自分とは
自分とは、何者なのだろうか。
自分は何者か。文面上は非常に哲学的だが、同時に学問としては人文科学にもあたる。意識的な領域でもあるため、心理学とも言えるかもしれない。
そもそも自分とはどこまでなのだろうか。自己の身体全体が自分なのだろうか。しかし、自己の身体においても自分の意に介さず機械的に活動する部分がある。そう考えると、自己で随意的に動かせる部分が自分なのだろうか。あるいは、自分とはこの「自分」という知覚だけで、身体は実質的には機械なのだろうか。はたまた、「自分」という知覚すらも、それがあると感じるようにプログラムされているだけなのだろうか。
ある者は、肉体は器に過ぎず、精神こそが人間のありどころであると言った。またある者はそれを批判し、肉体と精神は合一であると言った。そうなると、精神は自分のものであるのかという疑問がわいてくる。今私がこう疑問に思っているのは、世界が私の精神をそうプログラムしたからだとも考えられる。私は本当は、ホルマリンに漬けられた脳みそに過ぎないのかもしれない。
人間は、生きている間始終考え続ける。考えることに、暇はない。何も考えずに打鍵している時でも、脳は次に何をしようかと思案を巡らせる。寝ている間も、そういった想像力が作用して、意味もない夢を見させる。
では、考えていない人は死んでいるのだろうか。否、そういった人も傍から見ると案外考えているように見えるのである。自分とは、他者から見た自分である。レコーダーで記録された声が本当に自分の声であるか、鏡に映った自分や、似顔絵の自分が、本当の自分の顔であるかは一人称の視点からは決して確認できない。そして、人間が二人称や三人称の視点からものを見ることも、同様にして為しえない。
言ってしまえば、自分を自分自身で知覚することは不可能なのである。それを理解し得たとしても、それは独りよがりな結論に過ぎない。こう締めくくっている自分も同様に、語りえぬものに語りつくせた気になって、独りよがりに悦に入っているだけの愚者である。答えの出ない事柄に関して語ることは墓場の反省事項に過ぎず、三途の川まで持っていくのが最低限の愚者としての嗜みである。