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第一話

一部、人種差別的なセリフが含まれておりますのでご注意ください。

「……以上が今期までの進捗です。医療機関担当営業部の予算売上達成率は一四〇パーセント。決算まで残り半年ですが、現時点で目標値を超過しております。そのため、残りの期間は単月の積み増しに固執せず、来期の市場動向を踏まえた長期的な戦略構築に充てたいと考えています。各エリアの課題整理と、新規案件の育成を進め、次の半期に確実につながる営業体制を整備していく方針です。」

 言葉が途切れると、会議室の空気が一瞬だけ静まった。端的で無駄がなく、数値も分析も揺るぎない。

 幹部たちは互いに視線を交わしながら、その隙のない報告に、軽い圧倒と感嘆の入り混じった沈黙を落とした。

「いや、見事だ。春田マネージャー、さすがだね。もう年間の予算の売り上げに達してしまうんなんて」

 ようやく漏れた役員の声に続き、控えめな拍手が広がる。

 医療機関向けの電子機器を主力とする総合デバイスメーカーにおいて、病院営業は最も獲得難度の高い部門だ。

 そのなかで結果を出し続ける望は、幹部たちにも一目置かれる存在だった。

 会議が散会し、椅子が引かれる音が次々と重なる。望は目の前の タブレット端末をスリープにして薄い端末を小脇に抱えると、深く頭を下げて会議室を後にした。

 廊下に出た瞬間、冷たい空調の風が熱を帯びた額に触れる。緊張がほどけると、喉の奥がわずかに渇いていることに気づいた。

(……コーヒーでも淹れよう)

 足は自然と、フロア奥のオフィスラウンジへ向かっていた。

 昼下がりの光がガラス越しに差し込み、ソファと観葉植物が並ぶ静かな空間が広がっている。

 望は壁際のコーヒーマシンを前に立ち、紙コップをセットして、抽出ボタンに指を伸ばした。

昼下がりの光が差し込むガラス張りの空間。コーヒーサーバーのほかに自販機とソファ、観葉植物が整然と並ぶその一角には、珍しく誰の姿もなかった。

 静寂が、会議のざわめきの余韻をゆっくりと吸い取っていく。

 望は壁際のコーヒーマシンの前に立ち、紙コップをセットしてボタンに触れた。その直後、

ガリガリと豆を挽く重い音がラウンジに響き渡る。その騒がしさとは対照的に、望の胸の奥はどこか遠く沈んだままだった。

 豆を挽く音が弱まり機械がコトリと音を立てた頃、望は背後に わずかな気配 を感じた。

 誰もいなかったはずのラウンジに、気づけばひとつの影が差している。

 望がゆっくり振り返ると、清掃用具を手にした若い男性が入ってきていた。このビルの清掃員だろう。清掃会社の制服である青いキャップを深くかぶり、マスクが顔半分を覆っているため、表情はほとんど見えない。

 それでも、彼がただものではないことが一瞬でわかってしまう。

 腫れ物のように細いわけでも、アスリートように分厚いわけでもないバランスが異常にいいとでも言うべき体躯。長い脚、肩幅、無駄のないシルエット。

 清掃員の作業着という質素な服装に身を包んでいるというのに、隠しきれない 質の違うオーラ を纏っている。

(イケメンなんだろうな……)

 望は自分でも意外なほど冷静にそう察した。

 顔の半分が隠れているのに、整った造作を連想させる雰囲気だけが先に存在している。

 若い男は望に軽く会釈すると、静かにカートを押してモップを準備しはじめた。その所作までも、なぜか雑ではない。

 望は特に気にとめるでもなく、ただ目の前のコーヒーマシンに視線を戻した。

 抽出音が弱まり、コーヒーが紙コップの中へ落ち続ける。その一定のリズムを聞いていると、

別方向から声が混ざってきた。

「聞いた? 医療機関担当営業部、もう年間の予算分、売り上げたらしいよ」

 低いささやきのような声。最初は遠く、ただの雑音に近かった。

「え、マジ? 半期残ってるよな」

「春田マネージャーって、やっぱ化け物じゃね?」

 声が少しずつ大きくなっていく。足音も混じる。こちらへ近づいてきている。

 望はそっと息を呑んだ。コトリ、とコーヒーマシンが抽出終了の合図を鳴らす。望は紙コップをとっさに掴み、ラウンジの柱の陰へ身を引いた。

(……また噂か)

 驚いたり傷ついたりすることは、もうない。こうした話題が自分の名前とセットで語られることに、望は慣れてしまっていた。

 会話の主がこちらへ向かっている。それを避けるために身を引いただけ。反射的な動きにすぎなかった。

 望は紙コップを持ったまま、ラウンジの柱の陰へ静かに身を寄せた。彼らと鉢合わせたくないというそれだけだった。

「やっぱり元看護師だから、病院のコネとかあるのかな」

 ひとりが声を潜めたつもりなのだろうが、静かなラウンジではむしろよく響く。

「どうだろ。でも、医療機関営業であの数字は異常だよな。医者にだって相手にされないぞ」

「というかさ、春田さんってわけありで病院、辞めたんだよな」

 言葉の端が、ためらいなくその部分に触れる。

 望はコーヒーの縁に視線を落としたまま動かない。こんなうわさ話を聞いても顔色ひとつ変えないのは、もう慣れているからだ。

「やっぱりその噂、マジなの?俺、この前うちのマネージャーから聞いたんだけどさ」

「え、なに?」

「詳しくは言ってなかったけど……なんか、揉めたとか。上とも同僚とも、いろいろあったらしいって」

「へぇ……でも、あんなに落ち着いてる人が?」

「むしろ、そういう修羅場をくぐってきたから落ち着いてんじゃね?」

 笑い声が混じる。望は特に何も感じなかった。この程度の噂は、いつものことだ。

 そのとき、若手社員のひとりがふいに声をひそめた。

「げ、この時間って掃除してるんだっけ。邪魔くせえ」

 ラウンジの向こうでは、先ほどの青いキャップを目深にかぶった清掃員の青年が、無言でモップを滑らせている。

「名札、見た?朴って書いてあったぞ」

「え、マジ?……ザイニチかよ」

 片方が小さく吐き捨てるように言った。くだらない悪ふざけともつかない声音。だが、その一語だけで、ラウンジの光の温度がわずかに落ちた気がした。

「てかさ……清掃員って、やっぱそういう人が多いよな」

「わかる。だって普通、あんな仕事しないだろ。朝から晩まで床磨いたりクサイの掃除したり。俺なら絶対無理。だから必死に就活したもん」

「ていうか、病院系でも清掃って底辺扱いじゃね?雑用中の雑用みたいな」

「だよなー。他に仕事なかったんじゃね? かわいそ」

 軽口のつもりなのだろうが、吐かれる言葉のひとつひとつが望の耳に刺さるように不快だった。

 露骨な人種差別と職業差別のオンパレード。胸の奥が、じくりと重くなる。

 しかも、わざと聞こえるような声量で。

(……これはさすがに、見過ごせないな)

 自分についての噂なら、どうでもよかった。だが、立場の弱い誰かを踏みつけにするような言葉は別だ。

 望は紙コップを持ち直し、静かに柱の陰から姿を現した。

「君たち、少しいいか」

 低く抑えた声だった。怒気は含まれていないのに、若手社員たちはビクリと肩を揺らした。

「は、春田マネージャー……?」

 望は彼らのそばまで歩み寄ると、穏やかな表情のまま、しかし逃げ道を与えない静かな眼差しを向けた。

「仕事に誇りを持つのはいいことだ。ただし、他人の仕事を貶していい理由にはならない」

 一拍置き、柔らかいが強い口調で続ける。

「特に、聞こえる場所で。我が社の社員として、ふさわしい振る舞いじゃない」

 若手社員たちはみるみる青ざめ、慌てて頭を下げると、逃げるようにラウンジを出ていった。

 望はその背中を見送り、小さく肩をすくめた。

(……やれやれ)

 気を取り直すように自販機の前へ歩き、スマホをかざしてスポーツドリンクを一本買う。ペットボトルの冷たさは指先に心地よかった。

 そして、まだ黙々とモップを動かしている清掃員のほうへ視線を向ける。

 男は振り返らず、ただ静かに作業を続けている。先ほどの言葉が聞こえていなかったはずはないのに、仕事に専念している。望は歩み寄り、彼にそっと声をかける。

「お疲れ様。さっきの、気にしないで」

 清掃員の手が一瞬だけ止まり、ゆっくりと顔が向く。

 帽子の影とマスクで表情は読めないが、驚きと警戒が静かに揺れたように見えた。

 望は微笑み、差し出したペットボトルを軽く持ち上げる。

「いつもオフィスをきれいにしてくれて、ありがとう。よかったら、これ。休憩のときにでも」

 言葉に押しつけがましさはない。丁寧に、誠意だけをにじませるだけの声音だった。

 清掃員はわずかにまばたきをし、そして遠慮がちに、それでも確かにその手を伸ばした。

「……ありがとうございます」

 低く、空気を震わせるような声だった。

 押しつけがましくないのに存在感があり、胸の奥にじんわりと響く、落ち着いたトーン を持っている。

 聞き取りづらさはまったくない。むしろ、耳にすっと染み込んでくる種類の声。望は一瞬、言葉の余韻に意識を奪われた。

 そのとき、男の胸元で光が揺れ、名札がちらりと覗いた。

 朴俊豪。

「朴」は読める。だが、その横の文字が即座に読めず、望は心の中でそっと音を探った。

(……確かに、彼は日本人ではないのかもしれない)

 けれど、それで彼に対する評価が変わるわけでもない。

 名前の響きにわずかな異国の匂いを感じつつも、望の中に芽生える区別の感情はなかった。

 先ほど噂されていた差別的な言葉の数々と、この青年の静かな佇まいはあまりに対照的だった。

 無言で立つ姿勢。作業に戻る前の、わずかな間の静止。帽子の影に隠れているはずなのに、どこか目が離せなくなる落ち着いた存在感。

(……変な言い方だけど、きれいな人だな)

 望は、自分でも意外なほど素直にそう思った。

 一瞬の沈黙のあいだ、時間がわずかにゆっくり流れた気がした。

 そのとき、望の社用スマホが、唐突に振動した。

「あっ……ごめん。邪魔したな」

 望は短く笑みを返しながら、ペットボトルを持つジュンホに軽く会釈した。

「じゃあ、また今度」

 何を「また今度」なのかは、自分でも曖昧なままだった。それでもそう言い残して、慌てて電話に出ながらラウンジの外へ歩き出す。

 清掃員がどんな表情でその場に立っていたのか、望は知る由もなかった。


 ラウンジを出て数歩進んだところで、望はスマホを耳に当てた。

「お疲れ様です、春田です。はい、どうも」

 電話の向こうから聞こえてきたのは、同僚でもあり、この会社の中で望が唯一、気の置けない相手である佐伯の声だった。

『半期決算の数字、聞いたぞ。お前、本当にすごいな。もう達成しちゃったんだろ。目標の読みが甘すぎたんじゃないか』

「運が良かっただけだ。あとは次期の準備を進めて──……」

『ほら、それだよ』

「なにが?」

『自分を罰するみたいに働くの、いい加減やめたらどうだって話だよ』

 望は思わず足を止めた。

『もう俺たち、若手じゃないんだ。来年には四十だぞ。そんな働き方、この先ずっと持つわけないだろ』

「罰してるつもりなんて、ない」

『いや、あるだろ。

 なんでも一人で背負い込んで、自分を追い詰める感じ』

 佐伯の声は軽い調子なのに、どこか深いところを静かに突いてくる。

『望、お前さ……ちゃんと自分の人生、生きてるか?』

 望は一瞬、返す言葉を見つけられなかった。

 胸の奥に沈んでいた、過去のある光景が一瞬よぎる。けれど、すぐに押し戻した。

「これから部内ミーティングだから、またな」

 自分でも驚くほど硬い声が出た。

『わかったよ。じゃあ後で』

 通話が切れる。

 望はしばらくその場に立ち尽くし、無意識にこぶしを握りしめた。

(罰してるつもりなんて——)

 口の中で何度かその言葉が反芻される。

 胸の奥にある触れたくない古傷は、いまだに静かに疼いていた。


 その夜、佐伯と軽く酒を飲んでいた。とはいえ話題のほとんどは、望のことだ。

「お前さ、最近ひどいぞ。働きすぎだっての。息抜きしろよ、マジで」

「そうか?」

「そうだって。前より顔がこわいもん。部下もビビってるんじゃないか?」

 佐伯は冗談めかして笑ったが、望はグラスを傾けただけで反応を示さなかった。

 佐伯は続ける。

「昔からそうだけどさ、お前は——」

「……そろそろ帰らないと、奥さんと子どもが待ってるんじゃないのか?」

 望のその一言で、佐伯は口をつぐんだ。

 一瞬だけ、氷の落ちる音が妙に響いた。

「……まあ、そうだな。帰らねえと」

 わずかに気まずい沈黙。

 望はそれ以上何も言わなかった。

 この話題を出せば、佐伯がこれ以上踏み込んでこないのを望は知っている。

 佐伯は数年前に結婚し、いまでは保育園児の娘を溺愛する、立派な家庭持ちだ。

 若いころは相当遊んでいたのだろう。そんな夜の匂いがどこかに残る男で、くっきりした目鼻立ちは、落ち着いた色気をまとった中堅俳優のようでもあった。

 今や年下の奥さんと小さな娘に完全に骨抜きにされていて、その落差もまた彼らしい。

 一方の望は、つい昨年末に離婚したばかりだった。

 もっとも、望自身はそれを「痛い」とか 「つらい」と感じているわけではない。事情があって結婚していただけで、離婚したところで痛くもかゆくもなかった。

 だが、世間はそうは見ない。離婚して間もない人には、どうしても触れてはいけないという空気がまとわりつく。

 周囲も一定の距離を置いて接してくる。それを望はよく理解していた。

 だからこそ、いざというとき、その話題を出せば相手が踏み込んでこないということも知っている。

 そして実際、先ほどもそれは効果を発揮した。

(……便利なものだ。印籠みたいで)

 望は、誰に聞かせるでもなく心の中で自嘲気味に笑った。

「……じゃあ、また明日」

「ああ。娘さんと奥さんによろしく」

 駅前で軽く手を振り合い、二人は別れた。

 夜風が肌に触れた瞬間、望の胸の奥に静かな空洞が広がったように感じた。

 望は会社近くのマンションへ向かって歩く。仕事終わりの喧騒から抜けた道は、鳥の胸骨のように細く静かだった。

 エントランスのオートロックを抜け、エレベーターに乗り込む。久しぶりに酒を飲んだからか、頬がほんのり温い。

(一人で飲むよりは、いいな)

 そんなことを思いながら、自宅の玄関を開けた。

「ただいま」

 昔からの癖で口に出る。言った瞬間、自分でも薄く苦笑した。もちろん、返事はない。

 照明をつけると、朝に自分が出ていったままの部屋が広がった。

 広めの2LDK。必要最低限の家具だけが置かれ、余白がやけに目立つ。

 リビングへ足を踏み入れたとき、ソファの脇にクッションが一つ、床へ転がっているのが目に入った。

「ああ……」

 思い出した。

 朝、急いでいた拍子に落としたままだった。

 望はそれを拾い上げ、丁寧に元の位置へ戻す。それだけなのに、部屋の静けさがいっそう濃く感じられた。

(誰かがいる家って、どんな感じだったっけな)

 ふいにそんな考えが胸の底に沈んでいく。

 冷蔵庫を開け、取り出したミネラルウォーターをコップに注ぐ。喉を潤すはずの水は、なぜか味が薄く感じられる。

 一日がようやく終わったはずなのに、心のどこかはまだ仕事の延長線上にいるようだった。

 コップを置き、ジャケットの前を外す。

「ああ……しわになるな」

 無意識の独り言とともに、脱いだジャケットをソファの背にそっと置く。

 すぐにハンガーにかければいいのに、その一手間すら面倒に感じる。

(そろそろクリーニングにも出さないとな……)

 営業職である以上、スーツはほぼ毎日の戦闘服だ。だからこそ管理を怠るとすぐに傷むことも知っている。わかっているのに、毎回、体が言うことをきかない。

 ジャケットはそのままで、望もゆっくりとソファへ腰を落とした。

 なんとなく、指がリモコンを探していた。電源ボタンを押すと、薄暗い部屋にテレビの光が広がる。

 時刻はまだ夜の八時。

 画面に映っているのは、有名タレントが行列のできるラーメンを食べ比べる、どこにでもあるグルメ番組だった。

 望は内容に興味があるわけではない。静まり返った部屋に人の声を流れ込ませたいだけだった。だから、チャンネルを変えず、ただぼんやりと画面を眺める。

 ジャケットは脱いだ。けれどワイシャツもスラックスも、まだそのままだ。

(早く着替えるか、シャワー浴びるべきなんだけどな……)

 そう思いながらも、体はまったく動こうとしない。

 だれの目もないと、どうしてもだらしなくなる。

 営業職として、外では常に隙のない大人でいなければならない分、家に帰ると糸が切れたように力が抜けてしまうのだ。

 テレビの中で誰かが麺をすする大きな音がした。

 望はそれにも反応せず、ソファに沈み込みむと片手で額を押さえた。スラックスのポケットの中で、スマホが震えた。

 着替えもせずにそのままソファへ倒れ込んだせいで、太ももに振動がじんと響く。

(……誰だ?)

 力の入らない手でスマホを引き抜き、画面を見る。差出人は綾乃 だった。

『パパ、帰ってすぐスーツのままソファで寝そべってたりしないよね?』

 望は思わず苦笑した。

(……なんでわかるんだよ)

 まるで遠くから部屋の様子を見透かされているようだ。

「お前は俺の母さんか……」

 独りごちてから、短く返信を打つ。

『寝そべってない。座ってるだけ』

 送信して、ようやくスマホをテーブルに置く。

「……さて」

 自分に言い聞かせるように呟き、望は重い腰を上げて立ち上がった。

 ジャケットを脱いだだけのスーツ姿のまま、足を引きずるように脱衣所へ向かう。照明の白い光が、静まり返った部屋の中に細い道を作っていった。

 シャワーを浴びるためにワイシャツのボタンを外していると、視界の端で何かが動いた。

 洗面所の鏡越しに映る自分の姿だ。見たくないと思っていても、鏡は容赦なくいまの自分を映し出してくる。

 望は目をそらそうとしたが、結局そのまま立ち尽くしてしまった。

(……本当に一年で、ずいぶん老けたな)

 スーツを脱ぎかけた肩越しに見える身体は、どこか頼りなくて影が薄い。

 生活に張り合いがない。それが見た目にも、そのまま反映されている気がした。

 かつては違った。

 一人娘である綾乃のために、仕事も育児も、時間に追われながら不器用にやりくりしていた。

 それでも、あの頃は確かに生きている実感があった。

 しかし離婚後、元妻が綾乃を連れて行ってしまった。

(親権が自分に来るわけないって、わかってはいたけど……)

 わかっていた。わかっていたはずなのに。胸の奥に、ぽっかりと空洞が開いたような感覚は、いまだに埋まっていない。

 その穴を埋めるように、望は仕事へとすがったのだろう。懸命に走っていれば、余計なことを考えなくてすむと思っていた。

 そんなの望はいま、運動もろくにしないから筋肉は落ちているくせに、体重だけは減っていっている。

 だらしない痩せ方というより、げっそりという表現のほうがしっくりきた。

 鏡の中の自分は、どこか疲れていて、どこか寂しくて、そしてすべてを諦めているように見えた。

 望は目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。

(……早くシャワー浴びよう)

 自分に言い聞かせるように、シャツを脱ぎ捨てた。


 熱い湯を肩に受けながら、望は目を閉じた。

 湯気がふわりと立ちのぼって、世界の輪郭をゆっくりほどいていく。その曖昧さの中で、胸の奥がまるで誰かがそっと水面を揺らしたみたいに不意にざわっとした。

 金属がぶつかる乾いた音。誰かの荒い息。モニターの警告音。

 過去の断片が、湯気のすき間からにじみ出る。

(呼吸がない。脈も……)

 なぜ今、思い出すのか。望はわかっていた。忘れようとして、忘れられるものではないことも。

「先生!返事してください、お願いですから……!」

 かつての自分の声がよみがえる。

 夜勤のナースステーション。手が震え、受話器が汗ばむ。何度電話しても、医師たちの返答は重い沈黙か、忙しさを理由にした拒否だけだった。

 心肺停止。今この瞬間、誰も来ない。望は走りながら、必死に考えていた。

(間に合わない……誰も来ないなら……俺が……)

 カートの引き出しを乱暴に開ける。本来、看護師が触れてはいけない器具。それを掴んだときの、ひどく冷たい感触。

「やめてください春田主任、そんなこと──!」

 それが誰の声だったのか、もう曖昧だった。だれかに制止された気がするし、誰もいなかった気もする。

 湯が肩を流れ落ちる。

 シャワーの音が、警告音と重なった。

(やめろ。思い出すな)

 望は首を振った。

 過去など、今さら変えられないのに。

 シャワーを止めたことで静寂は戻ってきたのに、胸の奥だけが、湯気の残りかすみたいにゆらゆらと揺れて、収まりどころを忘れていた。

(——今日はもう寝よう)

 タオルで顔を覆いながら、望はゆっくり息を吐いた。

 こうして一日を終えるのは、もう何度目だっただろう。

 胸のどこかに空いてしまった穴は埋まる気配もなく、そのまま薄い膜だけ張って、じっと夜をやり過ごしている。

 明日もきっと同じように息をして、働いて、そしてまた、こんなふうに静かに落ち込んで眠るのだろう。

 こうして、望はいつも一日を終えるのだ。

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