マーたんの母ちゃんの 孫の菜緒
無事、おふくろの七回忌を終え、姉家族と昔話に花咲かせ帰って来た。今夜は、菜緒の住む2DKのアパートで四人雑魚寝となる。季節はまだ春。爽やかな風を望むところだが、桜島の降灰もあり窓は開けられず、エアコンの音が響く。家族で唯一痩せている真緒は一枚羽織っている。
「まだ六時半か」「飲みなおすか...」
「飲もう飲もう!」私の誘いかけに、酒好きな菜緒だけが喜んだ。
立ち上がった菜緒に「お父さんには焼酎の水割頂戴」と、頼んだ。
「はーい」
「お兄ちゃん」「レモンサワーで良ーい?」
「うん」孝太はスマホから目を離さず、素っ気ない返事をした。
真緒は「コーヒー淹れようかな」と、食器棚の、いや、組み立て式収納ボックスの奥を覗いてカップを探しはじめた。手際の良い菜緒は納豆、チーズ、ヨーグルト、キムチと次々テーブルに並べた。発酵食品大好き家族らしいメニューだ。私は、姉に貰った煮豆を口に運んだ。
「ねえ、お父さん」
「お父さんは、いつまでマーたんと呼ばれてたの?」私に、氷少な目の焼酎を渡しながら菜緒が聞いた。
「お婆ちゃんはね、ずっとお父さんのこと『マーたん、マーたん』と呼んでたんだよ」真緒が茶化した。
孝太はスマホから顔を上げ、私の顔を見てにやにや笑った。
僕、マーたんは5歳。毎朝母ちゃんとバスに乗って幼稚園に行く。
いつものように鼻くそをほじって丸めていた。
「マーたん、行くよ」「早く着替えて」
連続テレビ小説を見終えた母ちゃんが、トーストの屑を祓いながら僕をせかした。僕は、母ちゃんが後ろを向いた瞬間、黒くなった鼻くそを口に入れ、パジャマを脱いだ。勿論お腹の足しに食べた訳じゃない。鼻くその味は日によって違う。今日の鼻くそは大きくてちょっとの塩気と少しの粒々。鼻くそを前歯でずっとカミカミしていたかった。
「鼻くそ・食・べ・る・な」シャツのボタン付けを、手伝って貰っている時、鼻を『ポン』とされた。そして、母ちゃんは僕の手を握って玄関を出た。
いつも玄関の鍵は掛けない。玄関といっても、開け閉めにちょっとこつがいる台所のガラス戸。閉める時は少し持ち上げて引っ張るだけだから、僕にでも出来る。でも、開ける時は何回も引っ掛かるから、僕が通れる分だけしか開けられない。母ちゃんはいつも上手に出来るけど、急いでいる時はなかなか出来ない。母ちゃんが「うん、もォー」と、大きな声を出すと閉まったり開いたりする。今日は、大きな声を出さずに済んだ。
縁側の雨戸は開けっ放し。
「かあちゃん、泥棒さんが来たらどうするの」
「泥棒に、さんは要らないの」「うちに、取られて困るような物は無いからいいのよ」
「マーたんのグローブとバット取られる」
「マーたんのおもちゃは持って行かないから大丈夫」
「おーい泥棒さーん」「来ても何にも無いよ!」僕は空に向かって叫んだ。母ちゃんが笑った。母ちゃんが笑うと僕は幸せになる。
「行って来まーす」
ボビーとミーミに言った。犬のボビーは反応しない、猫のミーミは上目遣いでちょい見してそっぽ向いた。
ボビーは薄茶で毛むくじゃらの犬。口の周りには、黒い団子をいっぱいぶら下げている。おしりの周りもいっぱい黒い団子がぶら下がっている。だから時々、父ちゃんが団子を切ってやる。ついでに背中のも、お腹のも切ってやる。ボビーは世話して貰ったのが嬉しいのか、ピョンピョン跳ねて甘えて来る。
飼い始める時
「毎日散歩に連れて行くんだよ」
父ちゃんとの約束だったが、僕はボビーの散歩が好きじゃなかった。引っ張られると鎖が手に喰いこんで痛いし、うんちもする。父ちゃんは、うんちを葉っぱで拾って川に捨てるけど、僕にはできない。だからいつも砂をかけ、砂利をかけて隠す。父ちゃんに怒られることを覚悟で。だから、ボビーから足が遠のき、父ちゃんが休みの日だけ散歩するようになった。可哀想なボビーだと思いながら『しょうがないもん』と、決め込んだ。
ミーミは三毛猫の雑種。僕と一緒に寝る。寝むたくなると、いつも僕の布団の前で待っている。
「ミーミ、待たせてごめんね」
僕が布団に入る時、ミーミも一緒に入って、くるっと向きを変える。そして、僕が左腕を出すと、前足を乗っけて顎も乗っける。ミーミの鼻は冷たく濡れている。口は魚臭い。でも、いつもミーミと寝る。ミーミは暖かい。ミーミを撫でながら眼を閉じると、いつの間にか朝が来る。たまに、布団に入らない時がある。無理矢理布団の中へ入れても、すぐ飛び出す。それでも入れようとすると引っ掻かれる。そんな時は『ミーミのバカ』と言いながら寝る。左腕を横に伸ばしたままで。
目が覚めるとミーミはいつもいない。台所に置いてあるボロボロの丸椅子の上で、丸くなって目を閉じている。僕はそのミーミを暫く撫でる。ミーミは目を開けると、必ず前足を突っ張り伸びをする。後ろ足は椅子から降りたあと伸びをする。そして僕の足に頭とお腹とお尻を擦り付けて『ミヤーン』と鳴く。
玄関を出るとすぐ右に井戸がある。夏は、井戸の周りで行水をする。母ちゃんと父ちゃんは、夜、暗くなってから行水をする。母ちゃんが行水してる時、見に行こうとすると
「マーたん、ここで待ってなさい」父ちゃんに怒られる。
僕の姉弟は姉ちゃんだけだ。だからいつも遊んでくれる、近くに住むこう兄ちゃんと、しょう兄ちゃんを「行水しよう!」と、呼びに行く。山遊びする時も、川遊びする時もこう兄ちゃんは優しく手を掴んでくれる。しょう兄ちゃんはいつも意地悪、時々へんてこりん。二人は裸足で飛んで来た。
そして大きいタライとバケツに井戸水をたっぷり貯め、水遊びの始まりだ。最初は冷たくて、庭の方まで逃げ出したりする。いつもタライの中と外で大騒ぎになる。
ある日も水かけしながら、しょう兄ちゃんがいつもの石鹸を取り僕に渡した。その石鹸は、僕の片手には持てないぐらい大きい洗濯用の石鹸だ。それを、交代で体中に塗りたくって、頭から足の先っちょまで泡だらけにする。そして、井戸の蓋に干してある、雑巾かタオルか判別がつかない布で擦りあう。泡はその日も口にも入り、目にも入った。僕は半泣きになりながら、いつも優しいこう兄ちゃんに「水かけて」と、頼んだ。こう兄ちゃんに、頭と顔の泡を流してもらいながら、僕は『ぺっぺ』と唾を吐き瞼を擦った。目のヒリヒリが無くなると、またすぐしょう兄ちゃんが泡を作り擦り合いが始まった。僕は顔に泡が付かないように気を付けてたが、キャーキャー笑い転げているうちにまた泡が目に入った。
「こう兄ちゃ~ん、眼が痛いよ、水かけて」と頼んだ。こう兄ちゃんに頼んだのに、しょう兄ちゃんが「よーし」と言いながら、目を擦っている僕に、凄い勢いの水をぶっかけてきた。「あーっ」僕は滑って転んで、タライの淵で頭をぶっつけた。タライが『ゴンー』と鳴った。それでもしょう兄ちゃんは、お構いなし。わざと顔めがけて水をぶっかけてきた。鼻にも耳にも水が入った。僕が泣き始めるとこう兄ちゃんが「マーたん大丈夫」と、手を引っ張ってくれた。しょう兄ちゃんも水かけを止めた。
「もう大丈夫」と立ち上がりかけると、また、しょう兄ちゃんが水をぶっかけてきた。その時、しょう兄ちゃんが勢い余って転んだ。
「痛っ。痛い痛い痛い」しょう兄ちゃんはわざと変顔して大げさに、あっちこっち摩っている。僕の涙と痛さはどこかに飛んでいった。そしていつの間にか笑い顔に変わっていた。
目の前に、お風呂用牛乳石鹸とエメロンシャンプーがある。『これは使っちゃいけないんだ』と、みんな分かっていた。
母ちゃんと手をつなぎ洗濯干し場を過ぎると、川沿いの砂利道に出る。砂利と言っても石炭かすだ。蒸気機関車で燃やしたかすだ。硬くてとげとげしている。
その砂利道を歩き始めて直ぐの事だった、「あっ」と、言う母ちゃんの声と同時に僕の左手が、『ギュッ、グッ』と引っ張られた。その瞬間天と地がひっくり返ったような、この世の終わりみたいな衝撃が僕を襲った。『うえっ、あっ』と思うと同時に、「あ~ん、かあちゃ~ん」と、泣き始めた。
母ちゃんがすっ転んだ。あの大きい大きい、山より大きい母ちゃんが転んだ。僕が転びそうになると、いつもヒョイと手を持ち上げて、僕を守ってくれる母ちゃんが転んだ。僕は悲しくなった。母ちゃんが転んだことを受け入れられない。そして、立ち上がろうとしている母ちゃんを見て、悲しい悲しい確信の涙に変わっていった。『転ぶ筈の無い母ちゃんが転んだ』『僕は母ちゃんを守れなかった』さらに悲しい悲しい、涙の量が増えていった。
母ちゃんは僕の頭と、自分の膝を交互に撫で、さすりながら「大丈夫だから泣かないでいいよ」と、痛そうな笑顔で言った。涙拭き拭き覗いた母ちゃんの膝は、擦り剝け血が滲んでいた。しゃくり上げる僕をもう一回たしなめ、太くてカサカサの親指で僕の涙を拭いた。そして、何にも無かったかのように、再び僕の手を握って歩き始めた。
母ちゃんの手は、さっきより強く握っていた。僕を守ろうとしているのか、自分を守ろうとしているのか分からない。
『母ちゃん、今度転びそうになったら、マーたんが支えるからね』母ちゃんの顔を見ながら心の中で呟いていると、「前を見て歩きなさい」と怒られた。
僕は小さな手で母ちゃんの手を強く握り返した、母ちゃんはそれに反応して、強く優しく握り返してきた。また僕は強く握り返した。そんなことを何回か繰り返しているうち、僕も母ちゃんも笑顔になり、母ちゃんが転んだ事など無かった事にしていた。
僕の動転した気持ちを、母ちゃんの手が忘れさせてくれたのだ。 かさかさ がさがさ
いたかった
はなさなかった
おおきかった
びょうきをなおしてくれた
かあちゃんのて
高校卒業後東京で板前の道に入り、信州のホテルへと修行の道を広げ、その地で出会った真緒と結婚をし家族を持った。故郷離れ三十数年、私はもう頭の薄くなった五十半ばのおっさん。
「母ちゃんがOー157に院内感染した」そんな電話が姉ちゃんから入ったのは、母ちゃんが退院する予定日を二日後に控えた夜だった。
「母ちゃんの容態は?」
「今すぐ生き死にと言うことでは無いけど、血圧が下がって余り良くないのよ」何か、中途半端な返答だった。
「仕事の段取り着けて帰るから」「三、四日後かな」私は最悪の状態ではないという判断をし、帰る旨伝え電話を切った。
二度目の脳梗塞で入院していた母ちゃん。今回は軽くで済んだと聞いていたので、見舞いには帰らなかった。
母ちゃんは八十半ばを過ぎ。父ちゃんが死んだ後は、少し傾いた建付けの悪い家に一人で住んでいる。姉ちゃんは結婚で家を離れ、私は長野県諏訪市に住む。父ちゃんが死んだ後、母ちゃんと一緒に住もうとも思ったのだが、仕事の事、家族の事を考えると、それは現実的ではなかった。でも、子供達が大学行くようになったら可能かなと、自分の中では期するものがあった。
いつだったか真緒に、それらしき事を話したことがあった。
「えっ、嘘でしょ。仕事どうするの?子供は?まさかあの家に住もうって、言うんじゃないでしょうね。それともお母さんをこっちに呼ぶの、私無理よ、無理無理、絶対無理」。答えは分かっていた。分かっていたのに話した。いや、もしかすると「良いわよ」と、言ってくれるかもと、かすかな期待があったのかもしれない。
あのボビーは僅か二歳で死んだ。散歩もしない、遊ぼうともしない、殆どほったらかし状態となっていた。たまに「ボビー」と、呼びながら手を出すと、いつしか噛みつくようになっていた。そんな事もあり、私はさらにボビーから足が遠のいていった。もうちょっと優しく面倒をみていたら、散歩もしっかりしていたら、長生き出来たかもしれないと悔やんだ。父ちゃんからもしっかり面倒をみるように言われていたのに、なかなか出来なかった。ボビーには、本当に申し訳なかった。可哀想な事をした。この歳になっても悔いている。
私が生まれる前からいたミーミは、我が家に暮らし十数年経ったある日、突然いなくなった。私が十二歳の時だ。
「ミーミは今日も帰って来ないかな?」もう三日帰って来てなかった。
「マーたん、猫は死ぬ時な、姿を見せないんだよ」と、父ちゃんが信じられない事を言った。
「なんで」「ミーミはもう帰って来ないの、もう死んだの」私は半泣きになった。
「まだわからないけど...な」
『父ちゃんは悲しくないのかな?』暫くの間私は、朝起きたら、学校から帰ったら「ミーミ、ミーミ」と、何回も呼び続け探した。時には泣きながら、時には父ちゃんの言葉を思い出しながら。
何日後だったか、玄関を出たすぐ目の前の花壇に、土を盛り『ミーミのはか』と書いた板切れをさした。庭に咲いていたピンクの花も置いた。
姉ちゃんから電話があった三日後、鹿児島の空港に降り立った私は、厚手の上着を脱ぎ、南国の空気を大きく吸い込んだ。
『故郷だ』故郷は景色だけでなく、空気感も違う。
家を出てから六時間が経っていた。帰省の手段を、飛行機にするか、JRにするか迷った。結局、久しぶりに飛行機に乗ってみたかったのと、早く母ちゃんに会えるような気がして羽田発とした。飛行機はJR二回、そして京急と、乗り継ぎが面倒くさいのだが、それも織り込み済みで飛行機を選んだ。
到着口の駐車場には、レンタカー会社の名前が大きく書かれたワンボックスカーが、すでに迎えに来てくれていた。
「すみません、予約している宮澤です」
「あっ、本日はご予約頂き有難うございます」「お荷物は?」送迎の担当者が、私の小さなキャリーバッグに目を遣り聞いた。私が少し差し出すようにすると、それを受け取り「もう一人来られますので、お好きな所にお座りになってお待ちください」と、車内へと促した。私はドアに近い座席に腰を下ろし姉ちゃんに連絡する為スマホを手にした。
間もなく、同じ年頃の男性が「お待たせしてすみません」と、私に会釈しながら乗り込んで来た。その男性は慣れた様子で、座るや否や運転手さんと談笑し始めた。
送迎付きで安価なレンタカー会社の手続きは、免許証の提示と常識的な説明を聞いて、同意したらタブレットにサインするだけの簡単なものだった。同乗して来た男性は、常連さんの特権なのか?何も聞かずサインしていた。
「じゃあ宜しく」何を宜しくか分からないが、男性はピカピカに光った黒いクラウンに乗り、音も立てずに走り出した。
私も母ちゃんが入院している病院へと、年期が入ったコンパクトカーのセルを回した。エンジン音は良好。エンジン音を聞いただけで、車の調子を見分けられるのは私の自慢だ。
高速のETCを抜けアクセルを踏み込むと、案の定走りは軽かった。ガラス越しの日差しはキラキラ輝き、濃い緑の景色が鮮やかだった。エアコンを入れようかなと思う程、ポカポカの陽気だった。初めて行く病院だったが、カーナビの言う通り車を走らせ、全く迷うことなく、およそ一時間で病院に着いた。
「ご苦労さん。時間ピッタリだったね」
病院のロビーには、姉ちゃんと、姪っ子の早紀ちゃんが待っていてくれた。
「姉ちゃん、菜緒の事色々世話になりました。有難うございました」
「う~うん、大した事してないよ。気にしないで」「国立も合格すれば良いね」
「そうなんだけど、菜緒はあっけらかんとしてるよ」
実は、この春から菜緒はこっちで学生生活を送ることが決まっていた。
「叔父ちゃん、こんにちは」
「こんにちは」「早紀ちゃん今日休みだったの?」
「叔父ちゃんが来るから休んだの」
「嘘でも嬉しい!」「はい、早紀ちゃんだけにお土産」空港で買った生菓子を渡した。
「サンキュー」
「早紀ちゃん幾つになった」
「叔父ちゃん、女の子に歳聞いちゃいけないんだよ」「でも叔父ちゃんにだけサービスだよ。五」
「そうかまだ五歳か、年中さんだ」私はいじった。
「ん、もぉ」アパレル関係の仕事をしている早紀ちゃんは、私を慕ってくれている。波長が合うのか、理由は良く分からないが、とにかく気が合う。私のふざけにいつも応えてくれる。
院内感染という事だったが、母ちゃんが入院しているフロアー、数人だけの小規模の感染で済んだらしい。すでに感染が治まっている事もあり、外来患者が待合室に幾人も座っていた。その多くは、母ちゃんと同じ後期高齢者のようだった。
私達は、大きい柱を中心に円形になった、ソファーに腰掛けた。
「今は、血圧、脈拍、酸素供給量?とにかく安定してるんだって」「ただね、たまに目を開けてキョロキョロするけど、ずっと寝ててしっかり起きないんだよ」
「えっ、ご飯はどうしてるの?」
「看護師さんが流動食みたいなのを、無理矢理口に入れるんだって」「その時は半分起きていて、半分寝ているんだって」
「だから足りない栄養は点滴で補い、どうにかって感じ」姉ちゃんからこれまでの経過と、今の容態の詳細を聞いていると、看護師さんが近づいて来て「面会できますよ」と、案内してくれた。
母ちゃんは体を拭いて貰っていたらしい。
奥行きがある大きなエレベーターで六階に上がり、何回か右へ左へ角を曲がると、母ちゃんが寝ている部屋に着いた。増築を重ねた病院らしく、母ちゃんの部屋は別館となっていた。殺風景な病室は、独特な匂いが漂っていた。陽当たりもあまり良くないのか、窓から入る光は弱かった。部屋には四つのベッドが置いてあり、薄いピンクのカーテンで仕切られていた。一番奥の一つだけが縦に置かれてあり、「母ちゃんだよ」と、姉ちゃんがそのベッドを指差した。私は恐る恐るベッドに近付き、母ちゃんの顔を覗き込んだ。
実は、母ちゃんの顔を見るのが怖かった。三、四歳の頃だったか、母ちゃんが盲腸の手術で入院した事があった。父ちゃんに抱っこされ、そのお見舞いに行った時の事を、昨日の事みたいに覚えていた。さだまさしが歌う精霊流しの歌詞にある、浅黄色の寝間着を着ていた母ちゃんは、弱々しく感じられ、可哀想に思え、死んじゃうんじゃないかと思い、泣きじゃくったのだ。その事が思い出されて、一歩一歩が重たかったのだ。
「かあちゃん、かあちゃん」「マーたんが帰って来たよ。マーたんだよ」姉ちゃんは、肩を叩きながら小声だけど、しっかり呼び掛けた。私も続けて母ちゃんに声を掛けながら肩を小さく小さく揺すった。何回か繰り返したが目を開けない。
「きのうは少し目を開けたんだけどね...」「かあちゃん、かあちゃん」
少し口を開け、なんとなく寝息が聞こえ、すやすや寝ているような気もした。
返答の無い母ちゃんの顔は、眼が窪み皺だらけ。私を見つめてくれた、私を可愛がってくれた、私を愛してくれた、私がいつも見ていた、私の記憶にある母ちゃんでは無かった。あまりにも老いた、あまりにも疲れ果てた、あまりにも難儀が溜まった、あまりにも小さくなった、今にも死にそうな母ちゃんだった。体を揺すると壊れてしまいそうな母ちゃん、声をかけるのも止め、暫く母ちゃんの顔を見つめていた。
その間も姉ちゃんが呼び続ける。早紀ちゃんも「おばあちゃん、おばあちゃん」と、呼んでくれているが、全く目も明けないし勿論返答も無し。母ちゃんへの想いが幾重にも重なって、とても悲しかった。
想えば九年前、「父ちゃんが倒れた」と連絡があり、急遽駆けつけた時、意識の無い父ちゃんは、体中に管がいっぱい刺さった状態だった。一人部屋で、ナースステーションに近く、心電図の無機質な音だけが流れている部屋だった。その時と、今の母ちゃんの部屋の雰囲気は全く違う。その違いに気付いてた私は、何の反応も無い母ちゃんだったが、ある意味安堵もしていた。そして、生き続ける可能性はあると確信さえもしていた。
一時間程して、何の反応も無い母ちゃんを病院に残し、帰ることにした。途中ナースステーションに挨拶して、エレベーターに乗り込んだ。
エレベータのドアが閉まると同時に、姉ちゃんが「院内感染なのに治療費は自腹なんだって」と、不満そうに言った。
その夜は、姉ちゃんと義兄と数年分の話と共に軽く焼酎を頂いた。翌日、白みその甘めの味噌汁を頂きながら、「面倒掛けますけど、宜しくお願いします」と、義兄に頭を下げた。姉ちゃんには玄関を出てから、眼で『頼むね』と挨拶した。
車に乗り込もうとした時、姉ちゃんが「待って待って、母ちゃんの着替え渡すの忘れてた」と家の中に入って行った。義兄はタバコふかしながら「こっちの事は何も心配しなくていいよ」と、言ってくれた。
「看護師さんに、着替えですと言えばわかるからお願いね」と、着替えの入った風呂敷を姉ちゃんから預かった。
それは、病院に近い国道を走っている時だった。
「おいおい、おーい」と、私は叫んでいた。左前方のタイヤ屋から、朝日に反射して、ピカピカ光るホイール付きのタイヤが、転がって来るのに気付いたのだ。
思わずアクセルから足を浮かし、ブレーキに足を乗せた。前には、ゆっくり目に走る軽トラック。後ろは間を詰めた大型トラック『急ブレーキは掛けられない』。対向車は引っ切りなしに来る。『横で受ければ大した事にはならない?でもこのままではフロントにぶつかる、軽いアクセルだと横にも当たらず通り抜けられる可能性も』と、タイヤと交差するであろう、一秒有るか無いかの瞬時にそう判断し、無意識に体全体に力が入った。そして軽く、軽~くアクセルを踏み、足を浮かした。避けようがない!避けようがなかった。『ボン』鈍い音がした。
『この間、私はまるで別世界に迷い込んだ主人公になって、己に降りかかる災難を上空から超スローモーション映像で見ながら、客観的に捉え分析している。そんな不思議な感覚を味わっていた』
後ろのトラックを気にしながら車を左に寄せて止めた。左ドアミラーを見ると、後部座席のドアに直撃したタイヤは、縁石に寄っかかるように斜めになっていた。タイヤ屋から慌てた様子で、従業員らしき若者が頭を下げながら走って来る。私はゆっくり車を降りた。大型トラックも、転がって来るタイヤに気付いていたのか、十メートル程手前に止まっていた。『これだったら急ブレーキ踏んでても良かったか』と思ったが、後の祭りだ。後続車が無くなった事を確認し、ゆっくりバックしタイヤ屋の中に車を入れた。
タイヤ専門店の経営者と若者は、驚きと申し訳ない気持ちが入り混じった、複雑な表情で私に深々と頭を下げ、怪我の有無を気にかけてきた。
「お怪我はありませんか?」「大丈夫ですか?」
一瞬『少し腰が...』と、洒落で言いそうになったが
「大丈夫です。怪我はありません」と真面目に答えた。
私は、経営者の携帯からレンタカー会社に連絡をし、事故の内容を報告した。一通りの説明をした後、経営者に替わった。経営者は、自分の落ち度を説明しながら、電話の向こうに頭を何回も下げていた。
再度電話を替わった私は「ドアが少しへこんで、タイヤ痕が付いただけで運転には支障がないと思います」と伝えた。
「ドライブレコーダーの画像が残っているでしょうし、タイヤ店が全面的に非を認めていますので、レンタカー返納時に確認するだけでいいでしょう」「後の処理はこちらで行いますので、このままご利用下さい。何か運転に不都合があったらまたお電話ください」レンタカー会社の店長は、私に気遣いながらも事務的に言った。私は、面倒くさそうな事故処理も特に無いことに、胸を撫で下ろした。
気を取り直し数キロほど走ると病院に着いた。奥行きのある大きなエレベーターに乗りながら、『前の軽トラがもう少し早く走っていれば、こんな事にならなかったのにな』『でも、俺の車が受け止めてなけりゃ大事故になっていたかもな』『事故って一秒単位の巡り合わせで起こるんだな』『この事故で厄を祓ったかもな、もしかすると宝くじを買えば億が当たるかもしれない』頭を勝手な思いが駆け巡っていた。
ナースステーションに挨拶をし着替えを渡した後、病室へ向かった。
今朝も「かあちゃん、かあちゃん」と呼ぶが、やはり目を開けない。暫くおいてまた呼ぶが、母ちゃんは何の反応も無い。
『母ちゃんお話ししよう』顔を見つめていた。
なんと願いが通じたのか母ちゃんが目を開けた。
「かあちゃん」「かあちゃん」透かさず声を掛け、肩を揺すった。
母ちゃんは辺りをキョロキョロ見回すが、私の目と合わない。私は右手をパーにして、母ちゃんの目の前で横に振るが、焦点が合っていないと感じた。すると母ちゃんはまた目を閉じた。その間三十秒ほどだったのか、それっきり目を開けることは無かった。
ベッドの周りの壁は真っ白、天井にはカーテンレールが走っているだけで、余計な物は一切無い。母ちゃん専用の棚には、何も入っていない。棚にくっ付いているテーブルの上には、水差しが置いてあるだけ。真っ白な壁はとても冷たく感じられた。『窓際だったら良かったのにね』『可愛い花でも持ってくれば良かったな』と、思いながら、もう一回グルッと見回した。少しして、ナースステーションへ向かった。
「お忙しいところすみません」「今、少しの間目を開けたのですが、またずっと閉じているんです。何故でしょうか」
「詳しいことは私から言えませんが、軽度の意識障害ではないかという事です」
「良くなることはないのでしょうか」
「それは担当医でないと...」
「あー、そうですねー」私は病室に戻りかけたが、
「すみません、使ってないカレンダーはありませんか」
看護師さんは少し考え、思いついたような感じで「ちょっと待ってください。あるかも...」と言いながら、綻びている棚のカーテンをめくって探してくれた。
「こんなので良いですか」と、招き猫の絵が描いてある、A4サイズの月捲りカレンダーを見せてくれた。
「ありがとうございます。これに文字を書いて、壁に貼っていいですか?」
「良いですよどうぞ、じゃぁこれも」と言って、ちょっと変わった画びょうと一緒に渡してくれた。
私はそれを病室に持ち帰り、母ちゃんの寝ているベッドで、三月十二日にぐるぐるぐるっと丸をして、『母ちゃんの誕生日』と大きく書いた。母ちゃんが目を覚ましてすぐ気づくように、少し低い位置に画びょうで貼った。『あと十日で母ちゃんの誕生日か』。壁に貼る時もずっと、独り言のように「かあちゃん、かあちゃん」と呼びかけた。
振り返ると、母ちゃんの口からよだれが少し垂れていた。テーブルの水差しと一緒に置いてあった、ガーゼで優しく拭いてあげた。ガーゼを裏返してたたみ、『これまで何回も俺の顔拭いてくれたね。目ヤニも取ってくれたね。唾つけて目に入ったごみを取ってくれたね。お返しだ。』と、笑んだ。そして、涙腺が緩むのを感じた。母ちゃんの頭を左手で撫でながら
「かあちゃん、ゆっくり寝な。寝てていいよ。家事も、子育ても、仕事にも追われて大変だったね。おまけにいっぱい心配かけたね。迷惑かけたね。疲れただろ。大変な人生だったね。ありがとうね。ありがとうね。ごめんネ」
そう声をかけると、緩んだ涙腺から、ひとつふたつと涙が又頬を伝った。
右手で掴んでいる母ちゃんの手を弱く、強く握り直し摩った。
ちいさくなった手のひらは、今もガサガサッと音がしそうだった。『母ちゃんの手だ』
夕べ書いた手紙を、母ちゃんの枕元に置き『じゃぁ、またね』と、病室を出た。
母ちゃんへ
『 母ちゃん、もう返事はできないのですか? いつ眼を開けてくれるのですか?せめてあと一回でいいからマーたんを見て。もうマーたんも五十過ぎののおっさんになったよ。小さい頃バスに乗ってお出かけしたね。デパート行って、買い物して、屋上の遊園地で遊んで、食堂でオムライス食べて、クリームソーダ飲んだね。たまにパチンコ屋にもいったね。映画館には何回も行ったね。中村錦之助が好きだったね。月に二回の母ちゃんの休みの日が、待ち遠しかったよ。母ちゃんも楽しかった?中学生になって部活が始まり、お出かけが無くなったね。本当はいつもお出かけしたかったんだよ。母ちゃんと一緒に居たかったんだよ。高校生の時は新聞配達や、引っ越しのアルバイトして、お小遣いを貰わなくなったね。授業料も自分で払うようになったろう。偉かったろ。マーたんはこんなに大きくなったよ、お金も稼げるようになったよと、精一杯のアピールしたんだよ。親孝行の気持ちもあったんだよ。大人になって借金して迷惑かけたね、ごめんなさい。つらい思いさせたね。最初の脳梗塞は、その事が一因したのかなと思っているよ。親孝行いっぱいするつもりだったのに、たいして出来なくてごめんね。そして今、一番の親不孝をしているよね。ふるさとを遠く離れ、孫の顔をろくに見せることさえできないなんて...。マーたんは、これほどの親不孝は無いと思っているんだよ。そういう事を世間の人に言うとね「そんなこと無いよ、子は元気で居ればいいんだよ」と言うけど...。そうじゃないよね。母ちゃん、遠くに居てごめんね。母ちゃんから貰った、優しさ、大きな愛情、そして厳しさ、沢山の恩は子供達に返してきたからね。母ちゃん元気になってね。絶対元気になってね。肩揉みをいっぱいしてあげるからね。母ちゃんの笑顔を見たいんだよ。母ちゃんが笑うとマーたん幸せなんだよ。大きい大きい、大好きな大好きな母ちゃんへ』
駐車場に降りて、病院の建物の方を振り返り見た。
『母ちゃんの病室は裏か・・・』車に乗り込んで、シートベルトを締め、シフトレバーに手を置いた時ふと思った。
『もう一回顔見ていくか』シートベルトを外そうと手を掛けながら『でも、病室まで遠いな』『タイヤ屋で余計な時間を取られたし、飛行機の搭乗手続きも迫っているし、土産も買わなきゃいけないし』
結局、飛行機に間に合わなくなると結論付けて、顔を見に返らず、病院を後にした。
昨日と違い今日は花曇りだった。ビルに囲まれた駐車場なのに、何故か鳥の囀りはよく聞こえ、少し不思議な感じがした。走り出して間もなくしたら、なんとなく後ろ髪を曳かれる思いがしてきた。
『たいして毛も無いのに』と、自虐ネタにほくそ笑んだ。でもすぐ、ベッドに寝ている母ちゃんの顔が浮かび「アーア」と、溜息も出た。『やっぱ、もう一回顔見てくりゃ良かったな』。空港が近くなるにつれ、その思いが異常なほど募ってきた。「フッ」とまた溜息を吐き、運転を続けた。
レンタカーの営業所は賑わっていた。小さな子供の声が聞こえる。二組の家族連れが手続きをしていた。二台のワンボックスカーが、奥への通路を塞いでいた。私は入口の前に車を止めた。事故の事もあるし、レンタカーの返却に手間が掛かるだろうと、スマホで時間を確認した。覚悟して事務所に入ると、アルバイト風の青年と目が合った。その青年は、乗ってきた車にも目を遣り、全てを理解しているかのように近づいてきて「じゃあ確認致しますので、ご一緒にどうぞ」と、乗ってきた車の方へ歩き出した。私は青年に続いた。
青年は、車の周りを一周して、「あーこれですね」「お怪我はなかったですか」と言いながら、色々な角度から写真を撮った。
「ドライブレコーダーの確認しますので、中でお待ちください」と、玄関の方へ私を促した。事務所に入り窓際のソフアーに腰掛けた。テーブルの上に置いてあったパンフレットを見ていると、五分程して小太りの店長らしき人が奥から出てきた。首にぶら下げた社員証を私に見せ「店長の大重です、大変お待たせ致しました」「ドライブレコーダーを拝見し、タイヤが当たるまでの様子を確認致しました」「びっくりしましたでしょう.こんな事もあるんですね?!」同情した表情を見せた。ドライブレコーダーには、転がって来るタイヤが鮮明に映っていたらしい。「はい」と、私は苦笑いを浮かべ相槌を打った。
すでに家族連れ二組は、レンタカー会社を出発し、他に客はいなかった。
事務的口調で店長は「この件に関して、お客様のご負担は一切ありません」「特別な手続き等も必要ありません」「こちらがその旨を記した書面になります。確認できましたら、こちらにフルネームでサインお願いします」と、私の目の前に置いてあるタブレットの画面を、スワイプしながら説明した。私は確認をし、タブレットの画面に、中指でサインした。『上手く書けないな』と、自分のサインを見て思った。
私のサインを確認した店長は、奥に行き、その画面をプリントアウトして私に渡した。それと一緒に「次回ご利用の時お使い下さい」と、割引券をくれた。私は「ありがとうございます。ご迷惑おかけしました」と、恐縮しながら頭を下げた。
横に居た青年が「それでは空港までお送りします」と私のキャリーバッグを手に取り、入口へ向かった。そして、返却したコンパクトカーのハッチバックを開け積み込んだ。私は、タイヤ痕をチラ見して、後ろの座席に腰を下ろした。店長は自動ドアを開けた状態で見送ってくれた。
動き出すと同時に、大あくびが出た。
『慌ただしい帰省だったな』窓越しにターミナルビルを見ながら、この二日間の出来事を振り返った。
ターミナル搭乗口迄送って貰った私は、お礼を言いお辞儀をした時、またチラッと後ろドアのタイヤ痕を見た。
いつの間にか雲の合間からは陽がさしている。そして、空港ターミナルの上空を暫くボーと見上げた。
空高い所に飛行機らしいものがキラキラ光っていた。
『上空はいい天気だ』『帰りも揺れないだろう』『さあ、帰るか』
ターミナルビルの中へ歩を進めた。
『後ろ髪を曳かれる思い』その訳を知るのに、さほど月日はかからなかった。
とじてるの あけてるの
しわにうもれた
かあちゃんのめ
きがつけば ぞうさんのめ
いっぱい いっぱい
みつめてくれた
かあちゃんのめ
きがつけば ぞうさんのめ
きがつけば
ぞうさんのめ
「やったぁツードアバスだぁ」「やったぁ、やったぁ」
近づいて来るバスを見た瞬間、母ちゃんの顔を見ながらピョンピョン跳ねながら喜びを伝えた。
「イエーイ」「今日はツードアバスでお出かけだ」母ちゃんの手をブラブラ振りながら、さらに喜びを爆発させた。
ボンネットバスが主流の頃に、ツードアバスに乗れる事は、めったにない嬉しい事だった。ツードアバスは自動ドアだ。
「母ちゃん、ドアが開くとき『プシュー』って音がするから聞いててね」
空気が抜けるような音と一緒にドアが開いた。
「母ちゃんこっちこっち」
座る場所は後ろのタイヤの上。タイヤの丸い形がよくわかる。そこに足を置けるから、他の椅子とは違うんだ。母ちゃんは少し窮屈そうにするけど、僕の為に座ってくれる。
「ヘヘーン」母ちゃんの顔を見上げ、めいっぱいの愛想笑いをした。少し椅子の位置が高いから外の眺めも良い。
「母ちゃん見て、見て!。ブルーバードとクラウン」「あっ凄いプリンススカイラインだ、母ちゃんこれ高級車だよ」「ベレット、これあんまりいないよ」「コロナ、またブルーバード、コンテッサ、セドリック、うんーまたブルーバード、ミゼット」等と、通り過ぎる車一台一台指さして、名前を叫ぶ。一番好きな車は、目が縦に二個づつ並ぶセドリックだった。裏の叔父ちゃんが乗っていた。「うんうん」と、母ちゃんはうなずきながらも時々「もうちょっと小さな声で」と僕の肩を叩いた。僕は母ちゃんとお出かけする喜びと、ツードアバスに乗れた喜びが重なってなかなか小さな声にならなかった。
ツードアバスは滑らかに走る。椅子の音だけが『キュッキュッ』と鳴る。エンジンの音はうるさくない。信号に止まり走り出すと、また椅子の音だけが『キュッキュッ』『キュッキュッ』と鳴る。
ツードアバスの面白くないのは、ただひとつ。バスを降り、バスが走り去って行く時の臭いだ。僕は、排気ガスの臭いを嗅ぐのが大好きだ。後ろから出る黒い煙を体中いっぱい浴びるのが好きだ。体中にいっぱい浴びて、黒い煙を全部吸い込んでしまいたいぐらい大好きなのだ。それなのにツードアバスの煙は少なく、匂いもあまり感じなかった。
一番匂いが良いのはボンネットバス。ボンネットバスは煙の量が違う。
『モクモクモク、モクモクモク』と、真っ黒な煙が出る。とにかく臭いがたまらなく良い。
ボンネットバスはツードアバスとは違う楽しみがある。座る席は一番前。運転手さんの横。座るというより、母ちゃんの足の上に腰掛け、寄っかかり半立ちする。フロントガラスは右と左に分かれている。そしてそのフロントガラスは、風を取り入れる為に下の方だけ開くようになっている。そのフロントガラスを開ける為に、ぐるぐる回す取っ手が付いている。それを、ハンドル代わりにして、運転している真似をするんだ。いや、僕が運転するんだ。長ーい棒を動かす。その時、ペダルを二回踏む。するとエンジンの音が変わり、スピードが速くなっていく。左に曲がる時は、ハンドルに付いている横の棒を上に上げる。すると、橙色のベロみたいな物がバスの横から出る。それが、曲がる時の合図になる。運転手さんも顔馴染み。いつもニコニコ笑ってくれていた。
母ちゃんがお休みの日はいつもお出かけ。母ちゃんはお出かけする時いつも着物だ。だからなのか、出かける前パーマ屋さんに行って、髪の毛を綺麗にして来る。綺麗にして貰って嬉しいのか、母ちゃんは笑顔が多くなって、いつもの顔より綺麗だ。手もあったかい。いい匂いもする。僕はそれがとっても嬉しい。
今日もデパートで、みんなの洋服をいっぱい買った。僕の分は、半ズボンとパンツとランニングシャツだ。半ズボンを買うときは、何回も着たり脱いだりする。もう僕は全身汗びっしょりでお腹がペコペコ。あとの買い物はどうでもいいんだけど、ずっと付いて回る。勿論面白くない。
「まだぁ、まだぁ」と、今日も母ちゃんを困らせた。
デパートを出て、アーケード街を歩きながら母ちゃんが
「マーたん今日は何食べたい」
「マーたんはねェ、えーとねェ、えーとねェ」「喜久寿司の海苔巻きと、お稲荷さんと、デパートのオムライスと、チキンライスと、クリームソーダと、ホットケーキと」
「マーたんそんなにいっぱい食べられないでしょ」「ほら、母ちゃんもお腹いっぱい」とお腹叩いた。
「まだあるよ、やぶはちの天ぷらそばと、天ぷら丼ぶりと、角やのうな丼!」「あー、いっぱいあり過ぎて、マーたん決められない」
握っている母ちゃんの手を大きく振りながら、ゆっくり、頭に浮かんだ物を並べた。
「マーたん、今日はホットケーキだけェ!」母ちゃんもマーたんの手を大きく振りながら意地悪言った。
「やだやだ」僕は立ち止まった。
すると、
「今日は中華にしよっ!」と、母ちゃんも立ち止まった僕の顔を覗いた。
「中華?中華って何?」
「ラーメンとか・・・」「食べる、食べる」僕は、母ちゃんの説明を遮って叫んだ。
暫く歩きアーケード街を抜けて、交番の角を曲がるとすぐの所に店はあった。赤と金色に塗られた小さな入り口。ドアを開けると、とっても良い香りがした。でも、小さな店で他にお客さんがいなかったので少しつまらなかった。椅子に座ってすぐ、
「あのガラスに何て書いてあるの」と、ドアを指差した。
「このお店の名前が書いてあるのよ」
「何て言うお店」
「珍珍楼」。「ちんちんろう!?」僕は笑った。母ちゃんは『しーッ』と、指を口に付けって首を少し横に振った。僕の笑いは暫く止まらなかった。
「いらっしゃいませ」
赤いエプロンをしたおばちゃんがお水を持ってきた。お水を置きながら、僕の顔を見てもう一回「いらっしゃい」と笑った。
「マーたんはラーメンでいいね?」
「うん」と、大きな声で返事した。
お湯をかけて食べるラーメンしか食べた事が無かったから、ラーメン屋さんのラーメンを食べてみたかった。
おばちゃんは注文を聞いて「ちょっと待っててね」と、僕の頭を撫でた。僕は"ちんちんろう"の店中を、ニヤニヤしながら見回した。提灯みたいな飾りがいっぱいぶら下げてある。壁は大きい鏡だ。鏡越しに母ちゃんを見た。母ちゃんもキョロキョロしてる。テーブルには、小さなお皿が重ねて置いてある。聞いた事がない歌が流れている。今まで、連れて行ってもらった食堂とは全く違う雰囲気だった。
いい匂いが次から次にしてくる。
「あーもう我慢できないよ」「母ちゃんまだかな」「うーん、お腹空いたよ」
コップの水は、もうとっくに空っぽになっていた。母ちゃんが水を注いでくれた。
「母ちゃん、遅いね」
「すぐ来るから」「行儀悪い事しないの」
テーブルに顎を乗せ、コップの雫で絵を描いている僕に言った。
奥の方から聞こえていた『カンカンカン』のうるさい音が消え静かになった。僕は『出来た』と、直感しゆっくり振り向いた、。
暖簾の奥から「はーいお待たせしました」と、おばちゃんがコロコロの着いた台を押して来た。
僕はしゃきっと座り直した。ラーメンと炒飯と酢豚が、湯気を出している。酢豚と炒飯は母ちゃんがたまに作ってくれるけど、本当のラーメンは作って貰った事が無い。僕の我慢はもう限界で、テーブルいっぱいに並べられた御馳走にデレッとした。
初めて食べたラーメンは、食べても食べても、お腹が空く味だった。母ちゃんは、僕が炒飯と酢豚を食べている時ラーメンを食べた。炒飯も酢豚も美味しかったけど、ラーメンが気になってすぐお皿を置いた。ラーメンのスープも全部飲んだ。犬のボビーの様にどんぶりを舐めたかった。母ちゃんは、残った酢豚のタレを炒飯にかけて、美味しそうに食べている。もう、僕のお腹はパンパンになっていた。お腹を押されると口から全部出て来そうだった。母ちゃんは楊枝で、歯に詰まったものを取りながら、
「マーたん、後でミックスジュース飲みに行こうか」小さな声で言った。
「うん、うん」「帰りは饅頭買って帰る」僕も小さな声になった。
パンパンのお腹はどこに行ったのか、いつものパターンに全く拒む選択肢は無かった。僕は5歳にして、小学2年生用の服を着ている。それでもぴちぴちの半ズボンは、お尻の所がしょっちゅう綻びた。
家具屋さんと、仏具屋さんと、茶碗屋さんを回って、一番最初とは違うデパートに行った。地下へのエスカレーターを降りるとすぐ、
「マーたんは、饅頭見てるネ」と、母ちゃんの手を振りほどいた。ここの饅頭は機械が勝手に作ってくれる。僕はいつもガラス越しに、饅頭の良い香りを嗅ぎながら夢中で見る。
『カチャッカチャッ、カチャッカチャッ』リズムを刻み饅頭は出来ていく。丸い輪っかに白いものが入り、向こうからこっちに回って来ると、餡子がその上に『ポトン』と落ちる。向こうに行くとひっくり返って、またこっちに回って来る。薄茶色に焼けた饅頭に、茶色のマークが押され完成する。おばちゃんが鉄板の上を掃除すると、また輪っかが下りてくる。
母ちゃんはその間、晩ご飯の買い物をしていた。
「マーたん行くよ」「これ持って」と小さな袋を渡した。僕は、もうちょっと見ていたかったが、次はジュースと分かっていたので、振り向かず歩いた。
果物の香りが立ち込めるジュースコーナーに着くと、母ちゃんはミックスジュース、僕はバナナジュースを注文した。カウンターの上にはジューサーが幾つも並んでいる。中にいるお姉さんは、注文を受けると氷とバナナと牛乳を入れてスイッチを入れた。
『ウイーン』という音と氷の『ガラガラガラッ』という音が重なり、美味しい音になった。少しして、蓋を取りコップに注ぐと、ピッタリ一杯分のバナナジュースが出来上がった。そのジュースにストローをさしてお姉さんが渡してくれた。母ちゃんのミックスジュースも出来上がった。僕のジュースは薄黄色、母ちゃんのジュースはみかん色。今日は大好きな卵ホットドッグも頼んでくれた。僕はホットドッグを一口食べたが、お腹いっぱいで、すぐ母ちゃんに返した。母ちゃんは残りのホットドッグを全部食べた。
「今日はいっぱい買い物したね」
「お姉ちゃんのお土産買った?」。お姉ちゃんはピアノ教室のお稽古に行っていた。
「ほらっ」、母ちゃんがさっきの、小さな袋の中を見せてくれた。美味しいそうな匂いが、いっぱい入っていた。
「マーたんのもある?」
「マーたんはお饅頭だけだよ」。僕はそれで充分だった。
バス停に向かおうとした時、母ちゃんが笑いながら言った。
「マーたん、今日は荷物多いから、帰りはタクシーにしようか」母ちゃんは、僕の喜ぶ姿を想像していたのだろうが、僕はタクシーに乗れる喜びを飛び越え
「マーたんブルーバードがいい」「ブルーバード、ブルーバード」とタクシーの車種をせがんでいた。
当時のタクシーの殆どは、コロナかブルーバードだった。たまに大きい、クラウンとセドリックが走っていたが、料金が高いから乗ることは無かった。ブルーバードはコロナと比べると形が良かった。ブルーバードは流線形、コロナは角ばっていた。それが一番の理由で、ブルーバードをせがんだのだ。
「母ちゃん、タクシー乗り場はこっちだヨ」と母ちゃんの手を引っ張り急がせた。
タクシー乗り場には、タクシーが何台も繋がって止まっていた。その先頭に止まっていたのはコロナだった。その次がブルーバード。その後ろは三台続いてコロナだった。後ろのブレーキランプの形で、すぐ分かる。
タクシー乗り場の一歩手前で「これはコロナだから駄目。この次がブルーバードだから」と、母ちゃんの手を引っぱった。母ちゃんは、面倒くさそうにしながらも、僕の言う事を聞いてくれた。そして、次に乗る人が通れるように、道を開けて二人で待った。
僕は『誰か早く来ないかなあ』と後ろばかり気にした。母ちゃんが、荷物を重たそうに持ってたから、お土産の小さな袋だけ持ってあげた。
少しすると「並んでますか」と、おばちゃんが聞いてきた。
「お先にどうぞ」母ちゃんは、道を譲る仕草をした。僕は、おばちゃんの後にピッタリくっついた。「母ちゃん早く」後ろからは誰も来ないけど、僕は慌てていた。
自分でドアを開けようとしたが出来ない。それでも開けようとしていたら、
「ほらどいて」と、母ちゃんが僕を少し横に押して、簡単に開けてくれた。僕は我先にと飛び乗った。
「もうちょっと奥に行って」母ちゃんが窮屈そうに言ったけど、奥に行くとスピードメーターが見えなくなる。僕はちょっとお尻をひっこめるだけにした。母ちゃんは、荷物を僕の後ろの方に置き、ようやく座れた。僕は母ちゃんの膝に座った。母ちゃんが行き先を言うと、運転手さんは返事をして、ハンドルの横に付いてるレバーを手前に引いた。するとタクシーが動き出した。レバーを奥に押すとスピードが上がり音も変わった、また手前に引くとさらにスピードが上がった。
「母ちゃん四十キロだよ早いね」母ちゃんの顔も見ないで、独り言のように言った。
「ウーン、ウーウーン」母ちゃんの膝の上で、ハンドルを持つ仕草をしながら運転手に成りきっていた。運転は楽しい。曲がる時はいつも『カチカチ、カチカチ』と音がした。
バスで帰ると時間がかかるのに、あっという間に家に着いた。タクシーを降りる時、『つまらないな、もうお終いだ』といつもの様にため息をついた。僕が持っていた小さな袋は、タクシーの床に落ちていた。母ちゃんが拾って僕に渡した。『あッお土産だった』僕の落ち込んでいた気持ちが和らいだ。
その時、お姉ちゃんのお土産に買った、メロンパンと饅頭が潰れているとは思いもしなかった。
かっぽうぎぬいで
ながぐつぬいで
おしろいぬって
べにつけて
おでかけはきもの
かあちゃんとぼくとの
おしゃれなおでかけ
「お父さん」「お婆ちゃんの所から大学に通っちゃ駄目」菜緒が唐突に言ってきた。
「菜緒ちゃん、東京の大学に行くんじゃなかったの?」「急にどうしたの?」
洗濯物を取り込んでいた真緒が、びっくりした様子でリビングに来た。
「急じゃなーい」「なかなか言い出せなかっただけ」
「だってお婆ちゃん可哀想でしょ。ずっと独りで...」「私が傍にいてあげたいの」
「ねえお父さん、良いでしょ」「ねえお父様!?」
「なんだ?そのお父様は」そう言いながら吹き出した。
「ただの思い付きで言ってるのじゃないのか?」
「お父さんはいつも言ってるじゃん。お婆ちゃんのことが心配だって」
「うーん」
私は複雑な思いを抑え、
「奈緒」「お父さんずっと言ってきたよな」
「高校までは親の言う事をしっかり聞きなさい」「その後は自己責任の元、自分の想う生き方をしなさいって!」「今もそれに変わりないよ、孝太もそうしただろ」
孝太は大学進学せず、プログラミングの会社に勤めていた。しかし、水が合わず退社した。その後、派遣ではあるが横浜にある通信大手に勤め、数年の間に幾つもの試験をクリアし、正規社員となり大卒を含む十数人を束ねるまでになっていた。
「じゃあいいんだね!?」喜ぶ菜緒に、
「まあ待て」釘をさすように私は続けた。
「その前に解決しなきゃいけないことがあるだろ」
「まず、お婆ちゃんが『いいよ』と言ってくれるか分からないだろう?」
そこまで言うと、菜緒は両手のパーを横に振りながら、私の言葉を遮った。
「それなら大丈夫」
「この前のお正月お婆ちゃんに会ったでしょう。その時お婆ちゃんは、お父さんとお母さんの許しがあったら良いよって、言ってくれた」
「まっ、何て段取り?」
「いつからお婆ちゃんの所からって、考えていたの」真緒は、呆れた顔で言った。
「うん~最近?」
「もう一回聞く。本気なんだな」
「本気!!」
私は暫く考え...
「よしっ!」「国公立合格必須。以上!」
「やったー!頑張りまーす」菜緒は、立ち上がって右手で敬礼した。
「待ちなさい菜緒、ちょっと座りなさい」真緒は洗濯物を横に置いて座った。
「お母さん、国公立合格の為、菜緒頑張る!」「これより勉強始めまーす」と言いながら階段を上り始めた。
菜緒に軽くあしらわれた真緒が「気合入れなさいよ、気合を!」と背中に浴びせた。
『真緒も認めたんだな』と、確認できた。
年が明け、菜緒のセンター試験も無事終わり、判定結果はまずまずだった。
それを受け志望学部を決定し、受験終了までのスケジュールも奈緒本人が立てた。
それは『県短受験日の二日前に、お婆ちゃんの家へ行き、国立の受験を終えるまでの二週間程滞在する』というものだった。私からも母ちゃんに連絡入れ、菜緒のことをお願いした。その時母ちゃんは、まんざらでもない様子だった。
受験出発前夜、準備している菜緒に念を押した。
「試験の方は大丈夫だと思うけど、万が一という事も有るから、家事のことはお婆ちゃんに任せて、勉強に集中しなさい。お婆ちゃんには伝えてあるから、気を使わなくていいよ」「勿論、息抜きも大事だから、その辺の事は自分の判断で上手くやりなさい。後悔しないようにな」
「うん、わかった」
いつも天真爛漫の菜緒だが、神妙な顔つきで返事した。国公立のみので滑り止め無しの大学受験。菜緒の緊張は私にも伝わって来た。
「落ち着いてやりゃ大丈夫!」とだけ付け加えた。
県短の受験を終えた夜、菜緒から女房に電話があった。女房は台所仕事を止め、私が寛ぐリビングの方へ向きを変え、話し始めた。色々質問する女房の声からは、女親としての心配な思いがひしひし伝わってきた。
「お父さん、菜緒に何か言う事ある」
「頑張れっ!」。
「頑張れだって」真緒はもうちょっと暖かい言葉を期待していたのか、少し不満そうに菜緒に伝えていた。正直私は、受験の事は全く心配していなかった。
案の定、電話の内容は『結構出来たよ。センター試験重視の短期大学だし、予備校の判定もA判定だったし大丈夫だと思う』だったらしい。
国立大学受験二日前の朝、私の携帯が鳴った。『う~ん?菜緒か、こんな朝っぱらから・・・』
「お父さん、お婆ちゃんがお婆ちゃんが大変!」
「えっ、どうした?!」
「お婆ちゃんの言葉が聞き取りにくい!ろれつが回っていない感じ!頭も痛いって」慌てた様子に、私は身構えた。
「じゃあ、意識はあるんだね?」
「ある。目も明けてて、今は寝かせてる」
「うんうん、それでいい」
「いいか、よーく聞いて。脳梗塞かもしれないから、すぐ救急車呼んで!」
「救急隊の人が来たら」「何年か前脳梗塞になって『長地脳神経外科』に運ばれたことがあって、今もそこが罹りつけ医だって事を説明して。
『お・さ・ち・脳神経外科』だよ。たぶんそこに運んでくれるから」
「うん、分かった」
「叔母ちゃんにはお父さんが知らせる。叔母ちゃんが来たら、後は任せればいいからね。電話を切ったらすぐにだよ」
「わかった」
「そこの住所わかってる?」
「えーと、清水町の何番だっけ?」
「11ー23。いい兄さんだよ!」
「お・さ・ち・脳神経外科といい兄さんだね」そう言って電話は切れた。
『大丈夫かな...』
殆ど仕事が手に着かないまま、お昼前になった頃、姉ちゃんから電話が来た。
「ごめんごめん、連絡遅くなって」
「母ちゃん、どう?大丈夫?」
「大丈夫。脳梗塞だって。でも血栓も小さくて、処置も早かったから軽くで済んだって。昼過ぎに面会出来るみたい」
「長地脳神経外科で間違いないよね?」
「そうよ、菜緒ちゃんしっかり説明出来たみたい」
「あー良かった」「ちゃんと言えたか、そっちの方も心配だったんだよ」
「菜緒ちゃんしっかりしてるよ。二人して携帯忘れたけどね」
「えっ、どう言う事?」
「二人とも慌てて携帯持って出なかったの。だから連絡が遅れたのよ」
「そう言う事か」「じゃあ取り敢えず、俺が行くまでも無いって事?」
「うん、来なくて良いよ」「また後で連絡するから。菜緒の事も心配しなくて良いよ」
姉ちゃんからの電話で、二つの胸のつかえが薄れた。
『もし菜緒がいなかったら、母ちゃんどうなっていたんだろう?死んでた?』
『そもそも菜緒は、何故母ちゃんの面倒をみたいと思ったんだろう?』
菜緒が小学校低学年の頃、休みの日は時々プールに連れて行っていた。
その日は、いつもの様に流れるプールで遊んでいると
「向こうのプールに行きたい」と言い出した。
「向こうのプールは浮輪使えないよ」「足も、とどかないけどいいの?」
「菜緒、泳げるようになりたい」その頃の菜緒は息継ぎが出来なくて殆ど泳げなかった。
「そうか、泳げるようになりたいか」「じゃあ頑張ってみるか!」
「うん」菜緒の手を取り二十五メートルプールへと向かった。
「お父さん。人が沈んでる?」プールサイドに浮輪を置こうとした菜緒が、『6』と書いてある辺りを指差した。
最初、底に引いてある黒いラインかとも思ったが『ほんとだ!』揺れる波肌に見える黒い人影があった。
「溺れてるっ!」「早く早く!」監視員に叫んでいた。
プールサイドのテントには三人の監視員がいた。三人は慌てて水面を覗き込み、その内の二人がすかさず飛び込んだ。二人は手際がよくあっという間に、菜緒と同じぐらいの男の子を抱え上げ、プールサイドで待ち受けるもう一人に委ね、静かに寝かせた。プールサイドに寝かすと、間髪入れずに人工呼吸が始まった。私は持っていたバスタオルを差し出した。
監視員の訓練の賜物なのか、発見が早かったのが功を奏したのか、人工呼吸を始めて間もなく、男の子の口から水と一緒に、食べ残しのご飯粒が出てきた。人工呼吸の回数が増えるごとにその量は増えた。人だかりも増え、私は菜緒に見せたくない気持ちが働き少し後ずさりした。そして『息を吹き返せ!』と、強く強く念じた。
それからすぐだった。
「大丈夫だ。もう大丈夫だ」監視員の声が響いた。人だかりの皆が一応に、不安の表情から安堵の表情に変わった。どこからか拍手が起こり、拍手の輪は広がった。暫くして救急車も到着し、安堵の中、人だかりは解け始めた。
「菜緒、泳ぐ練習は今度にしよう」「今日は帰ろう」
初めての体験に、もうプールに入る気になれなかった。
『もし菜緒が気付かなかったら、あの子はどうなっていただろう』『死んでたのかな』
「菜緒、泳ぐ練習をしたいと良くぞ言った!」「お前は人の命を救ったんだ!」「偉い!」
更衣室に向かいながら、偶然だとは思えど、『菜緒は何かを感じていたのかな?』と、不思議に思えた。
その日の夕方、姉ちゃんからの電話によると、母ちゃんの意識も戻り、しっかり受け答えも出来るようになったとの事だった。菜緒の事も、残り三日間ちゃんと世話するから心配するなと言ってくれた。
夕飯を終えようとする時、菜緒から電話が掛かってきた。
「おー菜緒。今日はご苦労だったね!」「ありがとよ!」
「うん」菜緒は鼻水をすすった。
「どうした?大丈夫か?」
「...」小さく杓っていた。
「どうしたんだ?菜緒らしくないぞ」
嗚咽をこらえながら菜緒は話し始めた。
「叔父ちゃんも、叔母ちゃんも、早紀姉ちゃんも」菜緒の声は途切れ途切れだった。
「うんうん」「どうした?」
「みんな、菜緒の、受験に、悪い、影響が、出ないように、とっても、優しく、してくれて」「お婆ちゃんも、『心配かけたね』『ごめんね』って、菜緒の手を掴んで、何回も何回も言ってくれて、お婆ちゃんまだ調子悪いのに、ご飯もまだ食べられ無いのに」その後は言葉にならなかった。
「うーん分かった分かった。そうかそうか、いっぱいいっぱい優しくして貰ったんだな、良かったな、良かったね、有り難いね、嬉しいね」「菜緒は、お婆ちゃんの命を救ったんだよ。ありがとうね」「今の気持ち忘れないようにな。菜緒の財産になったんだよ」
元々私に似て感受性の強い菜緒だが、お婆ちゃんの異変から始まった一日。救急車を呼ぶ緊張、対処。結果、それに伴う受験への不安、きっと精神的に不安定になったんだろう。
「もうご飯食べた?」
「うん。今日はバタバタしたからって、お寿司取ってくれた」
「菜緒はお寿司食べられ無いじゃん」
「菜緒のは特別。エビとイカと玉子焼き!」「お父さんの好きな鰻も入ってた」元気な菜緒の声に変わっていた。
「明日試験会場までのシュミレーションするんだよね?」
「早紀姉ちゃんが付き合ってくれるって!」「下見が終わったら美味しいスイーツ、食べに行くんだ!」さらに元気な弾んだ声に変わっていた。
姉ちゃん家族の気遣いに守られ無事国立の受験も終わり、菜緒は帰ってきた。県短の合格を受け、アパートを探すことになった。母ちゃんとの生活をあきらめ、姉ちゃんの家からという選択肢もあったのだが、菜緒の強い希望で、母ちゃんの家に近い場所を重点的に探すことにした。
便利な世の中。ネットからアパートを探せる。写真もいっぱい掲載してある。地図をたどると外観にたどり着く。その画像はまるで現地にいるような錯覚に陥る。情報は逐一共有でき、遠くにいながら全く不自由さを感じない。それでもおっさんの私は、『最後は姉ちゃんに現地に行ってもらい、確認して貰おう』と決めていた。
私が母ちゃんの見舞いを終え帰った三日後が、国立の合格発表日だった。私は教えてもらった通り、十時に大学のホームページにアクセスしたが、全く進まない。アクセスが集中してるのだろうか?あきらめかけた時、菜緒から電話が入った。
「県短に決定しまーす。国立には行きませーん」「いや、行けませーん」空元気かもしれないが、私はこの明るさを正面から受け入れた。
「それで良いのか?、まだチャンスあるけど。もうチャレンジしなくて良いのか?」確認だけはしっかりしておきたかった。
「うん。もう県短への夢が膨らんでいる」「菜緒ね、国立の試験の日、ここは菜緒に合わないなって感じてたの」「負け惜しみじゃないよ!」
国立は残念な結果になった。母ちゃんの脳梗塞入院が一因していたとも思うが、菜緒はおくびにも出さなかった。
「菜緒は嘘つく子じゃ無い。分かってるよ」「叔母ちゃんに、結果の報告とお礼をまだ言ってないよね?」
「まだ」
「じゃあ先に叔母ちゃんに報告して」「お母さんも心配しているから」
「お母さんにはもうした」また私の言葉を遮った。
『お母さんが先だったか...』少し寂しさも感じたが『女親の特権だな』と笑み、納得した。
早咲きの桜は散り始め青葉が付き始めた。ソメイヨシノの蕾はやっと膨らみ始めた。気ぜわしかった日々も今日で終わり。
菜緒のアパートは、結局県短に近い所に決まった。今日は菜緒の旅立ちの日。
「さあ菜緒、お母さんと持ち物の最終チエックして」
大型キャリーバッグにはいっぱいの荷物。メモ紙を広げ、声を出してチエックし始めた。
教科書類と衣服類は宅配便で、電化製品、ベッド家具類全て通販で買い揃え、姉ちゃんの所に直送し、預かって貰っている。炊事道具、茶わん皿は姉ちゃんが揃えてくれる手筈になっていた。
「チエック終了しました」「隊長殿!」ひょうきんな奈緒は直立不動だ。
「良し」「菜緒二等兵と真緒軍曹」「手を洗ってここに座れ」
「私軍曹なの?」真緒がわざと顔を引きつらせた。
「ごめんごめん、中隊長だった」
「弱い隊長!」
久し振り三人で大笑いした。
今日から真緒と二人っきりの生活。孝太に続き、菜緒も巣立って行く。子を授かり育て二十数年、『少しは親の恩を子に返せたかな?』と、自問自答した。自身の答えは『YES』だった。百点満点ではないが、この間、子供の為に生きて来た事に間違い無かった。決して義務感からでは無く、心からそうする事が出来た。また、その事が楽しかった。思えば『100%で叱り、120%で愛す』『真剣に叱り、それ以上に愛す』それを実行できたと振り返った。しかしながら当然後悔もあった。
『少し厳し過ぎたかな?』
でも、しっかり育った二人を見る限り、今のところは『YES』でいいだろう。
「はい、食べな」
「わーい。大きいおにぎり!いただきまーす」菜緒は座ると同時に大きな口を開け頬張った。
「お・い・ぴ・い!」口いっぱいのおにぎりで、言葉になっていない。
「おかかと昆布と鮭入れたら、こんななっちゃった」私も両手で頬張ったが、ポロポロご飯粒が落ちた。『やっぱり真緒に任せれば良かったかな?』
「四個!?あれだけのご飯があれば、十個以上作れるよね」誰に同意を求める訳でも無く、真緒は独りごちてから口に運んだ。
私はパソコンでJRの運転状況、ANAのフライト状況を確認し、姉ちゃんに予定通りでお願いしますとメールした。真緒と菜緒は、忘れ物が無いか確認しているのか、後片付けしているのか菜緒の部屋で忙しくしている。
「おーい、そろそろ行くぞ」私は二人に声を掛け、車を玄関先に回した。
玄関から出て来た菜緒のキャリーバッグを積み込みながら「チケットと財布入ってるね?」と聞いた。
「うん、ちょっと待って」菜緒はリュックを開け「入ってまーす」と、リュックを叩いて見せた。
「じゃあ、出ぱーつ!」駅まで十分も掛からないのだが、発車時刻三十分近く前に家を出た。
広々としたワンボックスカーに鎮座する、菜緒の夢と希望と、同じ位膨らんだキャリーバッグ。『これからどんな生活が菜緒を待ち受けているのだろう』ルームミラーに映る菜緒は、友達とやり取りしているのか、しきりに携帯を操作している。『いつの間にかこんな大きくなって...」
駅の待合室は意外と空いていた。自動販売機で菜緒リクエストのレモンティーを買い、リュックの左のポケットに入れ、飛行機に乗るまでの段取りを、順を追って念押しした。
「あずさは一番後ろの座席を取ってあるから、その座席とドアの間ににキャリーバッグは入れられるからね」「置くときはストッパー忘れちゃ駄目だよ」
「うん」菜緒は手に取った車両番号と座席番号を確認した。
「空港バスは次から次に来るから焦らなくて良いよ、時間に充分余裕があるからね」「羽田でのシュミレーションは出来てるね」
「大丈夫だと思う」少し不安気な返事だ。
「分からなかったら聞けばいいのよ」「空港関係者がいっぱいいるから」
「そうだね!」真緒の言葉が、菜緒の緊張を少し和らげたかもしれない。
「搭乗手続き、手荷物検査場通過、そして叔母ちゃんに連絡だよ」
「はい、頑張りまーす」いつもの菜緒で敬礼した。
ホームに立つと、早春の風は少し冷たかった。鳩は、陽の当たる場所を選んで胸を膨らませていた。菜緒のジャケットの襟がカットしたばかりの髪を乱していた。
あずさ到着のアナウンスは、軽やかなメロデイーと共に流れたが、三人を重たい空気が包んだ。
「乗って左直ぐが席だからね」菜緒はあずさが来る方向を見つめたまま返事しなかった。
真緒が唐突に菜緒のジャケットの内側に手を突っ込みながら、
「困った時に使いなさい」「無理しないんだよ。ご飯しっかり食べるんだよ。叔母ちゃんに可愛がってもらいなさい」菜緒の襟を正し、肩をポンポンと気合を入れるように叩き、ハグした。
ハグの後、菜緒の顔を直視した真緒の頬を、涙が伝った。さらにもう一回ハグした。
「もう、お母さん」「笑って行くと決めてたのにィ」菜緒は泣き笑いした後、泣き出した。
あずさは静かに止まりドアが開いた。
「じゃあ行って来ます」
菜緒は泣きながらもしっかり振り返り、そして乗り込んだ。私達はうなずいただけで、言葉を発せられなかった。そして少し左側に移動した。キャリーバッグを置いて、座席に座った菜緒はハンカチを口に当て、鼻水を啜っていた。流れる涙を拭くも、目線をこっちに向けられない様子だった。
途中単線になる中央本線は、時々信号待ちがある。予定通りなのか、下り線に普通電車が入線して来た。ホームに残ったのは私達と駅員だけだった。
「もう発車するよ」真緒の耳元でささやいた。
「菜緒ちゃん元気でね!無理しないでね!何かあったらすぐ連絡するんだよ!」真緒が窓を叩きながら訴えた。
顔を上げ『うんうん』『うんうん』と大きくうなずく菜緒の顔はクチャクチャになっていた。真緒も人目をはばからず鼻水を啜っていた。こちらを見ている乗客は、全てを理解しているかのようだった。
『ドアが閉まります、お下がりください』私と真緒へののアナウンス。同時に発車のベルがけたたましく鳴った。私は真緒の腰の辺りを掴んだ。そして菜緒に大きく手を振った。あずさが動き出すと、真緒は二、三歩追いかけたが、真緒の想いを振り切るかのように、あずさは少しづつスピードを上げた。
線路のつなぎ目の音は徐々に小さくなり、そして無くなった。赤いテールライトも見えなくなった。ホームには次の入線を知らせるアナウンスが流れていた。
私は自分自身が十八歳の時、寝台特急で東京に向かった時の事をだぶらせ、誰にも気付かれぬよう涙を拭いた。
「行っちゃったね」真緒の声はひとしきり泣いたせいなのか、意外にさわやかだった。
「うーん、行ったね」私は、さほど寂しくない振りをした。
「ところでいくら渡したんだ?」
「五千円」
「五千円?」「少なっ!」「それっポッチじゃ困った時の解決にならないんじゃない」
「だって、財布の中に、それしか入って無かったんだもん。私の全財産!」
「全財産?!」
「...」
「まっ良いか。気持ちだもんな」「まあ、お腹が空いたとき五千円あれば十分だな」
「あー、私もお腹空いた。たこ焼きかパン買って帰ろう?」真緒はお腹が空いたと聞き、思い出したように言った。
「えっ、おにぎり食べたばっかりじゃん」
「だって胸がいっぱいで、半分も食べて無いんだもん」
「俺、財布持って来て無いよ」
「私が...」「あっ財布空っぽだった」小銭もチャラチャラさせたが、真緒はため息をついた。
「困った時、五千円は大助かりだな」私達は変に納得した。
その後の母ちゃんは、意識は戻っているのだが、認知症が進み日常生活もままならない状態になっていた。そんな中、入院先と同じグループの、特別養護老人ホームに入所することが出来た事は幸いだった。さらにそのホームは、姉ちゃんの家から歩いてすぐの場所だという事もあり『肩の荷が一つ、二つ降りた』というのが実感だった。
「良かったね。すぐ近くで」「また何から何まで世話になるけどお願いします」
「完全看護だし、お医者さんも常駐だから心配しないでいいよ」「金銭的にも間に合ってるしね」姉ちゃんはさり気無く言ってくれた。
「菜緒も世話になってるね」
「特別な事してないよ」「お婆ちゃんに会いたいって、三日に一回位来るかな、色々手伝ってくれて助かる」「早紀も一人っ子だから、妹が出来たみたいで喜んでるのよ」
「あーそうか」
「母ちゃんにね、菜緒ちゃんの事『マーたんの娘だよ』って言うとね、笑ってうなずくから理解できていると思うよ」
「そうなんだ、だったら嬉しいけど」「それだから菜緒も会いたい気持ちが、強くなるのかな?」
「一人暮らしも、菜緒ちゃんまだ慣れてないしね」「ホッとする部分もあるかもね」
「姉ちゃんも大変だと思うけど宜しく頼むね」「義兄さんにも宜しく言っといてね。お願いします」「連休が終わった辺りに帰るよ」
電話を切った後、『認知症が悪化する前に帰らないとな...』と、しみじみ思いカレンダーを見た。
新生活をスタートさせ、三週間ほど過ぎた四月半ば菜緒から電話があった。いつもは真緒の方にかかって来るので何事かと思いながら電話に出た。
「もしもし菜緒、どうかした?」
「お父さん電話替わるね!」いきなり意味不明の展開。電話の向こうは、とても賑やかな感じがした。
「おーいマーたん」その声の主は。
「洋三!何やってるん?」家族以外で私の事を『マーたん』と呼ぶのは洋三だけだったが、呆気に取られていた。
「今宴会中!菜緒ちゃんの歓迎会だよ!みんな来てるぞ!」と言うと、電話の向こうで数人が奇声を発した。
「うそっ」
「ちょっと待って替わるから」
私の驚きが治まる間も無く懐かしい面々が次々と電話口に出た。
「親父の故郷を選ぶなんて、同郷人として嬉しいよ」
「心配しないで良いぞ」
「良い娘さんだ」
「悪い虫が付かないように見張ってるからな」
「お前に似なくて良かったな」
「娘さんには飲ましていないから心配するな」
まだみんなヘベレケでは無さそうだが、程よく酒が回り盛り上がっている様子が手に取るように伝わって来た。高校卒業して四十年も経つというのに、毎年同窓会を開き同じ話で笑い、涙するポン友だ。洋三と正雄は菜緒の引っ越しも手伝ってくれていた。本当に有難い面々だ。
「お父さんの昔話をつまみに盛り上がっているよ!」
「ウヲー!」「早く来い!」菜緒の説明に、又奇声があがった。
「菜緒、お前本当に楽しいのか?」
「楽しい!本当に楽しい!」
「ウヲー」菜緒を始め、笑いと奇声の連鎖は止まる気配が無かった。
『親父の友達と十八歳の娘が宴会?!』『菜緒はほんとに不思議な子だ』
私の友人に受け入れられた菜緒を微笑ましく思い、受け入れてくれた友人に心から感謝した。
四月二十六日午後七時三十分
「ホームから電話あってね、これから病院の方へ移すって。肺炎の症状があるから大事を取るって」
「えー、急に?」「肺炎って...大丈夫なの?」
「昼間は熱が少し高いってことで気にはなってたんだけど、肺炎とは言われなかったんだよね」
「暫く入院するのかな?」
「これからの事はまだ分からない。あっ今、救急車が来たみたい」
「えっ、救急搬送?」
「とにかくまた後で連絡する」「菜緒も来てるから、一緒に連れてくね」少し慌てた様子で電話は切れた。
菜緒からの電話で、ちょっと風邪気味だと聞いてはいたが、大丈夫だろうと高を括っていた。真緒もただならぬ雰囲気を感じたのか「どうしたの」と、心配顔で聞いてきた。私は、電話の内容を真緒に伝えたが、声が少し上擦っている事に気が付き『落ち着け』と言い聞かせた。座ることもせず、親父の遺影を見ている私に真緒が「はい、リンゴ」とテーブルに置いた。
「大事を取って運んだだけでしょ。心配要らないって」
「でも、救急車だよ」
「寝かせて運ぶのは、救急車か霊柩車しか無いじゃん」
「...」
『よくこんな時、冗談が言えるな』と、少し『カチッ』ときたが『真緒は真緒なりの表現で、私の高ぶった気持ちを和ませているんだな』と解釈し、お茶を頼んだ。
「あなたは心配性だから、しょうがないけどね...」真緒はお茶をさしながら呟いた。
真緒の言う通り心配性は昔からで、起こってもいない事を心配したり、しっかり下準備しないと前へ進めなかったり、面倒くさい性格だった。良く言えば計画性がある、悪く言えばただの考え過ぎ、ただの取り越し苦労なのである。
その心配性の私は、ボケて甘いだけのリンゴを頬張りながら、三時間もの間パソコンで『肺炎』を検索し続けていた。たぶん不安が募るだけだったような気がするが、肺炎の知識が増えたことは、無駄な時間では無かったと思う。
四月二十六日午後十時二十八分
私の携帯が、姉ちゃんからの着信を教えた。真緒と私の目が合い、私は立ち上がって電話にでた。
「もしもし姉ちゃん」「母ちゃんはどう?」
「今寝てる。血圧が下がり気味なんだって」「酸素何とかも数値は低めで点滴と酸素マスクで...」
「ちょっとやばいかな!」
「やばいって言えばやばいんだろうけど、肺炎の症状が治まればどうって事ないって」
「そこの医者良いの?院内感染したりさ...」「何故よりによって、またそこの病院何だろう?」「元はと言えばそこからじゃん」
「そんな事言っても、今は頼るしかないでしょ」
「うんー、まあそうだけど...」
「それより、延命治療はどうするか聞かれたんだけど、どうする?」「父ちゃんの事もあるからさ」
「俺は前話した通り、延命はしなくて良いと思うけど...」「姉ちゃんもそうだったよね?」
「私も延命はしなくて良いと思う」
「延命治療をどうするかって、やっぱり母ちゃん危ないんだろう?」
「急変することがあるらしいから、確認だけは取っておきたいんだって」
「ICUに入ってるの?」
「いや、看護師さんが常駐している大部屋に入っている」「準ICUみたいな部屋?」
「じゃあしっかり診て貰っているんだね」
「そうだね」「それじゃあ延命は無しってことで伝えとくね」
「俺何かやる事あるかな?」
「ご飯食べたら寝る事じゃない!」「何かあったらまた連絡するね」
『姉ちゃんも真緒も大雑把なのか、神経が図太いのか、現実的なのか、俺の感覚とは全く違うな』
父ちゃんは意識の無いまま、五%程の可能性に掛け、延命治療を続けた。その間姉ちゃんは、着替えの世話を始め、多大な労力をつぎ込んだが、その甲斐も無く父ちゃんは意識を戻さず三か月後に、息を引きっ取っていた。
四月二十七日午前零時十八分
布団に入って寝ようとするが、まったく寝つけず、何回目かの寝返りを打った時だった。
『血圧が測れない状態になった、覚悟しといて』姉ちゃんからのショックなメールだった。
寝息を立てていた真緒が、『どうしたの?』と、たぶん聞いたと思う。私は返事することもせず、メールの文字を見返していた。その私の携帯を、真緒は取り上げた。真緒の顔が携帯画面の光で照らされていた。
「お父さんしっかりして。まだ生きてるでしょ!頑張ってるでしょ!」真緒の言葉で、私は現実に戻った。
それからも暫く布団に入っていたが、寝付くはずもなく、真緒を起こさないよう静かにリビングへ移動した。
そしてまず、リビングにある仏壇に手を合わせた。
「父ちゃん、まだ母ちゃんを呼ばないで、お願いします」少し大きめの声で言った。
『でも、最悪な事も想定しなきゃな』と思い、
仕事の事、帰りの手段等メモを走らせていた。
そうしていると今度は菜緒から電話が入った。
「お父さん厳しいみたい。時間の問題だって」午前二時を過ぎていた。
「...」
「そうか」私は観念し、腹を括った。
「菜緒聞いて!お前はお父さんの代わりだ。」「お婆ちゃんの手をさすってあげて」「お婆ちゃんの手をギュっと握ってあげて」「お婆ちゃんの最後をしっかり看取ってやって」「頼むよ!」いつから流れ始めたのか、止まらぬ涙を拭かず菜緒にお願いした。
「うん、任せて」涙声で力無く応えた。
私はお線香に火をつけ、りんを鳴らした。今夜三回目だった。
『いよいよか』何から始めよう?さっきのメモ紙を見ながら考えた。
『お婆ちゃん危篤、すぐ電話欲しい』取り敢えず孝太にメールした。
四月二十七日午前五時八分
姉ちゃんからの電話。
「もう駄目みたい。このまま電話、繋ぎっ放しにしとくね」
姉ちゃんは遠くに住む私にも立ち会わせたっかたのだろうか...。
「......」聞き取りにくいが、かすかな物音「......」私は、耳と頬っぺたが痛くなるほど携帯を押し付けていた。
「おばあーちゃん、おばあーちゃん」
突然沈黙が破れ、菜緒の泣きながら叫ぶ声。
「今、安らかに逝きました」「五時十二分でした」「本通夜は明日になると思うから、気を付けて帰って来て」「会場の事とか、全て段取りしとくから、心配しなくて良いよ」姉ちゃんは気丈にふるまっていた。
「うん。ありがとう、宜しくお願いします」それ以上の言葉は発せられなかった。
後から聞いた話だが、その後暫く姉ちゃんと菜緒は泣き続けたらしい。
私は仏壇に手を合わせた。
「父ちゃん、母ちゃんがそっちに行ったよ」そう言うと、溜まりに溜まっていた涙が噴き出した。頭を駆け巡る母ちゃんとの思い出。何回も何回も映像が流れるが、何故か困らせた時の母ちゃんの顔。怒らせた時の母ちゃんの顔だけで、楽しそうに笑っている顔は出てこなかった。楽しいこともいっぱいあった筈なのに。心の中は詫びる気持ちで満ち溢れていた。もう、『親孝行の真似事すら出来ないのか』と思うと、情けない男だと憤りさえ感じて、腹立たしかった。
やさしく
きびしく
あたたかく
ちかくで
とおくで
ありがとう
かあちゃんの
えがおでたすかった
真緒がリビングのドアを音も立てず開け、仏壇に手を合わせている。
私が一言も発していないのに、真緒は全てを察しているかのようだった。
私は真緒の横に座り、りんを鳴らした。
「真緒。母ちゃんが逝った。五時十二分だったって」
真緒は無言で頷いた。
「安らかに逝ったって」そう言いながら、また涙が溢れ膝に落ちた。
「お母さん、ゆっくり休んでください。沢山ありがとうございました」...「お世話になりました」真緒は手を合わせ静かに語り掛けた。
立ち上がった真緒が、
「一応の準備してあります。後で確認してください」と、奥の部屋の襖を開けた。
八畳の畳の部屋には、帰省、滞在するであろう数日分の着替えと、葬儀用の礼服一式が孝太の分まで揃えてあった。
真緒も寝ずに最悪の事を想定し準備をしてくれていたのだった。感謝だ!
私はこの数時間、現実から逃避していたのか、真緒の存在さえ忘れ、自分の中に入り込んでいたようだ。
そんな私を、台所からのリズミカルな音が、少しづつ現実に引き戻してくれた。カーテンを開けると眩しい朝の日射しが、これからやらねばならぬ事を、せかしてくれているようだった。
そんな時孝太からの電話が鳴った。
「あっお父さん、お婆ちゃんどう?」
「オウ!早かったな、まだ六時前だぞ」
「何となく目が覚めてさ、そしたらこんなメールじゃん」「それで大丈夫なの?」
「うーん、五時十二分に逝った...」「安らかに息を引き取ったって」おふくろの事を話すと、どうしても涙が出て来る。
「そうだったんだね...」
「孝太は仕事休めそうか?」
「うん、大丈夫だよ」「有給休暇使うと一週間やそこら休めると思うよ」
「そうか」「孝太、お父さんの車運転出来るよな?」
「うん」
「明日がお通夜だから、車で行こうと思うんだけど」
「じゃあどうすればいい?」
「お昼頃こっちを出たいんだよ」「さっき調べたら、新宿9:00発のあずさがあるから、それに乗って向かってくれれば良いと思う」
「新宿九時ね。結構余裕で行けるね」「お父さん、横浜からだと八王子の方がいいんだけど」
「それは孝太に任せる」「降りる駅は上諏訪じゃなくて、茅野駅で降りて。茅野駅からの方が高速に乗りやすいから」
「分かった。あずさに乗ったら取り敢えず電話するね」
「そうして。宜しく」「それと、孝太の礼服も靴も用意してあるから、三日分か四日分の着替えだけ持ってくれば良いからね」
お昼前には、茅野駅で孝太と落ち合い高速に乗った。千二百キロという長旅の始まりだ。二組の布団を積み込んだ後部座席で、真緒ははやばやと横になってテレビを観ていた。鹿児島到着予定は翌早朝だ。
まめに休憩を取り、孝太と運転を替わりながら順調に関門海峡の壇ノ浦PAに着いた。予定より早めだったので、少し仮眠をとることにした。
しかし高ぶった神経のせいか、三十分程横になっただけで、再び車を走らせた。
結局、菜緒のアパートに着いたのはまだ夜も明けきらぬ四時頃だった。
私は部屋に入ったとたん菜緒の布団に潜り込み、
「菜緒、叔母ちゃんに無事着いたってメールしといて」と、言ったっきり意識をなくした。
ふと気が付いて携帯を見ると、お昼前だった。テーブルには
『起きたら電話して。真緒』の置手紙があった。
『今起きた』口を開くのが億劫でメールした。
『よく寝たね。三十分ほどで帰ります』『お昼買って来るね♡』返信があった。
真緒と子供達は私を起こしたらしいが、起きないので、近くのファミレスで食事をし、菜緒の学校に行ったり、ショッピングモールに足を伸ばし、買い物したりして時間を潰していたらしい。
ねえ かあちゃん
しんどかった
たのしかった
いきてきてよかった
ねえ かあちゃん
いきてきてよかったんだよね
かあーちゃん
「母ちゃん元気?『元気?』っておかしいか。孝太が初めて鹿児島に"帰省"したから、墓参りに連れて来たよ。孝太は母ちゃんの七回忌以来だって。嫁さん同伴だよ。初めてだね、『阿美』さんだよ。孝太にお似合いの良い嫁さんだ。孝太の目は確かだ。姉ちゃん所の早紀ちゃんも来てるよ。早紀ちゃんも結婚したって知ってるよね。旦那さんの浩二君も良い青年で、幸せそうだよ。
若い子達は初対面でも、すぐ仲良くなれる。良い事だね。いとこ繋がりだもんね」
「これから姉ちゃん家にみんなで行くんだ。姉ちゃんはその準備。義兄さんも元気にしてるよ」
「そしてほら『イサ』だよ。伊佐市で生まれたから『イサ』と名付けたんだよ。里親になって今日で十日目、新しい家族だよ。不思議な菜緒は毎日イサと一緒に寝てるんだよ。もう家ん中、毛だらけで大変。『ボビー』みたいにしないから大丈夫だよ。次は二代目『ミーミ』を探そうかな」
「母ちゃん、この前初めて年金貰ったよ。今年はもう六十六だ。『まだ若いってか?!』でも後遺症がね...。退院してもう二年経つけど、俺の脳出血大丈夫かな?『次、出血したら危ないって』言われたからね。薬はしっかり飲んでるから大丈夫だと思うけど。後遺症の痺れ良くなるかな?」
「この病気のせい?お陰?どっちか良く分からないけど、鹿児島に帰って来て五か月。今はね帰って来て良かったと思ってるよ。諏訪みたいな厳しい寒さは無いし、暖かい鹿児島の朝晩はまるで天国だよ。温度差が諏訪と15度くらいあるからね、体の痺れも楽になったような気がする。それに、こうやって簡単に母ちゃんに会いに来られるしね」
「でも真緒は大変そう。パン工場でパートし始めたんだけど、こっちの方言に慣れなくてね」
「六十年間住み慣れた信州を離れてこっちに来たんだから何かとね...」
「でも、海も近いし大好きな花もいっぱいあるしで、どうにかこうにかやってるよ!母ちゃん、これからも見守ってやってね」
「ほら賑やかだろう。みんな元気で笑いも絶えない」
「あとは不思議な菜緒が良い人に出会えるように応援してやってね」
「よろしく」
「じゃあまたね、母ちゃん」「あっ、父ちゃんもまたね!」