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第二話

 翌朝、望は携帯のアラーム音で目を覚ました。

 時刻は八時。いつもと同じ時間だ。

 カーテン越しの光をぼんやりと眺めてから体を起こし、顔を洗い、ワイシャツに袖を通す。

 ひとり身になってから、望はおしゃれにも食事にも驚くほど無頓着になっていた。

 パジャマ代わりのスウェットがくたびれようとも、朝を抜いて胃が軽くても、誰に咎められるわけでもない。

 けれど、綾乃がいた頃は違った。

 年頃の娘がいると思えば、寝癖ひとつにも気を配ったし、朝食も、忙しくても何かしら用意した。だらしない背中を見せないように父親としての体裁を整えていた。

 営業職ではあるので会社に行くときはさすがに身だしなみは整える。クリーニングから下ろしたてのシャツに袖を通しネクタイを結ぶと、望は一人暮らしの静かな部屋を出た。

 会社までは徒歩圏内だ。革靴でアスファルトを踏みしめながら歩く。

 通勤ラッシュの時間帯を少し外れているせいか、街はまだ完全には目を覚ましていない。

 オフィスビルに入ると、エントランスには人影がまばらだった。

 望は自席にカバンを置くとフロア奥のラウンジへ足を向けた。朝のラウンジは静かだ。

 誰もいないラウンジでコーヒーマシンの前に立ち、豆の設定をエスプレッソに合わせる。

 朝食代わりの一杯。ボタンに指を置くと、すぐに機械が低い音を立てはじめた。

 ガリガリ、と豆を挽く規則的な響きを聞きながら、望はカップが満たされていくのを無言で見つめていた。

「おはようございます」

 低く、胸の奥に静かに落ちてくる声が、すぐ耳元で響いた。ぼうっとしていたせいで、周囲の気配にはまるで注意が向いていなかった。

「——っ!」

 望は思わず肩を跳ねさせた。

 慌てて顔を上げ、周囲を見渡す。すると、自分のすぐ右隣に男が立っていた。

 昨日の清掃員。

 キャップを目深に被りマスクで顔の下半分が覆われているが、朝の光のせいか、彼の眼は昨日よりもはっきり見えた。切れ長で、まっすぐこちらを射抜くような黒い瞳。静かなのに、意志の強さが隠しきれずに滲んでいる。

 背が高く、無駄のない筋肉質な体つきに、望は思わず感心してしまう。

 彼の姿勢の良さは作業着越しでも際立っていた。

「おはようございます……すみません、自分が急に声をかけたせいで、驚かせてしまって」

 先ほどよりも少し距離を取って、清掃員の青年はそう言った。

 声の調子は低いままだが、角がない。言葉を選んでいるのがはっきりとわかる、物腰の柔らかい、礼儀正しい口ぶりだった。意志の強そうな瞳とは裏腹に、態度そのものはひどく誠実だ。

 望は一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく首を振った。

「いえ……こちらこそ。ぼうっとしていたもので」

 自分でも苦笑が混じったのがわかった。

「みっともない態度を見せてしまって、すみませんでした」

 営業の場ではまず口にしない言葉が、不思議と自然に出ていた。

 青年はわずかに目を見開き、すぐに穏やかに目元を和らげる。

「そんな……みっともないなんて、そんなことは。素敵な方ですよ」

 思いがけない言葉に、望はぽかんとした。間の抜けた沈黙が、ほんの一拍だけ落ちる。

 青年は言ってしまってから、自分の口を指先で押さえるような仕草を見せた。

「あ、いえ……っ」

 慌てて、少し大げさなくらいに手を振る。

「そういう意味じゃなくて、その……変なことを言ってしまって、すみません」

 声の調子がわずかに上ずり、先ほどまでの落ち着いた空気が一瞬だけ崩れた。

 意志の強そうな瞳が、今度ははっきりと戸惑いを帯びている。

 望はその様子を静かに眺めていた。

(……もっと不愛想な人かと思っていたが)

 昨日の淡々と仕事をこな姿から、感情を表に出さないタイプだと勝手に決めつけていたのかもしれない。

 目の前の青年は、照れも焦りも隠しきれずにそのまま顔に出ている。喜怒哀楽は思いのほか分かりやすそうだ。

 望は小さく息を吐き、肩の力を抜くようにして口元をゆるめた。

「はは……」

 短く笑ってから、続ける。

「そういうことを言われる機会、めったになくなっちゃったから、なんだかうれしいです。ありがとうございます」

 社交辞令でも、冗談でもない。思ったままの言葉だった。

 仕事とは関係のない相手とこんなふうに言葉を交わすのはいつぶりだろう。

 頭の隅に、綾乃の顔がよぎる。毎日のように送られてくる、体調を気づかう短いメッセージ。それはそれで、確かにありがたい。

 けれど、今のように利害も役割も関係のないところで交わされる会話は、それとはまったく別の温度を持っていた。

 青年は完全に言葉を失っていた。それから、はっとしたようにマスクを指で引き上げ、キャップのつばをさらに深く下ろす。耳の先まではっきりと赤い。隠そうとしているのに、隠しきれていない。

「……いえ」

 小さく、それだけを絞り出すように言って、視線を床に落とした。

 望はその仕草を、深くは追わなかった。

(……照れてるのか?)

 その程度の感想だけが、頭をよぎる。

 自分の言葉がそこまで相手を揺らしたとは思ってもいないようだ。

「……あの」

 青年は一度、呼吸を整えるように背筋を伸ばした。そして、改まった様子で望のほうを向く。

「昨日は……ありがとうございました」

 そう言って、深々と頭を下げた。

 作業の合間の形式的な礼ではない。腰から折る、きちんとしたお辞儀だった。

 自分の部署の若手社員たちにも、このくらいの所作を身につけてほしいくらいだと思うほどお手本のようなお辞儀だ。

「……昨日?」

 思わず、間の抜けた声が出る。

「昨日って……何か、あったかな」

 記憶をたどろうとして、それでもすぐには思い当たらない。彼からお礼を言われるようなことを、自分がしただろうか。

 青年は顔を上げ、マスクの上からでもわかるほど少し緊張した様子で視線を向けてきた。

「昨日……その、自分がいろいろ言われていたのを……注意してくださって……」

 そこで、ほんの少し言葉を詰まらせる。

「……助かりました」

 望は、しばらく黙ったまま青年を見ていた。

 昨日のラウンジでの一幕。それは、望のところの若手社員たちが彼のことを許しがたい言葉で貶していたときのことだ。

「……ああ」

 望は、ようやく小さく息を吐いた。

「そんなことですか」

 自分でも驚くほど、言葉は淡々と口をついて出た。

「別に、助けたつもりもありませんでした。ああいうのは昔から許せなくて、立場的にも年長の自分が叱ってやらないといけないし」

 どこまでも事務的な口調だった。

 自分の中では、特別な判断でも、勇気を振り絞った行動でもない。

 青年は、その言葉を黙って聞いていた。マスクの奥で、わずかに息を吸う気配がする。

「……そう、なんですね」

 低い声が、慎重に選ばれた調子で返ってくる。

 だが、その声音には、納得よりも、むしろ戸惑いが混じっていた。

 望は気づかない。自分にとって当然のことが、目の前の青年にとっては、これまでほとんど向けられたことのない態度だったことを。

 青年は小さく頭を下げ、それでも視線だけは逸らさなかった。

「……それでも、自分には、すごくありがたかったんです」

 その一言に、余計な感情は乗せない。事実として述べているような声音だった。

 望は一瞬だけ言葉に詰まり、それから、わずかに肩をすくめた。

「そう感じたなら……まあ、それでいいですよ」

 望がそう言うと、青年は一度、小さく息を吸った。そして、改めて背筋を伸ばす。

「自分、朴俊豪っていいます」

 低い声で、はっきりと。

「パク、ジュンホです」

 マスク越しでも、その言葉に迷いがないのがわかった。

「名札からもわかると思いますけど、在日韓国人です」

 望は黙って聞いている。

「だから、ああいうことを言われるのは……正直、珍しくないんです。助けてくれる方は……初めてでした」

 言い終えたあと、ジュンホは言葉を付け足そうとしなかった。

 被害者ぶりたいわけではなさそうだった。そういう現実の中で生きてきた、という事実を継げているだけ。

 望は、すぐには言葉を返せなかった。

 自分の中では、注意しただけ。当たり前のことをしただけ。

 それが、「初めて助けられた経験」になる世界が目の前にある。

 ラウンジの静けさが、ほんのわずかに重さを増した。

 望にとって、彼が在日韓国人であるかどうかは、正直なところ重要ではなかった。名前の由来も、国籍も、それだけで人を測る理由にはならない。

 けれど目の前にいるこの青年が、ここまで率直に飾らずに言葉を差し出してくることには素直に感心していた。

(……珍しいな)

 そう思うと、つい、余計なことを口にしてしまう。

「呼び方なんだけど」

 望は、軽く間を取ってから言った。

「朴さん、って呼んだほうがいいのかな。それとも……ジュンホくん?」

 問いかけは、探るようでも、踏み込むようでもなく、ごく自然な調子だった。ジュンホは一瞬も迷わなかった。

「ジュンホがいいです」

 即答だった。

「朴って、ありふれた苗字なので」

 望は、その反応に小さく笑う。

「じゃあ、ジュンホくんって呼びますね。あ、ちなみに僕は春田望っていいます」

 そう言って、首から下げていた社員証を軽く持ち上げる。 透明なケースの中で揺れた顔写真は転職してすぐに撮られたものだった。

 今よりも十年以上若い。頬には張りがあり、目元もまだ疲れを知らない。無理のない笑顔が、そこには写っている。

(……ずいぶん違うな)

 望は一瞬だけ、胸の奥がちくりとするのを感じた。

 いまの自分は、あの頃よりもずっと痩せて顔色も冴えず、鏡を見るたびにどこか削げた印象が拭えない。

 ジュンホは社員証に視線を落とし、それから、ゆっくりと顔を上げた。

「望さん。名前も素敵ですね」

 当たり前のように、下の名前で呼ばれた。

 マスクの奥でジュンホがわずかに目を細めたのがわかる。柔らかく、穏やかな表情だった。

(……名前も、ってどういうことだろう?)

 一瞬だけ、そんな疑問が頭をかすめる。どういう意味だろう。けれどその言葉を深く考える余地は、望にはなかった。

 当たり前に下の名前で呼ばれたという事実だけが、少し遅れて胸に落ちてくる。

「……ありがとう」

 短く、そう返す。それ以上、話題を広げるつもりはなかった。

 ちょうどそのとき、スラックスのポケットで社用携帯が震えた。

 画面を確認するまでもなかったが、そこに表示された名前を見て望は小さく息を吐く。

(ああ、また営業部長か)

 まだ就業時間前だ。呼び出しの理由は、昨日の会議の件だろう。次の一手を詰めるために、早めに声をかけてきたに違いない。

「すみません」

 そう言って、望はエスプレッソのカップを手に取った。

 片手で携帯を耳に当てながら、もう一度ジュンホのほうを向いて、軽く会釈する。

「……お仕事、がんばってください」

 背中にかけられた声は、低く、穏やかで、どこかやさしかった。

 望は振り返ることはしないまま、口元に小さな笑みをこぼした。

 今度こそラウンジを後にする。背後からは、清掃用具の動くかすかな音がする。

 名前を呼ばれた。それだけのことで朝の気配が少しだけやわらいだことに、望はまだ気づいていなかった。

 胸の奥にはコーヒーの余熱のようなものが、静かに残っている。

 それは、今日一日を乗り切るには十分すぎるほどの温度だった。


 その夜、望はいつものようにソファに横になり、天井をぼんやりと眺めながら、片手でスマホをいじっていた。

 テレビはつけっぱなしだ。

 画面では、バラエティー番組の派手なテロップが流れ、誰かの大げさな笑い声が、部屋に響いている。内容には、ほとんど意識を向けていない。音が途切れないことだけが望には大事であった。

 静かな部屋は、どうにも苦手だ。

 綾乃と暮らしていたころの家の中はいつも賑やかだった。テレビの音に重なるように、他愛のない話し声や、キッチンで立てる物音があった。それが、当たり前の日常だった。

 離婚して綾乃と離れ離れになってからも、望は無音の生活を嫌うようになってしまった。音がないと、考えなくていいことまで考えてしまう。

 画面の中の笑い声に混じって、スマホが短く震えた。

『パパ、ちゃんとご飯食べてる?』

 綾乃からのメッセージだった。

 望は、少しだけ口角を上げる。

(……よく見てるな)

 それから、冷蔵庫のほうに視線を向けた。

 冷蔵庫の中は、ほとんど空だ。ミネラルウォーターと、いつ買ったのかも思い出せない調味料がいくつかあるだけ。

 一人暮らしになってから、自炊というものは完全に後回しになっていた。

 仕事を終えて帰ってくるとシャワーを浴びて、こんなふうにだらだらとソファで寝そべっているうちに気づけば一日が終わっている。

 空腹は我慢するものになって久しい。けれども、さすがにそれを続けていい年齢でもない。

 体重は落ち、体力も、確実に削れている。

(……そろそろ、まずいよな)

 バラエティー番組の笑い声が不自然なほど明るく響く。

 望はスマホに視線を戻し、短く文字を打った。

『今日は食べた。心配しすぎ』

 送信。画面に表示された「既読」を確認してから、望は再びソファに沈み込んだ。

(……どっちが子どもだよ)

 小さく苦笑が漏れる。

 娘に嘘をついたことにわずかな罪悪感はある。けれど、それを引きずるほどの余裕は今の望にはなかった。

 正直なところ、そこまで空腹を感じているわけでもない。

 シャワー上がりに一気飲みした水が、胃のあたりをひんやりと満たしている。それだけで食欲はずいぶんと紛れてしまっていた。

(こういう生活がよくないってことくらい、わかってる)

 頭では理解している。身体にも、確かに兆しは出ている。

 それでも何かをしようという気力はどうしても湧いてこない。

 立ち上がる理由も、キッチンに向かう動機も、今の自分には見つからなかった。

 バラエティー番組の笑い声が、相変わらず部屋を満たしている。その賑やかさに身を委ねるように、望は目を閉じた。

 ソファのクッションが、ゆっくりと身体の形に馴染んでいく。

 眠るつもりはなかった。ただ、少し休むだけのつもりだった。

 けれど、次に意識が沈むまでそう時間はかからなかった。テレビの音だけを残して、望はそのままソファの上で眠りに落ちていった。

 ——こうして、今日もまた、何も変えられないまま一日が静かに終わっていく。

 それが、最近の望の日常だった。


 そして翌朝も特別な変化は何ひとつないまま始まった。

 携帯のアラームで目を覚まし、身支度を整え、朝食を取らないまま部屋を出る。

 会社までは徒歩圏内。革靴がアスファルトを叩く音だけが規則正しく耳に残る。

 オフィスに着く頃には、まだ人影はまばらで、フロア全体が眠りの名残を引きずっている。

 望は自席に荷物を置くと昨日と同じようにラウンジへ向かった。朝食代わりのコーヒー。それが、ここ一年の習慣だ。

 コーヒーマシンの前に立ち、豆の設定をエスプレッソに合わせる。ボタンに指を置くと、すぐに機械が低い音を立て始めた。

 ガリガリ、と豆を挽く音。その規則的な響きを聞きながら、望はぼんやりとカップを見つめていた。

「おはようございます」

 不意に、声がかかる。昨日と同じ、低くて落ち着いた声。

 望は顔を上げ、反射的にそちらを見る。

 ジュンホだった。キャップとマスクは相変わらずで、見えているのは帽子のつばとマスクの間の、わずかな面積だけだ。

 切れ長の目元。一見すると、気が強そうにも見える造作。

 そのはずなのに、望は違和感を覚えた。昨日よりも、その目元が柔らかい気がする。

 正確には、嬉しそう──そんな表情をしているように見えた。

 もちろん、帽子とマスクに隠された顔の大半は見えない。

 それでも、目の奥の光り方だけで何かが伝わってくる。

 望は小さく首を傾げながら、カップに落ちていくコーヒーを受け取った。

「おはようございます……今日も早いですね」

 望はそう言って、軽く会釈した。相手が明らかに一回り以上年下だとしても、社内の人間ではない。

 清掃会社のスタッフという部外者である以上、この距離感を崩すつもりはなかった。だから、言葉遣いも自然と敬語になる。

 ジュンホは、その挨拶を受けて目を細めた。挨拶が返ってきたこと自体が、少しうれしかったようにも見える。

 だが、次の瞬間、その視線の色がわずかに変わった。

 望の顔をじっと見る。帽子のつばの影から、切れ長の目が真っ直ぐに向けられる。

「……望さん」

 呼びかけは低く、静かだった。

「顔色、あまり良くないですね」

 問いかけではなく、気づいた事実をそのまま置くような言い方。

 望は一瞬、言葉を失った。

 朝のラウンジでそんなことを指摘されるとは思っていなかった。

(……そんなに、わかるものか?)

 自分ではいつも通りのつもりだった。

 寝不足でもない。仕事に支障が出るほどの不調でもない。

「ごはん、ちゃんと食べていますか?」

 声は低いまま、けれど先ほどよりも少しだけ柔らかい。気づいたことを確かめるような問いだった。

 望は思わず苦笑する。

「いきなり、そこまで見抜かれると……ちょっと困りますね」

 冗談めかして言いながら、視線をカップの中のコーヒーへ落とす。

「実は、昨日の夜から食欲がなくて。でもいつもそうなんです。野暮ったい男の一人暮らしだから、家に帰ったら疲れて料理なんてする元気もないし。今日も、これが朝食です」

 そう言って、望は手にしたコーヒーのカップを軽く持ち上げた。

 その瞬間だった。ジュンホの視線が、カップに吸い寄せられるように落ちる。

 そして明らかに表情が変わった。帽子とマスクに隠れていても、目元だけで十分に伝わってくる。

 ぎょっとした、というより、咄嗟に感情を抑えきれなかった顔だった。眉がわずかに寄り、切れ長の目に、はっきりとした色が宿る。

(……あ、これ)

 望は内心で思う。怒っている。

 ジュンホは言葉を飲み込むように一度は口を閉じた。それから低く息を吐いて、声を落としたまま言う。

「……それは」

 一拍。

「それは、朝食とは言わないと思います」

 責める口調ではない。けれど、はっきりそう彼は言い切った。冗談として流す余地を、あえて残さない言い方だった。

 望は少し意外そうに目を瞬かせる。

「はは。そうかな」

 軽く返したつもりだったが、ジュンホはすぐには頷かなかった。

 ジュンホは望のほうをまっすぐ見てくる。

「……昨日の夜も、ちゃんとしたもの、食べていないんですね」

 断定ではない。けれど、ほとんど確信に近い声色だった。望は思わず言葉を詰まらせた。問い返す前に、ジュンホのほうが先に視線を逸らした。

「すみません」

 低く、短く。

「余計なことを言いました」

 そう言いながらも、その表情には、引っ込めきれない感情が残っている。怒りというより、心配が、行き場を失っているような。

 望は、胸の奥に小さな波紋が広がるのを感じた。

「いや……いいですよ」

 そう言って口元に小さな笑みを浮かべる。

「心配してくれる人がいるって、なんだか不思議な感じですね」

 冗談めかした声音だったが、そこに嘘はなかった。

 ジュンホはその言葉を聞いた瞬間、はっとしたように目を見開いた。

 そして次の瞬間、何かに気づいたように表情がわずかに変わる。

「……あの」

 声の調子が、少しだけ上がった。

「いま、時間はありますか」

 唐突な問いに、望は一瞬きょとんとする。

「ええ……」

 腕時計に視線を落とし、頭の中でスケジュールをなぞる。

「就業開始まで、あと三十分はありますね」

 望はもともと、いつも少し早めに出勤している。メールを確認しながらコーヒーを飲むのが朝の決まった過ごし方だった。

 ジュンホはその答えを聞くと、どこか安堵したように息をついた。

「……ここで、待っててもらえますか」

 一拍置いてから、言い直す。

「五分……いえ、三分で戻ります」

 そう言うと、返事を待たずに足早にその場を離れた。

 掃除用具は、その場に置かれたままだった。

 本当に、ほんの一瞬だけ席を外すつもりなのだろう。

 望はジュンホが何をそんなに急いでどこへ向かったのかもわからないままラウンジに残された。

 問いかける間もなかった。理由を聞く前に、彼の背中はもう遠ざかっている。

(……三分、か)

 望は、エスプレッソのカップを持ち直した。急ぐ様子もなく、ただ、待つ。

 コーヒーメーカー近くの椅子に腰を下ろし、カップの縁に視線を落とした。

 望はそのまま静かにエスプレッソを口に運びながら、ジュンホが戻ってくるのを待った。

 息を切らしたジュンホがラウンジに戻ってくる。どうやら、どこかへ走って行ってきたらしい。

 その手には、白いレジ袋が握られていた。

 ジュンホは一度深く息を整え、それから、少し照れたように視線を落としつつ、その袋を望のほうへ差し出す。

「ええと……」

 望は思わず立ち上がった。

「これは……?」

「アンジュマ……じゃなくて、昔からお世話になってるおばあさんがいて。今朝、持たせてくれたんです」

 レジ袋の中身を、そっと示すように揺らす。

「キンパです。辛い物、苦手じゃなければ……」

 望は一瞬、言葉を失った。

「……え?それって、ジュンホくんのためにそのおばあさんが用意してくれたものじゃないんですか?」

 ジュンホは、迷うことなく首を振る。

「いえ」

 はっきりと。

「僕より、望さんのほうが必要だと思いました」

 あまりにも自然な言い方だった。

「キンパも、きっと……望さんに食べてもらったほうが、喜ぶと思います」

 何を言われたのか理解が追いつかない。

 理屈でも、善意の押し売りでもない。

 そう思ったから、そうした。それだけの理由。

「……っ」

 望は、こみ上げてくるものを堪えきれず、思わず声を漏らした。

 そして次の瞬間、なぜか笑っていた。笑いながら、目尻に滲むものを、慌てて手の甲で拭う。

「ずるいな……そんなの」

 ジュンホは、自分が何をしてしまったのか、よくわかっていない顔で立っている。

「……すみません?」

「ううん、謝るところじゃないですよ。ごめんなさい、急に笑ってしまって。ジュンホくんの考え方がかわいらしくて、久しぶり楽しい気持ちになりました。ジュンホくんがそこまで言うのなら、ありがたくいただきます」

 そう言って、差し出されたレジ袋を受け取る。袋の中をそっと覗くと、アルミホイルに包まれた筒状のものが見えた。

(……ああ)

 どこかで見覚えがある形だ。

 綾乃が好んで観ていた韓国ドラマのワンシーン。登場人物たちが、気軽につまんでいたあの食べ物。

 キンパは日本でいうところの、海苔巻きに近いものだったはずだ。

 ジュンホが、少し気遣うように言う。

「あの……ごま油の匂いがすると思うので、食堂か、屋外で食べたほうがいいかもしれません」

 望は袋を軽く持ち上げ、小さくうなずいた。

「そうですね。そうさせてもらいます」

 ラウンジの窓の向こうに、明るい光が広がっている。

「天気もいいし……中庭で食べてこようかな」

 何気なくそう口にすると、ジュンホの目元が、また少しだけ柔らいだように見えた。



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