講義の後
ある日の講義後、墨染が私に話しかけてきた。今まで講義外で話す機会はまるでなかったので私は少々面食らった。
「就活もう終わった?」
墨染はそう言った。我々を除いて誰もいなくなった教室に、声は不自然なほど大きく響いた。
私としてはあまり歓迎する話題でもなかったが、せっかく話しかけてきてくれたのを無下にするわけにもいかないので、ありのままを答えることにした。
「絶賛活動中ではあるけれど、概ね順調だよ。明日最終面接に行ってくるんだ」
「そうなんや。ええなあ、やりたい事あって」
「別に、食べるために働くというだけであって、やりたい事があるから働くわけじゃないよ。本当にやりたい事は空いた時間でやるつもり」
「ふぅん、ほなその本当にやりたい事って何なん?」
と墨染が尋ねてくる。
「小説を書いたりとか」
訊かれる事は想定していたが、やはりこういった事を他人に話すのは恥ずかしい。
「小説書いてんの?読ませてや」
「絶対に嫌だ」
こういう中途半端な友人は、自作の小説を読ませるのに最も適していないのだ。
気を遣って無理に褒められるのはこちらとしても忍びないし、駄目出しをしてもらえるほどの間柄でもない。
「なんでなん。人に読んでもらう為に書いてんねやろ」
と墨染は食い下がる。
至って正論ではあるのだが、時として理に適わない行動を取るのが人間であるという事を理解してもらいたいところだ。
何度かの押し問答の末、余りにも墨染が引く気配を見せないので結局一作だけ読ませてやることにした。
私が初めて書いた短編小説で、思い入れもあるし気に入っている作品だ。
墨染は携帯の画面に映し出されたデータを黙々と読み進める。
私の方はというと、手持無沙汰と気恥ずかしさと、嫌々読ませたとは言えどのような感想を貰えるかという期待から、気持ちが落ち着かずそわそわとしてしまっていた。
しかし書き手の性というものだろうか、自分の書いた作品をじっくり味わって読んで欲しいという気持ちもあり、決して墨染の黙読を邪魔せぬ様少し離れて気配を消すことに専念した。
遠くから眺めていると墨染の異質さが一層際立って感じられた。
日の傾いた教室に伸びる影に真黒な全身が飲み込まれ、携帯電話に照らされた病的なまでに青白い顔だけが、ポツンとその場に浮かんでいるように見える。
錯覚だとは分かっていても眼前に浮かぶ情景のあまりの異様さに、私は全身に鳥肌が立つのを感じた。
暫くの沈黙の後、墨染がパッと顔を上げた。その細く黒目がちの眼で私の顔を見やった後、にっこりと微笑んでこう言い放った。
「上手に書いたはるね。おとぎ話見たいで面白かったわあ」
私はこの京都人を、生涯敵だと思うことに決めた。