幽霊を信じるか
少しの残業で仕事を切り上げて、私は京都駅から奈良行きの快速に乗り込んだ。
窓から差し込む西日にじりじりと焼かれ、汗ばんだシャツが肌に張り付く感覚が不快で仕方ない。
一駅で電車を降り、東福寺から京阪淀屋橋行きの準急に乗り換える。
目的の鳥羽街道駅に到着するまでに電車に乗っていた時間は実質五分足らずで、エアコンによって体温が快適な状態まで下げられる事はなかった。
墨染からのメッセージに添えられていた住所は鳥羽街道駅から北に五、六分歩いた所にある小料理屋だった。
住宅地の路地にあり看板も出ておらず、一見すると隣の家と何ら変わりないただの住宅であった。
知った人間でなければまず入ることはないであろう。
その店に呼び出された私でさえも、中から包丁の音と出汁の香りがするのを確認してもなお、扉を開くのを躊躇ったほどだ。
中を覗くと左手にカウンターがあり、厨房の中では腰の曲がったお婆さんが割烹着を着て万願寺唐辛子を刻んでいた。
右手には小さなテーブルが二つ並べられていたが、それでも店内に座れる人数は十人が限界だろう。
カウンターの一番奥に墨染は座っていた。
私のことを認識すると力なく手を挙げ、ゆらりと手招きをした。
相変わらず彼は全身真黒で、夏だというのになぜか長袖のボタンダウンシャツを着ていた。
「おばんどす。悪かったな、急に呼び出して」
私が隣に腰を下ろすと、墨染は開口一番謝罪を入れた。
「本当だよまったく。しかもなんでまたこんなところに」
「すまんな、ここ地元やねん。最近あんま動く元気なくてな」
そう語る墨染の顔色は以前にもまして生気がなく、眼窩も落ちくぼんで見えた。
「まあいいけれども。すみません、瓶ビールとグラスを二つください」
とりあえず注文を入れるべくカウンター越しに声を掛けたが、お婆さんはこちらに見向きもせず一心不乱に包丁を振るっている。
「おばちゃん耳聞こえへんねん。ここの紙に注文書いてあげて。あと俺は飲めへんから生中でも飲んどいて」
そう言うと墨染はカウンターに置かれた紙に、ビールといくつかの料理を書いてお婆さんに手渡した。
「それで今日は何の用なんだ?」
「まあそう焦らんと。おばちゃんの料理、うまいで」
私が早速本題に入ろうとすると、墨染はそれを制した。
口調こそ穏やかではあったが、そこにははっきりとした拒絶の色が見えたため、私もそれ以上は言わずに料理が出てくるのを待つことにした。
暫くして運ばれてきたのはビールと枝豆、それから高野豆、茄子の揚げ浸し、万願寺唐辛子と厚揚げの煮浸しという、精進料理さながらのラインナップであった。
長い髪を見る限り墨染は出家したという訳でもなさそうなので文句の一つでも行ってやろうかと思ったが、いずれの料理も出汁や塩の加減が絶妙で、文句のつけようも無くなってしまった。
家庭料理の様な優しさがありながらも、手間暇の掛かっていることが伺える味であった。
私が二杯目のビールを紙に書いて注文したところで、墨染がそれまでとは一変し重々しい口ぶりで話し始めた。
「なあ、幽霊って信じるか?」
一瞬ふざけているのかと思ったが、余りにも不安に怯えたような表情で話すので彼を咎めることはやめておいた。
あるいはその声も、今思い返すと震えていたかも知れない。
「幽霊なんか信じるわけないだろ。いい歳した大の男だぞ」
「そうやんな。じゃあ今から話す事も別に信じんでええから、とりあえず聞いたって」
そう前置きすると墨染は、神妙な顔つきで語り始めた。