トラブル処理【先生のアノニマ 2(上)〜7】
今回は少し、学園業務の話を一つ。
一〇月に入った。目下衣替え期間中の校内は、盛夏の半袖姿もいれば長袖の生徒もいる中で、教職員の服装も様々だ。が、またしても理事長室に呼ばれた俺の目の前にいる男は見るからに
何とまあ──
暑苦しい背広を着込んでいた。
「それは相手の子が弱過ぎるからなんじゃないんですか?」
上座のソファーに踏ん反り返り、足を組み。顎を上げて見下すが如く喋るその男は、怒り肩でガタイも良く足も長い。四〇過ぎの尊大げな風貌ではあるが、髪はフサフサで中々の男前だ。
「とは申しましても、複雑骨折に内臓破裂と続きましては流石に──」
と苦言を口にする理事長は、今日は紗生子と一緒に並んで下座に掛けている。
「あのね理事長さん、格闘技なんだから。そりゃ事故はあるでしょう? 柔道なんかでも体育の授業中にたまに死んだりする、あれと同じですよ」
まるで聞く耳を持たない男の背広のフラワーコーナーには、日本滞在中の俺の数少ない娯楽の一つである、ここ何か月間かのテレビですっかり見慣れた赤紫色のバッジが光っていた。中心に菊の御紋を模したそれが何かの拍子に反射して、下座ソファーの斜め後方に立ったまま無言で控えている俺の目に一々障る。
「口は開かなくていい。ボディーガードだ」
数分前、理事長室に向かう道中で紗生子からあった説明はそれだけだ。話の内容から生徒間のトラブルで、その親を呼び出した構図なのは分かるが。
それが──
何処ぞの議員様とは。しかも部屋の外にSPバッジをつけた護衛を一人待たせているとくれば、何の説明がなくとも簡単に調べがつくというものだ。
で、言われた通り、黙ったまま控えている俺は、その暇を使って指サックを動かし、スマートフォンとリンクさせているコンタクト内でネット検索する。と、
──何とまあ。
そのいけ好かない外見通りのきな臭さというか黒い渦というか。
「私もねえ、そんなに暇じゃないんですよ。お分かりでしょう?」
と言う男は、ネット情報によると今春から日本の外相らしかった。これが本当ならば確かに、
──そりゃ忙しかろうて。
平日の昼前にこんな所にいるのが不思議なくらいだ。
"ちょうどこの前、臨時国会が終わったからな。そのタイミングで呼び出したんだよ"
そこへ紗生子が、本人を目の前にしながらもメッセージを送ってきた。俺のコンタクトを覗いたのだろう。相手の前で、相変わらず器用な事だ。
"じゃあ問題ないじゃないですか?"
"大臣ともなれば、それ以外も忙しいモンさ。特にコイツの場合は場外乱闘も派手だしな"
"だからボディーガードって事でしたか"
"まぁな。一応だ"
"俺なんかでそれが果たせるモンですかね?"
"私が急遽退席する事態が発生した時の保険さ"
"そういう事でしたか"
とは、男と理事長が密室で一対一にならないための、紗生子なりの配慮だったようだ。
──まぁ確かに。
ネットの情報が本当ならば、その配慮はあって然るべきだろう。
高千穂隆介。四八歳。元外務官僚。早々に引退した父の地盤を引き継ぎ、三三歳の若さで衆院選に出馬し当選。以後、衆院五期連続当選中という若手の有望株。出身は東京だが本籍は広島で、同地出身の元首相高千穂隆一郎の二男という秘蔵っ子にして政財官界では知らぬ者はいない虎の威を借る狐だ、とか。それにも増して目を引くのは、目下バツ三という婚歴と女癖の悪さだ。あちこちに子種をまき散らしているというその無節操振りは、確かに外見から滲む軽薄さと合致する。
──よりによって。
広島が選挙区とは。故郷に愛着を持たない俺だが、それでも忌まわしいものだ。もっとも本人が議員になった頃はおろか、その父親が首相になった頃の俺は政治にさして興味はなく。それは今も大して変わらないのだか、海を跨いだ台湾の地で父親の名前は聞いた事があるようなないような。
"少子化の時代とはいえ、子種をばらまけばいいってモンじゃないだろう?"
"こんなヤツは宮刑にしてやればいいんですよ"
"相変わらず妙な事を知ってるな君は。【目には目を】という訳か"
"同じ男として、男を落とすようなヤツが嫌いなんですよ。単純に"
"ほぅ、中々勇ましいな"
密かなる俺の理事長の操を危うくするようなヤツは、余計腹が立つ。因みに宮刑とは、古代中国に存在した刑罰で、去勢の刑の事だ。
「そもそも顧問の先生は何をしてるんです? 子供達の面倒も満足に見られないのかここの先生は?」
その息子が所属するのは剣道部らしく、つまり体育祭で謎の失踪をした体育教師の松本がその顧問だったのだが。既に懲戒解雇になってしまっており、以後約一か月という短期間で随分と部内が荒れてしまったようだった。
"新しい顧問は?"
"今は副顧問が代行しているが形だけだ。剣道のけの字も知らんそうだし"
つまり剣道部には高千穂の息子が在籍しているため教職員の誰もが嫌がって、進んでやりたがらないらしい。
"いいカッコしいの松本先生でも、たがになってたんですね"
"そのようだな"
先入観は避けるべきなのだろうが、この高千穂のろくでなしの息子の事ならば、部活にかこつけてあくどい事でもやったのか。それとも本当に強過ぎるのか。あるいは両方か。何にせよやられた二人の男子生徒は重症で、病院送りにされたとあっては到底看過出来るものではない、という事で今の状況だ。
「まぁ実は、息子の乱暴には私も手を焼いてましてね。こちらでお灸を据えていただけると、多少なりとも助かるんですがねぇ」
「何を白々しい」
──なっ!?
それまで黙って状況を静観していた紗生子が、よりによってタメ口で割って入った。他三人が思わず揃って二度見する程の不意打ちだ。確かにいつも通りの紗生子ではあるが、それにしても相手が悪過ぎるのではないか。それが分からない紗生子ではない筈だが。
「素行の悪さは父親譲りだろう? それを一方的にどら息子に押しつけるのは虫が良過ぎやしないか?」
外相に向かって貴様とか、その御子息をどら息子などと。
──中々のはっちゃけ振りだなぁ。
いきなりどうしたものか。
「教職員の躾が出来てませんなぁ理事長さん。教員らしからぬ赤い髪といい、基本的な身嗜みがまるでなっていない。クビにするべきでしょう?」
一応言葉はそれなりに丁寧だが、器用にも目で恫喝し始めるところなどは流石に永田町の住人らしい。それなりに場慣れしているのだろう。
「申し訳ございません。主幹、言葉は選びましょう」
「お前はすっこんでろ千鶴」
──ななっ!?
が、紗生子も負けていない。それどころか先に喧嘩を吹っ掛けたのは紗生子の方なのに、謝るどころか逆にますます勢い盛んだ。
「わざわざ呼び出してチャンスを与えてやったというのに。外相ともあろう者がとことん潮目が読めんヤツだ」
「そういう貴様は潮目は読めるようだが空気は読めないらしいな」
ついに直接その牙、というか毒牙が紗生子に向けて剥けられたようだが、
「そうだな。それでも何処ぞのボンボン大臣よりは読めると自負している」
──なななっ!?
やはり口が滑ったような事でもないらしい紗生子はいつも通りだ。
「理事長さん、これは話になりませんな。私からお義母様、いや相談役にこの不良教諭の事は伝えておきますよ」
まぁ私も色々忙しいんでね、と捨て台詞らしいものを吐いた時の外相は
「で、最後に、君は何故この場にいるのかね?」
何故か俺に興味を示した。
「は?」
「は? じゃあるか! 仮にも私は生徒の保護者だぞ! その口の利き方はなんだ!」
と高らかに言い放つなり【バン!】と応接テーブルを一撃。動じない紗生子や理事長の攻略を諦め、冴えない俺を鬱憤ばらしの餌に選んだらしい。まあこういう役回りには慣れている俺だからして、今更驚くような事はないのだが。
「屈しない女に負けたまま引き下がれないか。男のプライドというのも惨めなモンだな」
「論点をずらすな。私はぼさっと後ろに突っ立っているそこの男に聞いている」
「論点をずらしまくっているのはお前の方だろう? それとも何か? お得意のご飯論法というヤツか? 流石に少しは答弁慣れしてきたようだな? ボンクラ大臣?」
さっきはボンボンだったというのに、あっという間にワンランク何かが上がったような。その清々しいまでの暴言振りに、迂闊にも迫り上がってくるものが我慢出来ず、
「ぶっ」
思わず噴き出してしまう。すると今度は、
「何がおかしいか!」
【ドン!】と、拳でテーブルを叩かれてしまった。が、俺を含めてこの場にそんな拙い仕種で驚くような者などいる訳もなく。
「そろそろ止めとかないと痛いばかりだぞ? それとも自分の息子の不手際を得意の棚上げで、教師に暴行されたとでも流布するか?」
「主幹、いい加減になさい」
一応よそ行きの理事長が建前上窘めたところで、紗生子が思わぬ事を吐いた。
「分かった分かった。これなるは新しい剣道部の顧問代行だ。だから挨拶がてら同席させたんだ」
「はあ?」
「はあ? じゃないだろ。都合の良い事しか耳に入れようとしない大臣殿に合わせて答えをくれてやったんだ。ついでに君からもご挨拶差し上げろ」
「──って言われても、今初めて聞いたんですが?」
「だっはっはっはっは!」
攻守逆転。俺の鈍さで失策を露呈した格好の紗生子に、今度こそ少しはやり返したとでも思ったか。時の外相は、やはりそうはいっても忙しいらしく、結局そのまま帰って行った。
その五分後。
紗生子の言いつけで、国産の高級公用車が正面玄関から出て行くのを見送った俺が理事長室に戻ると、下座に座ったままの理事長に
「ご苦労様でした」
と上座を促された。
「ったく。アドリブが出来んヤツだな君は全く」
と言う紗生子は既に定位置で、新たに淹れ直したらしい茶を啜っている。朝晩は秋めいてきて、熱いお茶が飲めるようになってきたとはいえ、少し動けばまだ汗ばむような季節だ。そんな中で、相変わらず威風堂々たる踏ん反り返り具合の紗生子は、いつもの 枕戈待旦仕様。その裾から惜し気もなく披露される長い御御足は色気を通り越して芸術の域であり、それを組んで鎮座する神々しさは凄まじいばかりの存在感で。
こんな女が──
任務上とはいえ妻とは、何とチグハグな夫婦なのか。彼これその役を仰せつかって約二月になるが、未だ何かの拍子にドギマギさせられては固まってしまう俺だ。
そんな頼りない男を少し呆れ気味に嘆息する絶美の、その顎に追加で上座を促された俺は、つい低頭癖を出しつつもへこへこしながら、先刻まで高千穂外相が座っていた上座の複座ソファーの下座側へ座り直した。
「少しは堂々としろ」
「どうもすぃません」
「くっ!」
呆れて嘆息していたと思いきや、途端に腰を折って悶絶する紗生子だ。
「何故そこで三平を出すか」
「はぁ? サンペーって何です?」
「三平は三平だろ! くくく」
知らずにやってたとは天然も大概にしろ、と相変わらず情緒不安定で失礼極まりない。
「まあまあ。堂々ではないかも知れませんが、動じないのは流石でしたよ」
「いえ」
理事長に褒められると、やはり素直に嬉しい。
「細やかなずれを笑うなんて。大人気ないですよ? 紗生子さん?」
「不可抗力だ。どうしようにもあるかそんなモン」
この際、不埒な紗生子は置いておくとして。
「あの──」
「これから説明してやる」
その紗生子に、見事にタイミングを読まれて被されてしまった。
「ふふっ」
それを理事長に失笑されると、また忙しくも忌々しげに口を歪める紗生子が早速不機嫌面を晒しつつも、
「どれから聞きたいか?」
「では、どら息子の事から」
噛み砕いた説明を始めた。
「高千穂隆太、一五歳──」
と、その入口で、
「一五歳!?」
「何だ? いきなり?」
その腰を折った俺だ。
「いや、一五歳って──」
「中三だ。素行不良者の低年齢化は何も今に始まった事じゃないだろう?」
「まぁそうですが」
問題になるような悪ガキにしては、どおりで名前を耳にしなかった訳だ。俺は高等部しか授業を持っていないため、流石に中等部までは目が届いていない。その中三の問題児が、全国有数の進学校に入学出来る程の頭脳を持ち、それに合わせて
「飲酒、喫煙、ギャンブル、恐喝、いじめ──」
等々。父祖の威光を傘に、傍若無人の極みで学園内を席巻しているらしい。
「席巻って──」
「シメてるって事だ」
なんと高等部込みで天下を取ってしまった、のだとか。
「中三の子が、ですか?」
「そうだ」
剣道部では既に学園内で適う者はおらず、今年の全国中学校剣道大会では個人戦で優勝したらしい。
「その豪腕ついでに学園内を制覇しちゃったって訳で?」
「まぁそういう事か」
中等部では教職員に病欠が出始める程の猛威で、
「実は少し弱っていました」
と、校長兼務中の理事長が苦笑した。
「松本先生は、あれでも剣道では高千穂君を押さえてくれていたようでして。体育祭で目の上のたんこぶがなくなったようなものなんです」
そのお陰で、校内の様子が変わりつつあるらしい。
「そう、だったんですか」
「安定的に鈍いな君は」
他人のやる事にさしたる興味を覚えないだけだ。俺に影響するのなら話は別だが。アンテナを張るのが面倒なものだから、影響を及ぼされる時にはいつも退っ引きならない状態、というのは俺の悪癖の一つだ。で、今回も思いっ切りそのあおりを食らったという訳で。
「反論仕様がないですね」
「他には? 今のうちに聞いとけよ」
あんなヤツの事なんか考えるだけでも反吐が出るからな、と相変わらず容赦ない紗生子だが、今回ばかりは同意である。
「相談役をお義母様と漏らしていたのはどういう事なんですか?」
「ほぅ。中々いいところに目をつけるようになったじゃないか。君にしては」
「そりゃあ──」
CC創設者で、女フィクサーで、財閥家夫人で。先日の体育祭で簡単に聞いた素性の羅列だけでも大変なものを持つ相談役を【お義母様】と呼べる人間など極々限られた存在だ。高坂の入婿か、その娘を娶ったか。苗字の名乗りからすれば後者という事だろうが、それにしては相談役の直孫たる理事長とのやり取りは、何処か他人行儀だったような。という事は、
「元娘婿って事ですか?」
「やれば出来るじゃないか」
何だか素直に喜べないが、俺の周囲の聡明さからすれば子供扱いは当然だ。
「って事は?」
「父親の威光を傘に、相談役の娘さんを娶ってな」
が、何と妊娠中に不倫して、問答無用で離婚させられたという
「ろくでなしじゃないですか」
「だから口にするのも忌まわしいと言ったろう」
以来、バツ三。在校中の隆太は、初婚当時の不倫相手との間に出来た子、という事らしい。
「高坂家にとっては親子共々、因縁の相手じゃないですか」
それが何故、よりによってその高坂家が経営に携わっているような学校に
「──そのどら息子が入学出来る訳で?」
「まぁそこは一応入試を経てるからな。間違っても裏口入学なんかさせてもらえるような立場じゃなかったし、むしろその逆だったのを学力で捩じ伏せたって事だ」
勉強も出来る悪童とは。しかも腕っ節も強くて血筋も良いとくれば悪条件塗れではないか。
「それに相談役は、ボンクラ大臣の父親の政策秘書だったからな。腐れ縁だが、悪いばかりの縁じゃないのさ。高坂と高千穂の両家は」
「それを逆手に取って、復縁を画策しているようなのです」
「高千穂外相が、ですか?」
「はい」
「バツ一の時のお相手と、ですか?」
珍しく嫌悪感を憚らない理事長によると、
「しかも何をお考えか、お婆様がそれを黙認しているようなのです」
「どうだ? 中々の場外乱闘振りだろう?」
「最悪じゃないですか」
今度こそ高坂家を乗っ取り兼ねない、と憂慮するのは当然だ。確かにその権財は、ろくでもない野心家の事ならば魅力以外の何物でもないだろう。
「高坂の姉様の沈黙を黙認と勘違いして、大義を得た気になって調子に乗ってるのさ」
「そんな込み入った相手に、ボロかすのタメ口って──」
紗生子ともあろう者が、何を考えたものか。
「ついな、つい」
海自官僚の紗生子は、長年様々な出向先で高千穂のようなボンクラ共の尻拭いに甘んじてきたらしく、
「いい加減、緊張の糸が切れてしまったのさ。悪気はない」
「あなたはそうでも、相手はそうは思っちゃいないでしょう?」
どうするつもりなのやら。
「そこを何とかするのが、今回の君の役目だ」
どうしてそこで俺が出てくるのだ。
「冗談でしょ!?」
「こんな事で冗談など言わんぞ私は?」
「剣道部の方なら、何とかやってやれない事もないですが──」
復縁騒動やタメ口事件はどう考えても俺の範疇ではない。
「お、やる気になったか」
「はあ?」
「吹っ掛ければそう言うと思った」
とはつまり、見事につられてしまったようだ。気がつけば、剣道部を何とかする話になってしまっている。
「心配するな。君に頼むのは剣道部だけだ。とはいえ諸々の件は全て君が突破口になる、かな?」
何だその訳の分からない小悪魔チックな言い回しは。
「また何を考えて──」
「まぁ言質は取ってるんだ。存分にやれ」
「はあ?」
このパターン。何処かで経験済みのような気がしないでもないのは気のせいなのか。何れにしても俺の人生、こんな事ばかりだ。辿ったところで解決する訳でもないのなら、つまりは時間の無駄なのだが、それでも
──毎度毎度やり切れねぇな。
星回りの悪さのようなものを恨めしく思わざるを得ない。そもそもが俺の本業は、アンの護衛の筈ではないか。それですらハードラックだというのに、だ。
「姉様も御年八三なんだ。いい加減後は『若い者達で何とかしろ』という事なんだろう」
──何でそれに。
わざわざ俺が巻き込まれるのか。また平和主義者にあるまじき、火中の栗拾いというヤツだ。それにしても、建前業務とはいえ全国有数の進学校の仕事ともなれば、生徒も保護者も中々一筋縄では片づきそうにない厄介者ばかりのようで、既に頭の何処かが脈打っていて痛い。
うわぁ──。
めんどくさい。
その日の課外。
あぁ何か──
この感じ。二回目のような気がするのは決して気のせいではない武道場の一角で、早速剣道部の練習を見ている俺の横には何故か
「あー私も稽古したいんだけどなぁ」
と愚痴るアンがいる。このお姫様を「連れて行け」という紗生子の命だ。
──何の事やら。
さっぱりなのだが、お陰様で打ち合っている部員達の目が痛い。
学園内の部活は大抵、中高分け隔てなく一つの部として活動している。剣道部に至っては男女も一緒で、総勢一〇〇人前後。これ程の規模にしてこの武道場という事は、それなりに隆盛を誇る部という事なのだろう。見ていると、確かに真剣な眼差しで竹刀を振っている姿は感心を覚えなくもない。が、その中で。
──確かに。
注意して見なくとも、頭一つ分抜け出た巨漢が、威勢よくも太い声を吐きつつ稽古に勤しんでいる姿が否応なしに目についた。
「中三だからホントは部活引退してる時期なんだけど、中高一貫校だしね」
今日は比較的、大人しく座っているアンのその顔が
「弱い者いじめするヤツ、嫌いなんだよね」
珍しくも暗く歪む。
「アイツに言い寄られるんだよねー」
「えっ!? そうなんですか!?」
「ストーカーってヤツ? まぁこの美貌を前にすれば、大抵のバカな男が狂うのは分かるけど」
後半部分の台詞はともかく、前半の事実を知らなかったのは俺の落ち度だ。
「知らなかった?」
「ええ」
「まぁこれからの事だから当然か」
「はあ?」
何の謎々だ。
「あ、来たよ」
すると、打ち合っている部員が一斉に止まり、中から頭一つ抜けた例の大男が無造作にこっちに向かってやって来た。のっしのっしと堂々たる体躯で父親譲りの男前。偉丈夫とはこういう形を言うのだろうと言わんばかりの若き剣士。中三にして事実上部を仕切っているらしいが、名実共に妥当なところとしたものだろう。
「勿体ないよねぇ」
「は?」
「別に悪さしなくても、これならそれなりにモテていい人生送れるだろうに」
「先生、次はどうしましょう?」
と、一応敬語だが、声は野太く大した迫力だ。
「ん? そうだなぁ。まだよく分からんから、任せていいか?」
「──分かりました」
その言葉とはまるでそぐわない、威圧的な目つきと下卑た笑み。
「喧嘩売られてるよ? 先生?」
──やれやれ。
既に背を向けたその背中にアンの挑発が聞こえた筈だが、中三らしからぬ禍々しさにはまるで堪えないようだ。
「──流石はサラブレッドってとこですか」
「何それ?」
低年齢化は、何も素行不良に限らないらしい。
「俺なんかより、余程見た目の箔があるって事ですよ」
「まぁねぇ」
即断されるところが少し悲しくもある。
以後、何日か経つと、剣道部の様子から校内の生徒間の様子が分かるようになった。
──確かに。
恐るべき事に、校内は中三の高千穂隆太によって制覇されている。というか、そういう事に興味があるような連中が
いないだけのような──
気がする。が、隆太のヤツは特に目立った様子はなく、相変わらず太々しさを見せつけるだけだ。意外だったのはアンに触手が動かなかったようで、それを察したアンは早々に見学に来なくなった。
──うーん。
もう少し、積極的にナメてくるのかと思っていたが。正直肩透かしだ。それとも、ここ短期間でのやり過ぎを警戒しているのか。稽古を見ても、手を抜いているというか、思い切って振り込んでいないように見えるのは気のせいではないだろう。あからさまに適当にあしらっている感じだ。
相変わらずの名ばかり顧問代行を仰せつかっている俺は、ただひたすらに見学に徹していたのだが、そこへ高二の主将が歩み寄って来て、
「隆太に稽古つけてやってもらえませんか?」
アクションを仕掛けてきた。
「え? 俺?」
「ええ。隆太のヤツ、強過ぎて相手出来るヤツがいないんですよ」
それはそうだろう。何せあの巨漢にして猛者だ。
「といってもなぁ。俺も日本の剣道はやった事ないし」
「カンフーの達人なんでしょ?」
だからどうした、と言いたいところだが、仕事にかこつけてアンに近寄る事が出来る俺は、ナチュラルに校内の男子生徒の大半を敵に回している。
「辛うじて蹲踞が出来る程度の出鱈目でもいいんならいいが」
「是非、お願いします」
要するに公開処刑にしたいらしい。
「じゃあ防具一色を貸してくれるか」
で、約一〇分後。
ご丁寧に道着袴まで着込まされた俺は、
──何とも。
カビ臭く圧迫感が強い剣道着で、大勢の部員に囲まれた板間の中心に立たされていた。男子だけならまだしも、何故か女子部員も観戦しており、加えて何故か他の部員達までが集まってきているではないか。
「何の余興だこれ?」
「みんな先生の腕っ節を見たいんですよ」
「決闘させられんのか俺は?」
「試合稽古ですよ」
と言う主将の目は野卑ている。
「困ったなぁ」
ろくにアップもさせてもらえないまま、開始線の向こう側の隆太は黙々と目を血走らせ、殺気をたぎらせているではないか。で、いきなり
「始め!」
の声がかかったかと思うと、隆太のヤツが巨体とは思えぬ踏み込みの速さで大上段を打ち下ろしてきた。
「わっ!」
その竹刀を握る手にビンタを食らわせそれを躱すと、いきなり
「やめ!」
だ。
「先生、それ反則です」
「何? そうなんか?」
ルールに関しては素人だと言っていたというのに、それをあからさまに笑う多勢。体育祭の時も感じた、日頃の教職員に対する鬱憤ばらし第二弾だ。
「すまんな。ルールがよー分からん」
ルール無用の世界でやり合ってきただけに、スポーツ格闘技の生温さは窮屈なのだ。するとまた、嫌に野卑た顔つきをした主将が
「じゃあ【協会方式】で行きましょう」
を提案した。
「協会方式?」
剣道の団体としては日本で圧倒的多数派である全日本剣道連盟のスポーツ化した剣道を否定した組織、【日本剣道協会】。その団体が提唱する【武道】としての剣道のための試合ルールは、
「体当たり、足払い、組討ちもOKです」
という事で。つまりは、
「何でもありって事か?」
「素人さんには分かりやすいかと」
そうやった結果の負傷者なのか。顧問がいない事をよい事に、好き放題やっていたという事か。
「先生、強いですね」
開始線に戻る隆太がすれ違い様に呟いた。面の向こうで目を丸くしており、素直に驚いているように見える。
「手元を取られたの、久し振りですよ」
その絵に描いたような酷薄そうな口元が怪しく歪んでおり。まるで、
──紗生子のようだなぁ。
それを中三で身につけているとは。不意にそんな事を考えていると、
「そこまでだ!」
その紗生子が一喝と共に割って入って来た。直接生徒の前に姿を見せる事が少ない深窓の魔女が珍しくも、
「何をやっている! 部活は喧嘩じゃないぞ!」
事態の収集に乗り出している。多勢に無勢の状況下で、一言で周囲を散開させる迫力は流石だ。収まってきたところで、
「──ったく。自ら担ぎ出されてどうする」
しょうがないヤツだな、と呆れる紗生子に答えようがない俺は、情けなくも首を突き出して謝意を示す外ないという体たらく振り。
その日の部活終了後。
また理事長室に呼び出された俺の目の前には、今度は入院させられた被害者の両親がいた。複雑骨折の方か内臓破裂の方か。どちらの親なのか事前に説明されていない俺は、
「黙って座っているだけでいい」
との紗生子の命で、空席の議長席の対面に座らされては、やはり借りて来た猫の如く押し黙っている。
「犯人は高千穂でしょう!? それが何故、未だにのうのうと登校してるんですか!?」
どちらの被害を受けた子の親なのか分からないが、あえて確かめるまでもない程の立腹振り。当然警察にも被害届を出しているそうだが、捜査の進捗が思わしくないようで、今度はその矛先を学校に向けている。
意外だったのは、
「現在調査中ですので、それまでお待ちいただけますでしょうか?」
と、ここへきて何故か二の足を踏み続けている理事長の説明だった。加害者側からも聞き取りを行っており、真相の解明にはもう少し時間が必要、というフレーズを繰り返す理事長の横で、紗生子は難しい顔で目を伏せている。
延々、小一時間。
三人で被害者側の鬱憤を浴び続けた挙句、今度は揃いも揃って直立不動で正面玄関からその両親を見送った頃にはヘトヘトになっていた。
「ぶはぁ──!」
また意外にも第一声を吐いたのは、
「口を挟まないというのは拷問だな」
と言う紗生子である。どうやら俺に箝口令を敷いていた本人も、理事長に同じ事を言われていたらしい。
──そりゃそうか。
紗生子が高千穂外相の時のようにはっちゃけてしまったら、まとまる話もまとまらない。それにしてもいつも自信満々の紗生子が珍しい事だ。ふとそれに思い至り、
──待てよ?
何か脳内で閃いた、ような気がした。が、
「まぁとりあえず、部屋で一息つきながらにしましょう」
そこを一旦理事長に遮られ。そのまま部屋に戻る二女傑の足取りは、やはり珍しくも何処か思い切れていないように見える。
「まずは美味しいお茶でも淹れ直してからですね」
と、相変わらずの配慮の人が給仕をする間に残る二人が定位置に座ると、また開口一番を飾った紗生子が、
「何か気づきがあるんじゃないのか?」
水を向けてきた。
「言っても宜しいので?」
「ああ」
「では。いつも瞬間沸騰の主幹が、珍しく躊躇しているように見えるんですが」
「ぷっ」
そこへ盆に湯飲みを乗せた理事長が戻って来て、
「お茶をこぼすかと思いましたわ」
早速その茶に呼ばれる。やや温めのそれを勢いよくあおった紗生子が
「人を電気ポットみたいに言うな」
と鼻を鳴らした。
「でもまぁ痛いところを突かれたのでは?」
「やかましい」
そんな鍔迫り合いを楽しむ二人だが、
「まさか、それだけじゃないだろうな?」
そこに、いつも結論を急ぐ紗生子らしからぬ慎重さを思わせる。
「事実が違う──って事はないですか?」
「珍しく人が慎重になっている時に、見事に逆をいってくれるな君は」
とは言うものの否定しない。確信に近いところ、のようだ。
「何故そう思う?」
「ホント、珍しいですね?」
「いいから約一週間で感じた君の見解を述べてみろ」
「──では、僭越ですが」
「ふっ、何だその改まった言い方は?」
「だって、いっつも頭ごなしなのに珍しく意見なんか求めるからでしょ!?」
「頭ごなしって事はないだろうが」
「いやそうですって!」
「それを言うなら、いつも君がぐずぐずしてるからだろ!」
この唐変木め、とその語尾が俺の何かをくすぐるが、
──む。
と耐える。
「何と言われようと慣れてますから、私は」
「気に入らんな。何だその当てつけは?」
「主幹が勘繰ってるだけでしょ!?」
「まぁ何と仲がお宜しい事で」
ヒートアップしかけたところで理事長にやんわりと突っ込まれると、舌打ちをした紗生子がすぐに顔をしかめてそっぽを向いた。やはり理事長には何処か遠慮があるというか、何か弱みでも握られているのか。
「──早く言え。また変な嫌味を言われたくないからな」
「はあ」
その忌々しげな横顔に、今度はいつも通りに口を開き始める俺だ。
「高千穂隆太の様子を一週間見ましたが──」
剣道部での部活中、事前に耳にしたような素行の悪さは感じなかった。新しい顧問代行の出方を窺うというよりは、安定的に暗く籠っていて拗ねているだけ、というか。確かに顔つきも態度も太々しいと言わざるを得ず、好感は覚えない。が、稽古中には他の部員に対する一定の配慮が見て取れた。
「全中で優勝した割には大人しいというか、調子に乗っているようには見えないんです」
「安定的にすぐナメられる君が、ナメられなかったか」
「ええ」
一方で、他の部員達はすぐに安心したようで、気を許し始めた。つまり、
「ナメた事を言うようになった、と?」
「それが今日の試合稽古に繋がった訳です」
「君にしては、他人に伝える事が難しい感覚的なものを、実例をもって上手く言い表したな」
その直感が、俺に違和感を伝える訳だ。
「長らく師旅に身を置いているだけあって、流石にその辺りの勘はいいな。──で? それだけか?」
この様子だと、紗生子は既に別の事実を握っている。が、その説明を他人に委ねるかのような。無理矢理にでも誘導するかのような。
「──何か罠でも控えてるんですか?」
「ぷっ」
瞬間で堪え切れなくなったらしい理事長が、また失笑を漏らした。
「だから何でそうなるんだ!?」
「だって、何か唆されてるような感じなんですよ!」
普段他人に、特に俺に意見など求めないではないか。
「別にそんなつもりはない!」
折角珍しく聞いてやってるってのに一々心外なヤツだな、と怒る紗生子は、やはりいつも通りの瞬間沸騰振りだというのに。
──あ、そうか。
いつも通りの紗生子な訳だ。そこでまた、何かが閃いた。という事は、
「答えが同じである事の確認作業を丁寧に二人でやっている、という事でしょう?」
それを嬉しそうな理事長にずけずけと言われてしまい。また、ばつ悪くも押し黙る
「ご夫婦ですねぇホント」
という事だ。
「ちっ」
──うわ。
何か思うところあって、俺を使って確認をしているのだろう。が、舌打ち振りから見ても、流石にそろそろ限界が近いようだ。いい加減話を前に進めないと、またいつものように腹を立てて出て行き兼ねない。
「真面目な話ですが、高千穂って寮生ですよね?」
「そうだ」
何をいきなり、と愚痴る紗生子に構わず、
「被害者の二人は、何処でやられたと言ってるんですか?」
畳かける俺だ。
「部活中だ」
「はあ」
「何だ?」
「いや──」
一週間それを見てきたが、少なくとも練習中にそんな粗暴さは見られなかったのだ。精神が熟れていない若者が人並みならぬ力を持っているのであれば、日頃から自制の癖づけが出来ていない限りそれを誇示し、場合によっては良からぬ使い方をするものだが。
「──確かに太々しさは満々でしたが、そんな乱暴者には見えなかったものですから」
「その理由は?」
「そうですね──」
場外乱闘に事欠かない父親に嫌気がさして拗ねている、
「──姿が見え隠れするというか」
家庭そっちのけで金や力を追い回した挙句、女の尻に目がないオスでしかない父親。人の温もりに触れる事なく一人で暗く沈んだ幼少期。
「ひょっとして小学校も寮に入ってたんじゃないですか?」
「ええ」
他校らしいが、自宅から通学が出来る距離感だと言うのに、わざわざ都内某校の寮で六年間。家にも殆ど帰らなかった、と理事長の補足だ。
「まるで経歴を覗き見たような口振りじゃないか」
「まぁ何となくですが」
荒んだ家庭に生まれ落ちた子供の切なさだ。親の体たらくが原因で、何かが欠落した環境下で育つ子供の末路の一例が、
「あの怪物って事です」
「経験済みという訳か」
「──少しは」
今、俺の事はよいとして。
「家にいても寂しいばかり。学校でも親のせいで後ろ指を差されるばかり。友達も出来ず結局一人」
未発達な心身である事がある程度許容されてよい筈の少年時代において、それを許されず。頼ってよい筈の親という最も身近な存在に突き放され。その絶望感の中で、訳も分からぬままに世間に投げ出され。少なからず荒れて当然の生育環境だ。年齢不相応に達観出来ない限りまともに育つ訳がない、
「──気がするような」
「随分と肩を持つな」
悪名が勝手に一人歩きしている、ような。
「世の中に希望が見出せず諦めて生きている怪物を、都合良く利用する黒幕がいるんじゃないですか?」
そこまで言うと、
「──もうよいのでは?」
「そうだな」
二女傑がようやく種明かしを始めた。
「実は被害者も加害者も『高千穂がやった』と言ってるんだが、被害者のバイタルデータを見る限り練習中に負傷したようには見えなくてな」
学園内に張り巡らされている防犯カメラは、校務の佐川先生の活躍あって今やCCの技術がふんだんに導入された超高性能非接触型バイタルセンサー兼備の秀逸装備品だ。人物データとの紐つけにミスがない限り学園内に出入りする人間を誤検知する事は有り得ず、医者でもある紗生子ならそれをもって誤診する事もないだろう。つまり、
「被害者も加害者本人も高千穂隆太を陥れようと?」
被害者がそれをする理由は高千穂に対する恨みつらみ、はたまた何者かに証言変更を強要されている、といったところか。では加害者がそれをする理由は何だ。
「誰かを庇ってるんですか?」
「それが分からんから、親を呼び出してみたんだよ」
「で、分かったんですか?」
「あの荒んだやり取りで分かったと思うか?」
「主幹でも分からない事があるんですね?」
「全知全能の神か何かと勘違いしてるんじゃないのか君は?」
「似たようなモンでしょう?」
以前「私の知らない事はない」と言っていたのは何処のどなただ。
「冗談じゃない。私は人に崇められるような趣味はないし、そんなモンは煩わしくて敵わん」
「じゃあ──」
どういう心境の変化か知らないが、強がり度合いを落とした、といったところか。
「何だ?」
「──いえ」
そこを突っ込むとまた後が面倒だ。それはよいとして、一連の紗生子の動きは
「いつもと比べると、のんびりしてるように見えるというか」
当たり障りなくそれを伝えようとする今の俺のように、随分と回りくどい。
「この件は現任務に関わりがないからな。闇雲にCCの力は行使出来ん。学園の問題だからな」
「え?」
「何だ?」
「使い分けてたんですか? 今まで?」
「当たり前だ! 根拠もなく無茶苦茶出来るか!」
「はあ」
無茶苦茶である事は認識しているらしい。が、それは当然黙っておく。
「はあって──」
「ぷっ」
呆れ返る紗生子。理事長が噴き出す。そして舌打ち。今度はそれに髪を掻きむしる仕種が加えられる。
「常時【超法規的措置】が認められているとはいえ、調子に乗って使い過ぎると思わぬしっぺ返しを食らうモンだ」
そこは一応国家機関に仕える公務員だしな、と言う割には、いつもはっちゃけているような気がするのだが。それでも使い分けているつもりなのなら、
「──あ」
だからアンを餌にしようとした、という訳か。
「どういうつもりか知らんが本人が素直に吐かないんだ。となれば伝家の宝刀の力に頼る他ないだろう?」
が、予想外にも高千穂の触手がアンに向かわなかった。だから
「地道に調べていたって訳ですか」
「まぁそういう事だ」
アンの色香もまだまだだな、と嘯く紗生子は
「本当ならストーカー被害でもでっち上げて高千穂隆太をしょっぴいて、自白剤でも打ってやろうと思ったんだが──」
平然と凄い事を羅列する。そもそもが、
「対象を餌に使うって──」
「なぁに学園に厄介かけてるんだ。少しは使ってやった方が本人も気兼ねしないってモンだろう」
考え方によっては相当危ない橋なのだが。
「まぁ本当にアンに興味を寄せるとは思ってなかったがな」
「そう、なんですか?」
「高千穂君は外見に反して頭脳明晰で、学ぶ事に関しては中々ストイックなんです」
どうやら教職員の病欠は隆太のせいなどではなく、職員本人の内心に問題があるようだ。
「一応あれで、私の知人の身内の友人だからな」
「──て事は、主幹もその友達の輪って事ですか?」
誰なのか知らないが、隆太にも友は存在するらしい。
「相変わらず短絡的だな君は」
伝家の宝刀を繰り出さずとも俺がのんびりしている間に、小難しい案件に忙しい紗生子がその片手間で独自調査した結果、見た目以上の素行の悪さはやはり確認出来なかったらしい。
「まぁそんな事だから、君の曖昧な感覚や推測を根拠とした意見は一応参考程度だ。裏づけってヤツだな。実は並行して別働がいたりする」
「そう、だったんですか?」
即断即決の紗生子にしては慎重だが、流石にその辺りは抜かりない。只、毎度の事ながら、
──それを先に言えっての。
相変わらずの秘密主義だ。
「お二人にかかると、中々思うように話が進みませんねぇ」
「旦那が鈍いせいだ。私のせいじゃない」
また傍で小さく噴き出していた理事長の、その卓上電話が鳴り、
「──分かりました」
手短に応対し終えたその口から、第三の事件発生が告げられた。今度は片目を失明させられたらしい。
翌日。
高千穂隆太は、流石に特別欠席扱いとなった。やはり被害者も加害者も「高千穂隆太がやった」と供述しており、本来ならそれをもって即停学処分で全く問題ないところ、やはり学校側が異例の判断保留で煮え切らず。先の二件と同様の展開だ。
合わせて剣道部も一時活動停止となった。名ばかりの顧問代行だと思っていたが、これは中々汚れ役のようだ。そのうち俺にも、何らかの罰が下るだろう。
「すまんな」
「はい?」
「君に汚名を着せる事になってしまった」
今日の課外は早速理事長室に呼び出された俺に、相変わらず一緒に呼び出された紗生子が、意外にも開口一番で謝罪を述べた。
「こういうのは慣れてますから。別に痛くも痒くもないですし」
元々教職員を生業としている訳ではないし、正直なところ全く気にならない。
「ただ──」
「腹が立つ、か」
「はい」
必ず存在するであろう黒幕に、憎悪がたぎる。
「私の処遇はどうでもいいですが、強豪校でもある我が校自慢の剣道部が貶められるのは──」
我慢ならない。このままでは全国高等学校体育連盟や日本中学校体育連盟からも、何らかの処分が下されそうだ。
「確かにもうまどろっこしいな。被害者だろうと加害者だろうと、医療行為と称して自白剤打ってやるか」
「主幹先生、ダメですよ。ここまで我慢したんですから」
「だってなぁ。何をいじいじする必要があるんだ? やはり待つのは性に合わん」
これまで辛抱強く事態の推移を見守っていた紗生子が、俺が痺れを切らすのに呼応して途端に怪しくなる。
「何か口にすると急に腹が立ってきたなホント。ゴロー、行くぞ!」
いきなり議長席から立ち上がった紗生子に、理事長が慌ててしがみついた。
「ちょっ、主幹先生! お待ちなさいって。シーマ先生も止めてください!」
「えっ!?」
と言われても。何処をどう掴んで止めたらよいのやら。触れる事がためらわれる程の眩しさを有する肢体なのだ。せめてその前に立ち塞がり、通せん坊するしかない。
「何だ? 止める気か?」
「いや、その──」
今になって何故急に、いつもの短気な紗生子に戻るのか。
「千鶴放せ! もう限界だ!」
「紗生子さんもう少し! もう少し待ちましょう!」
「もう十分待った! お前だって連れをバカにされたら腹が立つだろう!? 私だって同じだ!」
その啖呵に瞬間で怯んだのか臆したのか。理事長が見るからに脱力したかと思うと、勢い余った紗生子がその前に突っ立っていた俺の胸に、文字通り飛び込んで来た。
──な!?
突然の不可抗力でどうにか目を見張るのがやっとの俺が、その一瞬後。御大が例によって立腹した勢いで出て行かないよう、ためらいながらもその両肩を掴む。得も言われぬ芳香と共に、想像以上の丸さと柔らかさに加えて生々しい体温が一気に押し寄せキャパオーバーだ。一瞬で頭のてっぺんから足先まで痺れてしまった。
「急に放すな! 危ないだろ!?」
途端に跳ね返る一輪の絶佳が愚痴る中で、こちらは手を放したいのに本能がそうしたくないのか。荒ぶるその玉体に手が張りついてしまって放せない。
「ゴロー。放せ」
同時に上気して意識は遠退き、
「は、はぃ」
身体は小刻みに震え、いう事を利かない。ビリビリと痺れて震えて、
感電って──
こんな感じなのか。今の今までその経験はないのだが、まさかこんな状況で疑似体験させられるとは。
「何だ? やる気か?」
「そ、そんな──」
そこへドアをノックする音が聞こえた、ようだ。が、それに反応した紗生子に軽く身体を押されただけで腰が砕けた俺は、無様にもその場に崩れ落ちてしまった。
「何なんだ一体!?」
「それが──」
頭はのぼせ、身体に力が入らない。
「腰が抜けるって、こういう事を言うんですかねぇ」
「また訳の分からん事を──」
呆れる紗生子のその声の裏で、
「あれぇ? どうしたの?」
若者らしき中性的な声が俺の耳に届いたようだったが、その辺りの記憶が少し曖昧だ。
その宵の口。
何故か俺は、紗生子と一緒にタクシーに乗っていた。外出前の話だと向かっている先は、
「缶チューハイ? ですか?」
関東中央大学灰島キャンパス。略して関中灰と称されるそこは、太史学園から車で約三〇分程度南方に位置し、同じ時間を西へ向かえば米軍横田基地に辿り着けるくらいの距離感、との事なのだったが。
先刻理事長室を訪ねて来た別働要員から、
「そこの剣道サークルの連中が一連の事件の実行犯だよ」
との報告を受けた折の、紗生子の行動は早かった。
「大学生とは名ばかりの、殆ど半グレと変わらんろくでなし共でな──」
剣道サークルとは仮の姿。その実態は、
「灰島キャンパスの灰の字を取って【グレイ】と称している勘違い集団だ」
と説明する紗生子が耳目を向ける程の集団、という事らしい。
「詳しいですね」
「仕事柄だ。世に仇なす連中の事は一応耳目を向けているだけの事さ」
単に仕事熱心、と言い変えてもよいようだ。もっとも紗生子のそれは、
「潰す機会を逃さんためにもな」
大義名分を得たならば、実戦の勘を鈍らせないための餌食以外の何物でもないだろう。
「今度こそ出るぞゴロー!」
「今からですか!?」
「当たり前だ! こっちは可愛い生徒が既に三人もやられたんだぞ! 捨て置けるか!」
──可愛い生徒ねぇ。
時と場合によってその紅唇は、彼らをバカ共などと罵ったりするのだが。
で、いきなり手を引かれて、文字通り着の身着のまま正門前から流しのタクシーに乗り込み約三〇分。問題の学生街の一角で下車すると、今度はいきなり腕を組まれた。
「──な!?」
「一々驚くな。偽装だ」
アベックの振りをして拠点に接近するためだ、と言う紗生子は、その口元をスカーフで覆っている。各所にある防犯カメラに映り込むため、足取りを撹乱する意図があるそうだが、
「俺は何もやってませんが──」
片割れが無防備では意味がないではないか。そもそもが、この程度の偽装で撹乱などと。それが分からない紗生子ではないだろうに。
「君の特徴のない顔は、街の防犯カメラの画素レベルじゃ判別出来んだろ。私は目を引くからな」
確かに紗生子は顔に限らず全体的なシルエットの見映えがずば抜けているため、既に周囲の視線が痛い程だ。
こんなんじゃあ──
何をやったところで意味がない。果たして何処まで本気なのか。
周囲の注目を浴びながらも数分歩いたところで、腕を組んだままの紗生子が頭に手を回したかと思うと、その視界に捉えていたらしい何の変哲もない四階建てのテナントビルに向かって、極小極速のモーションで何かを投じた。
「襲う先のカメラぐらいは、壊しても文句は言われんだろう」
何の道理か知らないが、それなりの人通りの中で内腿の秘密兵器を抜く訳にもいかず、代わりにヘアピンでも投げたのだろう。ナチュラルボブの艶やかな赤髪のどこにそれをつけていたのか知らないが、遅ればせながらその入口に到達すると、足元にガラス片が散乱していた。相変わらず正確な投げだ。
「ここだ」
ここ一週間前後の慎重さの反動なのか、サクサクと事を進める短気な連れが足を止めたのはその言葉を吐いた瞬間だけ。次の瞬間には無造作に、そのまま地下に潜る階段を降りて行く。
「え? いきなりですか!?」
「ああ」
さっさと終わらせて帰って飯だ、と緊張感なく言う紗生子は腹が減っているらしい。
「今、上のテナントを見ましたか?」
ブラインドが降ろされた窓は煤けており、看板も飾りもない。加えて中から光が漏れ不気味に静まり返る商売気のなさは、誰がどう見ても違和感を覚える佇まいだ。学生街の小洒落た雰囲気とは明確に一線を画すそこは、
「どこかの組事務所らしいぞ」
「知ってたんですか?」
それでも紗生子の足取りに変化はない。
「取るに足らん」
吐き捨てるように言ったかと思うと、
「ひっつきもっつきなのは、何も上流階級の特権じゃないさ」
胸元に巻いていたもう一つのスカーフを引き抜き、無造作に俺の顔に突きつけた。
「な、何です?」
「流石にその可愛らしい顔を晒したまま殴り込む訳にもいかんだろう?」
只でさえ腕に煩悩の塊が取りついていて、動揺を抑えつつもどうにか歩いているというのに。この期に及んでキツい追加だ。
「そ、装備品が脆弱過ぎません?」
「相変わらず言ってくれるな。美女のスカーフにケチをつけるか」
と言いつつも、階段を降りながら周囲の視線から開放された紗生子は、今度こそ躊躇なくワンピースの裾をたくし上げ、サプレッサーをつけた拳銃を抜くなり地下一階に見えてきた扉に向かってそれを一発撃った。
また遅ればせながらそこに到達すると、今度は首をもがれた防犯カメラが下に落ちて壊れている。
「前の殴り込みの時は、戦闘スタイルだったじゃないですか?」
「あれは本業絡みだったからな。昨日も言って聞かせたろう?」
あくまでも今回の案件はアンに絡まない建前業務であるからして、闇雲にそれを行使しないのだ、とか。
──の割には。
早速銃をぶっ放している紗生子の認識では、日本の学校法人の職員ともなるとそれが許容されるのだろう。
「だから今日は正面から正々堂々殴り込みだ」
「何か滅茶苦茶ですね」
相変わらずの、その穴だらけの正義は理解不能だ。
「いいから早く覆面しろ」
と窘められ慌てて口に巻いて後ろで縛ると、また瞬間で脳が酩酊しそうな程の芳香が鼻を襲った。
「ふぅ──」
クラクラしてまた腰が抜けそうになったところで、
「いでででで」
と紗生子に耳を引っ張られ、我に返らされる。続け様にそのまま耳元に口を引き寄せられたかと思うと、
「いい加減気合を入れろ。さっきもそうやって、マスミの説明をろくに聞いてなかったろう?」
今度は返す刀のその美声で耳をくすぐられた。
「す、すみません」
「だから都度免疫をつけてやってたってのに、いつまで経ってもだらしないヤツだな全く」
呆れながらも鼻で笑う紗生子は、
──わざとだよなぁ。
意味ない偽装で俺の純情を弄んでいる。
「相手は素人だ。殺すなよ」
「はあ」
そのままドアノブに手を伸ばす紗生子の、その手が寸前で止まった。ダイヤルロックで施錠されている。
「ビリヤード場にしては厳重なセキュリティーだな」
ますますころくな事をやっちゃいないぞこれは、というそこは【グレイ】の根城、との事だ。
「仕方ない」
と呟いた紗生子が、無造作にドアノブを蜂の巣にした。何もかもが、
──デジャブだなぁ。
それは決して、思い違いではないだろう。
「よし、さっさと片づけるか」
見事なまでの御御足で重厚感のある片開きドアを蹴り破った紗生子は、
「邪魔するぞ」
声だけは変声機で中性的なものに変えていた。続いて入店した俺が、一応そそくさとドアを閉め店内を見渡すと、人相の悪そうな輩共がざっと二〇人。みるみるうちに目つきが鋭くなり、唸り声を上げ始める。
「何だい? 男遊びに来たんか?」
そのうちの間近な一人が下衆な声と共に紗生子に手を伸ばしたところで【バン!】とその首が捩切れる程の勢いで無造作に横へすっ飛び、辺りの物を蹴散らかしながら【ドサッ】と崩れ落ちた。
──うわぁ痛そぉ。
相撲取りのそれ以外で、ここまで凄まじいビンタを見るのは初めてだ。それを殆どノーモーションで繰り出す紗生子はやはり只者ではなく。
"んだテメーラ!?"
一気に陣貝代わりの怒号が上がり開戦だ。
その五分後。
「骨のないヤツらだったな。次行くぞ」
「まだあるんですか?」
先々階段を上がって行く紗生子は、当然五分前のままだった。が、
──やれやれ、大したもんだな全く。
ドアノブが吹っ飛んで半開きになった店内から見え隠れする阿鼻叫喚は、やはり殆ど紗生子一人によるもので。俺は最低限のサポートをしたに過ぎなかった。
「最終的には司直に委ねるが、それまで放っておいたら後何人泣かされるか分からんだろう?」
緊急避難だ、と嘯きながらも地上部分に上がり切る頃には、俺が顔に巻いていたスカーフをぶん取り返した上機嫌の紗生子に、入れ替わりでまた腕を組まれた。
「こんなので偽装になるんですか? ホントに?」
組まれた側の半身に伝わるありとあらゆる感覚が酔って、心臓の疲労感が凄まじい。
「しないよりはマシだろう。君の免疫向上トレーニングも兼ねているしな」
片や紗生子は息一つ乱れておらず。
「何か、楽しそうですね?」
「まぁ久し振りに暴れ回ったからな」
やはり定期的な実戦訓練は精神衛生上必要だ、と悪びれるどころか得意気な紗生子によると【缶チューハイの剣道サークル】は、関東圏の学生界では最悪レベルの愚連隊集団だったようだ。方々から依頼を受けては、金のためなら畜生働きも憚らない残忍さで、学生ながら闇の世界でそれなりの地位を確立していたらしい。それが今回、やはり何物からか依頼を受け、ターゲットにしたのが高千穂隆太だった、という訳だ。
そのやり口は直接本人を痛めつけるものではなく、高千穂が部活中に稽古をつけた剣道部員のうち、通学生に限定して狙いをつけ、その帰宅途中にリンチするという悪辣さ。つまりそれによる負傷を、稽古中に高千穂から受けた事にするよう被害者を脅迫するという、事件の転嫁だ。
そんな姑息な連中の事ならば、
「やはり分かりやすい悪党は好きだな! 実に扱いやすい!」
紗生子にしてみれば腕を鈍らせないための練習台の位置づけで、多少の鬱憤が晴れたのか珍しく嬉しそうに声を弾ませている。
「しかし、毎度容赦ないというか──」
「向こうは星の数程いるんだ。何でもござれの文字通りの無法者共に対して、こっちは少数精鋭で常識的だからな」
「常識的、ですか?」
「国家に根拠に遵じて活動している。ヤツらのように無法ではない。正義を語れるモンじゃないが、一応は世に仇なす悪を誅するために活動しているからな」
「はあ」
後半の一応以下が、せめてもの救いだ。
「これも世の自然の作用さ」
「──バランス、という事ですか?」
「分かってるじゃないか」
数多いる悪党共の蹂躙を、国家は当然許さない。が、それにしては日本の民主警察観は、それを押さえつけるための強い執行力を繰り出すのに、どうしても一定程度の時間を要する。法治国家故、厳格な法手続きを義務づけられるからだ。が、悪事はそれを待ってはくれない。その間にも大多数の常識的な弱者がその餌食となり、バカを見る。
「我らはそれ故のバランスだ」
それ故の──
危うい汚れ役。好き放題やってはいるが、その暗い影がつき纏う選ばれし者達。
が、少しシリアスになったかと思うと、
「それに、久々にデートみたいだろう?」
これだ。
「またはしゃぎ過ぎで熱でも出たんですか?」
「ホント君はずけずけ言うようになったな。男で私にそこまで言うヤツはいないぞ?」
では、襲撃をデートと言って憚らない女はどうなのだ。
「まぁ仮にも、あなたの旦那ですからね俺は」
「だからたまにはそれっぽくしているというのに」
「はあ?」
「校内じゃ最近はいがみ合ってばかりのような気がしてな。任務中は持たせないといけない偽装なんだ。たまには盛り上がっておいた方がいいだろう?」
「は、はあ」
俺と違って、妖艶な見た目に違わず男の扱いに達者らしく、流石のあざとさだ。
「折角の外出なのに乗りが悪いな」
追加でほくそ笑まれて翻弄され続け。
何の──
慰み物扱いなのか。精々二足歩行する柴犬程度のものだろうか。それにしても本当にそのつもりでいるのであれば、何とも血なまぐさいものだ。もっともそれは、如何にも魔女らしいのだが。
またそうやって学生街をふらふら歩いていると流しのタクシーが通りがかり、すかさず紗生子が軽く手を上げた。それが少し先で止まる。
「まさか、今度はキャプテンの家でも襲うんですか?」
「そうしたいのか? 君は?」
もっともらしく高千穂隆太に罪を着せるには、部活中に監視出来る者の存在が必須である事は容易に思いつく。その役を担っていたのが、野卑た顔つきが嫌に板についていた主将だったのだ。
主将は、名実共に部内で圧倒的な存在感を持つ隆太に嫉妬していたらしい。顧問の松本がいなくなった事でそのたがが外れたのだろう。絶妙なタイミングで【グレイ】と出会うと見事な利害の一致を見せ、瞬く間に現状の窮地を招く元凶となった。
この二者のタッグで、負傷者との因果関係が構築されてしまった隆太が自認した事は、然しもの二悪も予想外だったろうが、いずれにせよ罪をなすりつけたのだ。それによる処分、退部、事態の推移によっては剣道界から追放すら有り得る。その卑劣。
「いずれまとめて司直に委ねるのでしょうが、一応顧問代行として主将には別の引導を渡してやろうと思ってるんです」
「それでいい」
紗生子の返事はそれだけだった。
「中身を聞かないんですか?」
「聞いて欲しいのか?」
「いえ。ただ、珍しいなと」
というか、初めてではないか。俺に裁量を与えるなどと。
「そうか?」
タクシーに追いつくと、乗り込む前の紗生子が、
「──そういう事なんだろうな」
と呟いて、小さく笑った。
その約一時間後。
タクシーを降りたのは銀座だった。
行きつけの店を何件か梯子する事が日課というその次なるターゲットは、関東中央大学の理事長らしい。
「仮にも学校法人の長たる者が──」
グレイのような愚連隊を影で操る闇の住民とは。
「こんなのはザラだ。それを使う賊がいる限り、いくら潰しても湧いて出てくる」
「──って事は?」
「マスミの報告はここまでだったからな。この先は我らの出番だ」
「はあ?」
「連れ出すから待ち合わせ場所で待っていてくれ」
と言った紗生子は、やはり躊躇なく目の前の雑居ビルへ入って行った。
──さて。
別行動の俺はそのまままた別のタクシーを捕まえ、御下命通り千代田区内のホテルへ向かう。一々流しのタクシーを拾うのも乗り換えるのも、作戦指揮官の撹乱意図だ。支払いも現金で、本業務外だと意外に地味な采配振り。それでも結局は、さっきの殴り込みのように何処かで無茶苦茶やるのだから、余り意味がないような気がするのだが。
それでもまぁ──
紗生子の指示なのだから従わないと後が怖い。
無飾ながら絢爛という稀有の容姿を持つ紗生子は、それが全てを物語るが如く、何かにつけて相反同居が当然の魔女だ。所構わず炸裂する今日のそれは、意外な堅実さといつも通りの無茶無法。一言で言うなれば混沌だ。それに加えて今日などは色仕掛けがスパイスされるものだから、免疫がない俺が軽度の混乱に陥るのは当たり前な訳で。と、勝手に開き直ったところで、もっとも紗生子のそれは全て何らかの公算あっての事なのだろうから、その思考に追いつけない俺は何だろうと従う外ないという小物感。
──情けなや。
その道中で何の前触れもなく、コンタクトとイヤホンを介して紗生子と俺の視聴覚がリンクした。
"眺めていろ"
とのお達しが合わせて届く。
で、紗生子の様子を眺めてつつ、十数分程度で着いた合流予定場所は、
──げ。
小市民なら逃げ出したくなる程の高級ホテルだった。どうにか息を凝らしてドアマンの前を通り、壮大なロビーの一角にこっそり座る。が、不用意に尻を預けたために大仰なシングルソファーに埋もれた俺は、早々にいきなり慌てるザマだ。普段着では何とも落ち着かない場違い感だが、それ以上に落ち着かないのは、
「この後ご予定はおありなんですの?」
などと吐く、嫌に艶かしいばかりの紗生子の女言葉である。
こ、こりゃあ──
想像以上に調子が狂う。つい見入ってしまって尻に意識がいかず、うっかり埋もれてしまう訳だ。
紗生子の視野には、バーのカウンター席で美女を両手に抱え、盛大に鼻の穴を広げる得意気な男。これまた
──何とも。
下卑たバカそうなおっさんだ。それがまた何処かで見たようなバーコードで、デブで、見るからに油ぎっていて。紗生子でなくとも嫌がりそうな御大尽だが、入店して三〇分もしないうちに両手の花を振り切らせた紗生子が、理事長を連れてタクシーに乗り込んだ。まだ宵の口だというのに、酒食を放棄させて色事に猛進させるとは。流石は紗生子の色仕掛けである。
──そりゃそうか。
外見で適う女はいないのだ。それが聞いた事もない艶っぽい言葉遣いで誘惑するのだから、落ちない男などいる訳がない。CCエージェントとして既に幾つもの顔を持つ紗生子の美貌を、その一つに入れていない事に今更気づく俺だったりした。
「あら、何処へ連れて行ってくださるの?」
怪しく上がる語尾のその生臭さに、俺は勝手に一人で身震いする。ここまでくれば色仕掛けも立派なステータスの一つであり、二人を乗せたタクシーは俺が辿ったルートを再現している。その数分後には、場違いな高級感に圧倒されてロビーで畏まっている俺の目の前を、その二人が通過した。
──やれやれ。
紗生子も大したものだがおっさんもおっさんで、何とこのホテルを定宿にしているらしい。今日も何泊目なのか知らないが、フロントでルームキーだけ受け取るとそのままエレベーターへ消えて行った。それが高層階で止まると、入った部屋は中々良さそうなダブルベッドルームだ。で、待ち切れないらしい理事長に絡みついていた紗生子がいきなり【バン!】と、また得意のビンタだ。が、今度は気絶させていない。ベッドに押し倒すつもりがまさかの真逆。一見してスマートな紗生子にはっ倒されるのは想像出来なかったのだろう。無様にも顔を引き攣らせて慄いているおっさんだ。
──怖いだろうて。
いきなり男勝りに豹変した女が銃を突きつけてくれば、誰でも驚くだろう。
「外務大臣の息子を狙わせたのは誰だ? 答えろ」
その様子をコンタクトで覗いているロビーの俺の前を、今度は着飾った美女二人組が通り過ぎた。同時にコンタクトの中にコールサインが表示される。CCエージェントだ。その二美女がフロントで何やら手帳を示す仕種をしたかと思うと、やはりエレベーターに消える。お得意の偽装警官だろう。
その派手な二美女警官が何なく理事長の部屋で紗生子と入れ替わると、紗生子がすぐにロビーに降りて来た。
「帰るぞ」
「もう宜しいので?」
「ああ、後は他班の仕事だ。でなければこんな回りくどい事なんかやるか」
「──確かに」
紗生子なら、いきなりバーでぶちかまして終わらせていただろう。ホテルまで乗り込んだのは、別件で理事長を追っていた他班に御膳立てをしてやるための芝居だったのだ。
「他の班にはうちの案件で借りがあるしな」
と言う紗生子が、エントランスのタクシーに乗り込むと思いきや、
「ダメだ。これは敵わん」
と突然、俺の手を引いて人気の少ない方へ向かい始めた。
「こ、今度は何です? 一体?」
聞いても答えないいつもの猪突の紗生子が向かった先は、ホテル敷地内にある庭だ。といっても只の庭ではなく、一見で何坪あるのかよく分からない程の規模の、広大にして立派な日本庭園である。
「立派な庭園ですねぇ」
引きずられる勢いで引っ張られる俺は、決してのんきな訳ではない。ちらほら散見される先客達の耳目を躱すためのスタンスだ。といっても、紗生子の猛進振りは明らかに浮いており、気休めにもならない。
「クソ、結構いるな」
「はあ?」
「ちっ、もう我慢ならん!」
と吐き捨てるなり、今度はいきなり急停車だ。呆気に取られていた俺は、あっさりぶつかってしまった。
「わっ、すみません!」
慌ててすぐ離れようとしたが、かと思うと今度は紗生子が、俺のそんなに厚くない胴体に巻きついて離れない。
「な──」
今度は何の冗談か。
「ちょ、主幹、みんな見てますよ」
「うるさい。いいからしばらくこのままだ」
「って、こんなの──」
いきなり何のスキンシップか。脈絡のない状況変化についていけない。
「加齢臭が鼻の奥にこびりついてとれないんだ」
「はあ?」
「小一時間もあんな肉塊にベタベタされたんだ! 我慢出来るか!」
で、俺で急場しのぎ、という事らしかった。
「帰って風呂入らないとダメでしょ?」
「そんなに待てるか! それに、風呂で落とせるモンと落とせないモンがある」
「──感触や記憶、ですか?」
「よく分かってるじゃないか」
そう言いながらも、紗生子は一向に離れようとしない。
「それを取っ払うまではこのままだ」
「はあ」
その腕を背中にしっかりと回されてしまっており、同時にそのおこりのようなものが伝わってくる。鼻息荒く、しかも肩で息をしているが、俺の臭いなど然程良くもないだろうに。慌てて自分の臭いを確かめようにも、紗生子の良い匂いに圧倒されてそれどころではない。
こりゃあ──
参った。
そんなに吸い込まれても戸惑うばかりだ。まるで子供が懸命にしがみついて、何かを堪えているような。
──ううぅ。
でも実際には、成熟した女にしがみつかれている訳で。それも只ならぬ珠玉だ。またしても朦朧とし始める俺がそれでも順番に現状認識していくと、次は頭が沸騰し始める。が、ここでまた腰が砕けてしまっては、衆目の中で紗生子に恥を掻かせてしまうだろう。
俺はワナワナ震える手で、それでもどうにか紗生子の腰の辺りに腕を回して添わせた。すると一瞬、紗生子の身体がおこりの中で更に痙攣して固くなったような。でも、その直後に大きな鼻息を長く吐き出したかと思うと、以後は少しずつおこりが落ち着いていき、身体の固さもなくなっていった。
──あ。
そうなって気づかされる紗生子の、思いがけない繊細優美な身体つき。日頃の問答無用の大物感で錯覚させられているだけで、普通に見れば紗生子は明らかに俺よりも背が低くて華奢なのだ。それが首を少し垂れているために、俺の目の前でその艶やかな髪が俺の顔のあちこちに触れて。今度はこっちの方がおこりが起きて、そろそろ限界に近い。
「よし。帰るか」
それを察したのか、失笑する紗生子がぱっと放れると、一転して今度は勝手にさっさと歩き始めた。
「あ、ちょっと待っ──」
自分だけスッキリして捨て置くなど。すると、
「冗談だ」
追いすがる俺に合わせて歩速を落とし、また鼻で笑ってくれたものだ。
「本業の借金返済のためには、嫌な仕事も多少はやむを得ん。それ故の、これもバランスだ」
何だそれは。紗生子の論理の中だけで丸く収まっているだけで、つき合わされる俺は逆にくたくただ。
「君はホント、粘り強く慣らしていかんとな。そんなこっちゃいつか色仕掛けで仕留められるぞ」
相変わらずのご機嫌で自由奔放で。まあ嫌な顔をされないのなら、それでよしとする外ないのだろうが。
「はあ、すぃません」
それにしても再々こんな悪ふざけをされては。慣れる前に血管が切れて倒れそうな気がする。
「あ、そういえば立て替えてもらってるタクシー代は──」
「大丈夫だ! 学園経費で落ちる! 折角いい気分になったってのに一々確かめるな!」
と言うからには、やはり気をよくしていたようだが、
「お金の事は、後腐れなくきっちりする主義ですから」
どんな時でもそれが気になる俺は、紗生子と違って小市民なのだ。
「水を差すヤツだな全く」
瞬間沸騰からいつもの気難しさに戻ったところで、俺達はホテルを後にした。
更に次の日の課外。
また理事長室に呼び出された俺は、今度は紗生子が掛ける議長席の対面に座った。理事長はいつも通り下座であり、上座には昨夕訪ねて来た少年が掛けている。昨日の俺達の殴り込みに繋がる情報提供者だ。
「じゃあ一連の事件は、僕の事務所で告発するって事?」
「ああ、流石に忙しくて敵わんからな私は」
一見して中高生だが、嫌に背広姿が板についているこの少年は、昨年度の弊校中等部卒業生との事だが、高等部には進学せずそのまま都内の某弁護士事務所に就職した、という中々ユニークな子だ。年齢的には青年と呼んだ方がよいのだろうが、それにしてはまだあどけなさが残っている。
が、何処か無理に背伸びをしているように見えるのはここまでで、昨年中三で司法試験予備試験に合格したこの秀才は、今春から現勤務先で法務助手として勤める傍ら、今年の司法試験にも合格。司法試験の最年少合格記録を塗り替えたという恐るべき壮士らしい。
「ええっ!? 僕だって来月から司法修習に入るのに」
「だからそれまでに済ましてしまえばいいだろうが?」
「人ごとだなぁ」
「やかましい。そのくらい出来んとお家は守れんぞ」
進学していればまだ高一の青年が早速司法修習に入るのも驚きだが、もっと衝撃的な事に、
「まだ僕が継ぐって決まった訳じゃないよ」
「何を言うか。男はもうお前しかおらんだろうが」
高坂財閥宗家の当主継承候補次点者というから驚きだ。が、実はそれすらもまだ序の口で、密かな俺の理事長と従姉弟というこの青年は、
「相変わらず厳しいなぁ紗生子さんは」
とタメ口でやり取り出来る親密さを持つ大物青年だ。仮にも表向きは旦那の俺がそんな口を叩こうものなら、即行儀させられるレベルだというのに。
「何とか言ってもらえませんか? 千鶴さん?」
「私が言ったところで同じ事ですよ、真純さん」
「そうですか?」
「そうですよ」
「あはは」
「うふふ」
「──み、耳がむず痒くて敵わんぞ貴様ら」
紗生子が忌々しそうに自らの耳をまさぐる程の惚気振りにも見られるように、最も驚くべきはこの二人が婚約しているという事だった。しかも今春からは、理事長の実家に同居しているとか何とかで。
うわぁ──
理事長のはにかむ顔が、望んだ関係性である事を物語る。見た目にも一回りは違うだろうに、青年がよく捕まえたというよりは、理事長の方が思い切った感が強い。今なら確かに何かを形にしつつある青年だが、婚約者したのはまさにまだ青年が年端も行かぬ数年前、まだ何者でもない時だったからだ。
──や、やってくれるぜ青年よぅ。
密かにしょげている俺の前で、その羨ましい青年が、
「しかし、紗生子さんが結婚してたとはなぁ」
俄かにまた一人おいてけぼりを食らっている俺に気を遣ったのか、水を向けてきた。
「どう? 上手くやってる?」
が、いきなりタメ口で妙にフレンドリーというか、馴れ馴れしいというか、態度がデカいというか。
「ど、どうと言われても、見たまんまでして」
約二〇年先を生きている俺の方が、何故か敬語というあべこべ振り。
「職場結婚かぁ。羨ましいなぁ。僕達は出来なかったからなぁ」
と言う青年が進学しなかった理由の一つは、どうやらそれだったらしい。一族が経営する学校に通う事例は別に珍しい事ではないだろうし、それによる何らかの僻みやっかみもまたあるものだろう。が、いくら一族の学校でも、実は「理事長と一生徒が婚約している」とは流石に公表出来るものではない。よって青年の方が、それを我慢し兼ねて進学しなかったというから驚きだ。別に他校に移ればよい話だが、婚期を迎えている理事長を慮って早々に社会に出ることを望んだらしい。既に自分にはその力があるから子供扱いするな、といった意味合いだろうが、そういう意味では確かに中々骨のある青年と言わざるを得ないだろう。何だか悔しいが。
「すればいいだろう。司法修習明けにでもここに就職すれば出来る」
「あ、そうかぁ。そうすれば紗生子さん達のように職場結婚出来るかぁ。あはははは」
で、高坂一族のこの青年は、当然俺達が偽装夫婦である事を知っている訳で。
「それにしても紗生子さんと結婚って思い切ったモンだね? やってける自信あるの?」
「自信も何も──」
やるしかないではないか。偶然にもアンと同い年のこの青年といいアンといい。神童というヤツは、どうも面倒臭くて鼻につくものだ。
「いい加減にしろ。何が言いたい?」
「うわ!?」
思いがけぬ紗生子のフォローに、俺より先に青年がわざとらしくも軽い叫声を上げた。
「お連れさんの事で腹を立てるなんて、紗生子さんも変わったね」
飾り嫌いだってのに指輪つけてるし、と指摘された紗生子が、
「な──!?」
珍しくも少なからず動揺を露にしている。そういえばそれは、体育祭でのお披露目でつけるよう下知されたままだ。外せるタイミングになったらまた紗生子から指示がある筈だったような気がするのだが。この様子では、どうやら紗生子も忘れていたのか。
「外すのを忘れていただけだ!」
啖呵を切るなりそれを外すと、
【バン!】
と、乱暴な音を立てて目の前の応接テーブルに叩きつけた。
「頼りなさそうに見えるこの男が剣道部の顧問を代行して泥を被っていなかったら、今頃伝統ある剣道部はどうなっていただろうな!?」
で、腹を立てると我慢出来ず。例によって感情をぶちまけて出て行く紗生子だ。
「ちょ、主幹!」
と、俺が呼び止めるくらいで止まる訳もなく。
「あらぁ──」
「──じゃありませんよ、真純さん」
「冗談ですよ冗談。紗生子さんを試したんですよ」
何とも怖い物知らずな事をやってくれるものだ。
「すみませんでした。気を悪くしないでください。決して本心ではありません」
「は、はあ」
確かに一転して畏まり、言葉遣いも固くなった青年だ。
「剣道部の事も、隆太の事も。紗生子さんから都度聞いていました。のらりくらり、尻尾を掴むまでの間時間稼ぎをしていただいて。隆太を擁護してくださったとか」
「いや、ただぼんやりしていただけで」
「ぼんやりしていて押さえ込めるようなモンじゃありませんよ、うちの剣道部の連中は」
と言う青年は、在学中は剣道部に所属で、前年度の全中剣道大会の個人戦優勝者なのだとか。見たところ、紗生子や理事長と大して背丈も体格も変わらないように見えるのに、天はこの青年に何物与えたら気がすむのだろう。
「大体が、あの男嫌いの紗生子さんが頼るような御仁ですからね。どんな人か興味もあったし、紗生子さんの気持ちも気になってたんです」
実家でも耳にしていたとかで、
「確かにこれは何とも先行きが楽しみなお二人ですね」
「で、ございましょう?」
それに理事長まで悪乗りすると、結局またその鞘に納められた。
「紗生子さんには、また折をみて謝ります。僕も色々忙しいので、今日はこの辺りで失礼します」
ではまた、と言い置いた青年が颯爽と退室する。紗生子が出て行った後の小気味良さは素性通りの好男子振りで、俺を安心させたものだった。
「──大変失礼しました。悪い人間ではないのですが、少し茶目っ気がありまして」
「いえ。あの年で大した風格ですね。流石は理事長と婚約された方です」
「まあ」
「いやホントに」
高坂真純。今年で一六歳というその青年は、相談役の長女の一人息子にして、高千穂隆太の異母兄。つまるところその実父は高千穂隆介であり、気の毒な血を半分引くものの、それを思わせない中々の気骨者らしい。
その為人を見込んだ俺が、部活停止中の最中にこっそり審判を依頼し、高千穂隆太と主将を思う存分試合稽古させたのはまた別の話。隆太の悪評は、元を辿れば全て、嫉妬心にかられた主将がまき散らした出任せだった。
また数日後、一〇月下旬。
俺は紗生子が運転するアルベールに同乗させられていた。
「こ、これは何とも──」
中央道を東進するじゃじゃ馬は、明らかに周囲の目を引いている。
「アンと一緒に校内に籠りっ切りだからな。たまには動かしてやらんと愛車も泣くだろう」
それにしては、MAX表示が三〇〇km/hを超えているアナログのスピードメーターのその針が、結構派手に右に傾いているような。
「捕まりません?」
「パトカーが追いつければな」
「オービスもあるでしょう?」
「ホント、米軍人のくせに詳しいな君は」
と白々しい紗生子だが、まるで聞く気はなく。周囲の車を派手にごぼう抜きし続けている。
「免停に罰金で、大変だと思いますが」
紗生子が裁判所に出頭する姿は、ちょっと想像出来ない。
「相変わらず小事をちまちまと悩むヤツだ。大丈夫じゃない事を私がやると思うか?」
それは紗生子の論理での話であって、傍から見れば
──全然大丈夫じゃねーと思うんだが。
何せ市中で銃を持ち歩く、ぶっ放す、殴り込みをかける。挙げれば切りがない。常人の理屈が通じない魔女という事で片づけてしまえば全て丸く収まりはするのだが、それにしては極めて美しい女の形で人心、特にバカな男共の心を弄んでくれるものだから質が悪い。
その弄びついでの追加説明では、ナンバーのスペアが搭載されているとか、極秘扱いの緊急自動車指定を受けているとか、だ。
「そんな──」
バカな。何だそのボ○ドカーは。世迷言をぬかしてくれる。
「疑り深いな。ダッシュボードを見てみろ」
で、言われた通り、今日はまともに左ハンドル車の右前席に掛けている俺が、目の前のそれから証書類を取り出し見てみると、
「──マ、マジで?」
東京都公安委員会発行の緊急自動車指定証が出てきたではないか。合わせて何かの契約書のように、不自然な割印が押されている。下に二枚、クリップで別の書類がついており、それを横に並べてみると割印が合致した。
「警察庁と内閣府の──」
特別緊急自動車指定証と特殊業務従事車両証明書という、見た事も聞いた事もない書類。
「仮にお巡りさんに止められたとしても、事情を説明する必要はあるが捕まる事はないな」
「はあ」
この様子だと、オービス対策なども万全なのだろう。
「ひょっとして、機関銃とかもついてたりします?」
「余り下手な事を言ってると、その助手席毎飛んでくかも知れんな」
「さ、然いですか」
紗生子の事だ。本当かも知れない。前に運転した時に何事も起こらなくてよかった。今更だが。
「お守りもあるが、現役閣僚を再々呼び出す訳にもいかんとの理事長のお達しだ」
どうせろくな仕事はしとらんというのにな、と毒をつけ加える紗生子の皮肉は、最近になってセルフコントロールのための防御反応だと気づいた俺だ。毒を溜めず都度吐いていないと、只でも激しい気性が溜まった分だけ爆発する。
「だから緊急走行中って事で?」
「毎度の事ながら、君には全部説明させられるな」
実際に知らない事だらけだが、紗生子の知識的上位を裏づける事にもなるそれは、ご機嫌取りも兼ねている。爆発で一番の被害を被るのは、いつも傍に留め置かれている外ならぬ俺だからだ。
──やれやれ。
それにしても本来、緊急自動車の緊急走行は、サイレンの吹鳴と赤色灯の点灯が必須条件だ。が、当然、紗生子のこのアルベールがそんな事をする訳もなく。そこは特別云々とか特殊然々による例外、という事なのだろう。
一連の事件で、濡れ衣を着せられていた高千穂隆太に関する顛末説明の事ならば、ついでに国事に忙殺される大臣の建前も掬い上げてやって、
「まぁそうはいっても今度は学園側が出向くべきだろうな」
との紗生子の判断もあり。理事長名代の主幹が出向くとなれば、俺はやはりボディーガードで帯同させられる訳だ。
「さっさと終わらせて帰るぞ」
と言う割には、その声が弾んでいるような。そもそもが、紗生子にボディーガードなど必要ないというのに。
──何なんだろーなぁ。
何にしてもこの世は不思議に満ち溢れている、という事だろう。
約三〇分後。
それなりの道のりである事は、羽田空港から学園までこの車で帰った事がある俺も知っていたのだが、それにしてはやはり随分と早く着いたようだ。
──ボ○ドカーならそりゃあねぇ。
そもそもがアウトバーンのような道路でその高速性能が遺憾無く発揮されるようなスペシャルカーの事ならば、持ち主を象徴するが如く。躊躇なく正門前に乗りつけたその威圧的な真紅のじゃじゃ馬が機敏な動きで止まると、瞬く間に警備員が集結した。一見して剣呑な雰囲気だが、運転席側の窓を下ろした紗生子がかけていたサングラスを外し
「太史学園の高坂です。一一時に大臣とお約束があって参ったのですが」
と、一言吐くと瞬殺だ。
──ま、そりゃそうか。
そのまま玄関傍に駐車を許され、大臣室までエスコートされた。
"何かVIP扱い? ですか?"
"そういう約束だったんだ"
一々そわそわするなみっともない、とメッセージをやり取りしつつも外相室に殴り込むと、尊大げに踏ん反り返っているその部屋の主の顔があからさまに歪む。
──そりゃそうだよなぁ。
アポイントは理事長で取っていたのだ。それで主幹が現れては驚くだろう。その口が開きかけたその時、
「理事長は風邪で私が名代だ。茶はいらんぞ、すぐ帰る」
取ってつけたような言い訳で紗生子が機先を制した。当然理事長は元気だが、このすけこましに晒したくないのだろう。それは俺も頗る同意だ。
「誰が出すか。私は忙しいんだ。さっさと終わらせろ」
で、まるで前回の学校招致時の状況が保存されていたかの如くの喧嘩腰。
「その前に、何故またその男を連れている?」
そっくりそのまま「何故また俺に構うか」と言いたいところだが、弱そうなところを突くのは戦いの常道だ。
「ボディーガードだ」
「剣道部顧問代行じゃなかったか?」
「一対一だと、その無節操な下半身が暴れ兼ねんだろう」
「態度の割に小心とみえるな」
「ああ。うっかり貴様を殺し兼ねない自分が怖いんだ。貴様の一人や二人消えたところで大勢に影響はないと思うんだが、お飾りの腐れ閣僚でも殺してしまうと御上がうるさいからな」
相手が誰であろうとブレない口の悪さにして言いたい放題。悪態を吐かすと底が知れない紗生子に、
──負けず嫌いだなぁ。
俺でさえげんなりする。
「椅子はくれてやらんぞ。早く話せ」
口論で敵わないと踏んだ高千穂は正しい。そうはいっても、やはり後の予定があるのだろう。それを察したらしい紗生子も
「高千穂隆太の一見は全て濡れ衣だった」
いきなり核心を吐く。
「何っ!?」
勝ち馬に転じた瞬間で高千穂のその顔が険しく歪んだが、思い返すとこの部屋の主が優勢だったのはこの瞬間だけだった。
「元を辿れば全ては貴様の不徳によるものだ」
すかさず紗生子が被せると、口を開きかけた高千穂が荒々しくも毒気を抜かれたように嘆息する。
「──どう言う事だ?」
「貴様、文教族の議員と揉めているだろう? 重要防衛政策で」
「な──!?」
何故それを、と言わんばかりの高千穂以上に、
──何だそりゃ?
相変わらずおいてけぼりの俺だ。
「同僚議員とはいえ、その選挙区の企業の利権を奪おうとすれば揉めるのは当たり前だろうが。その年になって懲りんヤツだな貴様は」
高千穂が、とある企業の利権を奪おうと画策している。奪われそうになっているその企業を選挙区に抱える文教族議員が陳情を受けるのは、まあ有り得る流れだろう。が、高千穂のバックには、未だ党の重鎮にして元首相の父親高千穂隆一郎が控えていて迂闊は出来ない。そこへ党内の別の重鎮に繋がる都議から、某校を首になった教師の陳情を上げられた。その教師が事もあろうに弊校の元体育教師の松本だ。その元勤務先には高千穂のどら息子が在学中で、松本はその所属部元顧問にして高千穂の息子絡みの事情に詳しい。
「──で、陳情を上げてきた都議の力を背景に、文教族議員が汚れ事の手管として使っている【関中灰のグレイ】を動かして貴様のどら息子を狙わせ、貴様の足を掬おうとしていたって訳だ!」
有名人を身内のスキャンダルでじわじわ揺さぶる構図だ。文部科学省を出身母体に持つ文教族議員なら、当然文科省傘下である学校や部活、剣道連盟に対する何らかの影響力を持ち得る事だろう。で、どら息子のスキャンダルを大きくしたところで、高千穂と取り引きするつもりだったようだ。
「貴様がどら息子を可愛がってないせいで、ふて腐れた隆太が有り得ない事に全く身に覚えのない犯行を自白したものだから、被害者側も警察もそれは賑やかでな」
まだ否認してくれた方がやりやすかったのだ。対立証拠をぶつけて整合性を争う。争いのある一般的な刑事裁判は大抵こうした形だ。それが身代わりややけの自認をされてしまうと、普通はそれを軸に調べを進めるために、虚偽の発覚が遅れれば遅れる程、上手く騙せば騙す程、証拠の散逸が進みその分だけ事実が遠退く。その立証に手間がかかる、という事だ。
「貴様の出来たご子息のお陰様で散々撹乱されてな」
と言う割に、紗生子は平然としていたものだったが。
「こっちで事実を突き止めて潰してなかったら、今頃メディアにネタを売られてもっと面倒な事になってるところだ!」
「ちょっと待て! 半分は貴様らの学校の元教師が上げた陳情が原因だろが!?」
「元凶は貴様だろうが! そもそも貴様の企みがなければなあ──!」
元体育教師の松本の陳情が上がっただけの事なのだ。それだけならば、どんな展開になったものか知る由もないが、
「少なくとも国会議員同士の場外乱闘に高坂家の太史学園が巻き込まれる事はなかっただろうなあ。ん? どうなんだ? そこんとこ?」
紗生子のいびりも中々の乱闘振りだが、高坂家へ復縁を企んでいる高千穂とあらば流石に敏感に反応する。
「あのバカが! 親の足を引っ張りやがって!」
旗色が悪くなれば今度は途端に息子を詰るという、とことん自分可愛さの体たらく。この手の人間は何でも人のせいなのだろう。
「だから親の足を引っ張ったのは貴様の方だろうがこのたわけが!」
「何を──」
「復縁すれば親になるんだろう高坂は! そのための手土産で高坂の足を引っ張った貴様がたわけでなくて何だと言うんだ!」
話が見える部分だけで整理すると、高千穂が文教族議員のお膝元企業から奪おうと画策している利権、恐らくは防衛政策上の何かのそれが高坂家にとっては土産になる、という事か。が、それによって太史学園がスキャンダルを抱える事になったという皮肉。俺でも分かりそうな傲慢さが招いた詰めの甘さは、何かの欠落を思わせる。
「何故それを貴様が知ってるんだ!?──あっ」
激昂して自ら墓穴を掘るなど。紗生子の相手ではなさそうだ。
「外務大臣様ともあらば息子の学校にミスターABCの娘が留学してるのは知ってるよなあ?」
「だから何だ──まさか貴様!?」
「我らはその護衛だ」
「主幹!?」
自らバラしてどうするのか。
「大丈夫だ。私が何の担保もなしに身分を吐く訳がないだろう?」
相変わらず心配症だな君は、と軽口を叩いた紗生子が、
「内閣府の真耶というモンだ」
と名乗った瞬間、高千穂の顔があからさまに引き攣った。
「──赤い髪の傍若無人女とはお前の事か!?」
「ひどい言いようだな。この絶世の美女を前にすけこましが聞いて呆れる」
「【赤い狼】に食らいつく程飢えとらんわ!」
「赤い狼?」
「私の二つ名だ。CCでの」
──まんまだな。
不名誉の意味合いらしいが、紗生子にかかると
「禍々しさが如何にも私らしくて気に入っててな」
コールサインにしようとしたそうだが、余りにも名が通り過ぎて秘匿性もクソもないため諦めたとか。
「はあ」
言いながらも、相変わらずのオフィスカジュアル仕様のワンピースのその胸元に、紗生子が脈絡なく手を突っ込む。
「な──」
今度は何を仕出かすつもりか。俄かに身構えると、その中に入れていたらしい物を取り出した。いつも通りのストレッチ系ストレートワンピースで、飾り気も殆どなく甘さのないハンサム仕様のそれは、一見して物を忍ばせるスペースもないと思っていただけに、
──どっから出すかどっから。
予想外の所から出てきて密かに驚く俺だ。
そんな間抜けに構わず紗生子は、手慣れた手つきで垢抜けていない黒縁眼鏡をかけ、合わせて真っ黒のカツラをつけてみせた。セミロングのストレートで、眼鏡と合わせて実に地味な風貌の女性の出来上がりだ。
へえ──。
あの紗生子がたったこれだけで変わるモンだと思っていると、尊大な高千穂が口をパクパクさせながら、
「こっ、こっ、こっ──きょっ、きょっ、きょっ──」
紗生子を指差し、目を剥いて顔面を痙攣させていた。
──こっきょっ?
な訳はないか、と安直な間抜けを脳内に押し留めている俺の前で、
「それ以上言ったらどうなるかな?」
と言う紗生子は、いつの間にか内腿から抜いた銃を高千穂の頬に捩じ込んでいるではないか。
──うわ出た。
「私の事を語った時が貴様の寿命だ。そうだろう?」
「は、はひ」
どうやら旧知のようだった。それも顔が引き攣り声が裏返る程、高千穂が下の立ち位置らしく。先程までの自信家が、見るからに血相を変えていいザマだ。
「しばらく見ないうちに随分な物言いをするようになったものだな貴様。その汚い尻を何度私に拭わせれば気が済むか? ん?」
「す、すびばせん」
世の悪大臣がまさか今この瞬間、その根城で銃口を突きつけられていようとは。果たしてどれ程の人間が想像出来るだろうか。
──俺だけ、かな?
「貴様のようなヤツが人を頼っていいのは二回だけだ。どんな時か分かるか?」
「わ、分かりましぇん」
「生まれた時と死ぬ時だよ。もっとも生まれた時はお父様の手厚い庇護で何不自由なかった事だろう」
それにしてもやはり紗生子は秘密主義というか、サプライズ好きというか。この手のそれにはすっかり慣れてきて、楽しむ向きすら感じ始めている俺だ。もっとも高千穂のようなろくでなしがその餌食になるのであれば、悪い気はしない。
「後に残された死ぬ時はどうだろうな? 今の調子だと誰も世話をしたがらんのじゃないか?」
「ど、どうでしょ?」
「少しは他人に媚を売ったらどうだ? 誰が自分の骨を拾ってくれるのか、そのなけなしの脳味噌で考えるんだな」
言う事を言って徐に銃を収めた紗生子が、
「帰るぞ」
と踵を返して颯爽と歩み出したかと思うと、不意に足を止めた。
「最後に言っとく。貴様、随分と我が夫をバカにしてくれたな」
「えっ? 夫?──で、いらしたんですか?」
「こう見えて私が認めた連れだ。貴様と違ってそれはそれは役に立つぞ。それでもバカにするのなら是非もないがな」
「す、すみませんでした!」
こうなってくると、大仰な机に額を当てて謝るそのザマが何だか気の毒に思えてくる。
「それと今回の一連の事件は、やはり貴様と違って頗る有能なもう一人の息子が告発してくれるからな。貴様の出る幕はない。精々大人しく指をくわえて推移を眺めてろ。邪魔しないようにな」
「ま、真純、ですか?」
「何人いるのか知らんが、貴様の息子であれ程出来るヤツが他にいるのか?」
「い、いません」
「だろうが」
と、吐き捨てた紗生子は、
「これ以上あの親子を愚弄したら私が許さんからな」
と凄んだのを最後に、眼鏡とカツラをまた際どい所に収め直すと外相室を後にした。
で、その数分後。
またボ○ドカーに戻り、帰途についた俺達だ。
お互い黙ったまま。帰りは然程急いでいない様子の紗生子の運転にしばらく身を委ねていると、意外にも
「──聞きたい事はないのか?」
またサングラスをして隙を見せない紗生子の方が水を向けてきた。
そりゃあ──
聞きたい事だらけだが、妙な地雷を踏んで機嫌を損ねても後が面倒だ。だからとりあえず、
「ヘドが出るヤツを相手にした後でお疲れかと思いましてね」
と、返してみる。
「君にしては気を回したなそれは」
そう言ったかと思うと、何か思うところでもあるのか、また黙る。
「顛末の説明の筈が一方的な脅しで。最初からあそこに狙いを絞っていたような、そんな風に見えたような」
とりあえずそんなところを、くすぐってみた。
「その心は?」
「相談役に頼らず処理する事を示唆しておられたので」
学園のトラブルの処理と、高坂を狙う不届き者を牽制するための、全ては紗生子の思惑だった
「──ように。結果論ですが」
「まぁそんなところだ」
のようだ。やはり。
「真純は最初から高千穂隆太が犯人じゃない事を確信していたからな。アイツが庇うような人間がそれ程捻くれているとも思えんし」
とは紗生子らしからぬ、根拠の不確かな感情論ともとれるが、
「隆太が犯人でなければ、誰かが隆太を陥れようとしているという事だろう。では誰が──」
何のためにと考えれば、あのどうしょうにもない高千穂外相が原因である事の推測はつきやすい。とすれば、どの道を辿ったところでゴールは高千穂外相、という事だった。で、
「この程度なら相談役に頼らず始末出来んとな」
これから大変な家を背負おうとしている若者を試したらしい。
「何せ行く行くは高坂財閥を継ぐ男だ」
「そう、ですね」
それにしてはまだ高一の年の青年だ。背負わされる宿命の大きさが気の毒に思えてくる。
「それに真純の法曹としての力は近々試される事になるだろうからな」
「そう、なんですか?」
「そのための経験を積ませようと思ったのさ」
何の予言か知らないが、只の一方的な突き放しではなく、
「告発の対象者には他の班のターゲットも絡んでいたからな。事実認定に必要なネタをもらい受ける事になるだろう」
何せ国や都議会の権力に絡む小面倒臭い連中が相手だ。
「一法律事務所が立ち向かうには少々相手が悪いし時間もかかり過ぎる」
結局は他班のCCに借りを返したようでまた借りを作るような、
「──モンだ。また何かの機会で返済を迫られるだろう」
と、苦笑いする紗生子は往路より機嫌が良さそうだ。で、
「高千穂とお知り合いとは思いませんでした」
密かに今回一番気になっていたそれを突いてみた。何せ終始一貫あの喧嘩腰だったのだ。流石に時の大臣に対するものではない。もっとも本人も言っていた通り公算あっての事だったのだろうが、それにしても一対一のプライベートでしか許されざる態度だ。紗生子からすればポンコツだとしても一国の国権に関わる責務を担うポストの人間の事ならば、少しは体裁というものを慮ってやる必要がある。そもそも外務省まで赴いたのも、そういう主旨だったのだ。
「昔、外務省に出向していた時にちょっとな」
当時の高千穂は議員になる前の外務官僚で、紗生子は散々その尻を拭わされたらしい。
「態度ばかりデカくて使いモンにならんかったが、少しは使えるようにしてやったらやったで──」
今度はそれを鼻にかけ、ひけらかすようになってしまったらしい。
「目立ちたがりのいいカッコしいだからな」
それを当時の同僚だった真純の母が、一時的な気の迷いで
「なびいてしまって、あの毒牙の餌食になってな──」
だから今の高坂と高千穂の因縁は自分にも原因があるのだ、とか何とか。
「いやそんなの主幹のせいじゃないでしょう!?」
「今頃はまた、あのクソ立派な部屋のクソ立派な椅子で踏ん反り返ってベロを出しているだろう」
やはり仕留めるべきだったな、と俄かに穏やかならぬ事をさらっと口にする紗生子だが、何より本当にその実行力を有するのだから恐ろしい。
「部下の育て方を誤った」
「部下、ですか?」
「ああ」
「昔ちょっと」とか「部下」だとか。紗生子の時間軸は時々謎だ。一体何歳なのか。
「何歳に見える?」
「えっ!?」
「私の年が気になるだろう?」
相変わらずの察しのよさに瞬間で心臓が脈打った。まさか車内に、校務の佐川先生が校内に張り巡らせた非接触型バイタルセンサーでもつけているのか。
──あ、有り得るな。
何せボ○ドカーだ。ならば下手な嘘をついてもバレるだろう。
「三〇前後だと、いつも思ってるんですが──」
「だろうな」
違うと言わんばかりのその反応が、また少し独特だ。ではもっと年という事か。が、下手な事を言えば本当に助手席ロケットで飛ばされるかも知れない。天井はおあつらえ向きにもサンルーフ仕様なのだ。となるとやはり、
──女に年の話題はNGだろう。
また少し会話が途絶えたが、横から伝わってくる雰囲気に邪気は感じない。むしろ往路と打って変わって機嫌は良さそうだ。
「──以前は眼鏡をかけてらしたんですか?」
「伊達眼鏡をな」
小さく失笑した紗生子の声色は、やはり悪くはない。
「地味な女に見えただろう?」
「そう、ですね」
それだけでも辛気臭く見えたものだから、
「合わせて昔は、さっきのカツラをつけて仕事をしていたんだ」
そのコラボで殆ど他人に見えた。これに化粧の施し方を変えれば全くの別人だろう。それに馴染んでいる女性特有の、これも技だ。男では中々こうはいかない。
「そうだったんですか?」
「ああ。地毛が真っ赤っかだからな」
日本人にしては珍しい程の鮮やかな赤さを誇る今のそれが地毛とは。如何にも紗生子らしい。
「何せ勤め先が旧帝国海軍の慣習色濃い海自だったからな。身嗜みにうるさい連中ばかりだから黒に染めたんだ」
が、髪は痛むし染め直すのが一々面倒臭い。で、タイミングを見計らって
「あのカツラにしたのさ。見事に誰にもバレなくてな」
その後CCに入ると、省庁の事務机で仕事をする事もなくなったため取り繕う必要がなくなった。
「何せコードネームを使う仕事だからな。偽っていた分、以後は元に戻して綺麗さっぱりって訳だ」
「本籍地には戻らないんですか?」
「ああ」
「じゃあ戻りたいですか?」
「まさかな、あんな窮屈な所。それに私は追い出された身だ。このまま定年を迎えるだろうな。それまで勤めていればの話だが」
「じゃあ都合良く呼び戻されて面倒な仕事を押しつけられたり、とか?」
「私を追い出したいのは分かるが、それはないだろうな」
「そんなつもりでは。その、主幹の有能さをここ何か月かで見せつけられてますから──」
当て馬、捨て駒等々。そんな都合の良い使われ方の可能性を十分に感じるのだ。そもそもが、何故わざわざ窮屈な役人などやっているのか。紗生子ならいくらでも活躍先はあるだろうに。
──そんなだから。
その力を使い捨て利用される恐れを多分に感じる訳だ。その悲哀は、レベルに差はあるが、
「──俺にも経験がありますし」
「──そうだったな」
実際、今もまさにそんな身の俺だ。
「そもそもクラークさんの傅役は、主幹以外には無理ですよ」
「そんな事はないさ」
「いや、あの小面倒な秀才を押さえる事が出来る人は中々いるモンじゃありませんよ」
「小面倒か。君も言うようになったなホントに」
そこで一旦、また途切れる。
何か──
急に重くなってしまった。もっともそれは俺の聞いた事が原因であって、日頃何かと心労が嵩んでいるであろう妻に対し、何とも気遣いの出来ない拙い旦那だ。
間繋ぎで目を助手席の車窓に移した。一〇月下旬とはいえ、昼間はまだ汗ばむような陽気。が、広がる景色は穏やかで秋めいている。空にはうろこ雲が浮かんでいて。
「それにしても、いい天気ですね」
「ああ。だが最近は秋が短いから、あっという間に冬がくるだろうな」
「そうなんですか?」
「紅葉が遅くなった。戦中戦後の頃と比べると、半月から一月は後ろ倒しになったという統計結果がある。一〇月の残暑化は顕著だ」
「数十年でそんなに?」
「一昔前との比較はそうでもないが、二昔前ともなると随分違うぞ。君が子供の頃の記憶の一〇月は、もう少し寒かった筈だ」
「正直よく覚えてないんですが、そんな気がするような──」
貧しくて暑さ寒さに晒されながら生きていた昔の俺に、季節の情緒を楽しむ余裕はなかった。そういう家庭の生まれの俺だ。
「まぁあくまでも数値上の話だからな」
感じ方は人それぞれだろう、と呟く紗生子の方はどうだったのか。既に暑かったのか。それともまさか、俺の時代よりも、
──寒かった?
とか。
「──年がバレるな」
と鼻で笑った紗生子が、当然口を閉じた。
「別に気にしませんけどね、俺は。主幹が何歳でも」
これ程の大物感では、もう年上も年下もない。今となっては間違いなく敬語を遣うべき対象だ。
「女は気にするモンなのさ。私も一応、その枠組みに入っているしな」
「一応、ですか?」
「ああ。何せがさつだからな」
「豪放磊落と言うのでは?」
威風堂々たる男役の紗生子だが、荒ぶれるイメージが先行しがちなその裏で、普段の所作は決してがさつではない。仮に紗生子がそうだとしたら、世の女のそれなど雑の極みだろう。数か月間のお側仕えでつくづく感じたのは、派手な見映えについ目が眩んで見失いがちになる紗生子のしなやかだ。
「物はいいようだな」
「本心ですけどね」
「そういう事にしておこう」
急に大人しくなった、ような。その御尊顔が僅かに左に逃げた、ような。その先にある短い秋の空に、何か思うところでもあった、のか。
不意に紗生子が、
「私の骨は──」
「えっ?」
「──誰が拾って、くれるんだろうな」
何やら感傷的な事を吐いた。
「さっき高千穂に言った事は、そっくりそのまま私の事だ」
──確かに。
その煙たがられる官庁人生の原因は聞くまでもない。誰彼構わず他人に対して尊大で傲慢で。身内ですら拒絶されているのではないかと疑いたくなるレベルだ。
「ご家族は──」
と言いかけると、
「君と同じさ」
見事に被された。天涯孤独、らしい。
「独り身で都合良く使われて。何だか似てるな我らは」
「だからスパイ家業に落ち着くんでしょうか?」
「そういう事だ。だから折角の機会ぐらい楽しまんとな」
「え?」
そんな紗生子が、途中だというのに中央道を降り始めた。
「千鶴のヤツが名代の駄賃にランチを予約してくれててな」
「はあ?」
何でもミシュ○ンガイドに掲載されるような名
「──寿司屋ですか? 昼間から?」
らしい。
「早く帰らなくていいんですか?」
「だから寿司屋なんだよ。本来寿司なんてのはそういう食いモンだ」
「いやしかし──」
「何だ? 作法なら心配するな。私もいるし、そもそも手掴みするモンだからな」
スパルタ式で全く構わんぞ、と、そこは本当に俺の心情をよく理解している嫁だ。
「それに擦り減る仕事をさせられた後だ。バランスをとらんと精神衛生上不健全だろう」
の割には、機嫌に限って言えば、復路はずっと良かったではないか。それにしても紗生子にしては、寿司ぐらいで随分と子供染みた喜び方をするものだ。と思っていると、
「折角二人で外出したんだ。これを生かさない手はない」
「ま、またそんな──」
微妙な部分を、わざとらしい言い方でくすぐられた。
「何だ? 私は寿司だけではしゃぐ程単純じゃないぞ? こういう事は、まずは相手が大事だろう?」
「さ、左様で」
「ああ。左様だ」
「そ、それにしても、体育の松本元先生が絡んでいるとは思いませんでしたよ」
「何でそこでヤツを出すか」
俺の純情をなぶる紗生子を躱すための、白々しい一石だ。
「ふん」
興ざめと言わんばかりに鼻を鳴らした紗生子は、
「私の子飼いの部下ならな、気を利かせて『私めがお骨を拾って差し上げます』って言うモンだ」
でないと松本のように今にお日様を拝めなくなるぞ、と立て板に水でその声を尖らせてしまった。
──しまったなぁ。
結局、機嫌の良いうちに指輪の事を聞きそびれてしまった。そもそもが、物忘れをするような紗生子ではないのだが。どういうつもりなのか。ペットに首輪でもつけているつもり、としたものなのか。
紗生子は紗生子で、先日の理事長室で短気を起こして外した筈なのに、いつの間にか左環指にまたそれを
──つけ直しているしなぁ。
今となっては確かに俺も、それなりに馴染んでしまって邪魔になるものでもないのだが。騙し騙され、何となく受け入れてしまうのは俺の悪い癖だ。
とどのつまりが──
紗生子が何も言わない以上は、当面別命あるまで現状維持と解釈する
──しかないんだろうなぁ。
という事なのだろう。




