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年末の休息【先生のアノニマ 2(上)〜9】

 毎年、一二月が慌ただしいのは当然だ。一一月も中旬を過ぎると、世間では決まってクリスマス商戦の足音が聞こえてくる。年末年始の開幕を告げるそのビッグイベントを待ち切れないのは、何かと現金な営利企業だけではなく、それに乗せられた人々も同じ。俄か仕立ての幻想に心を躍らせ、老いも若きも、男も女も分け隔てなく。誰もがロマンを語っても許される時期。つまりは、

 ──毎年毎年、一一月が拗ねてんじゃねぇのかなぁ。

 というような俺の懸念などは少数派なのだろう。その一一月といえば、

 ──(さむらい)だろうになぁ。

 その世界に知れ渡る(いにしえ)の気骨者達を堂々と語る事が許されるのは、世界広しといえども唯一日本だけだというのに、だ。

 ──とはいえ。

 確かに一一月は、一二月に比べるとイベント的観点でインパクトに欠けるのもまた事実。イメージとして殆ど一二月の前座扱いで、盛り上げ役として地味に過ぎ去っていく。一一月初頭に開催された文化祭での波乱が、つい何日か前の出来事のような錯覚すら覚える俺だが、世間は確実に急激に寒くなり。そんな学園も、世につられるように慌ただしく年末を迎えるに至った。

 ごちゃごちゃ所感を述べたが、ようするに気がつけば一二月下旬だ。週末がくれば、二月期の終業式を迎えるというその週初。俺は、柔らかさの中に緊張感を帯びる理事長と、その横に並んで相変わらず何処かしら太々しさをちらつかせる紗生子の後ろに控えつつ、正面玄関前に突っ立って、とある来訪者を待ち構えていた。

「詫びに来るってのに、待たせるなぁ全く」

 と言う紗生子は、ジャケットとパンツ姿で仁王立ちだ。冬を迎えるとトレードマークのワンピースは影を潜め、パンツスタイルを常用するようになったその理由は、単にジャケットの下に銃を携帯出来る季節感になった、という素気なさだが、その着熟し振りは相変わらず見事なものだ。

「何様なんだ、あの兄妹は?」

「ダメですよ、主幹先生」

 間もなくいらっしゃいますよ、と小さく笑って窘める理事長の、その目を盗むように後退りしていた俺も、

「シーマ先生もですよ」

 一緒に食い止められる。

「いやぁ、何となくお腹が──」

「ウソをつけ。体調はいつも万全だろうが」

「人を健康バカみたいに言わないでくださいよ」

「誰もそんな事言ってないだろう? とにかく堂々としてろ。我らは常在戦場なんだ」

 と言われた俺は、オールシーズン仕様のポロシャツに綿パンだ。紗生子や理事長と比べられると何と冴えない事か。そこを見透かされての、紗生子らしいフォローだ。

「失礼じゃないですかね?」

「それ以外に服があるのか?」

「──ないです」

 そう言う俺の今日の出立ちは、寒いから追加でジャージを羽織ったぐらい。

「じゃあどうしようにもないだろうが。軍の制服を着る訳にもいかないんだ」

 いい加減往生しろ、とついに釘を刺されたところで、正門前にやたら重厚感のある大型SUVが現れた。それが揃いも揃って三台。

「噂はするモンだな。どんな格好だろうがもう逃げる訳にはいかんぞ。それこそ無礼千万だ」

「はあ」

 先月、突然元米国副大統領がやって来てあたふたさせられたというのに、

 ──またかよ。

 きっと何もかも、社会的身分が高くて有能で物怖じしない、そんな周囲の無駄に美しい女達のせいだ。因みに、世の大抵の要職経験者というものは、儀礼的には元職の尊称で生涯呼称され続けるものだが、それは米国副大統領も例外ではない。が、今度こそ正真正銘の現職副大統領だ。

 三列縦隊の車列が結構な速度のまま流れるようにエントランスに入って来て、実にスムーズに俺達の目の前に止まる。その真ん中の車の後席ドアが開くなり

「やれやれ。ここに来るのは極秘だってのに。この仰々しさはどうなんだ?」

 開口一番でいきなり無礼千万な暴言を投げつけた紗生子に、中から出て来た紗生子に勝るとも劣らぬ美女が失笑した。

「日本側の取り巻きを外して来たただけでも褒めてもらいたいモンだがな」

 これがまた、完全無欠の洋美人だというのに見事な日本語だ。

「ほらみろ。授業中だってのに、校舎の窓という窓が黒だかりだ」

 その紗生子につられてエントランスの東に位置する【片仮名のコの字型】をした校舎棟を振り返ったその美女が、熟れた振舞で黒だかりに軽く手を振ると、それだけで歓声が上がった。

「愛想もそんなモンでいいだろ。さっさと入るぞ」

「相変わらず手厳しいな」

 やり合っている割には握手をしていたりするが、何ともその二人の大物感が凄まじい。そしてその周囲を取り巻く厳ついサングラスをかけた、如何にも屈強そうな巨漢達。先月随行していたミユキブラザーズとは打って代わって、まるで愛想のない緊張感をたぎらせているその面々は、米国が誇る要人警護のスペシャリスト集団、シークレットサービスのエージェント達だ。その前で、

「それにしても何とかならんかこの自家製取り巻き(・・・・・・・)は。暑苦しくて敵わん」

 我が校のセキュリティーはこの連中を必要としないレベルなんだがな、とわざわざ相手が日本語で会話している中で、平然と英語で言ってのける紗生子のクソ度胸というか自信過剰というか。

「まぁそう言ってくれるな。彼らも仕事だ。しかしその様子だと、我が国(米国)が派遣したエージェントはお気に召されたようで嬉しいよ」

 と、俺よりも少し背の高いビジネススーツを着たその美人が俺の前で立ち止まり、手を差し出した。

「紗生子のお守りは大変だろう? シーマ少佐。いやミナモトだったか? 本名は──」

「それを言ったら偽名の意味がないだろうが!? その名の数だけこの男に無理をさせている事を少しは理解しろ!」

 君も折角だからさっさと握手ぐらい返せ、と相変わらずせっかちな紗生子が場を急かす。

「そうだな、悪かった」

 素直に謝罪するところなどは、紗生子とはえらい違いだ。そこに少なからずの好感を覚える。

「レイ・シーマです。御目にかかれて光栄です。副大統領閣下」

「アイリスでいい。短い時間だが、堅苦しいのは抜きでいこう」

 宜しければ案内願えるかな、と隙のない玉顔が少し綻んだかと思うと、その分だけ胸が少し熱くなった。

「こら、ぼさっとするな。見惚れている時間はないぞ」

「すいません」

「そう邪険に扱うモンじゃない。君を娶ってくれた旦那様だろう?」

「やかましい」

 当然、諸事情は筒抜けだ。

Iris(アイリス) Camilla( カミラ ) Eagle( イーグル )】。五〇歳。今春早々事実上(・・・)実兄アーサー・クラークから副大統領職を引き継いだ、米国史上初の女性副大統領にして現与党【協和党】の重鎮。天才的な学者肌の兄に勝るとも劣らぬ秀才で、兄と比較される事を嫌がり駆け落ち同然で実家を飛び出し結婚して現姓になったがために、クレバーな性格を揶揄されて名前の頭文字から【Ms.ICE(氷の女)】と称される女傑だ。兄が国防官僚OBなら妹は国務官僚OBで、エリート街道を突き進み大統領報道官を務めた三〇代半ばの人気振りは、早くも間違いなく今世紀を代表する記憶の一つとなると称される。ABC父娘を凌ぐ勢いのその支持率は今も尚健在で、兄妹ながら二大政党に袂を分かったこの二人が政界で活躍し始めた米国は、実質この二人によって舵取りされているとまで語られる、その巨頭の片翼だ。経歴を語れば切りがないそのキャリアをして、米国史上初の女性大統領に任ぜられるのも時間の問題と目されるその才媛は、ミスターABCと同様に理事長の出自たる高坂家と縁があるらしく、という事は

「無駄口開いてる暇はないんだろうが? キリキリ歩け」

 毒を吐きっ放しの紗生子とも当然、仲が良いらしい。

「主幹」

 堪らず窘めようとすると、

「もう五〇の女に一々だらけた顔をするんじゃない」

 俺にまでその舌鋒が襲いかかる。その何処かに反応したアイリスが、

「五〇は余計だ【おきよ】」

 と、聞き慣れない名称を吐いた。すると当然、

「それを今ここでぬかすかこの【ハゲワシ】が!」

 口が反射で動く紗生子の、そのレスポンスの早さは見事という外なく。

「減らず口は相変わらずという訳か。この──」

 更に何かを吐きかけた世界有数の女傑を、

「貴様、よもや詫びに来たのを忘れた訳じゃなかろうな?」

「──分かった分かった。相変わらず血の気が多いな全く」

 強引に被せて捩じ伏せるという有り得なさだ。

「貴様があれこれと気を煩わせるからだ」

 表向きには副大統領就任挨拶のための訪日だったアイリスの公式日程は今日が最終日で、後は横田基地に駐機している副大統領専用機(エアフォースツー)で帰国の途につく筈が、急遽設定された電撃訪問で俄かに沸く学園内。その訪問理由は、先月突然極秘来校した元副大統領アーサー(ミスターABC)の狼藉を謝罪するためであり、姪のアンの様子を見るためでもあったようだが、最重要事項は紗生子と俺に会うためだったりした。

 事ある毎の例に違わずまたもや理事長室に舞台を移したその極秘会談で、唯一室内に入室を許されたアイリスの随行者は、これまたアイリスに肉薄する見事なブロンド美女で、優に一八〇を超える長身だ。が、それだけに止まらず、室外に居並ぶ護衛同様に何処か戦士然とした隙のなさで、ボヤボヤしていると喉元に何かを突きつけられそうな。そんなアマゾネス美女が徐に卓上に何かを出すと、

「君達は任務で離れられないときているからな。不肖ながら大統領の名代で持って来るしかなかった」

 アイリスが言葉を添えたケース入りのそれは勲章だった。二つ用意されたそれぞれは、微妙に意匠が違うように見える。

「本当は、二人共同じ物を贈りたかったんだがな。夫婦(・・)で記念になるだろう?」

「一々わざとらしく連呼するな」

「嬉しいくせに。まぁ言い過ぎて突き返されても困るからな。ご笑納していただけると有難い」

 という紗生子に贈呈されたのは、米国の勲章では最高位と称される【大統領自由勲章】だった。一方で俺の方は、米軍内の勲章として最高位を誇る【名誉勲章】だ。二つの違いは受賞資格にあり、前者は国内外を問わず米国の国益等に賞賛貢献をもたらした個人を対象としているが、後者はあくまでも米軍人のみを対象としている。どちらも中々受賞出来るものではなく、大変な誉れなのだが、

「少佐はやはり現役軍人だから、軍の物(・・・)の方が良いと思ってな」

「それはそうだ」

 それを意外にも、それまで散々噛みついていた紗生子が追認した。

「毎月数百ドルだが手当がつくし、退職金も上乗せされる。何より階級抜きで常に敬礼される特権を有するんだ。何かとナメられる君には打ってつけだと思うぞ?」

「詳しいですね」

「まぁな」

「調べたくせに」

「いらん事を言うな!」

 アイリスの突っ込みに、実に分かりやすく反応してくれる紗生子だ。どうやら水面下でこの二人による配慮があった事は間違いないらしく、そういう事なら

「ご配慮に感謝致します。身に余る栄誉です」

 その謝意が、素直に口から出る。それは俺達の、今夏のハイジャック事件の功労に対する恩賞だった。

それ(名誉勲章)の受賞者なら、今後余り無茶な任務はないだろう」

「そう、なんですか?」

 そういう事なら今のこれ(任務)も結構な無茶振りなのだから、受賞と同時に転属しても良さそうなものだ。が、

「まぁ紗生子のお守りは少佐にしか出来そうにないから、しばらくは諦めてくれ」

 アンが留学を終えるまではな、とアイリスが止めを刺してくれる。

「どう言う意味だ?」

「言葉通りの意味だ。何なら今すぐにでも、少佐に代わってシークレットサービスから一人遣わす事も出来るんだがな」

「冗談じゃない。あんな暑苦しい連中が校内で潜入警護なんか出来る訳ないだろうが!? 腕力一辺倒で務まる程こっちの護衛は単純じゃないんだよ」

 紗生子のその追い討ちは、実に分かりやすかった。シークレットサービスの厳つさが校内に存在する現況でさえ違和感この上ないとあっては、常時在校する事など有り得ないにも程がある。

 ──全然シークレットじゃねぇしな。

 その名称は、まさに強烈な皮肉だ。それに比べれば日本側の警護は実にスマートといってよいだろう。そこは極秘の諜報組織を投入してまで警護している成果ともいえるが、それでも校内ではバレバレなのだ。そこへ向けて余り派手な存在は、それを勘繰(かんぐ)られる綻びに、

「──なり兼ねんからな」

 と言う紗生子の見解は、もっともと言わざるを得ない。

「日本は一々面倒だな」

おたくの国( 米国 )程大雑把じゃないんだよ。この狭っ苦しい国土に一億人も暮らしてるんだからな」

「だから草食系のスマートな武官を所望した、という訳か」

「当然だ! あんなむさ苦しい連中とバディが組めるか!?」

「少佐を放したがらない訳だな」

「さっきから一々そこへ(・・・)持っていきたがるな? くどいぞ?」

「今日はその話もするつもりだったからな」

 ──何だそれは。

 という俺の疑問は残念ながら

「まぁ本当にもう余り時間がないんだ。それはまたにしよう」

 と言うアイリスに掻き消されてしまった。

「遅くなったが、夏のハイジャックの折には本当に世話になった。大統領の名代として、国民を代表して礼を述べさせていただく」

 そのアイリスが上座に座って御御足を組んでいたかと思うと、座位のままながら姿勢を正してお辞儀をしてみせた。

「あの旅客機には、数十人のアメリカ国民が乗り合わせていた。第一報を聞いた時は同時多発テロ(9・11)を思い出してな。流石に寒気がしたモンだよ」

 それにたまたま紗生子とアンが乗っていて。というか、アンが狙いだったのだろうが、それを紗生子が豪快に制圧し、後から有り得ない呼び出しを受けた俺が飛び乗って着陸させたその事件は、俺の中では未だ褪せる事のない記憶だ。というか、恐らく死ぬまで忘れる事はないだろう。というか、二度思い出したくない恐怖体験だ。

「さぞ厳しい任務(リクエスト)だったから、少佐は忘れたいかも知れんが──」

 それを見透かしたアイリスが、

「──個人的には、大事な姪を助けてもらった事でもあるしな。それなりの礼を尽くさせてもらう、これもその内の一つと思ってもらいたい」

 優しく微笑むその美しさの中の厚みのようなものに、只々圧倒される。

「これはまだまだ免疫が足らんな」

 今日はこれでもそれなりに大人しく、下座で俺と並んで座っている紗生子が不意に溜息を吐いたかと思うと、

「時間がないんだろう? ならこっちも出し惜しみせず、一つ提案があるんだがな──」

 と、アイリスに思いがけない事を吐き始めた。


 一〇分後。

 正面玄関に居並ぶ仰々しい車列に乗り込む面々の中に、

「何で私まで帰らないと行けないのよぉ──!」

 と喚くアンの姿があった。

「いやじゃあぁぁぁ──あ!」

 午後の授業中という事もあって、その断末魔のようなものが周囲にこだまするそれは、

「何か、拉致されてるみたいですね」

「まぁ似たようなモンだがな」

 見送る紗生子と俺を唖然とさせる程の駄々っ子振りだ。

「ちょうどクリスマス休暇の時期だし、ここらでいい加減みんな(エージェント)にもまとまった休みを取らせてやりたかったんだよ」

 と言う紗生子の提案は、クリスマス休暇に伴うアンの一時帰国だった。エアフォースツーならハイジャックされる心配もないだろうし、何より叔母(アイリス)が連れて帰ってくれるのだ。これ程打ってつけの状況も中々ないだろう。

「お戻りの予定は?」

「年明けだ。クラーク家は毎年テキサスの実家で盛大に越年パーティーをするしな」

 再来日はチャーター機か軍機だろうな、と淡々と答える紗生子の前で、

「クッソォー! 覚えてろしょぉこぉ──!」

 口汚く罵るアンが、アイリスの随行者だったブロンドのアマゾネスにあっさり抱き抱えられて、真ん中のSUVに消えて行った。俺と似たり寄ったりの背丈の暴れるアンを軽々と。やはり中々の手練れのようだ。

「見事なモンですねぇ」

「ルイスの嫁さんだ」

「ミユキブラザーズの、ですか?」

「ああ見えて三人の子持ちでな」

「そうなんですか!?」

 とてもそんな風には見えない見事なプロポーションなのだが。一体何歳だというのか。アイリスも紗生子もそうだが、今一つ年齢がはっきりしない美女がまた一人。もっとも公人たるアイリスの年は公開されているが、実年齢と見た目のずれ方は世の美魔女も真っ青といわんばかりで、要するに三人揃って類は何とかだ。

「そういえば、テレビでもお見かけした事があるような──」

「当たり前だ。副大統領補佐官だぞ?」

「え!? そうでしたっけ?」

「アイリスのヤツが際立ってるからな。霞んで見えるのも無理はないが」

 その俺の心境を読んだのか、車中でも大暴れするアンを平然と押さえるミユキ補佐官が目で挨拶をしてくれた。今更だが、これまた主人(アイリス)に似て凛々しくも朗らかな、何とも頼もしいばかりの美女だ。

「あれで【クラヴマガ】の達人だ。旦那(ルイス)仕込みのな」

「通りで」

 武家故実で古武術に嗜みがあるアンを軽々と制するなど、流石はアイリスの従者という事だろう。

「今は暴れちゃいるが、国に帰れば愛しのマイクに会えるんだ。案外そのまま帰って来ないかもな」

「そうですかねぇ」

 人ごとのように話しているうちに、物々しい三台の車が来た時同様に静かに滑らかに走り始める。本来なら深々と御辞儀するところだろうが、紗生子も俺もそこは警護を担う端くれとくれば、目礼で済ませた。当然、それで立腹するような狭量なアイリス一行でもなく。その主が車中で軽く手を上げて俺達に答えたかと思うと、大型SUVがまるで連結しているかの如く流れるように、結構なスピードで颯爽と立ち去って行った。

 その車列が正門を出て行ったところで、

「どうするんだ?」

 不意に紗生子が俺に尋ねる。

「え?」

「休暇だよ」

「は?」

「『は?』じゃあるか。アンが里帰りしたんだ。久々に休みだぞ?」

 確かに、ここ数か月間まともな休暇はなかったのだ。

「でも空っぽには出来ないでしょう?」

 爆弾を仕掛けられる訳にもいかないのだから、留守番は必要だろう。

「みんなでここ(学園)にいる必要はないんだ。こういう時は普段虐げられている下々が優先さ」

 という事は、

「半年間ご苦労だった。君は今この瞬間から正月明けまで休んでいい」

 と、いう事のようだ。

「え?」

「──じゃあるか。いい仕事のためにはリフレッシュも必要だ。そうと決まったらさっさと準備しろ」

 夜までに予定を報告しろ、と言うなり紗生子は背を向けて一人、主幹教諭室( 自室 )へ戻って行った。

「──急に言われてもなぁ」

 さて、どうするか。

 

 イーグル(アイリス)米国副大統領付の補佐官は、その名を【Claire(クレア) Miyuki(ミユキ)】といい、御年四〇才とはネットで明らかになった情報だ。Ms.ICE(氷の女)を支える才媛は弁護士資格を保有するアイリス自慢の懐刀らしく、日本に留学経験があり日本語もペラペラなのだとか。そこはやはり、親日家のクラーク一族に関係する者の例に違わずの嗜みという事なのだろう。

 ──という事は、

 その夫、ルイスの事はネットでは明らかにならなかったのだが、紗生子の後輩を名乗るぐらいだからブラザーズは三〇代、といったところだろうか。となると、二人のグリーンベレー時代の先輩たる紗生子の年はアラフォーという感じで

 ──いいのか?

 が、先輩の意味が【先任】を示すのであれば、年齢の上下は分からなくなる。そもそもが、年齢が公表されているアイリスやクレア、アーサーなどは、どう見ても紗生子より年上に思えてならないのだが、そうした面々を紗生子はことごとくタメ口というか罵倒しては呆気らかんとしているのだ。考えれば考える程

 ──謎々だなぁこりゃあ。

 休暇を貰う事になった俺は、寮の舎監室で漫然とそんな事を調べていた。年が分からない筆頭である我が上司には、夜までに休暇予定を報告するよう指示されているが、既に晩飯を食っている最中の俺だ。そこへ、

『いい加減決まったか?』

 その本人からイヤホン越しに催促が入った。

「いや、それが──」

 いざ待ち焦がれた休みとなると、行きたい所が思いつかなかったりする。それに

「今週末までは授業もありますし」

 学園職員を兼ねているのだ。終業式まではALTの仕事をこなさなくてはならない。

『そんなのは他の同僚に任せればいいだろうが』

「英語はそうでも、フランス語と中国語はそうはいきませんよ」

 後者二言語のALTは俺だけだ。

『正規の教科担任じゃないんだ。ちょっとぐらい抜けたところで困らんだろう。何なら私が代わってやるぞ?』

 確かに紗生子なら聞くまでもなく如何にもやりそうだが、

「そんないい加減な事は出来ませんよ」

 そこは節度というものだろう。

『やれやれだな。君が一番融通が利くというのに』

 本当の潜入警護員である佐藤先生(ワサンボン)ワラビー(ジョーイ)は、当然終業式まで休めない。が、この二人は既に、終業式の翌日以降の予定を提出したとか何とか。

『二人とも旅行に行くそうだぞ』

「佐川先生はどうされるんですか?」

『夫婦で古い友人に会いに行くとか言ってたな。海外へ』

 今でこそ表向きは地味な校務の先生を呈しているその老紳士は、実は校内の後方支援の要たる半官半民(嘱託職員)の特殊校務員にして、現役時代は世界的な重工大手の重役だったのだ。世界を股にかける繋がりは想像に無理がない。つまり、後何人いるのか知らないが、

校内組(・・・)で予定が決まっていないのは俺だけですか?」

『そうだ』

 という事らしい。

校外組(・・・)の連中なんか、全員さっさとバカンスに突入したぞ』

「え? もうですか?」

 内外問わず、ぐずぐずしているのは俺だけのようだった。

『いつでも何処でもぐずなヤツだと露呈したようなモンだぞ。据え膳食わぬは何とやらだな』

 まるで全てにおいてそうであると言わんばかりの決めつけは甚だ心外だが、確かに的外れでもないような気がする俺の情けなさだ。悔しいが。

「そういう主幹はどうするんです?」

『君が心配する事じゃない』

「そうはいきませんよ」

 何せ偽装とはいえ、表向きは夫婦なのだ。世間的体裁を考えるのなら、バカンスは一緒に何処かへ出かけた方が自然ではないか。と言いかけて、

 ──あ、あぶねぇ。

 折角の解放感を台無しにする寸前だった事に気づく、頭の悪い俺だ。そしてそれをやはり、

『たまには一人で羽を伸ばした方がいいぞ? 次はいつ休めるか分からんしな』

 紗生子に突かれる。

『こんな年増に半年擦り寄られ続けたんだ。流石にすり減ってるだろう?』

「そんなことは──!」

『遠慮するな。学園の警備は万全だし、私には舎監の役目もあるんだ』

「それにしては大盤振舞過ぎませんか?」

 いくら何でも手薄過ぎやしないか。紗生子にしては迂闊というか、何か考えがあるのか。

『とにかく気晴らしをしろ。君にとっては折角の久々の日本だろう? 墓参りぐらいして来い』

「それは、行くつもりはありません」

 それに実は、墓の詳細を知らなかったりする俺だったりする。

ベル(家政士)も明日から休みだからな』

「え? じゃあ飯は?」

『知らん。自分で何とかしろ』

「そんな、急に言われても──」

『だからさっさと旅行でも何でも行けばいいって事だろうが! ホントめんどくさいヤツだな!』

 ついにいつもの短気を出した紗生子に、一方的に切られてしまった。まあ入って来る時もいつも一方的なのだが。

「やれやれ」

 それにしても、何処か違和感を覚える。


 結局、終業式まで授業をこなした俺は、校内組の面々がホクホク顔で旅立って行くのを見送る事になった。冬休みに突入した校内は、あっという間に閑散とし始める。それは寮内も同じで、数人を残して瞬く間に皆親元へ帰って行った。舎監も兼ねる紗生子によると、残る数人も時間の問題らしい。

 名実共に久々の休暇に突入した俺は、グラウンドを走りに走っていた。何処でも出来るビジョントレーニングや筋トレは欠かさずやっていたが、唯一激減していたのがロードワークだ。学校の週末休みで生徒が少なくなるのを狙って走ってはいたのだが、それでも軍にいた時と比べると雲泥の差で基本的な走り込み量は激減している。ファイター(戦闘機乗り)にとってそれは、高いレベルで心肺機能を維持するために欠かせないトレーニングだ。高空で生き残るための生命線となるG耐性強化の基礎なのだ。特に、正規兵には任せられない、事実上の傭兵のような特殊任務用員の俺の事。例え、今全く毛色の違う任務に従事させられているとしても油断大敵だ。明日は何を下知されるか分かったものではない。事実、ここへやって来た時がまさにそれだったのだ。だから、走っている。

 気がつくと、夕方になっていた。周囲の明るさがぼやける程、一心不乱に走ったのも久し振りだ。

 ──悪くない。

 しんどいことはしんどいが、TP(テストパイロット)時には貧血ギリギリの状態まで追い込みながらやっていたトレーニングだけあって、今は身体が軽い。今を思うとエドワーズの頃は、追い込まれる余りオーバーワークになっていたようだ。その精神的不安が今はまるでない。仏軍以来の久々の(おか)勤務とはいえ、急転直下の危なっかしさではエドワーズの頃と大差はない事を思うと、要するに精神的支柱によるところが大きいという事で、つまりは紗生子だ。何だかんだいって責任感と任務遂行力の高さは信用に足るものだし、部下に対する一定の配慮のようなものもそれなりに感じる。無茶苦茶で傍若無人な振舞が目につくが、それに慣れてしまうと意外に中正だったりするのだから安心感があったりするのだ。但し、何事かの結果に至るプロセスには常に振り回されっ放しだが。それでも米軍内では、俺のような捨て駒を庇ってくれる上司などいなかった事を思うと、認めたくはないがある程度は部下思いの上司、という事になるだろう。

「結局まだいるじゃないか」

 グラウンドの隅っこでストレッチをしていると、その上司が背後から嘆息混じりの声を投げてきた。

「よく考えたら、別に行きたい所がないんですよ。仮にあったとしても一、二週間では足りないんです。多分」

「不器用なヤツだな全く。そんなに汗だくになって、風呂はどうするつもりなんだ?」

「え? 寮の風呂は──」

「ボイラーさんは年内の業務を今日終えただろうが」

「──そうでしたね、そういえば」

 それは校務の佐川先生が兼務していた事だ。

「隆太のヤツは何処へ帰るんです?」

 高千穂外相(すけこまし)の子である中三の巨漢は、父親に絶望し実家に帰りたがらず、寮に入り浸る事で有名な、一種の主のような存在になっていた筈だが、

「今年は真純の家で厄介になるそうだぞ」

「理事長の家って事ですか?」

「そうとも言うな」

 既に半分法曹としての道を歩んでいるハイティーンの英才は理事長のフィアンセな訳で、その実家で既に同居しているそこへ真純が呼び寄せたらしい。

「人の事より少しは自分の事を心配しろ」

 そう言う紗生子は、一歩足りとも校外に出ていなかったりするのだが。

「晩飯の調達がてら、最寄りの銭湯にでも行って来ますよ」

 何か買って来ましょうか、と言うと

「必要ない。私は自分で食いたい物を食う」

 と、実に素気ない。というか、

 ──怒ってる、か?

 呆れを通り越したようだ。かと思うと、

「明日の日中外出するから、代わりに留守番していてくれ」

 盛大な嘆息と共に根負けしたように言った。


 次の日。冬休み初日の朝。

 宣言通り紗生子は一人、愛車で颯爽と外出して行った。紗生子が校外に出るのを見送るなど、そういえば記憶がないような。その上今回は、どうやらプライベートらしいというレアケースだ。

 何となくそれを見送る俺の所へ、最後の在寮生になっていた隆太が

「あれぇ? 夫婦水入らずなんじゃないんですか?」

 荷物を抱えて舎監室にやって来た。

「寮生がいたら誰かが面倒見んといかんだろうが」

「あ、そうか。すみませんね」

 帰る所があるのが嬉しいのだろう。冗談の中にもそれが滲み出ている、そんな素直さは微笑ましい。

「年末年始はどうするんです?」

 アンさんもいないし、とすっかり本業バレバレの俺達夫婦だ。

「どうするかなぁ──」

「はあ?」

「いいからさっさと行け。寮の再開は仕事始めからだからな。真純さんに宜しく言っといてくれ」

 と、若き寮の主も追い出すと、寮内は文字通りもぬけの殻となった。

 寮に限らず土曜日という事もあって校内には学園職員も殆どおらず、部活動もない事はないが人の声は遠い。俺は一人舎監室で、アンから無理矢理押しつけられている電子書籍の漫画を読み漁っていたが、つい夢中になって読んでいるといつの間にか昼飯時になっていた。気がつくと、佐川先生自慢のオートロックシステム上に俺以外の生体反応がなくなっている。校内の設備データなども一括でデジタル管理されており、基本的に目視による点検が不要という留守番だ。

「こりゃあ便利だなぁ」

 外出中の紗生子から一時的に管理権限を付与されている俺は、CCから貸与されているスマートフォンでそれを確かめながら、昨夜の外出時にまとめて購入しておいた食料を摘み始めた。サラダチキン、茹で卵、トマト、豆腐、枝豆等々、最近のコンビニは何でもあるし、しかも美味い。年中似たような物ばかり食っている俺だが不思議と食えるものだ。

 そんな食い物で成り立っている心身は意外に屈強なのだが、久し振りの日本での年末年始で心の方は若干の異変を感じるようになっていた。帰省先の概念のせいだ。天涯孤独で転居続きの俺には、基本的に帰る所がなければ拠り所もない。故郷と呼べるものは何か所かあるが、そこに縁故者がいない俺にとって帰る所とは、唯一その時々で住んでいる所だけだった。欧米と比べて正月休みが長く、しばらくその気分にどっぷりと浸かる風習がある日本にいると、その前半戦から早くも一抹の寂しさのようなものを感じてしまう。

「こんな時は気晴らしだな!」

 室内に籠っているからウジウジ考えてしまうのだ。俺はまた、グラウンドへ出て走り始めた。食い終わったばかりで消化していないうちは軽いジョグ。小一時間、のらりくらり身体を馴染ませて、軽くなったらインターバル走だ。ここ半年間の規則正しい生活で体調は頗る良く、走力もそれ程落ちていない。肺活量に至っては、逆に以前より増えたような感覚だ。

 ──調子はいい。

 リフレッシュした、という事だろうか。

『いつでも原隊復帰出来そうだな』

 そこへイヤホンに聞き慣れた声が届いた。走りながら首を振ると、正門前で鉄門扉が開くのを待つ真紅のスポーツカーが止まっている。

「あ、今開けます」

『大丈夫だ。管理権限は返してもらった』

 その言葉通り門が自動で開き、紗生子の車が中に入ると勝手に閉まり始めた。早速遠隔操作したらしい。

『それにしても最近よく走るな』

(なま)ってましたからね」

 そんな会話をしながらも俺は走り続けていて、紗生子は本館南側にある地下駐車場入口から愛車を地下へ滑り込ませる。

『その様子だと、晩飯はまだ買いに行ってないんだろう?』

「はい」

『じゃあ今晩は一緒に食うか。食材も買い込んで来たしな』

「えっ!? っと──」

 それは舎監室で、という事なのか。それとも、

『寮生は予定通り全員帰郷したんだろう?』

「──ええ、まあ」

『なら、女子寮をうろついても問題ないな。うち(・・)で食おう』

「ええっ!?」

 それは何か問題がある事はないか。

『驚く事じゃないだろうが』

 女子寮最上階のアンの居室は紗生子もシェアリングしていて、部屋の権利関係は問題ないらしい。てっきりアンの部屋かと思っていたのだが。そもそもそこが問題ではない。

『私は舎監も兼ねているし、校内の管理権限は理事長から委任されてるんだ』

 そうだった。つまり、

『私が認めた者なら文句は言わせん』

 と言う、紗生子の権力者振りだ。

『それに女子寮の個室を覗く訳でもないだろう?』

「それはもう!」

『なら、全く問題ないじゃないか。異常の有無の点検だ。特に女子寮は留学中のアンの拠り所だ。念入りに点検(・・)してもらわないと困る』

「まぁそうですが──」

 基本的には点検不要のセキュリティーを誇る校内だが、だからといって目視点検をやって悪い事は当然ない。

『しかも我らは表向きには夫婦だしな』

 こういう時はホント便利な肩書きだ、と紗生子が耳の向こう側でカラカラ笑っている。

 ──何だそりゃ?

 こういう時とはどういう事なのか。そのための偽装でもある、という事なのか。やむを得ない事情で始まった夫婦関係だが、確かに校内では変な色目を使われる事はなくなったし、紗生子にベッタリ張りついていてもお陰様で妙な噂も流れない事は確かだ。

 確かに──

 便利は便利だが。何かが分かりかけたような、遠退いたような。そのモヤモヤの中、

『風呂もうちのを使っていいからな。いい加減切り上げて上がって来いよ』

 相変わらず言う事を言った紗生子が、一方的にインカムを切った。

 ふ、風呂って──

 女の花園中の花園の、美人揃いのあの部屋の風呂を俺が使わされるのか。時計を見ると、いつの間にかもう夕方だ。

 ──いくらなんでも。

 むさい中年男が美女の風呂を共有するなど。例え紗生子が許しても他の二人(アンとベルさん)が嫌がるのではないか。そんな事をうつうつと考えていると、ペースが(にぶ)る。

 やっぱり風呂は──

 銭湯へ行こうと画策していると、

『因みに外周は、もうセキュリティーをかけたからな。手を煩わせるなよ』

 先回りされて、また切られた。完全に行動が読まれている。

 ──ぐむぅ。

 それでも中々踏ん切りがつかず、のらくらとストレッチなどで気を紛らわせ、というか逃げながらも、仕方なく日没後に入浴セットを一揃え持っておずおずと女子寮最上階を尋ねると、

『鍵は開いているからそのまま入ってくれ』

 ドアをノックする前に耳に声が届いた。コンタクトにイヤホンやマイク兼用のガジェットキーなど、スパイ仕様のインカムを使い始めて早半年間になるが、

 ──ホント、便利だなぁ。

 今更ながらに感心させられる。

 で、言われる通り、

「失礼します」

 と、そのままドアを開けて中に入ると、俺のか細いその声を炒め物の調理音が見事に掻き消してくれた。同時に香ばしい良い匂いが鼻を突く。久し振りに訪ねたそこは、寮の室内という構造のためか玄関ドアの目の前がLDKの居室だ。その(キッチン)で、あの紗生子が

 ──ウソでしょ!?

 何と料理をしているではないか。それもばっちりエプロンをして。それがまたスッキリとした粋なデザインで。カーキ色の渋さのそれは男がつけても違和感がなさそうな物で、男役(・・)の紗生子のイメージにジャストフィットしており、実に板についている。

 へぇ──。

「随分遅かったじゃないか。精が出るな」

 と言う紗生子が訝しげに止まった。

「何だ?」

「えっ!?」

 どうやら固まっていたらしい俺に、目をすがめている。

「そんなに珍しいか?」

「え、いや、その──まあ」

「私だって料理ぐらいするぞ? まぁ意外に見えるのも無理はないが」

「いや、そんな──」

 事はあるのだが。呆気にとられる間抜けに紗生子が小さく失笑したかと思うと、また背を向けてコンロの鍋らしき物に向き合った。そのまま弾むような声で

「そのまま風呂へ入れ!」

 矢継ぎ早に一喝される。

「えっ!? 一番風呂なんて入れませんよ!」

 紗生子から言わせれば部下の、それも男の分際の俺ではないか。

「何? よく聞こえないんだ! 何でもいいからさっさと入れ!」

 さっきは聞いていたくせに。それに例え目の前で大きな音を立てているにしろ、イヤホンの集音機能を使えば離れた所の音を拾える筈ではないか。更にいうと、俺の声などインカム経由でいつでも盗聴出来る権限を持っている紗生子だというのに。

「──ではお言葉に甘えさせていただきます」

 ぐずぐず思いながらも従うと、

「ここまで来といて妙な遠慮をするな! 洗濯物は洗濯機に入れとけ!」

 やはりしっかり聞かれている。

「風呂は右奥の突き当たりだ! これ以上言わせるな!」

 調理音に負けない声量のその質は不機嫌なものではなさそうで、むしろ上機嫌のそれだ。恐らく外出先で良い事でもあったのだろう。キッチンで小気味良く動く紗生子のその目口が、溌剌とした語尾につられて笑っているようにさえ見えた。

 ──うわ。

 こんな顔があるとは。反則だ。つい見惚れてしまうではないか。が、その紅顔が急に固まったかと思うと、俺を見据え始めた。やばい。

「は、入ります!」

「──ったく! 一々見惚れるのは分かるがなぁ」

 と言う紗生子が、今度は片手を腰に当ててターナーで俺を差している。それがまた妙に絵になって、目が離れない。

「いい加減慣れろ! 何度言わせれば気が済むんだ全く!」

 自画自賛はいつもの事だが、事実なのだから言い返しようもなく。俺はその叱責を尻目に、そそくさと風呂へ逃げた。

 そこは然程の広さではないが、これまでの俺の人生ではかつてない優雅さだ。

「うわぁ──」

 毛の一つでも落とそうものなら目立つような清潔感で、

「──止めときゃよかったなぁ」

 今更ながらに後悔する。

『まだぐずぐずしてるのか?』

 それを紗生子に聞かれたようだ。

『風呂は汚れを落とす所だ。常識的に使う分は気にするな。風呂の物は自由に使え』

 と、またぶつ切りされる。

 ──と、言われても。

 並んでいるボトルは洒落た容器に入った見慣れない物だが、女が三人住む部屋の割には数が少ないような気がするし、そもそもどのボトルが何なのか

 ──さっぱり分からん!

 そういう事も全く疎い俺だ。結局、自分で持って来たお得用の全身シャンプーで済ませた。

 ──さっさと上ろ。

 浴槽になど入って毛でも残したら悪いだろう。そもそもが、がさつな男が入るような風呂ではないのだ。と、出ようとしたところを

『ちゃんと湯船で身体をほぐせ』

 と、また紗生子に突かれた。流石に、

「見てるんですか!?」

 と、こちらも突っ込む。

『覗く趣味はないが、無駄な気を遣うヤツをいじるのは嫌いじゃない』

「参りましたね」

 思わず嘆息すると、耳の奥から失笑が聞こえた。

『その湯は重炭酸泉のぬるま湯仕立てだ。過負荷による血中乳酸値の上がりっ放しを放置するな。肝臓にどんどん運ばせて糖新生させてやれ』

 妙な専門性は流石の紗生子だ。言われてまたしても医者の顔を思い出す。

『全身浴で二〇分だ。毛細血管を広げてやらんと故障の原因になるぞ』

 こうも捲し立てられては反論しようもない。

「──じゃあ、そうさせてもらいます」

『こっちはもう少しかかるからな。ゆっくり浸かれ』

 日頃の傍若無人さえなければ言う事なしの美女なのだが。天の悪戯なのだろう。


 お互いの風呂が終わると、午後七時を回っていた。

「配膳ぐらいは手伝ってもらおうか」

 と言う紗生子は、夏季のような刺激的なネグリジェではなく、シンプルだが何処か洒落たパジャマタイプの部屋着だ。状況が切迫していないためだろう。が、この女はたまに思いがけない所から武器や物を取り出す癖があり、油断ならない。何の油断か知らないが。

 対する俺は年中共通のジャージ姿で、色気もクソもなく。まあ別に下心もないのだ。変な事で気を遣っても疲れるだけだし、言われた通りキッチンから紗生子に指示されつつ配膳していると

「今日って──」

「何だ? 今頃気づいたのか?」

 皿の品々がクリスマス仕立てである事に気づいた。

「日没後だからな。教会暦だと差し詰め後夜祭だ」

「キリスト教徒なんですか?」

「いや、無信仰だな」

 邪教とか魔法に通じてそうな気がするのだが、それは飲み込み

「俺もです」

 事実を述べる。

「じゃあ日付が変わるまでは俗世的なクリスマスという事で問題はないな」

 何かにつけて俗人離れした女である事も合わせて密かに飲み込んでいると、

「今日も飲まんのか?」

 既に口が開いているボトルを突きつけられた。

「そうですね──じゃあ、ちょっとだけ」

「そうこないとな」

 と、小さく破顔した紗生子が早速それを俺のグラスに傾ける。

「何ですかこれ?」

「辛口のシャンパンだ」

 入れ替わりで紗生子のグラスにも注いでやると、

「よし、乾杯!」

 一方的にグラスを合わせてきた紗生子がいきなり飲み干した。

「早いですね!」

「駆けつけ三杯だ! ちまちまやってられんから後は手酌でいくぞ」

 はっはっは、と中々豪快な飲みっ振りだ。

「いつもこんな調子なんですか?」

「そうだな。酒は嫌いじゃない」

 確かに酒豪の風格を帯びてはいる。そうでなくとも普段から只ならぬ大物振りの女傑の事だ。

「アンもいない事だしな。自分の身の心配だけってのは楽でいい」

 と言う紗生子が早速皿にも手を伸ばし始めた。それにしても、これまた中々見事な出来栄えの皿ばかりだ。

 ──出来合えを買って来たのか?

 が、調理している姿を目撃している事ではあるし、

「これって全部、主幹が作られたんですか?」

 と言っても、名前がはっきり分かるのはローストチキンだけなのだが。後はチキンサラダっぽい物。鮭とアボカドらしき物の和え物。ブロッコリーとアンチョビーのような物のパスタ。じゃがいもとほうれん草のマカロニ、に似た何だこれは。玉ねぎの姿煮込み、と言えば良さそうなまんま(・・・)の固まり。更に見るからに柔らかそうでゴツそうな、不思議な固まりの煮込みのような物は牛肉か。で、大根っぽい物と帆立だと思うのだが、今一つ何なのか自信が持てない物の和え物、等々。これ以上の説明は俺の拙い口には無理だ。

「意外そうな顔だな?」

「いや、そんな事では。ただ沢山あって大変だったんじゃないかと」

「大抵の物は昨日作って冷蔵庫に入れといたんだ。今日作ったのはローストチキンとワインご飯だけだな」

「ワインご飯?」

 止めが、聞いた事がある物同士を合わせたらしい、聞いた事もない食い物だ。

「赤飯かと思ってたんですが」

「玉ねぎとマッシュルームとレーズンをもち米と混ぜて炊いたモンだ。赤ワインと醤油で味つけしてな」

 分かりやすくも得意気に説明するところからして、どうやら本当に紗生子が作ったらしい。俄かに信じ難いのだが。

「私はこう見えて、家事はそれなりに出来るつもりだ。今は仕事柄、ベルに任せてるがな」

 と、不意にその顔が曇る。

「大抵の男は、みんなそういう顔をするのさ」

「えっ!?」

 今俺は、どんな顔をしているのか。

「鳩が豆鉄砲を食ったような顔だ。男は私に生活感があるのが意外らしい」

「そんな事は──」

 あるのだが。

「ウソをつけ。顔に書いてあるぞ」

「いや、その──」

 白魚のような手、とは言わないが、まさに魔女のような妖艶さを帯びるその美しい手。武器を使わせればピカイチのその血なまぐさい豪腕。グリーンベレーでは虫も食っていたような図太い舌の、何処をどう切り取って見ればこんな繊細な美膳を作り出せる事を見出せるというのか。それこそ紗生子を中途半端に知る俺のような人間程、その凄まじいギャップに苦しむのではないか。

「何と言いますか──」

 俺には、咄嗟に嘘がつける程器用なコミュニケーション能力などないのだ。それを見た紗生子が

「膳に豆鉄砲を混ぜた覚えはないんだがな!」

 噴き出すように笑い出した。

 少し収まると、

「まぁいいさ。こうなったらここ何日かで証明してやる」

 と怪しく笑んで、またグラスをあおる。

 ──何だそりゃ?

 と突っ込もうとしたところへ、

「洗濯物は洗濯機に突っ込んだからな」

「ええっ!?」

 逆に突っ込まれてしまった。こっそり脱衣所に隠して、こっそり持って帰るつもりだったのだが。

「あれで隠したつもりとはな」

「だって、あんな汗臭い、がさつな生地の男物なんかを──」

 品の良さそうな紗生子の物と一緒に洗ってよい筈がない。

「洗ったら全部同じだろうが。どうせネットに入れて洗濯するんだ。それに最近の洗濯機は少々一緒に突っ込んでも、ちゃんと考えて洗ってくれる」

「それでも臭いが──」

 つくのではないか。

「大体君は、体臭に悪いモンなんか殆ど食ってないだろうが」

「まぁそれはそうですが──」

 油物や刺激物は殆ど食わない俺だ。精々コーヒーぐらいだろうか。そのコーヒーも、ここ半年は紗生子セレクトの高級コーヒー(コピルアック)だ。適量なら良い事尽くめの効能を持つコーヒーだけに、その高級品ともなるとその主張が凄まじく、最近では気のせいかその匂いを身体から感じるような気がする事すらある。

「それよりも、うちの洗濯機で洗った事がアンにバレた時の言い訳でも考えとくんだな」

 何でも匂いでバレるらしい。

「うちの洗剤は、それなりに良い物を使ってるからな。女は匂いに敏感な生き物だ」

 ははは、と空笑いする紗生子が、

「それに君の匂いで不快に思った事はない」

 と、また微妙な事を吐く。

「え?」

 慌てて自分の身体を臭っては首を傾げる俺に、

「それじゃあ私が変態みたいだろうが。デリカシーのないヤツだな全く」

 紗生子があからさまに顔を顰めた。

「いいから食え」

「はあ、すぃません」

 と言いつつも紗生子の方が、

「酒もタバコもやらない健康体で、肌の色艶を見てもストレス耐性も代謝も良さそうだ。その上所持品の少ない部屋は小綺麗で、悪臭の発生には程遠い。赴任当初こそ、(排気煙)の臭いを燻らせていたがな」

 よくも俺の事をスラスラと。

「今は生活も規則正しいし体調は万全なんだ。これで人並みに洗濯して風呂に入っていれば、世の男なんぞ君と比べたらくさや(・・・)同然だろう」

 くさやとは──

 随分と誇張してくれるものだ。

「そういう訳で、実は結構気に入っていたりするな」

「くさやが、ですか?」

 ぶっ、と小さく吐いた紗生子が、

「君の匂いの事だ!」

 と、また突っ込んだ事を追認した。

「はあ」

「でないとアンのヤツがベタベタくっついて来る訳がないだろう?」

「そんなモンですか?」

「そんなモンだ!」

 ホント鈍いヤツだな君は、と呆れっ放しの紗生子だが、喋りながらもドンドン食ってがばがば飲んでいる器用さは流石の紗生子だ。

「アンに限らず世の女は君の匂いなら嫌がらんだろう」

「そう、ですか?」

「ああ。でも他の女共には匂わせてやらん。今は私のもの(・・・・)だからな」

 また微妙な事を言う紗生子が、不意に思いがけない事を漏らした。

「最近は僅かだが、コピルアックの匂いがするだろう?」

「えっ!?」

 何故それを、と言いかけて、

「私の好きな匂いに染めてやったのさ。君は心身共に癖のないヤツだから見事に染まってくれて我ながら笑ってしまった」

「──ペットの匂い消しみたいなモンですか?」

「そこまでのつもりじゃなかったが、まぁ似たようなモンか」

 と笑われてしまった。

「気を悪くするな。お気に入りの物は自分色に染めたいモンだろう? 独占欲の一端だ」

 ──それでフォローしているつもりかよ。

 と思っていると、

「どうでもいいと思ってるヤツにはやらない。嫌いなヤツは言うまでもなくな。消去法だ、分かるだろう?」

 わざとらしく、俺の純情を撫でてくれる紗生子だ。

「──まあ」

「そういう事で大目に見ろ。私にしては珍しく長期戦(・・・)だったんだ」

 ──長期戦?

 そのフレーズが過去の疑問をフラッシュバックさせる。

「──ああっ!?」

 以前、佐川先生が体育祭の頃に言っていたそれだ。その意味の破壊力が、恐ろしい程の時間差で俺の何処かを貫く。確かその時、他にも何か言ってなかったか。

 ──テ、テンプテーションだ、テンプテーション!

 俺なんかを誘惑して、この女は一体全体何を企んでいるのか。唐突に牙を剥く、フラッシュバックの恐ろしさだ。

「どうした? 急に?」

「い、いや──」

 それを聞いたところで、正攻法でまともに教えてくれる紗生子ではない。

 ここは──

 じっくり口を軽くするべきだろう。今日は酒が入っている事でもある。

「お、俺の汗だくのパンツも洗濯機に──?」

 という事にしておいた。が、

「何だその時間差は?」

 怪しいな、と勘の良い紗生子には通じない。

「──まぁいい。袋をひっくり返してネットに入れて洗濯機に突っ込んだだけだ。私は別に平気だが、流石に君が嫌がると思ってな」

 何せこう見えて、野生の蛇を食う女だ。男のパンツぐらいでぐだぐだ言う筈がない事ぐらい

 分かっちゃいたが──

 自分で誘導した答えだが、それはそれで中々の破壊力だ。

 ──わ、話題を変えよう。

「きょ、今日はどちらへ行かれたんですか?」

「何だ? また急だな」

 本当のところ、それも気になっていた事だ。

「頑固な誰かさんが先祖を邪険にするから、その代わりに墓参りに行ったんだよ」

「え、広島に、ですか?」

「千葉だ! 確かに広島も日帰り出来るが、私一人が行ったところで君の親御さんに驚かれるだけだろうが」

「──まあ、そりゃそうですね」

 こんな美人が一人で訪ねて来たら、親も墓から飛び起きそうだ。ただ繰り返すが、俺は墓の詳細を知らないのだが。

「ご実家は千葉ですか?」

「もうないがな」

 とりあえず話題が広がった方へ逃れたが、それ以上聞けない。

 俺と一緒で──

 天涯孤独だと言っていた筈だ。となると、少なからず辛い目にも遭ってきている事だろう。

「ピアノを弾かれる趣味があるんですね」

「何なんださっきから。お見合いか?」

 仕方なく脈絡もなく逃げたそれが受けて、噴き出す紗生子に少し安心した。

「子供の頃、駄々を捏ねておもちゃのピアノを買って貰ったのが最初でな。あっという間に鍵盤の数が足らなくなって、グランドピアノに憧れたモンだ」

「買って貰えなかったんですか?」

「当然だ。一〇〇万はするからな」

 今の紗生子なら何でもないような額だろうが、子供の頃はそうでもなかったらしい。

「で、ある良家の人の気紛れで、その家のピアノを弾かせてもらえる事になってな。夢中になって弾いた」

 と言う割に、何処か表情が暗くなったような。

「あれだけ弾ければプロにもなれたんじゃないですか?」

「まさかな。元々そういうつもりじゃなかったし、縛られたくなかったんだ。気楽に弾けるからいいものになる。私のレベルはその程度だ」

「そうですかねぇ」

「君のギターもそうだろう?」

「え? 俺は独学の適当なモンで、ホントなら人前で晒せるモンじゃないんですよ」

「私も同じさ。家の中だけで、趣味で弾きたかっただけなんだ。精々【街角ピアノ】でお披露目して満足する程度だよ」

「それは確かに面白そうですよね」

「ああ」

 通行人が足を止めて目を丸くする。何処の誰だか分からない人間の演奏に賛辞を贈る。世界共通言語たる音楽は平和の象徴だ。

「しばらくは出来そうにないがな」

「やった事あるんですか?」

「文化祭が初めてだ。癖になるかもな」

「そうですか」

 拍手喝采されるイメージは、紗生子の印象と無理なくマッチする。

「弾きたくなったな──」

 と言ったかと思うと、立ち上がった紗生子が別の部屋からキャスタースタンドに乗ったキーボードを持って来た。

「ここに赴任してからはトレーニング優先で中々弾く暇がなかったからな」

「トレーニングしてるんですか?」

「ああ、君と同じだ。怠けると取り戻せなくなるのが怖いんだよ」

「それは、分かります」

 紗生子が恐れを語る事が意外だが。しかし何処でトレーニングをしているのか。今の今まで知らなかった俺に分かる訳もなく。その俺の前で、

「ほろ酔いだし、指が動くモンかな」

 と言いながらも、鮮やかな指慣らしを始めた。しばらくすると、その指が止まって俺を見る。

「リクエストは?」

「え?──じゃあクリスマスなんで【きよしこの夜】を」

「指慣らしには悪くないな」

 穏やかなその表情は、酒による弛緩もあるのだろうか。そのくせ指は驚く程滑らかに動いている。即興アレンジなのか昔の自作か知らないが、単調な旋律で音階を辿る事が出来る筈の曲を、例によって情感豊かに。それを今は、俺が独り占めに出来る事のなんと贅沢な事か。

「おおぉ──」

 終わるのが惜しい程の弾きっ振りだ。紗生子の手が止まるのと同時に、極素直に拍手を始める俺がいる。

「アンコールは歌つきでお願いします」

「ちょっと待て。次は君の番だ」

「えっ!? 俺はピアノなんて弾けませんよ」

「知ってるよ」

 と、また立ち上がった紗生子がキーボードを引っ張り出して来た部屋から、今度はギターを持ち出して来た。

「こんな事もあろうかと音楽室から借りて来てたんだ。ほれ」

「相変わらず準備がいいですね」

「気心が知れた者だけで弾き語りみたいな事をやってみたかったんだよ。今まで不幸にも、周りにそんな嗜みがあるヤツがいなくてな。まさか君があれ程やるとは思わなかったから、機会があればと思ってたんだ」

 珍しく饒舌に、素直に暴露されてしまうと調子が狂うが、悪い気はしない。が、

「クラーク家でやった事はないんですか?」

「ある事はあるが、向こうのクリスマスは凄まじいんだ。乱痴気騒ぎでな」

 とても音楽を楽しむというレベルではないらしい。

「ほれ、指慣らしが終わったら、そうだな【サンタが街にやってくる】だ」

「クロ○ビーのようにはいきませんけど、いいんですか?」

 歌と俳優業の二足の草鞋で押しも押されぬ人気を博した世界的なマルチメディアスターの代表曲は、戦前後に発表されたクリスマスソングに多く見られる。紗生子のリクエスト曲も多くの歌手がカバー曲を歌っているが、クロ○ビーもその一人だ。

「わざとらしいな。その名が出るって事は、少しは口ずさんだ事があるんだろうが。当然の歌もつけろよ、英語でな」

 今度は私が客の番だ、と食卓に座り直した紗生子は、満足気に膳を摘みながらもグラスをあおった。

「いきなりレベルが高くないですか?」

「気にするな。どうせ私だけだ」

 古来、軍人と音楽は、実は繋がりが深い。号令を太鼓やラッパで伝えていたそれだ。それが時を経て、軍隊の威勢誇示、士気高揚、慰問に使われ始め、近年では国民向けの広報活動の一環として形を変え。まさに手を変え品を変え今に残っている。元々の身分は互いに軍人である俺達がそれを嗜むのは、何処かしら皮肉が効いているように感じるのは気のせいなのか。それが良くも悪くも、俺達の間でこの先待ち受けるドラマに繋がる事を、この時の俺は当然知らない。

 ──まぁ今は。

 素直に楽しむとしよう。

 結局、二人だけの後夜祭(・・・)は、夜更けまで続いた。


 週が明け、一二月最終週。

 結局俺は何処へ行く事もなく、校内の舎監室に居座り続けていた。

「君もホント頑固だな」

 と言う紗生子も、外出したのは結局墓参りをしたクリスマスだけだ。

「旅行って気分じゃないんです。なんか」

 以前は一人になりたくて堪らなかったというのに、だ。気が乗らない理由は、

「留守番が一人ってのは、気が咎めるというか──」

 それどころか、現状の二人という数字も拠点警戒上有り得ない数字だ。この状況で襲撃されたら流石にヤバいのではないか。

「私は単独ミッションばかりこなしてきたからな。こんな事は当たり前なんだが」

 仕方ないヤツだ、と言う割に、満更ではなさそうというか。

「何の下心か知らんが、こんな所で二人切りになってどうしようってんだ? ん?」

 昨日は仕事納めだった。仕事始めまでは学園も休業日であり、基本的に生徒や職員の登校出勤は認められない。つまりは紗生子のいう状況だ。

「だからさっき言った通りですよ! 下心なんかありませんって! 主幹の方こそ外出外泊して来たらどうですか!? 理事長と仲がよろしいんでしょう!?」

「分かった分かった。そういきり立つな。冗談だよ、冗談」

 何でもない昼飯時の何気ないやり取りが、妙に慣れてしまっている。気がつくとクリスマス以来、間もなく片手の指の本数では収まらなくなる日数分だけの食事を、俺は全て紗生子の部屋で食っていた。それだけではなく、風呂もだ。食堂も寮の風呂もさっさと休みに突入してしまっているとはいえ、銭湯とコンビニがあるから全く問題ないというのに、

「私の家事力の証明につき合ってくれてる人間に対して言う言葉じゃなかったな」

 と言う紗生子のそれにつき合わされる事になってしまい、どうにもならず。で、気づいたら

 マジでなんか──

 夫婦っぽい食卓風景になっている、というか。

「で、どうだ? 少しは考えが改まってきたか?」

「ええ、それはもう」

 紗生子の料理の腕前は大したものだった。俺が食い物に気を遣っている事を配慮したメニューの、そのバラエティーの多さには驚くばかりで。しかもそれでいて美味いのだ。

「実はベルの作り置きを出していると思われたくないからな」

 と言う事で、作るところも無理矢理拝まされたが、実に手際良く。とにかく

 ──カッコいい。

 その一言に尽きた。

 これまでというもの、紗生子の事を勝手に【富豪の御令嬢】と決めつけていた俺だが、ここ何日かでそれは今一つ分からなくなった。その入れ替わりで、生活力の高さの裏に修練の痕跡のようなものが見え隠れするようになった。日頃の傍若無人振りも紗生子なら、家事をこなす紗生子も紗生子だ。悪いところばかりに目を向けてピックアップするのはフェアではない。

「恐れ入りました。素晴らしい手性だと思います。もう豆鉄砲は食いません」

「分かればいいんだ、分かれば」

 と言う紗生子は、ここ数日間というもの機嫌が良い事もさる事ながら、実に穏やかだ。

「君に誤解されたままなのは心外だからな」

「はあ?」

「意外性は何も君の専売特許じゃないって事だ」

 ──しっかり自分で認めてんゃねぇか。

 と口にすると、元の木阿弥なので当然吐かない。

「どうせなら揃って買い物にでも出たいが、それは無理だしな」

「留守番しときますよ。どうぞ行ってらしてください。気晴らしは必要でしょう?」

「いや、食材は買い込んであるから大丈夫なんだ」

「じゃあ、映画か何かでも──」

「一人でか? テレビで見た方が気が楽だ」

 と言うそのテレビは、当初からLDKに只ならぬ存在感で居座っていたが、紗生子は余りそれを見る習慣がないようで、見るにしてもニュースや情報番組だ。今もニュースをつけている。仕事柄なのだろう。

「アンがいないからな。それだけで気晴らしになっているさ」

 それは決して嫌味ではない。何だかんだで今のアンはそういう位置づけの人間なのだ。

「それに、君もいるしな」

「はい?」

「昼からは私も久し振りに、本格的なトレーニングに勤しむかな」


 で、昼下がり。

 俺は何故か、校内の室内プールにいた。仕事納めの後で水泳部員も年内の部活を終えているが、年始も仕事始めからすぐ再開するとかで水は張ったままだ。そのプールで紗生子が一人、黙々と泳いでいる。

「トレーニング中のエージェントは、基本的には戦力外扱いだ。その勝手は何処の国の部隊でも同じだろう?」

 だから二人組(バディ)でいるのなら、

「もう一人は有事即応待機であるべきだな」

 という取ってつけたような論法で、俺は普段着のままプールサイドで監視業務をさせられていた。が、つい目が紗生子ばかりに移りがちだ。

 ──いかんなぁ。

 これでは何の待機で監視だか分からない。競泳用のワンピースの水着はシンプルな物だが、スタイルの良い紗生子の凹凸をこれ見よがしに誇張してくれる。最早、目の毒だ。夏場の体育の水泳でアンにつき添うため、同じようにプールサイドで監視したものだが、やはり紗生子の身体は美しくも弛緩なく、ハイティーンの女子と違ってまるで隙がない。夏休みにもアンの実家の別荘でその水着姿は拝まされたが、あの時はろくに泳がずひたすら色気をひけらかされたお陰で、その英姿を眺める余裕などなかったのだ。

 ──よく泳ぎそうだもんなぁ。

 改めて、その健康美に脱帽させられる。かと思っていると徐にその本人が上がって来て、俺の前で背を向けて開脚ストレッチを始めた。

「たっぷり一時間は泳いでましたよ」

「久し振りだからそんなモンだろう」

「そんなモンって──」

「時間が許すのなら一日中泳いでいられる」

「そうなんですか?」

「いいから押せ」

 と、それなりに際どいデザインの背中で催促される。

「は、はあ」

「サボってたから身体が固い。──早く押せ」

「じゃあ、失礼します」

 紗生子に触れられる事は何度かあったが、有事以外で自分から触るというか、触れさせられるのは初めてだ。肩甲骨の辺りに掌を押し当てると、火照りが伝わってきた。骨だから固い筈なのだが、予想外の丸さと柔らかい感触に動揺する。はっとして息を吸い込んだ瞬間、鼻に押し寄せる仄かな塩素の臭いと混ざった、大人の女の良い匂いに軽く脳を揺さぶられ気が緩んだ。

 思わず生唾を一飲みすると、思いがけず大きな音となり、

「何を考えてるのか知らんが押すだけだぞ?」

 すかさず紗生子が鼻で笑う。

「押す必要ないじゃないですか」

 両足は一八〇度開脚で、その豊胸は床に触れているのだ。

「いいから押し続けろ」

 ついに細顎までが床についた。

「ホント、柔らかいですね」

 その自分の一言が、掌に伝わる感触をより一層生々しいものにするという不覚。

「いや、これでも固くなってるんだ」

 ──固くなるのはこっちの方だ。

 良からぬところに血がたぎるのを、

「何だ? 今度は深呼吸か?」

 と鼻で笑われたそれで、何とか鎮める。出来ればこのままプールに飛び込んで火照りを冷ましたいところだ。が、俺をからかいながらも肩を交互に内側に入れつつ首を捻る紗生子の、その横顔が目を閉じたまま微笑んでいて。

 まるで──

 俺に預け切っているようだ。その委ねられた何かの中で、いつもの妖艶さよりも清美さが勝って見えるのは何故なのか。そのお陰で、どうにか理性を繋ぐ下半身だ。それでもまたつい生唾を飲み込むと、

「もういいぞ。余り長い事やって涎が止まらなくなっても困るだろう」

 また鼻で笑った紗生子が立ち上がった。改めて向かい合って立たれると、目のやりどころに困る。

 ──余計いかん。

 走って気を鎮めたくなった。

「ダメだぞ」

「え?」

「君はOTSの前科持ちだろ。今日は休め」

 相変わらずの察しの良さだ。それにしても、オーバートレーニング(   O T S )症候群の履歴まで抜けているとは。本当にこの女は、俺の何処までを知っているのだろう。

 ──やれやれ。

 こういう時は話題を変える事を覚えた俺だったりする。

「水泳も趣味の一つですか?」

「そういう訳じゃないが、筋骨に対するストレスを抑えながら全身をバランスよくトレーニング出来るだろう。何より水の中は気持ちいいからな」

 紗生子のエクササイズはこれまで水泳に頼る事が多かったようだ。が、

「流石に学園に赴任してからは泳ぐに泳げなくなったからな。一応水着は持って来てたんだが」

「で、今日泳いでみた、と?」

「ああ」

 言いながら、今度は俺が座るマットの上に置いている水を飲んだり固形物をかじったりしている。

「綺麗だし中々いいプールで気に入った。主計ちゃんの手入れがいいんだろう」

 その管理の影には、やはりその人の名前が出る。

「来年からは時間を見て泳がせてもらうとしよう」

「水泳部員と一緒に、ですか?」

「まさかな。私の姿を見たら連中も気が散るだろう」

「そりゃそうでしょ」

 何せさっきから冗談抜きで生唾が止まらない程のスタイルなのだ。盛りのついた若僧共(男子生徒)ともなると、下半身が暴れて練習どころじゃなくなるだろう。

「来年からは君も泳ぐか?」

「いえ、俺は陸専門ですから」

 泳げない事はないが、何処でも出来るロードワークが身体に馴染んでいる俺だ。

「それなら来年も番人だな」

「はあ?」

免疫強化(・・・・)も兼ねて一石二鳥だ」

 言うなり立ち上がると、実に軽やかに飛び込んだ紗生子が、また泳ぎ始めた。

 ──また生殺しの刑かよ。

 ここ数日の追い込みは、下半身の鬱血(・・・・・・)の解消でもあったというのに。何故、俺ばかりこんな誘惑めいた所業を受け続けるのか。俺は深呼吸を続けつつ、気晴らしにストレッチを始めた。


 大晦日。

 結局俺達は校外に出る事なく年の最後を迎えた。仕事納め後の三日間は完全に二人切りの校内だったが、目立った変化は特になく。三食と風呂は紗生子の部屋で世話になって、交互にトレーニングして寝る。それだけの穏やかな生活。

「結局君は何処にも行かなかったな」

「まだそれを言うんですか?」

「当たり前だ。ずっと一緒だったって他の連中が聞いたらうるさいだろ」

 関係者の中では偽装夫婦であり、それは当然の反応だろう。紗生子のそのフレーズに今更重みを感じた俺の心臓が、一度跳ねた。

「私は一応アンのお守り(警護)の現場責任者だからな。留守番は当然なんだ。その点で君は理由が立たんだろう」

「それを言うなら俺だって、アメリカ側の現場責任者ですよ」

「で?」

「──と言われても」

「君のために言ってるんだぞ? 理解してるか?」

「ええ、まあ──」

 仕方ないヤツだな全く、と言う割に紗生子は穏やかな顔をして蕎麦を啜った。年越しの夕食時のそれだ。

「私としてはこんな穏やかな年末は久し振りだから、これはこれでいいんだが」

「俺もです」

 アンがクリスマス休暇で帰国後というもの、紗生子の表情は明らかに柔らかくなった。ひょっとすると元々はこういう女なのか、という錯覚すら覚える。今も目の前に座っている紗生子からは毒や棘は感じられず、普段のそれとはえらい違いだ。

 こんな年末は──

 本当に、いつ以来だろうか。

 ──いやいや。

 女と越年など初めてではないか。それも見た目だけなら間違いなく人類最上位クラスの美女となど。それが中身まで普段と違って何処か穏やかとくれば、これはもう一大事だ。

「本来なら君はアンに帯同して帰国するべきだった。アメリカ側のエージェントなら、再来日する時の側衛を務めて当然だしな」

 だがその声は、かからなかった。

「私がそれをさせなかったんだ」

「はあ?」

 何故、と聞きかけたが、

「今日も祭りだ。ゆっくりしていけ」

 被されて、うやむやにされてしまった。

 その食後。

「別にテレビも見るものがないし、これでもやろうか」

 と、紗生子が何処からともなく取り出したのは、ゲーム機のジョイスティックだ。

「これって──」

「eスポーツ部が貸してくれたんだ。ずっと缶詰で留守番だと言ったら同情してくれてな」

 というそれは、文化祭の時の戦闘機シミュレーションゲームだった。

あの時(文化祭)は君の手柄を横取りしてしまったんだ。少しは自分でも出来るようになっとかないとな」

「別に気にしてませんが」

 遠隔操作(替え玉)でそれをプレイさせられて早二か月だが、

「そうはいくか。あれも立派な外交の一つだったんだ」

 己の腕に増長するeスポーツ部長の一言が、近々の日米政策を揺るがす爆弾親子(クラーク父娘)の機嫌を損ねかけた一幕を紗生子が気にしていたとは。意外というか何というか。

「アメリカ人は特に国の尊厳を重んじる国民だからな。【忠誠の誓い】でも明らかだろう?」

「まあ」

 何処の国でも似たようなものだが、米国ではその基本理念を国旗規則で定めている。それは自由民主主義陣営の盟主として世界をリードする国家のプライドの表れだ。

「うちの生徒が公の場であんな迂闊を抜かすとは思わなかったからな。まぁ君のせいなんだが」

 元を正せばナメられがちな俺に向けられた暴言だったりする。eスポーツ部の連中も米国の御大尽がいると知っていれば、あからさまな侮蔑を吐く事もなかった筈だ。が、紗生子からしてみればその時点で

「日本という国は直接的に連中が脳筋とほざいたその米軍に守ってもらってるんだ。どの面さげてどの口がそれをぬかすのか。子供の口喧嘩じゃないが、バカって言ったヤツこそバカってヤツだ。何もアンやアーサーじゃなくとも──」

 アウトだった、とか。

 日本を取り巻く極東情勢は、先の大戦以降東西陣営の最前線なのだ。東側の大国やことごとく不安定を助長する先軍国家を前に、平和ボケした極東の島国の軍備は脆弱の一言なのだ。それを水面下の外交努力で極めて際どい均衡を保つ事の、その労を知る紗生子なら、迂闊な暴言を吐く素人などは誅殺ものだろう。

「何より君が蔑まれるのは我慢ならなかったしな」

「それはあなただけの特権だから、ですか?」

「私の部下で夫だからな」

 だからあの後、eスポーツ部の連中を説教したとか何とか。

 それはさぞ──

 eスポーツ部の面々は性根が入った事だろう。それがきっかけでeスポーツ部が紗生子に懐くようになり、正月中の気分転換に部の機材(・・・・)を貸してくれたらしかった。

「でも、少し違うな」

「え?」

「今までバカにする事はあったかも知れんが、蔑んだ事はなかったつもりだ。何せ私が出来ない事をやってきた男だからな。それが分からない程私は愚かじゃない」

 普段ならそんな持ち上げなどしないくせに、途端にむず痒くなる。これも年末マジックなのか。

「褒められたモンじゃありませんよ」

「そういうところだよ」

「はあ?」

「軍人として誇っていい事を、君はあっさり切り離す事が出来る。ナメられっ放しなのは高い親和性の裏打ちだ。一人間としてのバランス感覚に長けているからこそ、軍人でありながら学校職員として違和感なくやっていける。君の目の良さは何も空の上だけではないという事さ」

 その一端が抽象戦略(アブストラクト)ゲームにも表れている、と

「いつになく、褒めますね」

「先生にはへつらうものだからな」

 紗生子は淡々とゲーム機の配線を接続していく。

「さあ、ご指南願うぞ」

「まさか大晦日に主幹の部屋でゲームするとは思いませんでしたよ」

 二人揃ってゴーグルをかけると、

「でもこれって、二人とも戦力外(・・・)じゃありません?」

「セキュリティーは万全なんだ。それに拡張視野(コンタクト)で即応待機に抜かりはないぞ」

 初めはバディプレイでやろう、と思いがけず紗生子の方が乗り気だった。


 小一時間もやると、紗生子には教える事がなくなった。

「ゲームよくやるんですか?」

「やらん」

「それにしてはこの上達振りは異常ですよ」

「戦闘機のステータスは大体頭に入れているからな」

 と言いながらも、ゴーグルをかけたままの俺達は対戦モード(ドッグファイト)をしている。

「うわっ!? 危ね!」

「あれを躱すか!?」

 対戦を始めたうちの俺の乗機はステータスの低い機体だったのだが、あっという間にそれをユーロタイフーンまで引き上げざるを得なくなった。確かに紗生子はラプター(F-22)を使い続けているのだが、だからといって問答無用で有利な訳ではない。現代最高水準の制空戦闘機は、その性能を余す事なく引き出す事が出来るパイロットがいてこそのそれなのだ。

「なんて躱し方をするんだ!? よく機体が持つな」

「引きつけておいて、一瞬だけ気合で躱すんですよ」

「口じゃ簡単に言えるが、普通出来るモンじゃないぞ?」

 実際には、それにGがかかる。大抵の回避運動は、機体よりも人間の方が先にくたばるものだ。

「ロックオンした短距離空対空ミサイル(サイドワインダー)を、いとも簡単に躱すとはな」

「ゲームの中ではプレッシャーがないですからね。思い切って無茶やれますし」

 その感覚を実戦でも活かす事が出来たならこれはもう無敵なのだが、現実にはGも加わればプレッシャーも半端ない。実弾を被弾したならば、シンプルにまず助からないのだ。その精神的なプレッシャーは、常人には計り知れないだろう。

「流石は軽業師の【タフ】だな。ゲームの中とはいえ凄さが理解出来る」

「いや、凄いのは主幹の方ですよ」

 そう時間をかけずとも十分ファイター(戦闘機乗り)としてやっていけそうな程だ。やはりそこは、典型的な万能型天才の本領なのだろう。

「もうタイフーンでも殆ど互角ですよ」

「実機ではこうはいかないさ」

 ──まぁ確かに。

 そうなのだが。プロフェッショナルの世界は極めれば極める程、極度の緊張との闘いだ。その世界の住人ともなれば、技術(テクニック)体力(フィジカル)は殆ど紙一重。最終的に勝負を左右するのは、それに立ち向かう精神(メンタル)なのだ。その差が時に残酷ともいえる程の圧倒的な差となって現れ、明白な雌雄を生み出す。

「とはいえ今はゲームの中の話だからな。次はフェロン(Su-57)でやってみるか」

 ロシアが誇る第五世代機の一翼は、ゲームの中ではラプターと並ぶ最高水準機だが、その実謎多き機体だ。

「実機ではどうなんだ? 性能は?」

「敏捷性や機動性はラプター以上だと言われてますね。動画を見ても確かにそんな気はします。ステルス性は微妙みたいですが、攻撃能力は高いですよ」

 俺の認識では、他にラプターに分があるといえば視界外射程(BVR)ミサイルぐらいだろう。ステルス性と高性能レーダーを武器に長距離で先制出来なければ、赤外線追尾システムや非砲口照準(オフボアサイト)攻撃能力などでラプターを上回ると思われるフェロンの方が有利だ。西側にしてみれば、そう呼びたくなるのも無理はない。

「でもまだ未成熟なんだろう?」

「完成度ならラプターなんでしょうが、個々のスペックはフェロンでしょうね」

 現代戦ではほぼないといわれるドッグファイトをこなしてきた身としては、選べるのならフェロンを選んでみたい。そういう機体だ。

「よし、私はフェロン(重罪人)だ」

 以前ならそのコードネームを自ら口にする紗生子を密かに嘲笑ったのだろうが、今はそんな気は起きない。これも年末マジックのせいだろう。

「君はどうするんだ?」

「じゃあ、グリペンで」

「スホイキラーか」

「ゲームでどれだけ再現出来てるのか知りませんが」

 北欧の小国スウェーデンが自前で開発した電子戦特化型のそれは、優れた航空電子機器(アビオニクス)と整備のしやすさが売りだ。運用効率を上げる事で大国ロシアに立ち向かおうとする知恵と技術は、

「日本も見習うべきだと思います」

 長らく自国防衛を自国の力のみで成し遂げてきたその国の覚悟の表れだ。

「それはそうだが、スホイ相手に一騎討ちじゃ厳しくないか?」

「ゲームは公表スペックを参考に作られてるんでしょうからね。普通はそう考えるのが自然でしょうが──」

 俺はつい、イメージトレーニングの感覚でやってしまう。

「血が騒ぐか」

「模擬戦の参考ですよ」

「まぁ実機のスペックは出鱈目が当たり前だしな」

 実際にプレイしてみると、グリペンの圧勝だったりした。

「何だこの分身の術(・・・・)は!?」

「【デコイ(レーダー上の囮)】なんでしょうけど、極端ですね」

「急にゲームバランスがおかしいだろこれ!? コテンパンだクソ! 代われ!」

 と、今度は機体を入れ替えみると、勝負がつかなかったり俺が勝ってみたり。こうなってくると負けず嫌いの血が騒いでくる紗生子だ。

「何故だ!?」

「いやぁ──」

 単に 操縦スキル(スティック捌き)と空間把握力の差

 ──かな。

 ゲームとはいえ最近の物は中々リアルで、経験に裏打ちされた勘が結構炸裂する。

「そっちのスティックと交換しろ!」

 が、やはり結果は変わらず。

「少しは手加減というものを知らんのか?」

「もう余裕ありませんよ。主幹、上達のスピードおかしいですから。お陰様でいいイメトレになりますし、これはこれで中々意義深いですよ」

「今はべつに訓練中じゃないだろうが!?」

「それにしてもこのゲーム、ホント良く出来てますね」

 それもその筈で、軍事アナリストに元空軍パイロット、果ては国際関係学者までが製作に携わったというその現代戦の戦闘機ゲームは、俄かにその分野の仮装世界でブームを巻き起こしている秀作である事を知ったのは、正月明けにeスポーツ部の連中から執念深くもからかわれた時の事だ。何でも本職(軍人)が実際に訓練の一環として活用している例もある程で、転じて反社会勢力などの練度向上にも繋がる可能性を問題視される程の問題作でもあるそれは、後々考えれば紗生子の思いやりだったようだ。

 eスポーツ部が貸してくれた(・・・・・・)のではなく紗生子がわざわざ借りてきた(・・・・・・・・・)それで、トレーニングの意義を語りながらも日頃打ち負かされてばかりの相手が悔しがる様子に内心有頂天だった俺が、隠されたその底意に気づくのは少し先のまた別の話。それはまたしても直面する急展開に晒される俺が、かつてない思いでそれに臨まざるを得ない動揺の原因となる事を、この時の俺は当然知らない。

「調子に乗りおって」

「職業病ですよ」

「よし、もう一回だ」

 次はまた機体を入れ替えてやらされて、

「あれ? デコイが効かない?」

「はっはっは!」

 上司権限を悪用した紗生子が俺のコンタクトを覗き見た事によりドッグファイトにもつれ込み、粘った挙句撃墜された。

「参ったかぁ!」

 と、攻守逆転。連敗のフラストレーションを爆発させた紗生子が勢いづいて俺の背後に回り込み、矢庭に首を裸絞にし始める。

「ゔっ!?」

 流石に上手く絞めてくれるもので、

「どうだ? こうか?」

 あっという間に意識が飛びそうになるその寸前で、緩められてはまた絞められて。その繰り返しが生殺しのようで、

 じ、地味に──

 苦しい。

「散々なぶられたからなぁ」

 ふっふっふ、と悪辣さをたぎらせ始める紗生子はいつもの紗生子だ。

 ──しまったぁ。

 年末の穏やかさが当たり前になっていたせいで、つい調子に乗ったつけをここで一気に払わされるのか。

 ──ヤバい。

 本気で落ち(・・)そうだ。苦し紛れに首元の手を取ると、途端にその手がみるみる緩み始めた。代わりに異常に柔らかくて、妙にすべすべする物が頬に擦り寄ってくるそれは、紗生子の頬か。

 ──うわ。

 失神寸前の次は唾液腺の崩壊だ。瞬く間に口内に溢れ出るそれを、堪らず一飲みする。

「落ちそうだったのに今度は生唾か? 相変わらず落ち着かないヤツだな?」

 その悪戯っぽい声と共に艶かしい吐息が鼻にかかる程の近さは、間違いなく過去最高に最接近されている証だ。その状況を認識して後追いで襲ってくる背中に伝わる只ならぬ柔らかさと、酩酊落ちしそうな程の生々しいまでの成熟した女の匂い。

「ど、どうして、こんな事するんです?」

 少女漫画の乙女でも、もう少しまともな事を言いはしないか。何とも間抜けな質問だが、慣れない事で心臓が爆発寸前なのだ。我ながら、それを聞けただけでも進歩だろう。

「相変わらず物分かりが悪いな」

 普段なら語尾がキツい詰問調なのだろうが、今のそれはまるで真逆で何とも艶っぽい。

「免疫向上って事ですか? それともまた何か企んでません?」

「調子に乗っているようだから再認識のためだ。我らは私あっての偽装夫婦だぞ」

「そ、そうでした」

 やむを得ず偽装夫婦になった俺達だが、それは一人の男に収まるとはとても思えない女傑紗生子の歩み寄りなくして有り得ない関係だ。そしてそれにより学園内で妙な色目を使われる事もなくなり、その中に少なからず邪なものも潜んでいただろう事を思うと、紗生子の庇護の大きさは語るまでもない。

ある程度・・・・)は親密度を上げておかないと、ハニートラップの懸念は増すばかりだしな。これはその一環だ」

「誰もいないのに、ですか?」

「人前でベタベタ出来るか」

「それじゃあ意味ない事ないです?」

 普段は完全なる【かかあ天下】振りの紗生子とあっては、逆につけ入る隙があると思われはしないか。

「こういうのは滲み出るモンなのさ。普段からな」

「じゃあ仕事でやってると?」

「言葉の持ち合わせが少ない割に、一々理屈っぽいヤツだな」

 そういう紗生子は、逆にストレートというか。

「そりゃそうですよ。仕方なくやってるんだったら悪いじゃないですか」

「何だそれは?」

 失笑した紗生子が、今度は俺の側頭に鼻を突っ込んだかと思うと思い切り息を吸い込んでみせた。自分の何かを吸い取られるかのような思いがけぬ奇行に、瞬間的に上半身が膠着して痙攣する。

「分かりやすいヤツだな」

 その鼻で笑った紗生子が、

「戸惑ってるのが面白いのさ」

 ぬけぬけとぬかしてくれる。

「君が嫌なら止めるが?」

「嫌と言うか──」

 そもそも紗生子に誘惑されて、嫌なヤツなどこの世に存在し得るのか。

「何だ? 煮え切らないヤツだな」

「あなたは男嫌いだと聞いていたんですが」

「だからと言って、気を許さない男がいない訳じゃない」

「何かの欲に負けてだらしなくなるのが意外と言うか──」

「『負けて』ってのは心外だな」

 言い方を間違えた。負けず嫌いに対して負けたなどと言ってしまっては、ますます泥沼だ。

「まるで少女漫画の乙女だな。まさか女に性欲がないとでも思ってるのか?」

「そうじゃなくて、その。ある程度仲良くなったら誰にでもこんな事するのかな、と」

「くっ!」

 堪え切れない失笑が一つ出ると、早々に限界に達したらしい紗生子が破顔した。

「ホント予想外に可愛いな君は!」

 最早罪だ、と笑いながらも、小刻みに痙攣してはひっくり返っている。確かに思い返してみれば、いいおっさんが吐くような台詞ではない。

 ──どこの箱入りだ俺は。

 紗生子にかかってしまえば大抵の男など似たようなものだろうが、それにしても我ながら程度が低過ぎる俺だ。何だか猛烈に恥ずかしくなってきた。

「も、もう帰ります」

 逃げ出すようなその反応がまた情けないが、文字通りいたたまれないのだ。

「待て」

 そこをまた捕まった。今度は背後から両腕を回され、背中に顔を押しつけられる。

「私は性を切り売りしない」

 そのいつもの毅然とした一言が、もやもやしていた俺の何処かを突いた。

「妻という響きに予想外に踊らされていたようだ。調子に乗っていたのは私の方だな。悪かった」

「──いえ」

 俄かにそれが信じられないのだ。絶世の美女が、妻とか、予想外とか、踊らされる、などと。そして俺を相手取って、調子に乗るだの、悪かっただの。信じられる筈がないではないか。

「ただ──」

「何だ?」

「──騙されてるような」

「そう思うのも無理はない。何せこの美貌だ」

 別に紗生子の清々しいまでの自認を聞くまでもなく、まさに自他共にそれを認める俺達のチグハグ振りだ。

「が、とりあえず可愛い部下で、偽装の夫で、こんな夜更けに私の傍にいる事を許せるような男は、今も昔も君しかいないがな」

 先程来、俺の動揺を誘うような事をずけずけと。飲み過ぎでいつぞやのようにまた上せでもして、

 ──熱暴走でもしてんのか?

 と思っていると、背中から回された腕の力が緩み始めた。

「でも確かに、一般的にはセクハラと言われても仕方ないレベルだ。もう一度確認しておくが、嫌なら止める。どうなんだ?」

「──って」

 言われても。その理解不能な押し引きに翻弄されっ放しで混乱の極みなのだ。何故こんな男女の駆け引きのようなものを俺に繰り出す必要があるのか。結局、堂々巡りだ。

「これ自体がハニートラップのような気がして──」

 と言うと、巻きついていた腕が完全に離れて、

「──そうだな」

 紗生子の口からは聞いた事もない、何やら切なげな声が背中から聞こえてきた。思わず肩越しに背中を覗き込むと、

「私の仕事は、そう言うモンだしな」

 やはり少し寂しげな顔をした美女がいる。

「あ、いや、その。まぁ俺の自信のなさのせいでもあるので──」

 いつもの紗生子だと思っていたのも束の間、予想外のこれこそ乙女のそれのような。かと思うと、

「で、どうなんだ?」

「え?」

「──じゃないだろ、聞いていたのはこっちだ」

 またぐいぐい押し込まれたり。

「え、と──」

 今の答えで納得してもらえないとなると、最早何と言えば良いのか。あからさまに構わないといってしまってはあざといし、何かが違うような気がしてならない。

【プププッ】

 そこへ不意にまた、ゲーム中でロックオンされた時の断続音が耳を掠めた。が、今は3Dゴーグルはつけていないどころか、とっくにゲームは止めている。

【プ──!】

 それを考える暇も与えられず、あっという間にその警告音のようなものが連続音になると、コンタクトの中が慌ただしく展開し始めた。

「ちっ」

 と紗生子が舌打ちした瞬間、部屋の窓の外側で突然シャッターが轟音と共に素早く閉まる。

「いいところだったのに」

 次の瞬間、コンタクトの中で飛来物らしき物がピックアップされた。その横にある字幕が、

 ──ジャベリン!?

 何と米軍が誇る対戦車ミサイルのそれと表示されているではないか。それはゲームなどではなく、紛れもない敵襲だった。しかもミリ秒までカウント表示される着弾予想時間が、残り

「二秒──!?」

 を切っているという戦慄の急展開。が、

「下衆共が」

 ブツブツと悪態を吐く紗生子は、不機嫌面でくすぶったままだ。

「伏せて!」

 構わず俺は咄嗟にその頭を抱え、室内のフローリングに押し倒して伏せた。同時にシャッターの外で

【ドドドド──ン!】

 と耳をつんざく爆発音が轟き、それを防いだらしいシャッターがけたたましく揺れる。

 ──いや、

 防爆シャッターのようだが、そんな物で対戦車ミサイルが防げるとは思えない。コンタクトを見ると、校内西側の多目的広場上で爆炎がもうもうと上がる様子を防犯カメラの一つが捉えていた。まるで

「迎撃!?」

 したかのような空中爆発に、

「ファランクスだ」

「ええっ!?」

 紗生子が嘆息しながら冷めた口振りで説明してくれた。それにしてもこのクソ有事で実に冷静というか、興ざめしてやる気がないというか。

「ファランクスって──」

 米軍が誇るその近接防空システム(CIWS)が日本の学校なんかに

 ──何であるんだ!?

 と思っていると、もう一発が主幹教諭室目がけて飛来したのを、着弾直前で北校舎屋上の貯水タンク(・・・・・)が撃墜した。

「貯水タンクに偽装していたのさ」

 初弾は寮のそれ(・・・・)が撃墜したらしい。するとまた間髪入れず、パッシブセンサーが連続吹鳴し始めた。今度は二発同時。ターゲットはやはり、この部屋と主幹教諭室だ。が、着弾寸前でやはり撃墜される。

「四発か。米軍も下手を打ったな」

「え?」

「大方、アフガニスタン撤退時のどさくさで盗まれたんだろう」

 と、それまで俺の腕の中で大人しかった紗生子が、少し身動ぎした。

「抱擁はもういいだろ?」

「あ、すいません!」

 慌てて膝立ちしながら押し倒した紗生子を起こしてやると、

「やれやれ」

 やはり無造作な脱力感で、如何にも気鬱そうに別部屋へ入って行く。かと思うとリュックと筒のような物を持ってすぐに出で来て、俺の前にそれを置いた。グレネードランチャーだ。

「正月早々近隣に迷惑はかけられん。越年までに片づけるぞ。君は北側屋上からそれ(・・)を使って制圧してくれ」

 何でもグレネードランチャーを模倣して日本警察が独自で作ったガス銃を、CCがカスタマイズした物らしい。

「弾はこれだ」

 言われてリュックの中身を見ようとすると、校内のオートロックシステムが慌ただしく侵入者を次々にピックアップし始め、コンタクト内が賑やかになってきた。ざっと一個小隊、三〇人規模だ。

「不躾な上にせっかちなヤツらだ。短期決戦にはおあつらえ向きだな。私はさっきの(ジャベリン)射手を仕留めてから南側屋上へ展開する。動け!」

「はい!」

 それまでののらくらから一転。鋭く言い放った後の紗生子は流石に早かった。指示通り寮から北側にある各種建物群の屋上へ出たところで、紗生子の部屋から火線が飛び始める。乾いた破裂音がリズミカルに四発で収まると、俺のコンタクト内にガス銃の仕様と弾種のデータが届いた。百発百中の腕前でターゲットを仕留めながらのこの手回し。本当に恐るべきプレイングマネージャー振りだ。

『夜間の上に地の利はこっちにある。この程度の連中は一網打尽にするぞ』

 と言いながらも耳目(・・)を戦時モードに切り替えた紗生子の視野が入ってきて、合わせて侵入者のデータまでが共有される。

「またコイツらですか!?」

 夏の避難訓練時に来襲した中米麻薬組織の連中らしかった。

『その選りすぐりのつもりらしいぞ? 中には国際手配されたヤツもいるな。確保すればアメリカが喜ぶだろう』

 それを瞬時に識別するCCの技術力とデータの蓄積量の凄まじさもさる事ながら、悠長な口振りとは打って変わってすっかりいつもの電光石火の紗生子は、既に寮から南側建物群の屋上に到達し、寮の入口を狙う分隊を捉えている。ハード(機材)ソフト(人材)も超一級品だ。

『無駄に建物を壊されても困る。そっち(北側)もさっさと終わらせろ』

「了解」

 多勢に無勢だが、こちらはオートロックシステムで索敵に難はない。逆に敵側は、校内の拠点を狙ったところからして少しは進歩しているようだが、エージェントの動きまでは掴めていないらしい。抜き足差し足忍び足で接近して来る従来型の兵ばかりだ。

 ──さて。

 北校舎屋上に配置した俺は、まずは閃光弾をぶっ放した。暗視ゴーグルだろうと何だろうと、多少の目眩しにはなる。それでゴーグルを外したり、始めからつけていない間抜けを続け様の催涙弾で(にぶ)らせて、

 止めは──

 CC自慢のネット弾というヤツをくれてやった。着弾すると数m範囲に蜘蛛の巣状のネットが展張し、動きを鈍らせるというシンプルな物だが、昼間ならともかく夜の今なら糸が見えず厄介だろう。

 ──これは使えるな。

 実際のところこれが最も効果絶大で、次々に打っては面白いように転倒し、瞬く間に動けなくなる敵が続出。最後は麻酔弾で黙らせると、実にあっさり終わってしまった。

『そっちも終わったようだな』

「そちらもですか?」

『ああ』

「この銃はいいですね。夏の襲撃の時も、これでよかったんじゃないですか?」

『昼間だと、こうもあっさりとはいかんさ』

 最後の最後で散々だったな、と小さく嘆息した紗生子が、

『来るんならさっさと来ればよかったものを。終わり悪けりゃ全て悪しだな全く』

 と本音のようなものを呟いた。

「はい?」

 という事は、終わり以外はどうだったというのか。


 後になって思えば、今回の襲撃は紗生子がターゲットのようだった。全てはアンを帰郷させるところから始まっていたようだ。いや水面下では、アイリス(現米国副大統領)の来日から始まっていたのかも知れないし、あるいはもっと前から紗生子の頭の中では計算されていた事かも知れない。詳細なところは、凡庸な俺には分からない事だ。

 何にせよ、何らかの危機を察知した紗生子が、自らのツケを一人で払おうとした結果が【正月休みの留守番】という事のようだった。

「ホントは私自身が人里離れた所にでも出かけて、そこで一網打尽にしてやればよかったんだろうが──」

 それは流石の紗生子といえども、ある程度の日数を覚悟する必要があったという事だ。アンの滞在先を預かる現場の警護責任者とあっては、セキュリティー上の間隙も、自身が欠ける事による人員運用上の不測も許されないため、それは出来なかったのだとか。

ここ(校内)なら地の利があるし、装備もそれなりに潤沢で留守を預かる責任も果たせる。結局、一番迷惑がかからんと思ってな」

 と言う、部屋着にコートを羽織っただけの紗生子とジャージ姿の俺の目の前では、真夜中だというのに数台の輸送車で乗りつけた男達が、蜘蛛の巣(・・・・)塗れになってのびている襲撃者達を音も立てずに黙々と収容していく。CC本部の待機組だろう。

「とは言え、また他班に借りを作ってしまったが」

「一人で抱え込むからいけないんですよ」

 初めから組織内で対応していれば、ある程度の心積りは出来た筈だ。

「それだと債務が膨らむ一方だろう。それに何処から話が漏れるとも限らんしな」

 実際に敵方は、先制攻撃で防衛拠点上の要所である紗生子とアンの居室と主幹教諭室をピンポイントで狙って来たのだ。

「麻薬組織程度の情報収集力だとファランクスまで辿りつけなかっただけの事で、勝負は紙一重だったりするのさ」

 何でも海自の艦船に装備している物のストックを、無理矢理流用して配備させたらしい。加えて、誘導兵器に対するパッシブセンサーまで配備しているとは。校内の建物という建物は、今も尚それに反応して降りた防爆シャッターに覆われたままだ。

「殆どちょっとした軍事要塞ですよ」

主計ちゃん(佐川先生)の日頃の仕事振りの賜物さ」

 迎撃出来なかった展開を想像するとぞっとする。少なくとも、地の利を活かしてネット弾で蜘蛛の巣塗れの刑にするような安直な展開にはならなかった筈だ。それを分かった上で、

「結局私はこんな連中にしか好かれないからな。一人でカタをつけようと思ったんだが」

 何処かの頑固者がなぁ、とあくまでも一匹狼の紗生子のそれは強がりではないだろう。確かに紗生子なら一人でも何とかしたに違いない。が、

「これで大義名分が立ちますよ」

 替えの利かない身が襲われたとあらば、休暇中のエージェント達も俺の残留に理解を示す事だろう。実はアンが帰国してからというもの、紗生子の妙な潔さが気になっていたのだ。

 それは突き詰めれば只の勘だったのだが、一人にしておけないという直感が俺の何処かから消えなかった。無理矢理にでも追い出すというか、わざわざ隙を作りだそうとしていたというか。そこに諦念のようなものが見え隠れしていた、というか。腐れ縁とはいえ半年一緒だった事の、それこそ賜物というべきか。

 年末モードに入った俺達は、明らかに職分以上の領域に足を踏み入れつつあったのだが、実際に襲撃されたのだからそれもチャラだろう。逆に、

 ──もし、襲われてなかったら。

 それはそれで、今更ながらに身体の何処かの居心地が悪くなる。それ程結構

 楽しかったり──

 したのだ。久々に。

 そんなたわいないフレーズが、脳内で思わぬ動揺を誘う程の穏やかな年末は気がつけば終わっていて、時刻を確かめると既に越年していた。

「君も物好きなヤツだな」

 まあ助かったと言っておこう、と鼻で笑う紗生子の前を、早くも収容が完了した警察仕立ての輸送車が出て行ったかと思うと、入れ替わりで

「いやぁ、年の瀬に大変でしたな」

 影の功労者である佐川先生がやって来た。

「もう来たのか?」

 朝で良かったんだぞ、と言う紗生子を

「この間隙を突かれんとも限りませんからな」

 と被せる佐川先生が、わざとらしくも無帽のまま挙手礼し、俺達にウインクしながらそそくさと校務員室へ消えて行く。早速、損耗確認や整備に入るらしい。

「仕方ないヤツだ」

「早めに帰国してらしたんですね」

 年明けまで海外だと聞いていたのだが、

「まぁあの男()根が真面目で頑固だからな」

 虫の知らせを耳にしたんだろう、と小さく紗生子が呆れてみせる。

「何もあなたを慕うのは悪党だけじゃないって事ですよ」

 次の一言は自分でも驚く程、自然に口から出た。

「俺もその一人です」

「何だ何だ? 急にそんな事言って、後でセクハラだのと喚いても知らんぞ?」

「セクシャルな事を言ってるんじゃないですよ!?」

「じゃあ心根でって事か?」

「ゔ」

 何でまたわざとらしく微妙な事を平然と口にするか。しかも暗がりだというのに、コンタクトの優れた暗視機能が、急に語尾と口角が上がった紗生子の美顔を映し出す。

「まあいい。このどさくさで未回答だった答えの言質はもらったぞ。今後もちょくちょくいじる(・・・)から覚悟しておけ」

 後は主計ちゃんに任せて即応待機(一休み)するぞ、と相変わらず自分だけ言う事を捲し立てた紗生子が

「少しは自分を労れ」

 この正月休みがいい例だ、と忙しくもまた表情を曇らせている。

「はあ?」

 労れって──?

 どういう風の吹き回しなのか。普段散々バカにしてくれる紗生子が、それこそ熱でもあるのではないか。が、どうやらそんな悠長な話ではなく、

「アフガンの次だ。君は特に用心しとくんだな」

 紗生子の口が、またその国名を吐く。その度に内容が濃くなっているような気がするのは、どうやら気のせいではない。何せ、

 ──魔女だしなぁ。

 冗談抜きで水晶玉に変わる優れた透視アイテムでも持っていそうな紗生子の事だ。が、

 次って言われても──

 何処なのか。何なのか。それが

 ──俺に関わりが?

 あるのか。安定的に深読み出来ない間抜けな俺には、当然分からない。分かるのはもう少し先だ。

「まぁ私の傍にいる間は心配ないだろうがな」

 そんな俺に嘯きつつもまた悪戯っぽく微笑んだ紗生子は、そのまま一人自室へ戻って行った。

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