸の中にも、小さな風穴が開くのを感じた。

それから数ヶ月が過ぎ、一軒のバーで、彼に酷似した黒猫に出会った。

その猫は、足元に影が滑り込むように近づいてきた。ただ一つ違っていたのは、その胸元に、まるで白い雪が降り積もったような、絞首台を思わせる歪な斑点があったことだ。

その猫を連れ帰り、新しい沈黙として部屋に迎えた。

けれど、新しい猫は、喉元を常に狙っているようだった。眠りにつこうとすると、彼は重く湿った毛布のように胸の上に乗る。その重みは、あの日オリーブの木から感じた重力と、寸分違わず同じだった。

「ねえ、その猫、どこから来たの?」

時々部屋を訪れる、美大生の女性が尋ねた。彼女とは深い関係ではない。ただ、雨の日の午後にだけ、互いの孤独を埋め合わせるようにして過ごす相手だ。

答えない。ただ、霧が立ち込めるような視線で猫を見つめるだけだ。猫は、彼女の足元に擦り寄りながら、の方をじっと見ていた。その目は、かつて潰したはずの左目と同じ場所が、怪しく光っているように見えた。

事件は、地下の物置で起きた。

重い空気の中で、彼女が過去——隠し続けていた、あの黒い「亀裂」——に触れようとしたとき、の中で何かが弾けた。

彼女を手にかけたのは、暴力というよりは、物理的な必然だった。崩れかけた砂の塔を、ただ指で突くような、そんな手応えのなさだった。

冷酷なほど落ち着いていた。

地下室の壁のレンガを一つずつ剥がし、彼女をその奥へ、永遠の沈黙の中へと招き入れた。セメントを練る音だけが、地下室に音楽のように響いていた。彼女という存在を、部屋の構造物の一部に変えてしまったのだ。

仕上げに壁を塗り直し、埃を払ったとき、深い満足感に包まれた。

「完璧だ」

と呟いた。そのとき、ふと、あの黒猫の姿が見当たらないことに気づいた。あいつはこの作業の邪魔をしていたはずなのに。まあいい、どこかへ逃げ出したのだろう。

三日後、警察が来た。近所の住人が、彼女が行方不明であることを届け出たらしい。

彼らを地下室へ案内した。心臓は、磨き上げられた時計の針のように正確に、かつ静かに鼓動していた。刑事たちに、この家がいかに堅固で、平穏であるかを説いた。

「ご覧なさい、この壁の厚さを」

自慢げに、彼女を埋めたばかりの壁を、手のひらで軽く叩いた。

その瞬間だった。

壁の向こうから、声が聞こえた。

それは赤ん坊の泣き声のようでもあり、あるいは奈落の底から響く呪詛のようでもあった。最初は小さく、次第に部屋の防音を突き破るほどの咆哮へと変わっていく。

刑事たちが一斉に壁に取り付いた。

剥がれ落ちたレンガの隙間から、澱んだ地下の空気が溢れ出す。懐中電灯の光の輪の中に、彼女はいた。石膏像のように白く、動かないまま、壁の一部としてそこに立っていた。

そして、その肩の上に、彼がいた。

黒猫は鳴かなかった。ただ、残された右目を細め、深い霧の向こう側から眺めるような眼差しでを見ていた。胸の白い斑点は、闇の中でそこだけが浮き上がる、不吉な星座のようだった。

不思議なほど静かな気持ちで、その光景を眺めていた。

彼女を埋めたとき、彼もまたその隙間に滑り込んでいたのだ。塗り固めたセメントの冷たさの中で、彼は彼女の死を栄養にして生き延びていた。あるいは、最初から彼は生きても死んでもいなかったのかもしれない。心の欠落が、猫の形をしてそこにあっただけなのだ。

一人の刑事が腕を掴んだ。その感触は驚くほど遠く、現実味を欠いていた。

「……雨が降っているな」

誰にともなく呟いた。地下室には窓などないのに、耳には、あの日の午後四時の雨音がはっきりと聞こえていた。世界を塗り潰し、すべての境界線を曖昧にしてしまう、あの重い雨の音だ。

連行されるの背後で、壁の奥に潜んでいた沈黙が、ゆっくりと部屋全体に広がっていくのが分かった。

ふと、さっき叩いた壁の感触を思い出した。あの硬い拒絶の感触。それは、これまで築き上げてきた孤独の厚みそのものだったのだ。

振り返ると、猫の姿はもうどこにもなかった。

ただ、彼女の白い指先が、に「さようなら」を告げるように、闇の中でわずかに揺れたような気がした。

目を閉じ、深い呼吸を一つした。

そこにはもう、整理されるべき言葉も、翻訳されるべき感情も残っていなかった。

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